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第8話 落ちながら飛ぶ鳥

 最初に動いたのは、桜夜だった。


「長くは見ていられない」


 その声で、止まっていた時間が戻った。


 アダムは空から目を離したくなかった。けれど、桜夜の言葉が正しいこともわかっていた。通信塔の防衛中枢は完全に停止したわけではない。今もどこかで、古い機械たちが侵入者を探している。


 秘書が端末を見つめた。


「上層の通信制御室は、この観測デッキの奥です。そこに入れれば、外部への送信が可能になるはずです」


『ただし、悠長に演説原稿を練っている時間はありませんよ』


 通信の向こうで青年が言った。


『塔の再起動信号が広域に流れています。統一議会側も、ここに誰かがいると気づきます』


「あとどれくらい?」


 イヴが尋ねる。


『早ければ数分。遅くても、通信を始めた瞬間に位置は割れます』


「じゃあ、急がないと」


 イヴは立ち上がろうとして、少しふらついた。


 アダムが反射的に手を伸ばす。


「イヴ」


「平気」


「平気じゃない顔してる」


「あなたに言われたくない」


「うん」


「うんじゃない」


 イヴはそう言いながらも、アダムの手を握ったまま離さなかった。


 アダンが二人を見ていた。


 その表情は硬かった。空を見ても、彼の中の何かがすぐに軽くなったわけではないのだろう。背負ってきたものは、風に吹かれたくらいでは消えない。


 それでも、アダムは思った。


 さっき自分を守ってくれた背中は、たしかにここにある。


「父さん」


 アダムが呼ぶと、アダンは少しだけ目を伏せた。


「その呼び方に、まだ慣れない」


「ぼくも」


「なら無理に呼ぶな」


「でも、呼びたいと思った」


 アダンは黙った。


 困ったような顔だった。


 その顔が、ほんの少しだけサタンに似ている気がして、アダムは胸が痛くなった。


「……好きにしろ」


 アダンはそれだけ言って、観測デッキの奥へ歩き出した。


 桜夜が小さく笑った。


「不器用だな」


「誰がだ」


「お前が」


「黙れ」


「黙らない」


「昔からそうだった」


「なら、これからは少しは喜べ」


 アダンは答えなかった。


 ただ、歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。


 秘書がアダムの運搬台を押す。イヴはその横につき、桜夜は前方を警戒した。


 観測デッキの奥には、分厚い扉があった。


 広域通信制御室。


 その文字は錆び、半分ほど読めなくなっている。


 秘書が扉の端末に手をかざした。光糸が細く伸び、端末の隙間へ入り込む。しばらくして、重い音とともにロックが外れた。


 扉が開く。


 中は、巨大な機械の墓場のようだった。


 壁一面に古い端末が並び、天井から無数のケーブルが垂れている。中央には、円形の操作盤があった。薄い埃をかぶっているが、その奥でまだわずかな光が点滅している。


『すごいですね』


 青年の声が少しだけ弾んだ。


『本当に生きてる。旧時代の広域通信装置です。これならエデン全域に声を届けられます』


「どうすればいい」


 桜夜が尋ねる。


『秘書さんに端末を開いてもらってください。僕が遠隔で補助します。ただし、防衛中枢の制御と送信系が絡まっています。下手に触ると塔ごと沈黙します』


「つまり?」


『丁寧にやっている時間はないけど、雑にやると終わります』


「わかりやすい」


『だから言ってる場合ですか』


 秘書はすでに操作盤へ向かっていた。


「接続します」


『お願いします。三番系統の端子を開放してください。違います、それは冷却系です。いや、でも冷却も死にかけてるな……すみません、先に冷却を生かします』


