第7話 空へ続く塔
塔の中は、思っていたよりも静かだった。
巨大な空洞が、暗闇の中に伸びている。見上げても天井は見えない。壁に沿って螺旋状の通路が上へ上へと続き、その中央には、古い昇降機の縦穴がぽっかりと開いていた。
風が吹いている。
地下にはない風だった。
湿った土の匂いでも、錆びた水の匂いでもない。冷たくて、乾いていて、どこか遠い匂いがした。
「……高い」
イヴが小さく呟いた。
桜夜は灯りを掲げ、塔の内壁を確認する。
「昇降機は死んでいるな」
秘書が端末を操作した。
「主電源は完全に落ちています。予備電源も反応なし。ただし、非常用の手動昇降装置なら動く可能性があります」
「手動?」
アダンが眉を寄せる。
「どれくらい重い」
「重いです」
「答えになっていない」
「大人二人分ほどの力が必要です」
イヴがアダムを見た。
アダムは運搬台の上で、少しだけ申し訳なさそうにした。
「ぼく、手伝えない」
「手伝わなくていい」
イヴは即答した。
「あなたは寝てる係」
「それ、役に立ってる?」
「立ってる。勝手に動かないだけで助かる」
「ぼく、そんなに動く?」
「さっき歩こうとした」
「……ごめん」
「謝るところじゃない」
「ありがとう?」
「そう」
イヴは満足そうに頷いた。
そのやり取りを聞いていたアダンが、ほんのわずかに笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
塔の奥から、低い機械音が聞こえたからだ。
さきほどまで追ってきていた防衛機構とは違う。もっと大きく、もっと深い音だった。塔そのものが目を覚まし始めているような響きだった。
『まずいですね』
通信の向こうの青年が言った。
『通信塔の防衛中枢が再起動しかけています。完全に起きる前に上層へ抜けたほうがいいです』
「起きたらどうなる」
桜夜が尋ねる。
『塔内の侵入者を全部まとめて排除します』
「わかりやすいな」
『言ってる場合ですか』
青年の声には焦りが混じっていた。
秘書は壁際の制御盤を開けた。中には古いレバーと歯車が並んでいる。彼女は一つずつ確認し、錆びた固定具を外した。
「手動昇降台を使います。アダム様を乗せたまま上層まで運べます」
「どこまで?」
「観測デッキの一つ下まで」
アダムは顔を上げた。
「空、見える?」
秘書は少しだけ沈黙した。
それから、穏やかに答えた。
「観測デッキまで上がれれば、見えるはずです」
「そっか」
アダムは鞄を抱えた。
中に入っている木の鳥が、布越しに指先へ触れた。
ノアの鳥。
サタンが残した、小さな鳥。
空を知らない鳥。
「もう少しだね」
アダムは鞄に向かって言った。
イヴがそれを見て、柔らかく目を細めた。
昇降台は、塔の内壁に沿って取り付けられた古い作業用の足場だった。床板はところどころ錆びていて、手すりも頼りない。だが、運搬台を固定するだけの広さはあった。
秘書と桜夜が機構を調整し、アダンが手動レバーの前に立つ。
「私もやります」
イヴが言った。
「休んでいろ」
アダンは短く言った。
「嫌です」
「お前はアダムを背負ったばかりだ」
「だから何ですか」
「疲れている」
「疲れてます」
「なら」
「疲れているけど、動けます」
イヴはアダンをまっすぐ見た。
「さっき、アダムはわたしに背負われました。でも、わたしも誰かに背負われたいわけじゃありません。わたしも、この子を空まで連れていきたいんです」
アダンは黙った。
イヴの言葉には、ただの意地ではないものがあった。
アダムはそれを聞いて、胸が少し痛くなった。
この子。
イヴはときどき、アダムをそう呼ぶ。
