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第12話「名もなき働き者」

-1968年11月12日 午前8時35分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 商用車開発部門


 十一月の朝。


 東京の空は薄い雲に覆われ、荻窪の街には冷たい風が吹いていた。


 プリンス自動車工業の開発施設では、始業を告げるベルが鳴る前から、技術者たちが忙しく行き交っていた。


 製図室の机には、青焼き図面が何枚も広げられていた。


 その一角で、一人の若い技術者が鉛筆を走らせていた。


 佐伯正人。


 二十七歳。


 プリンス自動車工業の商用車開発部門に所属する技術者である。


 彼の目の前には、一枚の図面が置かれていた。


 小型トラック、プリンス・クリッパーの後部懸架装置に関する設計図だった。


 リーフスプリング。


 シャックル。


 車軸。


 そして、フレームとの取り付け部分。


 佐伯は、その図面を見つめながら小さくため息をついた。


「……また、板ばねか」


 机の隅には、前日の試験結果が置かれていた。


 最大積載量に近い荷重を加えた際、後輪のばねのたわみ量が目標値を上回っていたのである。


 佐伯は、鉛筆を置いた。


「……どうして俺が、こんな仕事をしているんだろうな」


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく呟かれたものだった。


 彼がプリンスに入社したのは、数年前のことだった。


 学生時代から自動車が好きだった。


 特に憧れていたのは、スカイラインGTだった。


 1964年の第二回日本グランプリ。


 ポルシェ904を一時的に抜き去ったスカイラインGT。


 その出来事を知った時、佐伯は胸が高鳴った。


 日本の技術者が、世界の名門メーカーに挑戦している。


 いつか、自分もそんな車を作りたい。


 そう考え、プリンス自動車工業への入社を決めた。


 しかし、配属されたのはスポーツカー開発部門ではなかった。


 商用車開発部門。


 クリッパーやマイラーといったトラックの改良を担当する部署だった。


 入社当初は、いずれ乗用車開発へ異動できると思っていた。


 だが、数年が過ぎても、その機会は訪れなかった。


 代わりに与えられる仕事は、荷台の強度、後輪のばね、変速機の耐久性、そして積載時の走行安定性に関するものばかりだった。


「……スポーツカーなら、もっと面白い仕事ができるのにな」


 佐伯は、机の引き出しから一冊の雑誌を取り出した。


 表紙には、先月開催された東京モーターショーの写真が掲載されていた。


 その中には、プリンスが出品した特別なスカイラインの姿もあった。


 白い車体。


 赤いエンブレム。


 大きく広げられた後輪のホイールアーチ。


 通称、四十五。


 ヨンゴー。


 佐伯は、その写真を見つめた。


「……いいなあ」


 思わず声が漏れた。


「何がいいんだ?」


 背後から声がした。


 振り返ると、商用車開発課の主任技師、森田信夫が立っていた。


 四十三歳。


 長年にわたり、プリンスの商用車開発に携わってきた技術者だった。


「あ、森田主任」


 佐伯は慌てて雑誌を閉じた。


 森田は、少し笑った。


「隠さなくてもいい」


 そして、机の上の雑誌を見た。


「スカイラインか」


「……はい」


「好きなんだな」


 佐伯は頷いた。


「ええ。できれば、ああいう車の開発をしたかったんです」


 森田は、しばらく黙っていた。


 そして、佐伯の図面を見た。


「……クリッパーのばねは、どうなった?」


 佐伯は、少し表情を曇らせた。


「まだ調整が必要です」


「そうか」


 森田は頷いた。


「それなら、今日はそちらを進めてくれ」


「……はい」


 森田は、その場を離れようとした。


 しかし、数歩進んだところで足を止めた。


「佐伯」


「はい?」


「明日から、少し出張してもらう」


 佐伯は顔を上げた。


「出張ですか?」


「ああ。地方の販売店を回って、商用車の使用状況を調べてほしい」