「落ち着け」


 桜夜が言った。


『落ち着いてます。声が裏返ってるだけです』


「それを落ち着いていないと言う」


 そんなやり取りを聞きながら、アダムは制御室の中央に運ばれた。


 ここから声を届ける。


 エデン全域へ。


 そう考えた瞬間、喉が乾いた。


「アダム」


 イヴが覗き込む。


「怖い?」


「怖い」


「痛い?」


「痛い」


「死にたい?」


 アダムは少し考えた。


 そして首を振った。


「今は、死にたくない」


「よし」


「かなり?」


「かなり」


 イヴはそう言って、アダムの額に手を当てた。


「熱、まだある」


「うん」


「話せる?」


「話す」


「無理は?」


「するかも」


「だめ」


「でも、今しかない」


 イヴは唇を噛んだ。


 反論したかったのだろう。


 休んでほしい。


 傷を開かないでほしい。


 これ以上、苦しまないでほしい。


 その全部が顔に出ていた。


 けれど彼女は、最後には小さく頷いた。


「じゃあ、話したら寝ること」


「うん」


「約束」


「うん」


「絶対」


 アダムは少し笑った。


「今だけは、嘘でもいい?」


 イヴは目を丸くした。


 それから、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「いい」


「じゃあ、絶対寝る」


「よし」


 イヴはアダムの手を握った。


 その手は少し震えていた。


 アダムもそっと握り返した。


 ◇◇◇


 通信装置が、低い音を立てて起動した。


 制御室の壁に、エデンの地図が浮かび上がる。


 都市。


 地下集落。


 死の森。


 統一議会の白い塔。


 そこに生きる、無数の人々。


 生まれてこなければよかったと教えられた人々。


 苦痛を減らすために、未来を閉じることを正しいと信じてきた人々。


 アダム自身も、その中の一人だった。


『送信、あと三十秒で開きます』


 青年が言った。


『アダム君。何を話すか、決めてます?』


「決めてない」


『えっ』


「言葉は、今から探す」


『それ、すごく怖いんですけど』


「ぼくも怖い」


 青年は少し黙った。


 それから、通信の向こうで小さく息を吐いた。


『じゃあ、怖いままお願いします』


「うん」


 アダンがアダムのそばへ来た。


「議会は、お前を殺す理由を探している」


「うん」


「この声を流せば、もう戻れない」


「知ってる」


「それでも話すのか」


 アダムはアダンを見た。


「父さんは、どうしてぼくを守ったの」


 アダンは答えに詰まった。


「命令に従うなら、ぼくを斬ればよかった。イヴも、桜夜も、みんな捕まえればよかった」


「……そうだな」


「でも、そうしなかった」


「ああ」


「どうして?」


 アダンはしばらく黙っていた。


 制御室の機械音だけが響く。


 やがて、彼は低く言った。


「お前が、私に選べと言ったからだ」


「ぼくが?」


「命令ではなく、自分で見て選べと」


 アダムは息を呑んだ。


 それは、いつか自分がアダンに言った言葉だった。


 生きている子を前にして。


 その子を殺せるのかと問いかけたときの言葉。


「私はずっと、命令に従って生きてきた。そうすれば罪を考えずに済む。上が決めた。法が決めた。議会が決めた。そう言えば、自分の手が汚れていることを見ずに済む」


 アダンは自分の手を見た。


「だが、お前を見たとき、逃げられなかった。私は、お前を一度捨てた。サタンに背負わせた。自分では何もしなかった。それなのに、また命令のせいにして、お前を殺そうとしていた」


