第6話 神様じゃなくても、背負える
担架は、暗い保守通路をゆっくり進んでいた。
先頭を歩く桜夜の手には、小さな灯りがあった。白くも青くもない、不思議な色の光だった。壁に触れるたび、ひび割れた石と錆びた鉄骨が浮かび上がる。秘書は担架の後ろを支え、アダンは前を持っていた。二人の歩調は乱れなかったが、アダムにはその腕に力が入っていることがわかった。
自分はまた、誰かに運ばれている。
アダムは担架の上で、そう思った。
肩の傷は浅いと言われたが、痛みは深く身体に残っていた。熱い針を差し込まれたように、呼吸のたびに左肩が疼く。包帯の下ではまだ血がにじんでいるらしい。イヴは何度も傷の様子を見て、何度も「大丈夫じゃない顔をしてる」と怒った。
大丈夫ではない。
でも、死にたいわけではない。
それが少し、不思議だった。
痛い。
怖い。
苦しい。
けれど、それらがすぐに「もう死んでもいい」にはつながらなかった。
昨日までなら、きっと違った。
サタンを失った直後の自分なら、痛みはそのまま死への誘いになっていた。苦しみが増えるたび、生まれてこなければよかったという言葉が胸を支配した。
だが今は違う。
痛いと口にできる。
怖いと誰かに言える。
そして、イヴに生きていてほしいと思った自分がいる。
その事実は、アダムの中で小さな火のように揺れていた。
サタン。
ぼく、少し変なのかな。
心の中で呼びかける。
返事はない。
しかし、記憶の中のサタンはいつも通り、困ったように笑っていた。
変でいい。
地球人も、だいたい変だ。
そんな声が聞こえた気がした。
「アダム」
イヴが横から覗き込んだ。
「起きてる?」
「うん」
「痛い?」
「痛い」
「怖い?」
「怖い」
「死にたい?」
アダムは少し考えた。
そして、首を振った。
「今は、思ってない」
イヴはほっとしたように息を吐いた。
「なら、よし」
「よしなの?」
「よし。痛くて怖いけど死にたくないなら、今はかなりよし」
「かなり」
「うん、かなり」
アダムは少し笑った。
笑うと肩に響いた。
「痛い」
「ほら、笑うから」
「イヴが変なこと言うから」
「変じゃないわ。大事な確認よ」
イヴはそう言って、アダムの額に手を当てた。
その手は冷たかった。
いや、アダムの額が熱いのかもしれない。
イヴの眉が少し寄った。
「熱、上がってるかも」
アダンがすぐに振り返った。
「止まるか」
秘書も足を止めかける。
だが、桜夜は前方を見たままだった。
「長くは止まれない。後続の機械が来る」
その言葉に、通路の奥から低い振動音が応えるように響いた。
遠い。
だが、近づいている。
古い防衛機構が再起動しているのだろう。
イヴは唇を噛んだ。
「でも、このままじゃアダムが」
「わかっている」
桜夜は短く答えた。
「次の分岐まで進む。そこに旧休憩区画があるはずだ。そこで処置する」
『その区画、生きてるか怪しいですけどね』
通信端末から青年の声がした。
声は雑音にまみれていた。
『ただ、そこを逃すと次に休める場所は通信塔の下層までありません。アダム君の状態なら、休憩区画に賭けたほうがいいです』
「だそうだ」
桜夜が言った。
イヴは悔しそうに頷いた。
「わかった」
担架は再び動き出した。
アダムは天井を見上げた。
天井には古い配管が走っている。水滴が溜まり、時折、落ちる。ぽたり、ぽたり、と音がした。
雨みたいだ。
そう思った瞬間、胸の奥にあの日の記憶が戻りかけた。
サタンが処刑された後、道に倒れ、雨に濡れていた記憶。
生まれてこなければよかったと願った記憶。
アダムは目を閉じた。
すると、別の雨の記憶が浮かんだ。
もっと静かな雨。
怖くない雨。
イヴと過ごした、穏やかな日の雨だった。
◇◇◇
あの頃、アダムには行くあてがなかった。
サタンを失い、町に居場所はなく、森の小屋へ戻る勇気もなかった。どこへ行っても、サタンの不在が追いかけてくる気がした。
そんなアダムを、イヴは自分の住処に置いた。
最初は一時的なことだと思っていた。
傷が治るまで。
歩けるようになるまで。
死にたいと言わなくなるまで。
けれど、日々は少しずつ積み重なった。
気づけば、二人は共同生活をしていた。
小さな家だった。
地下集落の端にある、古い保守員室を改造した部屋。壁は薄く、床は少し傾き、雨の日にはどこかから水が染み出した。それでも、イヴはそこを「家」と呼んだ。
家。
その響きは、アダムには痛かった。
森の小屋も家だった。
サタンがいた場所。
暖炉があり、古い本があり、サタンのローブの匂いがした場所。
だから最初、アダムはイヴの住処を家とは呼べなかった。
だが、イヴは気にしなかった。
