↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/18

第13話「もうひとつの誇り」

第13話 もうひとつの誇り



-1968年11月25日 午前9時15分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設


 十一月も終わりに近づいた東京では、朝の冷え込みが日に日に厳しくなっていた。


 荻窪の開発施設では、今日も技術者たちが忙しく行き交っていた。


 試作車製作室の一角には、二台の乗用車が並べられていた。


 一台は、1968年8月に発売された新型スカイラインC10型。


 もう一台は、同じ1968年に登場したグロリアS6系である。


 どちらも、プリンス自動車工業が独立企業として送り出した新型乗用車だった。


 しかし、その性格は大きく異なっていた。


 スカイラインは、若い世代や家族を中心に支持を広げつつある実用的な乗用車。


 一方のグロリアは、より上級の乗用車として、快適性や静粛性、格式を重視して開発された車だった。


 高城修一は、二台の車を見比べていた。


「……こうして並べると、ずいぶん違いますね」


 隣にいた藤崎亮介が言った。


 高城は頷いた。


「ああ」


 スカイラインは、直線的で力強いボディラインを持っていた。


 低く構えた車体。


 水平基調のデザイン。


 そして、後輪付近に特徴的なサーフィンライン。


 一方のグロリアは、より堂々とした姿をしていた。


 広い車体。


 長いボンネット。


 落ち着いたフロントマスク。


 そして、上級車らしい装飾。


 藤崎は、グロリアを見つめた。


「スカイラインは、運転する楽しさを重視しています」


 高城は頷いた。


「そうだな」


「ですが、グロリアは違います」


 藤崎は続けた。


「長距離を快適に移動すること。後部座席に座る人にも、安心して過ごしてもらうこと」


 高城は、静かに笑った。


「同じプリンスでも、求められるものが違うんだな」


 その時、背後から声がした。


「……そのとおりだ」


 二人が振り返ると、一人の男性が立っていた。


 四十代後半の、落ち着いた雰囲気の男性だった。


 背広の上に作業用の上着を羽織り、手には厚い試験報告書を持っていた。


「榊原さん」


 高城が声をかけた。


 男性は、静かに頷いた。


 榊原宗一郎。


 四十七歳。


 プリンス自動車工業の乗用車開発部門に所属する、グロリアS6系の開発責任者だった。


 富士精密工業時代から自動車開発に携わり、長年にわたり上級乗用車の設計に関わってきた技術者である。


 彼は、二台の車を見つめた。


「スカイラインは、運転する人のための車だ」


 そして、グロリアを指差した。


「だが、グロリアは違う」


 藤崎が顔を上げた。


「……乗る人のための車、ですか」


 榊原は頷いた。


「そうだ」


 そして、静かに続けた。


「良い高級車とは、乗る人に機械の存在を意識させない車だ」


 高城は、少し考えた。


「……なるほど」


 榊原は、グロリアの後部座席のドアを開いた。


「例えば、ここだ」


 二人は車内を覗き込んだ。


 広い後部座席。


 厚みのあるシート。


 落ち着いた内装。


 榊原は続けた。


「エンジンがどれほど高性能でも、車内が騒がしく、長時間乗ると疲れるようでは、グロリアとしては失格だ」


 高城は頷いた。


「……確かに」


 榊原は、少し笑った。


「もちろん、君たちのスカイラインを否定しているわけではない」


 藤崎が笑った。


「分かっています」


 榊原は続けた。


「同じ会社の車でも、目指すものが違う。それだけのことだ」


 三人は、二台の車を見つめた。


 スカイライン。


 グロリア。


 その二台は、プリンスの技術が持つ、異なる二つの方向性を示していた。




-1968年12月3日 午後1時20分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 試験施設


 試験施設の一角では、グロリアS6系の走行試験が行われていた。


 車体には、各種の測定器が取り付けられていた。


 車内には、騒音測定用の装置が置かれ、エンジン回転数や走行速度に応じた音の変化が記録されていた。


 運転席には、試験担当者が座っていた。


 助手席には、榊原宗一郎が乗り込んでいた。


 後部座席には、高城修一と藤崎亮介が座っていた。


「……では、始めます」


 試験担当者が言った。


 グロリアは、ゆっくりと走り出した。


 エンジンの音が、車内に低く響いた。


 速度が上がるにつれ、タイヤの転がる音や風切り音が聞こえ始めた。


 榊原は、計器を確認した。


「……速度、六十キロ」


 高城は、後部座席に座りながら車内の音を聞いていた。


 スカイラインとは異なる、落ち着いた室内。