「父さん」


「私は立派な父親ではない」


「うん」


 アダムは素直に頷いた。


 アダンが少し傷ついた顔をした。


 イヴが横から小さく言った。


「そこは少し言い方を選んで」


「でも、嘘は」


「嘘じゃなくて、やわらかく」


「難しい」


 アダンは短く息を吐いた。


 それは笑いに近かった。


「いい。事実だ」


 そして、アダンは続けた。


「だが、今度は命令ではなく、自分で選んだ。お前を守ると決めた。それだけだ」


 アダムの胸が熱くなった。


「じゃあ、ぼくも選ぶ」


 彼は言った。


「怖いけど、話す」


 アダンは頷いた。


「なら話せ」


 その声は、命令ではなかった。


 背中を押す声だった。


『送信、開きます』


 青年の声が響いた。


『三、二、一。どうぞ』


 ◇◇◇


 エデン中の端末に、雑音が走った。


 家の壁面表示。


 公共広場の掲示塔。


 地下集落の古い受信機。


 騎士団の通信端末。


 統一議会の円卓。


 それらすべてに、一人の少年の声が流れた。


『聞こえますか』


 アダムの声だった。


 弱く、掠れていた。


 けれど、確かに届いていた。


『ぼくは、アダムです』


 制御室で、アダムは息を吸った。


 イヴの手がある。


 アダンの背中がある。


 桜夜と秘書がいる。


 通信の向こうには青年がいる。


 鞄の中には、木の鳥がある。


 そして胸の奥には、サタンの言葉がある。


『ぼくは、第一級思想犯と呼ばれています。子どもを望んだこと。生まれてくることについて考えたこと。サタンの言葉を忘れなかったこと。それが、ぼくの罪だと言われました』


 喉が痛い。


 肩も痛む。


 熱で頭がぼんやりする。


 それでも、言葉は出てきた。


『エデンでは、生まれてくることは悪だと教えられています。生きることは苦しいから。苦しむくらいなら、最初から生まれないほうがいいから。子どもを作らなければ、その子は苦しまないから』


 アダムは目を閉じた。


 自分の中にも、その声はある。


 今も消えていない。


『ぼくも、そう思ったことがあります。何度もあります。生まれてこなければよかった。痛みも、怖さも、悲しみも、失う苦しみも知らずに済んだのに。そう思いました』


 イヴの手に力がこもった。


『だから、ぼくは言えません。生まれてくることは、必ず素晴らしいことだとは言えません。生きていれば必ず幸せになれるとも言えません。そんなことを言ったら、今苦しんでいる人を傷つけるだけだと思うからです』


 制御室の中は静かだった。


 誰も動かなかった。


『でも、ぼくは今、空を見ています』


 アダムは目を開いた。


 扉の向こうに青がある。


 広く、遠く、誰のものでもない空がある。


『ぼくは今日、初めて本物の空を見ました。痛くて、怖くて、熱があって、歩くこともできません。でも、見られてよかったと思いました。この瞬間を、なかったことにはしたくないと思いました』


 声が震えた。


 涙がこぼれそうになった。


 でも、止まらなかった。


『ぼくには、父がいました。ぼくを育ててくれた父です。彼はもういません。でも、彼がくれた言葉は残っています。ぼくには、手を握ってくれる人がいます。歩けないとき、背負ってくれる人がいます。間違えたあとでも、もう一度選ぼうとしてくれる人がいます』


 アダンが目を伏せた。


『だから、ぼくは思います。苦しみがあるなら、苦しみを減らすために手を伸ばしたい。怖いなら、怖いねと言い合いたい。歩けない人がいるなら、少しだけ背負いたい。自分が歩けなくなったら、誰かに背負われたい』


 アダムは息を吸った。


『子どもを持ちたい人も、持ちたくない人も、持てない人も、みんな責められなくていいはずです。生まれてきたことを喜べない人も、責められなくていいはずです。でも、今生きている人を、これから生きようとする人を、最初からなかったことにする世界は、ぼくは間違っていると思います』


 警報が鳴った。


 制御室の赤い灯りが点滅する。


 秘書が端末を見た。


「統一議会から強制遮断信号です」


『あと一分もつかどうかです!』


 青年が叫んだ。


 桜夜が機械の前に立つ。


「続けろ」


 アダムは頷いた。


『ぼくは、世界をすぐに変えられるとは思っていません。ぼくの言葉で、みんなが急に考えを変えるとも思っていません。ぼく自身、まだ答えを持っていません』


 肩の痛みが強くなる。


 息が苦しい。


 イヴが支えるように手を握る。


『でも、答えがないからといって、問いを殺さないでください』


 その言葉だけは、はっきり出た。


『生まれてくることは悪なのか。苦しみをなくすために滅びるべきなのか。子どもたちが、ぼくたちより少しでも幸せに生きる未来を作れないのか。その問いを、考えることまで罪にしないでください』