 佐伯は、少し困惑した。


「……販売店ですか」


「そうだ」


 森田は頷いた。


「実際に使っているお客様の声を聞いてこい」


 佐伯は、少し考えた。


「……分かりました」


 森田は、静かに言った。


「図面だけでは、分からないこともあるからな」


 そう言い残し、森田は製図室を出ていった。


 佐伯は、再び図面に目を落とした。


 リーフスプリング。


 シャックル。


 車軸。


 そして、フレーム。


 彼には、まだその仕事の本当の意味が分かっていなかった。




-1968年11月14日 午前10時20分-

 栃木県北部

 プリンス自動車地方販売店


 東京を離れて二日目。


 佐伯正人は、栃木県北部の農村地帯にある販売店を訪れていた。


 国鉄の駅からバスに乗り、さらにしばらく歩いた先に、その販売店はあった。


 周囲には、田畑と低い山々が広がっていた。


 道路沿いには、農家の家屋や小さな商店が点在していた。


 都会のように自家用乗用車が何台も並ぶ光景は、ほとんど見られなかった。


 販売店の建物は、木造の事務所と整備工場を組み合わせた、比較的小さなものだった。


 入口には、プリンスの看板が掲げられていた。


 佐伯は、敷地に足を踏み入れた。


 そして、思わず足を止めた。


「……あれ?」


 店先に並んでいたのは、トラックばかりだった。


 プリンス・クリッパー。


 プリンス・マイラー。


 荷台を持つ商用車が、数台並べられていた。


 中には、農作業用の道具を積んだ車もあった。


 しかし、スカイラインやグロリアの姿は見当たらなかった。


「……乗用車がない」


 佐伯は、小さく呟いた。


 その時、事務所から一人の男性が出てきた。


「いらっしゃいませ」


 五十歳前後の男性だった。


 作業着の上に上着を羽織り、手には整備記録を持っていた。


「何かお探しですか?」


 佐伯は、慌てて頭を下げた。


「失礼しました。荻窪の開発部門から参りました、佐伯と申します」


 男性は、少し驚いた。


「ああ、本社の方でしたか」


 そして、笑顔になった。


「お待ちしておりました。こちらの営業所を預かっております、石田源三です」


 佐伯は頭を下げた。


「よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 石田は、佐伯を事務所へ案内した。


 事務所の中には、木製の机と椅子が並んでいた。


 壁には、プリンスの車両ポスターと、整備予定を書き込んだ黒板が掛けられていた。


 ストーブの上では、湯を入れたやかんが小さく音を立てていた。


「遠いところ、ご苦労様です」


 石田は湯飲みを差し出した。


「ありがとうございます」


 佐伯は、温かい茶を受け取った。


 そして、窓の外を見た。


「……ところで、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」


「何でしょう?」


「こちらでは、乗用車は扱っていないのですか?」


 石田は、少し笑った。


「扱っておりますよ」


「そうなんですか」


「ただ、今は展示車がありませんでね」


 佐伯は頷いた。


「なるほど」


 石田は続けた。


「この辺りでは、スカイラインやグロリアよりも、クリッパーやマイラーの方がよく売れるんです」


 佐伯は、少し驚いた。


「……そうなんですか?」


「ええ」


 石田は頷いた。


「ここでは、トラックが生活の支えになっていますから」


 佐伯は、黙って聞いていた。


 石田は、窓の外を指差した。


「農家の方々は、収穫した米や野菜を運びます。肥料や農機具を積むこともあります」


 そして続けた。


「商店の方は商品の仕入れに使いますし、建築業の方は資材を運びます」


 佐伯は頷いた。


「……なるほど」


「つまり、この辺りでは、車は単なる移動手段じゃないんです」


 石田は、静かに言った。


「仕事をするための道具なんですよ」


 佐伯は、窓の外のトラックを見つめた。


 その時、石田が少し笑った。


「それに、プリンスのトラックは評判がいいんです」


 佐伯が顔を上げた。


「評判が?」


「ええ」