 座席は柔らかく、長時間の乗車でも疲れにくいよう配慮されていた。


 しかし、路面の継ぎ目を越えた瞬間、車体後部から小さな振動が伝わってきた。


「……今の振動だな」


 榊原が呟いた。


 藤崎は頷いた。


「はい」


 試験担当者が速度を落とした。


「もう一度、同じ場所を通ります」


 グロリアは、再び路面の継ぎ目を越えた。


 小さな衝撃が車体へ伝わる。


 榊原は、後部座席の背もたれに伝わる振動を確かめた。


「……確かに、少し気になるな」


 藤崎は、資料に書き込んだ。


「後部の防振材と、車体側の取り付け部分を確認しましょう」


 榊原は頷いた。


「頼む」


 その後、試験車は速度を上げた。


 直列六気筒エンジンが、滑らかに回転数を上げていく。


 高城は、その音を聞いていた。


「……エンジン自体は、悪くない」


 榊原が頷いた。


「ええ」


「ただ、車内に伝わる音は、まだ改善できる」


 高城は続けた。


「エンジンマウントや排気系統も確認しよう」


 榊原は頷いた。


 試験車は、冬の空の下を走り続けた。


 グロリアに求められるのは、単なる速さではない。


 静かに走ること。


 乗る人を疲れさせないこと。


 そして、長距離でも安心して移動できること。


 そのすべてが、上級乗用車としての価値を決めるのである。




-1968年12月12日 午前10時30分-

 東京都内

 プリンス自動車販売店


 十二月に入った販売店では、年末を前にした商談が続いていた。


 ショールームの中央には、新型スカイラインC10型が展示されていた。


 その隣には、グロリアS6系が置かれていた。


 二台の車は、同じプリンスの社章を掲げながら、まったく異なる雰囲気を持っていた。


 営業主任の田村和夫は、グロリアの車体を磨いていた。


 その時、小野寺正彦が近づいてきた。


「田村君」


「小野寺課長」


「最近の販売状況はどうだ?」


 田村は、少し考えた。


「スカイラインは好調です」


 小野寺は頷いた。


「そうか」


「特に、若いご夫婦や家族連れのお客様からの問い合わせが多いです」


 田村は続けた。


「ただ、グロリアは少し苦戦しています」


 小野寺が顔を上げた。


「……そうか」


「はい」


 田村は、グロリアを見つめた。


「車そのものは良いのですが、価格が高いこともあり、購入を決めるまでに時間がかかるお客様が多いです」


 小野寺は頷いた。


「なるほど」


 その時、販売店の入口から一人の男性が入ってきた。


 五十歳前後の、落ち着いた雰囲気の男性だった。


 上質な背広を着ており、手には革製の鞄を持っていた。


「いらっしゃいませ」


 田村が声をかけた。


 男性は、グロリアを見つめた。


「……こちらが、新しいグロリアですか」


「はい。グロリアS6系でございます」


 男性は頷いた。


「少し見せてもらえますか」


「もちろんです」


 田村は、男性を車の近くへ案内した。


 男性は、車体をゆっくりと見回した。


「……立派な車ですね」


 田村は笑顔で答えた。


「ありがとうございます」


 男性は、後部座席のドアを開いた。


 そして、ゆっくりと座った。


「……なるほど」


 しばらく座り心地を確かめた後、男性は顔を上げた。


「静かに走る車が欲しいんです」


 田村は頷いた。


「はい」


「仕事で長距離を移動することが多くてね」


 男性は続けた。


「年齢のせいか、最近は疲れやすくなりまして」


 田村は、静かに答えた。


「でしたら、グロリアはご希望に合うと思います」


 男性は頷いた。


「そうですか」


 田村は続けた。


「グロリアは、乗り心地や静粛性を重視して設計されています」


 男性は、車内を見回した。


「……なるほど」


 その後、男性は運転席にも座った。


 ステアリングを握り、計器類を確認した。


「運転もしやすそうですね」


 田村は頷いた。


「はい」


 男性は、しばらく考えた。


「……一度、試乗してみたいですね」


 田村は笑顔で答えた。


「もちろんです。準備いたします」


 その様子を、少し離れた場所から小野寺が見つめていた。


 彼は、静かに思った。


 スカイラインには、スカイラインの客がいる。


 グロリアには、グロリアの客がいる。


 同じ会社の車でも、求められるものは違う。


 その違いを理解することが、販売店の仕事なのだ。




-1968年12月20日 午後2時00分-

 東京都内

 プリンス自動車工業 本社

 取締役会議室


 会議室には、神谷正一郎社長をはじめとする経営陣が集まっていた。


 机の上には、1968年の販売実績に関する資料が置かれていた。


 安藤俊夫取締役が立ち上がった。


「それでは、乗用車部門の販売状況について報告いたします」


 神谷が頷いた。