恋人のように名前を呼ぶときもある。家族のように叱るときもある。子どものように心配するときもある。
そのどれもが本当だった。
自分たちは、何なのだろう。
恋人。
家族。
同じ傷を抱えた子ども。
未来を望んでしまった罪人。
言葉にすると、どれも少し違う気がした。
けれど、イヴが手を伸ばしてくれるなら、それでよかった。
「わかった」
アダンは短く言った。
「無理だと思ったら交代しろ」
「はい」
「返事だけはいいな」
「返事もいいです」
イヴはレバーの反対側に立った。
桜夜が昇降台に乗り、秘書が制御盤の前につく。
「上げろ」
その声で、アダンとイヴが同時にレバーを押した。
ぎぎ、と歯車が鳴った。
昇降台が、ほんの少し揺れる。
それから、ゆっくり上がり始めた。
塔の底が遠ざかる。
暗闇が下へ沈んでいく。
アダムは運搬台に横たわったまま、手すりの向こうを見た。塔の壁には、古い文字が刻まれている。注意表示、配線図、誰かが残した落書き。
その中に、かすれた文字があった。
生きて帰れ。
誰が書いたのかはわからない。
いつ書かれたのかもわからない。
けれど、その文字だけが妙にはっきりと目に入った。
「生きて帰れ、だって」
アダムが言うと、イヴがレバーを押しながら顔を上げた。
「じゃあ、帰らないとね」
「どこに?」
イヴは少し考えた。
「仮の家」
アダムは瞬きをした。
地下集落の端にあった、小さな部屋。
薄い壁。
傾いた床。
雨の日のお茶。
同じ毛布。
「まだ、あるかな」
「なくても作る」
「また仮の家?」
「うん」
イヴは息を切らしながら笑った。
「ずっとじゃなくても、今ここで寝て、食べて、朝起きるなら、それは仮の家でしょ」
「便利な言葉だね」
「あなたがそう言ったのよ」
「覚えてる」
「じゃあ、また使う」
アダムは小さく頷いた。
帰る場所は、最初からあるものではないのかもしれない。
誰かがいて、そこに戻りたいと思ったとき、場所は家になる。
たとえ仮でも。
たとえ明日なくなっても。
そのとき、上方で赤い灯りが点いた。
警報だった。
塔の内壁に埋め込まれた防衛装置が、次々と目を覚ましていく。小さな砲口がこちらを向いた。
『来ます!』
青年の声が通信に響いた。
桜夜が前に出る。
秘書の光糸が空中に走る。
アダンはレバーから手を離そうとした。
「離すな!」
桜夜が叫んだ。
「上げ続けろ!」
次の瞬間、光の弾が放たれた。
桜夜が黒い影を広げる。光弾は影に飲まれ、鈍い音を立てて消えた。だが、防衛装置は一つではない。右から、左から、上から、次々と砲口が開いていく。
秘書の光糸がそれらを縛り、砕き、逸らした。
それでも間に合わない弾があった。
アダムの乗る運搬台へ向かって、白い光が一直線に飛んできた。
「アダム!」
イヴが叫ぶ。
身体が勝手に動いたのだろう。
彼女はレバーから手を離しかけた。
だが、その前にアダムの目の前へ誰かが立った。
アダンだった。
剣が光を受け止める。
火花が散った。
衝撃でアダンの身体が後ろへ押される。だが、彼は倒れなかった。
「父さん!」
アダムは叫んだ。
自分で呼んでから、息が止まった。
父さん。
口から出たその言葉を、アダム自身が一番驚いていた。
アダンも、驚いたように振り返った。
ほんの一瞬だった。
戦いの最中で、振り返る余裕などないはずだった。
それでも彼は、確かにアダムを見た。
その目が、揺れていた。
「……大丈夫だ」
アダンは低く言った。
「お前は、空を見ろ」
再び光弾が来る。
アダンは剣を構え直した。
イヴは唇を噛み、もう一度レバーを押した。
昇降台は上がり続ける。
アダムは胸を押さえた。
父さん。
その言葉は、アダムの中に深く落ちていた。