 遮断信号が強まる。


 音声に雑音が混じり始めた。


『ぼくはアダムです。サタンの息子です。イヴを愛しています。空を見ました。痛いです。怖いです。でも、今は死にたくありません』


 イヴの目から涙が落ちた。


『生まれてきてよかったかは、まだわかりません』


 アダムは木の鳥を握った。


『でも、出会えたことを、なかったことにはしたくありません』


 その瞬間、通信が途切れた。


 制御室に、激しい静寂が落ちた。


 ◇◇◇


 誰もすぐには口を開かなかった。


 アダムは息を切らし、運搬台の上でぐったりしていた。顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。


 イヴが慌てて彼の頬に触れた。


「アダム」


「……話せた?」


「話せた」


「最後まで?」


「うん。最後まで」


「そっか」


 アダムは少し笑った。


「じゃあ、寝る」


「約束だからね」


「うん」


 目を閉じかけたアダムの手から、木の鳥が滑り落ちそうになった。


 イヴはそれをそっと受け止め、彼の胸元に戻した。


「ノアも、聞いてたよ」


「うん」


 アダムはそれだけ言って、眠りに落ちた。


 イヴは彼の呼吸を確かめる。


 浅いが、続いている。


 そのことに、身体中の力が抜けそうになった。


 けれど、まだ終わっていない。


 秘書が端末を見たまま言った。


「統一議会がこちらの位置を特定しました。騎士団の飛行艇が複数接近中です」


『送信は成功しました。でも、逃げ道がかなり限られています』


 青年の声も、いつになく硬い。


「どこへ逃げる」


 アダンが問う。


『観測デッキの外側に、旧時代の避難用滑空機が格納されているはずです。動く保証はありません』


「動かせ」


『だから保証は』


「保証はいらない。方法を言え」


『……はいはい。そういう無茶、嫌いじゃないです』


 桜夜が扉の外を見た。


 空はまだ青い。


 その青の向こうに、小さな黒い点がいくつも現れ始めていた。


 飛行艇だ。


 統一議会の紋章をつけた、白い影。


 イヴは眠るアダムの手を握った。


「聞こえたかな」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


 エデンの人々に。


 地下集落の誰かに。


 死の森に隠れている者に。


 生まれてこなければよかったと思っている誰かに。


 それとも、もういないサタンに。


 アダンが静かに答えた。


「聞こえた」


 イヴは顔を上げた。


「本当に?」


「ああ」


 アダンは空の向こうの飛行艇を見つめたまま言った。


「少なくとも、私は聞いた」


 イヴは少しだけ目を見開いた。


 それから、泣きそうに笑った。


「なら、よかった」


 桜夜が低く言う。


「感動しているところ悪いが、逃げるぞ」


「本当に悪いですね」


 イヴが言うと、桜夜は涼しい顔で答えた。


「悪いと思っている」


「嘘っぽい」


「よく言われる」


 秘書がすでに運搬台を動かしていた。


「アダム様を固定します。衝撃に備えてください」


「衝撃?」


 イヴが不安そうに聞く。


『避難用滑空機がちゃんと動けば、少し揺れる程度です』


 青年が答えた。


「ちゃんと動かなかったら?」


『落ちます』


「最悪」


『僕もそう思います』


 アダンが剣を抜いた。


「追手が来る前に出る」


 観測デッキの外周へ向かう扉が開いた。


 強い風が吹き込む。


 イヴはアダムの上に覆いかぶさるようにして、彼の身体を守った。


 外には、小さな格納台があった。


 そこに、翼を畳んだ古い滑空機が眠っている。


 白い塗装は剥がれ、翼の一部は欠けていた。だが、鳥のような形をしていた。


 アダムの木の鳥よりずっと大きい。


 飛べるかどうかは、誰にもわからない。


「ノアの鳥みたい」


 イヴが呟いた。


 眠っているアダムの胸元で、木の鳥が風に揺れた。


 秘書が滑空機の端末を開く。


『左翼の制御が死んでます。手動補正してください。右の推進補助はまだ生きてます。たぶん』


「たぶんが多い」


 アダンが言った。


『そういう時代の機械なんです』


 桜夜が滑空機の前に立ち、翼に手を触れた。