「頼む」


「まず、スカイラインC10型ですが、発売以来、比較的順調な販売を続けています」


 大河内隆之専務が顔を上げた。


「利益は?」


 安藤は答えた。


「まだ発売から日が浅いため、開発費の回収には時間が必要です」


 大河内は頷いた。


「当然だろう」


 安藤は続けた。


「一方、グロリアS6系については、販売台数が伸び悩んでいます」


 神谷が顔を上げた。


「理由は?」


「価格帯が高く、購入層が限られることが大きな要因です」


 安藤は続けた。


「また、競合する上級乗用車との比較も厳しくなっています」


 大河内が口を開いた。


「……グロリアの開発費を抑える必要があるな」


 西園寺誠一常務が顔を上げた。


「しかし、グロリアはプリンスの上級車です」


 大河内は頷いた。


「それは分かっている」


 西園寺は続けた。


「スカイラインだけでは、会社のブランドを支えきれません」


 神谷は、静かに聞いていた。


 その時、宮原健一が口を開いた。


「一つ、ご提案があります」


 神谷が顔を上げた。


「聞こう」


「スカイラインとグロリアの役割を、より明確に分けるべきだと思います」


 大河内が尋ねた。


「どういうことだ?」


 宮原は、資料を広げた。


「スカイラインは、走行性能と実用性を両立した中型乗用車として展開します」


 そして、続けた。


「一方、グロリアは、静粛性、乗り心地、上質さを重視した上級乗用車として位置づけます」


 西園寺が頷いた。


「なるほど」


 宮原は続けた。


「同じ会社の車だからといって、すべて同じ方向を目指す必要はありません」


 神谷は、しばらく考えた。


「……そのとおりだ」


 そして、静かに言った。


「スカイラインにはスカイラインの役割がある」


 神谷は、グロリアの写真を見つめた。


「グロリアには、グロリアの役割がある」


 大河内は頷いた。


「……ただし、採算は必ず確認する」


 宮原は答えた。


「承知しています」


 神谷は、会議室を見渡した。


「グロリアの価値を、もう一度見直そう」


 そして、静かに続けた。


「プリンスの上級車として、何を大切にするべきなのかを」





-1969年1月10日 午後3時15分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業 開発施設


 年が明けた荻窪の開発施設では、技術者たちが新しい年の仕事を始めていた。


 試作車製作室には、グロリアS6系が置かれていた。


 その隣には、新型スカイラインC10型が並んでいた。


 榊原宗一郎は、グロリアの車体を見つめていた。


 その隣には、高城修一と藤崎亮介が立っていた。


「……今年も忙しくなりそうですね」


 藤崎が言った。


 榊原は頷いた。


「ああ」


 高城が口を開いた。


「スカイラインの高性能モデルも、いよいよ最終段階に入ります」


 榊原は、少し笑った。


「そうか」


 そして、静かに続けた。


「君たちは、相変わらず速い車が好きだな」


 高城は笑った。


「……まあ、そうですね」


 榊原は、グロリアを見つめた。


「だが、私は別のものを追い求めたい」


 藤崎が顔を上げた。


「……静粛性ですか?」


「それもある」


 榊原は頷いた。


「しかし、それだけではない」


 彼は、グロリアの後部座席のドアを開いた。


「乗る人が、安心して長い時間を過ごせることだ」


 高城は、静かに頷いた。


「……なるほど」


 榊原は続けた。


「スカイラインは、運転する楽しさを追い求める車だ」


 そして、グロリアを見つめた。


「グロリアは、乗る人の快適さを追い求める車だ」


 藤崎は頷いた。


「……どちらも、大切な車ですね」


 榊原は、少し笑った。


「ああ」


 その時、試作車製作室の奥から、別のエンジン音が聞こえてきた。


 鋭く、力強い音だった。


 高城が顔を上げた。


 藤崎も、音のする方向を見た。


「……S20ですね」


 高城は頷いた。


「ああ」


 榊原は、少し笑った。


「いよいよだな」


 高城は、静かに答えた。


「……はい」


 その音は、荻窪の開発施設に響き渡っていた。


 グロリア。


 スカイライン。


 そして、まだ世に出ていない特別なスカイライン。


 プリンス自動車工業は、それぞれ異なる役割を持つ車を作り続けていた。


 速さを求める車。


 快適さを求める車。


 そして、人々の生活を支える車。


 そのすべてが、プリンスの技術と誇りによって生み出されていた。


 1969年。


 新しい年が始まった。


 プリンスは、さらなる挑戦へ向かおうとしていた。


 ――第13話「もうひとつの誇り」完。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。