 石田は頷いた。


「多少値段は張りますが、丈夫で壊れにくいと、お客様からよく言われます」


 佐伯は、少し驚いた。


「……本当ですか?」


「もちろんです」


 石田は続けた。


「農家の方にとって、収穫の時期に車が故障するのは大変なことです」


 佐伯は頷いた。


「そうですね」


「一日使えなくなるだけでも、仕事に影響します」


 石田は、静かに言った。


「だから、少し高くても、信頼できる車を選ぶ方が多いんです」


 佐伯は、しばらく黙っていた。


 彼が毎日設計していた、あのトラック。


 荷台の強度。


 後輪のばね。


 変速機の耐久性。


 その一つ一つが、誰かの仕事を支えていた。


 石田は、さらに続けた。


「それに、プリンスの車は、長く使ってくださるお客様が多いんですよ」


 佐伯は顔を上げた。


「長く、ですか」


「ええ」


 石田は頷いた。


「五年、七年と使って、またプリンスのトラックに乗り換えてくださる方もいます」


 佐伯は、静かに頷いた。


 その言葉は、彼にとって意外なものだった。


 彼は、トラックの開発を地味な仕事だと思っていた。


 スポーツカーのような華やかさもない。


 レースで注目されることもない。


 しかし、その車を必要としている人々が、確かに存在していた。




-1968年11月14日 午後1時30分-

 栃木県北部

 プリンス自動車地方販売店

 整備工場


 昼食を終えた佐伯は、石田に案内されて整備工場を見学していた。


 工場の中には、一台のクリッパーが入庫していた。


 荷台には、農作業で使われる道具が積まれていた。


 車体の下部には、乾いた泥が付着していた。


 整備士が、後輪の下に潜り込んで点検を進めていた。


「……これは?」


 佐伯が尋ねた。


 石田は答えた。


「近くの農家の方のクリッパーです。定期点検で預かっています」


 佐伯は、車体を見つめた。


 塗装には細かな傷があり、荷台には長年使われた跡が残っていた。


 しかし、車はしっかりとした姿を保っていた。


 その時、整備士が車体の下から出てきた。


「石田さん、後輪のばねは問題ありません」


 石田が頷いた。


「そうか」


 佐伯は、思わず尋ねた。


「……ばねの状態は、どうですか?」


 整備士は、少し驚いた。


「え?」


「私は、商用車の開発を担当しているんです」


「ああ、そうでしたか」


 整備士は頷いた。


「それなら、ちょうどいい」


 そして、後輪を指差した。


「この車は、かなり荷物を積んで使われています」


 佐伯は頷いた。


「はい」


「ですが、ばねの状態は悪くありません」


 整備士は続けた。


「もちろん、長く使えば摩耗する部分はあります。しかし、定期的に点検していれば、十分に使えます」


 佐伯は、しばらく後輪を見つめていた。


 リーフスプリング。


 彼が毎日のように図面で見ていた部品だった。


 しかし、実際に長年使われた車に取り付けられている姿を見るのは、久しぶりだった。


 佐伯は、静かに尋ねた。


「……お客様から、何か不満はありませんか?」


 整備士は、少し考えた。


「そうですね」


 そして、静かに答えた。


「荷物を積んでいない時は、少し乗り心地が硬いと言われることがあります」


 佐伯は頷いた。


「……なるほど」


「ですが、荷物を積むと安定するそうです」


 整備士は続けた。


「それに、丈夫なことを一番喜んでおられます」


 佐伯は、静かに頷いた。


 彼が設計している後輪のばね。


 その役割は、乗り心地だけではない。


 重い荷物を支え、車体の姿勢を保ち、悪路でも確実に走れるようにすること。


 それが、商用車に求められる性能だった。


 佐伯は、手帳を取り出した。


 そして、整備士の話を書き留めた。


 空車時の乗り心地。


 積載時の安定性。


 耐久性。


 そして、整備のしやすさ。


 それらは、どれも重要な情報だった。


 佐伯は、静かに呟いた。


「……なるほど」


 石田が顔を上げた。


「何か分かりましたか?」


 佐伯は、少し笑った。


「……はい」


 そして、静かに続けた。