 黒い影が薄く広がり、欠けた翼を補うように絡みつく。


「これで少しは持つ」


「少し?」


「少しだ」


「十分です」


 秘書が言った。


「全員、搭乗してください」


 遠くから飛行艇の警告音が聞こえた。


『塔内の侵入者へ告ぐ。直ちに投降せよ。抵抗する場合、反逆者として処分する』


 イヴはアダムを見た。


 彼は眠っている。


 痛みと熱で苦しそうだったが、その手は木の鳥を抱いていた。


「投降しないよ」


 イヴは小さく言った。


「だって、帰るんだから」


「仮の家へか」


 アダンが尋ねる。


「はい」


「場所は」


「これから探します」


「無計画だな」


「アダムの影響です」


「なるほど」


 アダンは短く笑った。


 全員が滑空機に乗り込む。


 秘書がアダムの運搬台を固定し、イヴがその横に座る。アダンは後部で追手を警戒し、桜夜は翼の影を維持するために目を閉じた。


『発進準備、できました』


 青年の声が言った。


『ただ、ひとつ問題があります』


「今さら何」


 イヴが聞く。


『滑走路が短いです。つまり、普通には飛べません』


「じゃあどうするの」


『落ちながら飛びます』


 イヴは一瞬、言葉を失った。


「それ、飛ぶって言うの?」


『落ち続けなければ飛行です』


「哲学みたいに言わないで」


 アダンが操縦桿を握った。


「行くぞ」


「待って、心の準備が」


「できるまで待つ時間はない」


「親子でそういうところ似ないでください」


 イヴが叫ぶ間に、滑空機は動き出した。


 格納台の床を軋ませながら、ゆっくり前へ進む。


 飛行艇から光弾が放たれた。


 桜夜の影がそれを弾く。


 滑空機はさらに加速する。


 前方には、空だけがあった。


 地面は見えない。


 ただ、青。


 どこまでも遠い青。


 イヴはアダムの手を強く握った。


「アダム」


 彼は眠っている。


「起きたら怒るからね」


 風が叫ぶ。


 機体が跳ねる。


 格納台の端が迫る。


「ちゃんと寝て、ちゃんと起きて、ちゃんと一緒に帰るの」


 滑空機が空へ飛び出した。


 一瞬、重さが消えた。


 次の瞬間、機体は大きく沈んだ。


 イヴの悲鳴。


 金属の軋む音。


 アダンの怒号。


 青年の叫び。


 桜夜の影が翼を広げる。


 秘書の光糸が機体を縛り直す。


 落ちる。


 落ちている。


 けれど、完全には落ちていない。


 風を掴んでいる。


 翼が震え、機体が傾き、そして少しずつ水平を取り戻していく。


 イヴは目を開けた。


 空があった。


 下にも、横にも、上にも。


 今まで遠くから見上げていた空の中に、自分たちはいた。


 アダムの胸元で、木の鳥が小さく揺れている。


 まるで、本当に飛んでいるみたいだった。


「アダム」


 イヴは涙をこらえながら言った。


「ノア、飛んでるよ」


 眠るアダムは答えない。


 けれど、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。


 飛行艇の追撃音が背後から迫る。


 前方には、雲の切れ間が広がっている。


 その先に何があるのか、誰も知らない。


 安全な場所か。


 新しい戦いか。


 それとも、また別の苦しみか。


 わからない。


 わからないことばかりだった。


 それでも、イヴはアダムの手を握り続けた。


 この手を離さない。


 歩けないなら背負う。


 眠っているなら守る。


 泣いたら抱きしめる。


 問いに答えが出なくても、問いを殺さない。


 アダムが空へ放った言葉は、もうエデンへ届いた。


 それが誰かを変えるのかはわからない。


 でも、たぶん。


 ほんの少しだけ。


 どこかで誰かが、顔を上げた。


 そう思いたかった。


 滑空機は風に乗り、塔から離れていく。


 白い塔が遠ざかる。


 統一議会の飛行艇が追ってくる。


 青い空が、どこまでも続いている。


 その空の中を、飛べないはずの鳥が飛んでいた。


 木の鳥も。


 古い滑空機も。


 そして、生まれてきた理由をまだ知らない少年も。


 みんな、落ちながら飛んでいた。


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