何も無かった者が唯一求めた真実
彩斗邸に戻ると、澪はリビングの椅子に座ってお茶を飲んでいた。
対面にはペットボトルが一本。緑茶と書かれたラベルは彼女が飲んでいる物と一緒で、苦笑しながら彼も蓋を回して一気に喉に流し込む。
互いに一本を飲み干し、さてとばかりに顔を合わせた。
ただし彩斗は苦笑のままで、澪は睨みを効かせたまま。双方の感情が表に出ている以上、隠し事に一切の意味は無い。
「あの女を助ける船は無いよ」
「そうだな、お前ならそう言うだろうさ」
澪の断じた声に、彩斗は素直に頷く。
彼女が百合を助ける為には動かない。その救助に経済的な価値があれば一考するが、フォートレスにもヴェルサスにも価値は無いだろう。
トップアイドルなどそんなものだ。社会的求心力を持ってはいても、現在の彼等には遠く及ばない。
彼女が二大組織に並ぶなら、先ず世界的女優になる必要がある。
その上で様々な議会の人間と繋がりを得て、一気に行動に移せば彩斗達の先手を取ることが出来る。実際にやれるかどうかは別にして、そのくらいでなければそもそも話を聞く土俵にすら立てないのだ。
「……見放すと言いながら甘いね。 家族の絆って奴がそんなに大事かい?」
「いや、別に家族愛だとか禁断の関係に目覚めたってことはないよ。 それはお前も解っているだろ?」
「解っているけど、それでも疑いたくなる。 君の行動は明らかに彼女の為だ。 こんな理由でヴェルサスを使うのは許されない」
彩斗の胸の内に熱いものはない。
感情は冷えていて、恋や愛に燃えるような熱血ぶりは皆無だ。けれど、その上で彼女は疑念を覚えてしまった。
心の内は全て見抜いている。隠し事など出来る筈もない。なのにどうして、君は妹を救おうと思ったのか。
彼女は未だ二十歳ではないとしても、芸能界を生き抜いた人間だ。そんじょそこらの人間よりも濃い経験を積んで、普通ではない者達とも繋がりを持っている。
放置しても彼女ならば地力で脱するだろう。SNSで発表でもすれば、途端に彼女を護る自称・親衛隊が姿を見せる。
それが本当に味方なのかは不明だが、少なくとも直近の危機からは逃げ切れる筈だ。
それくらい、現在の日本は悪を嫌悪している。急速に拡大した正義厨とも表現すべき集団が積極的に行動し、自警団的行動をネットの海にまで広げていた。
つまるところ、彼女は兄に助けを求める必要は無いのだ。
自身の人脈を用いれば生き残れる。後々の対応でまた苦労するものの、それは彩斗も澪も一緒だ。
無理な救助は反動を生む。この場合の反動は、彼女の今後の芸能活動についてになるだろう。
「いいか、澪。 俺はアイツを嫌っているが、アイツの夢まで嫌っている訳じゃない。 アイツが夢に注力してくれる限り、俺への干渉は一時的に中断される」
「だから芸能界に残し続け、関らない流れを作ろうと?」
「道中で交わることはあるだろうさ。 何らかの仕事の関係で偶然出くわすならよくある話だ。 そして、その程度に抑え込めれば俺達が受ける心的不快感も最低限になる。 これは俺達が安穏とした暮らしを送る為に必要なことだ」
彩斗の言葉は全て本心。澪もその嘘は無いと彼の心を読んで判断している。
依然として彼女への印象は両者最悪なままだ。麗しき妹はやはり兄にとっては劣等感を刺激する劇物で、澪にとっては彩斗を揺さぶる邪魔な存在でしかない。
いっそ殺せたのであれば。そう思う澪の心を、彩斗は珍しく読み取った。
「殺した方が楽だという意見は解る。 お前にとってもアイツが居ない方が良いのは百も承知だ。 その上で、やっぱり無駄な殺戮は止めてほしいと思う」
「既に多くの死人が出ているのに?」
「それをしたのは俺達じゃないだろう。 やったのは別の誰かだ。 この機会を利用しようと企む、ただの害悪でしかない」
何気に秘匿していた情報を口にしたが、彩斗は首を左右に振って関与を否定した。