「今まで、図面の上でしか考えていなかったことが、少し分かった気がします」




-1968年11月14日 午後4時20分-

 栃木県北部

 農村地帯の県道


 夕方。


 佐伯正人は、販売店での視察を終え、駅へ向かって歩いていた。


 空には薄い雲が広がり、遠くの山々は夕暮れの光に包まれていた。


 道路の両側には、収穫を終えた田んぼが広がっていた。


 田の一部には、まだ水が残っていた。


 畦道には、農作業で使われた道具が置かれていた。


 佐伯は、鞄を持ちながらゆっくりと歩いていた。


 石田の言葉が、頭から離れなかった。


『ここでは、トラックが生活の支えになっていますから』


『多少値段は張りますが、丈夫で壊れにくいと評判なんです』


 佐伯は、静かに息を吐いた。


 その時だった。


 遠くから、エンジン音が聞こえてきた。


 低く、力強い音だった。


 佐伯は、足を止めた。


 田んぼの向こうにある農道から、一台のトラックが現れた。


 プリンス・クリッパーだった。


 荷台には、農作業で使われる道具や袋が積まれていた。


 車体の下部には、泥がびっしりと付着していた。


 タイヤも泥に汚れていた。


 しかし、そのクリッパーは、ゆっくりと、確実に前へ進んでいた。


 農道には、雨の影響でぬかるんだ部分が残っていた。


 前輪が泥を踏み、車体が小さく揺れる。


 後輪が深い轍に入った。


 エンジンの音が、少し高くなった。


 それでも、クリッパーは止まらなかった。


 後輪が泥をかき分け、車体を前へ押し出していく。


 荷台が揺れた。


 しかし、車は姿勢を保ちながら、ゆっくりと進んでいった。


 佐伯は、その姿を見つめていた。


「……クリッパーだ」


 思わず声が漏れた。


 トラックは、佐伯の前を通り過ぎようとしていた。


 運転席には、年配の農家の男性が座っていた。


 その隣には、作業着姿の若い男性が乗っていた。


 親子だろうか。


 二人は、何か話しながら笑っていた。


 トラックは、泥を落としながら県道へ出た。


 そして、ゆっくりと加速していった。


 佐伯は、その後ろ姿を見つめていた。


 荷台。


 後輪。


 リーフスプリング。


 そして、フレーム。


 彼が毎日図面に描いていた部品が、今、目の前で働いていた。


 泥にまみれながら。


 重い荷物を運びながら。


 人々の生活を支えながら。


 佐伯は、しばらく動けなかった。


 彼は、これまでスポーツカーの開発に憧れていた。


 速い車。


 美しい車。


 レースで勝つ車。


 それらを作ることこそ、自動車技術者としての誇りだと思っていた。


 しかし、今、目の前を走り去ったクリッパーは違った。


 誰かに注目されるわけではない。


 雑誌の表紙を飾ることもない。


 レースで優勝することもない。


 それでも、その車は確かに必要とされていた。


 農家の人々が、一日の仕事を終えて家へ帰るために。


 収穫した作物を市場へ運ぶために。


 そして、明日もまた働くために。


 佐伯は、静かに呟いた。


「……そうか」


 彼は、遠ざかっていくクリッパーを見つめた。


「俺たちの仕事は……」


 言葉が途中で止まった。


 しばらくして、佐伯は小さく笑った。


「……こういうことだったんだな」


 胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じた。


 それは、これまで経験したことのない感覚だった。


 速さを追い求めること。


 美しさを追い求めること。


 そして、丈夫さを追い求めること。


 そのどれもが、自動車を作る技術者にとって大切な仕事なのだ。


 佐伯は、鞄を持ち直した。


 そして、駅へ向かって歩き始めた。


 足取りは、来た時よりも少し軽くなっていた。




-1968年11月18日 午前9時10分-

 東京都杉並区荻窪

 プリンス自動車工業

 商用車開発部門


 月曜日の朝。


 佐伯正人は、いつもの製図台に向かっていた。


 机の上には、クリッパーの後輪懸架装置の図面が置かれていた。


 リーフスプリング。


 シャックル。


 車軸。


 そして、フレーム。