サタンを裏切った気がした。
そう思った直後、違う、と何かが囁いた。
サタンは、きっと怒らない。
困ったように笑って、よかったなと言う。
たぶん。
絶対ではない。
でも、そう思いたかった。
塔の上方に、薄い青が見えた。
最初は錯覚かと思った。
暗闇に慣れた目が作り出した幻のようだった。
だが、昇降台が上がるにつれ、その青は少しずつ広がっていった。
黒ではない。
灰色でもない。
青。
本物の空の色だった。
「イヴ」
アダムは声を震わせた。
「見えてる」
イヴはレバーを押しながら顔を上げた。
その瞬間、彼女の目が大きく開かれた。
「……空」
彼女の声は、今にも消えそうだった。
アダムは鞄を開けた。
震える手で、木の鳥を取り出す。
小さな鳥。
翼を広げた鳥。
飛べない鳥。
けれど、空を見るためにここまで来た鳥。
「ノア」
アダムは鳥を胸の上に置いた。
「空だよ」
風が吹いた。
さっきよりも強い風だった。
塔の上から流れ込む風が、アダムの髪を揺らし、イヴの頬を撫で、アダンの外套をはためかせた。
防衛装置の音が遠のいていく。
いや、遠のいたのではない。
桜夜が、最後の砲口を影で握り潰していた。
「上がりきるぞ」
昇降台が大きく揺れた。
そして、止まった。
目の前に、観測デッキへ続く扉があった。
その隙間から、光が漏れている。
イヴがふらつきながらレバーから手を離した。
アダンが彼女を支える。
「無事か」
「たぶん」
「たぶんはやめろ」
「アダムの真似です」
イヴは疲れた顔で笑った。
アダンは何か言いかけて、やめた。
桜夜が扉に手をかける。
秘書が安全確認を終える。
アダムは木の鳥を握りしめた。
心臓が早く鳴っていた。
痛い。
怖い。
熱い。
でも、見たい。
生きていてよかったかは、まだわからない。
けれど、この瞬間を見ずに終わりたくはなかった。
「開けるぞ」
桜夜が言った。
扉が開いた。
光が、あふれた。
アダムは目を細めた。
その向こうに、空があった。
どこまでも広く、どこまでも遠く、誰のものでもない空があった。
地下の天井ではない。
人工の灯りでもない。
本物の空。
アダムは息を吸った。
胸が痛んだ。
それでも、その痛みごと、息を吸った。
「サタン」
アダムは木の鳥を空へ向けた。
「見える?」
返事はない。
けれど、風が吹いた。
木の鳥の翼が、小さく震えた。
まるで一度だけ、本当に羽ばたいたように。
アダムの目から涙がこぼれた。
悲しいのか、嬉しいのか、わからなかった。
たぶん、どちらもだった。
イヴが隣に座った。
アダンも、少し離れて空を見上げていた。
桜夜は何も言わず、秘書は静かに立っていた。
誰も、すぐには動かなかった。
ただ、空を見ていた。
その空の下で、アダムは思った。
生まれてきた理由は、まだわからない。
でも、今ここにいることを、なかったことにはしたくない。
そして、もし誰かがいつか生まれてくるなら。
その子がこの空を見て、痛みを知り、怖さを知り、それでも誰かの手を握れるなら。
そのとき自分は、その子に何と言うのだろう。
生まれてきてよかったね、とはまだ言えない。
でも。
アダムはイヴの手を握った。
「イヴ」
「なに」
「もし、ぼくたちに子どもができたら」
イヴは少し息を止めた。
アダムは空を見たまま続けた。
「その子が辛くて歩けなくなったら、ぼくたちで背負おう」
イヴは黙っていた。
やがて、彼女はアダムの手を握り返した。
「うん」
その声は震えていた。
「ひとりにしないでいよう」
「うん」
空の下で、二人はしばらく手を握っていた。
答えはまだなかった。
けれど、問いから逃げないための小さな約束だけが、そこに生まれた。