全ての始まりは怪獣騒動ではある。しかして、ヴェルサスである彩斗達が動かない形で起きた殺人は別の人間の企みだ。
そんな人間の責任まで負う必要性は無い。故にまだ、我々は誰かを殺さぬ誓いを貫くことが出来る。
詭弁も詭弁だが、澪はそうかいと短く告げた。
元より人様の死に興味は無いが、まだ手は汚れていないと思うのであれば無理に手を染める訳にはいかない。
「なに、必要以上に手を貸してもらうつもりはない。 ただ、一枚書類を用意するだけさ。 それだけでこの騒ぎは終わる」
「断言するね」
「断言もするさ。 アイツが強気になれる場が整えば、本来俺達は要らないんだから」
苦笑を深め、苦味の割合が増す。
トップアイドルの肩書はヴェルサスやフォートレスの前では大きくない地位であるが、日本国民の中では最も大きな地位な一つに数えられる。
今回は安全を保証してくれる後ろ盾が居なかったから強気に出れなかったが、ヴェルサスが後ろ盾になる書類を用意すれば彼女も強気になれるのだ。そうなれば、後は彼女が自分の力だけで解決する。
それは普通の人間である彩斗では出来ない真似だ。如何に社会的地位が高くなったとて、大多数の人間の心を掴んでいる彼女程の求心力は無い。
現在の彩斗の地位はヴェルサスがあってこそ。そうでなければ紙屑も同然の地位でしかない。
「つくづく嫌な奴だよ。 最低限の備えで盤上を引っ繰り返せるってのは、凡人には羨ましくて憎らしくなる」
「今回は最低のラインが高いけどね」
「別に信用度を無視すれば官僚のどれかでも良いんだ。 ラインなんてアイツの覚悟次第で幾らでも低くなる」
最上・百合は彩斗にとって憎悪の対象であると同時に、こうなりたかった羨望の対象でもある。
最も似通わない二人が何故か兄妹という枠組みに収まり、大多数の者が予想する通りに致命的な傷が生まれた。
コンプレックスをどれだけ無視したとて、汚泥は蓄積すれば何れ器から溢れ出す。
壊れるのは当然の帰結。故に、安全性を保つには関わり合いにならないのが吉だ。そして澪は、彼が壊れない道を作ることを心に決めていた。
全ては彼の為に。彼の想い描く夢の為に。
拳を握り締めてついに笑みを喪失した彩斗の頬に、身を乗り出した澪がそっと両手で撫でる。
「まだ、悔しいままかい?」
「まぁ、な。 こればっかりはそう簡単には抜けないさ」
澪の手を彼は無意識に掴んで、頬に強く押し当てる。
人工的である筈の手は、何故か異様なまでに人間の手のように思えた。今此処に居る人物が、本当に女性であるような錯覚すらも抱かせる。
澪の微笑みを浮かべた。それは正に聖母が如し。
唯一無二に向ける女から男への眼差しを見て、奇妙な照れが彼の身体を巡った。
彼女の手を離し、赤くなった頬を手で扇いで冷ます。
そんな姿の彼に澪は小さく笑って、一つ意地悪な提案を思い付く。
「よし、書類は作ってあげよう。 フォートレスの社長にも話を通して、大きな後ろ盾にしようじゃないか」
「……そいつは有難いが、どうした?」
「なに、僕が一番嫌な話を持ってきたんだ。 それ相応の対価が欲しいなと思っただけ」
「対価って、どんな対価だ。 俺で払えるかな……」
「大丈夫だよ。 寧ろ君にしか払えない対価だ」
疑問顔を向ける彩斗に、彼女は乙女の顔を向けた。
彼は他人の悪意については敏感であるが、他人の好意については今一鈍い。それは親しくなることへの警戒も関係しているし、関わる人間が増えることそのものへの懸念も含まれていた。
踏み込めるのは、本当の共犯者だけ。
家族でも、人形でも、ましてや子供組でもフォートレスでも彼の深奥には踏み込めない。
本当の感情を剥き出しにして話せるのは、この二人の間だけだ。
「家族になってくれ。 結婚的な意味で」
そろそろ抑え込むのも止めよう。本格的に繋がり合う為に、そして真の家族を構築する為に。
ロマンスも欠片も無いリビングで、澪は心からの愛を込めて対価を求めた。