 数日前まで、彼にとって退屈な仕事の象徴だった図面である。


 しかし、今は違って見えた。


 佐伯は、地方販売店で聞いた話を思い出していた。


 農家の人々。


 商店の人々。


 建築現場で働く人々。


 そして、泥にまみれながら農道を走っていたクリッパー。


 彼は、手帳を開いた。


 そこには、視察で聞いた内容が細かく書き込まれていた。


 空車時の乗り心地。


 積載時の安定性。


 耐久性。


 整備性。


 佐伯は、図面を見つめた。


「……よし」


 そして、鉛筆を手に取った。


 その時、森田信夫主任が近づいてきた。


「佐伯」


「おはようございます」


「出張はどうだった?」


 佐伯は顔を上げた。


「……勉強になりました」


 森田は、少し笑った。


「そうか」


 佐伯は続けた。


「今まで、商用車の開発を軽く考えていました」


 森田は黙って聞いていた。


「ですが、地方ではトラックが本当に必要とされているんですね」


 森田は頷いた。


「ああ」


 佐伯は、少し考えた。


「クリッパーやマイラーが、あれほど生活に密着しているとは思いませんでした」


 森田は、静かに笑った。


「そうだろう」


 佐伯は続けた。


「それに、プリンスのトラックは丈夫だと評判でした」


 森田は頷いた。


「ありがたいことだな」


 佐伯は、少し笑った。


「はい」


 そして、図面を指差した。


「主任。後輪のばねについて、少し考えがあるんです」


 森田が顔を上げた。


「ほう」


「積載時の安定性を維持しながら、空車時の乗り心地を改善できないかと思いまして」


 森田は、少し考えた。


「簡単ではないぞ」


「分かっています」


 佐伯は頷いた。


「ですが、試してみたいんです」


 森田は、しばらく佐伯を見つめていた。


 そして、静かに笑った。


「……いい顔になったな」


 佐伯は、少し驚いた。


「え?」


「出張前とは、ずいぶん違う」


 佐伯は、少し照れたように笑った。


「……そうでしょうか」


 森田は頷いた。


「ああ」


 そして、静かに続けた。


「ようやく、自分の仕事が見えてきたようだな」


 佐伯は、図面を見つめた。


 そして、はっきりと答えた。


「……はい」


 森田は、静かに頷いた。


「よし。ならば、案をまとめてみろ」


「ありがとうございます」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 森田が去った後、佐伯は再び製図台に向かった。


 鉛筆を走らせる。


 一本の線を引く。


 寸法を書き込む。


 そして、また考える。


 その作業は、数日前と何も変わらなかった。


 しかし、佐伯の心の中では、何かが大きく変わっていた。


 彼は、もう自分の仕事を退屈だとは思っていなかった。


 あの泥にまみれたクリッパー。


 その姿が、今も目に焼き付いていた。


 自分たちが作る車は、誰かの生活を支えている。


 そのことを知った今、佐伯は初めて、自分の仕事に誇りを感じていた。


 窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい風が吹いていた。


 荻窪の開発施設では、今日も技術者たちが仕事を続けていた。


 スカイライン。


 グロリア。


 クリッパー。


 マイラー。


 それぞれの車には、それぞれの役割がある。


 速さを求める車。


 快適さを求める車。


 そして、人々の暮らしを支える車。


 プリンス自動車工業の技術は、そのすべてに注がれていた。


 佐伯は、図面に向かいながら小さく呟いた。


「……もっと、いいトラックを作ろう」


 その言葉には、以前のような迷いはなかった。


 遠い栃木の農道で見た、泥にまみれたクリッパー。


 あの車が、これからも力強く走り続けられるように。


 そして、そこで働く人々が、安心して明日を迎えられるように。


 佐伯正人は、再び鉛筆を走らせた。


 ――第12話「名もなき働き者」完。

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