「じゃあ、ここは仮の家」
彼女はそう言った。
「仮?」
「うん。ずっとじゃなくても、今ここで寝て、食べて、朝起きるなら、それは仮の家」
「仮の家」
「そう。便利でしょ」
アダムは少し考えて、頷いた。
便利な言葉だと思った。
ずっと、と言われると怖い。
でも、仮なら少しだけ息ができた。
生活の役割は自然に決まっていった。
薪割りや水汲みなどの力仕事はアダムがした。サタンから、独りになっても生きられるようにと教え込まれていたからだ。斧の持ち方、水の濾し方、火を起こす方法、傷を洗う水と飲み水を分けること。サタンの教えは、彼の身体に残っていた。
イヴは家事がうまかった。
古い布を縫い直し、わずかな食材で粥を作り、薬草を干し、壊れた棚を紐で補強した。アダムが薪を割りすぎると、「置く場所がない」と怒った。水を汲みすぎると、「重いものを持てば偉いわけじゃない」と怒った。
イヴはよく怒った。
でも、その怒りは不思議と怖くなかった。
彼女はアダムを消そうとして怒るのではない。
生きていてほしいから怒る。
そのことが少しずつわかってくると、アダムは怒られるたび、胸のどこかが温かくなった。
夜になると、二人で同じベッドに入った。
地下は冷える。
毛布は少なく、灯りを長くつけておく余裕もない。
だから身体を寄せ合って眠るのは、自然なことだった。
最初の夜、アダムは緊張して端に寄っていた。
イヴは呆れたように言った。
「そんな端にいたら落ちるわよ」
「でも」
「でも?」
「イヴに近いと、あったかい」
「いいことでしょ」
「いいことなのかな」
「寒いよりはいい」
そう言って、イヴはアダムの袖を引いた。
アダムは少しだけ彼女のほうへ近づいた。
人の温もりが怖かった。
サタンを思い出すから。
でも、人の温もりが欲しかった。
サタンを思い出すから。
その矛盾を抱えたまま、アダムはイヴの隣で眠った。
寝物語はいつも、地球の話だった。
それはサタンから聞いた話だった。
アダムは忘れないように、ひとつずつイヴに話した。
「地球では、世界は神様が創ったものだと信じられているんだ」
「神様?」
「うん。とても大きな存在。世界も、海も、空も、動物も、人間も創ったんだって」
「人間って、地球人のこと?」
「うん。ぼくたちヒューマノイドとよく似た生き物なんだって」
「ふうん。それで?」
「最初の人間の名前は、アダム」
イヴは目を丸くした。
「あなたと同じ名前ね」
「うん。サタンは、名前が一緒なのにはきっと意味があるって言ってた」
「意味?」
「ぼくにはまだわからない」
「あなた、わからないこと多いね」
「イヴだって多いでしょ」
「多いけど、わたしは顔に出さないの」
「出てるよ」
「出てない」
「今、出てる」
イヴはむっとして、毛布を少し引っ張った。
「続きは?」
「神様は、アダムが独りでいるのはよくないから、女の人を創ったんだって」
「独りでいるのはよくない」
イヴはその言葉を小さく繰り返した。
「うん」
「神様って、いいこと言うのね」
「サタンもそう言ってた」
「その女の人の名前は?」
アダムは少しだけ笑った。
「イヴ」
イヴは固まった。
「……わたし?」
「地球で最初の女性の名前は、イヴ」
「本当なの?」
「本当だよ。サタンが言ってた」
「サタンが言ってたなら、本当ね」
「うん」
イヴはしばらく黙っていた。
それから、毛布の中で背中を向けた。
「イヴ?」
「なんでもない」
「でも、耳が赤い」
「赤くない」
「赤いよ」
「今日はもう寝る」
「まだ話の途中」
「寝るの」
「うん。おやすみ、イヴ」
背中を向けたまま、イヴは小さく言った。
「おやすみ、アダム」
その声がいつもより柔らかかったことを、アダムは覚えている。
雨の日には、二人でお茶を飲んだ。
地下に降る雨は、地上の雨とは違う。天井から染み出した水が金属板を叩き、配管を伝い、ぽたりぽたりと落ちる。空は見えない。それでも、集落の人々はそれを雨と呼んだ。
雨の日、イヴは外の作業を減らし、小さな火鉢で湯を沸かした。
茶葉は貴重だったから、薄いお茶だった。
それでも温かかった。
「ねえ、アダム」
「なに」
「地球の人間は、神様に創られたんでしょう」
「そういう話があるって、サタンは言ってた」
「じゃあ、人間は生まれてこなければよかったなんて考えないの?」
アダムは少し黙った。
その問いは、自分の胸にも刺さった。
「ううん。人間も、ぼくたちと同じように、生まれてこなければよかったって考えることがあるみたい」
「神様に創られたのに?」
「うん」
「じゃあ、神様は怒らないの?」
「わからない。でも、サタンはこんな詩を教えてくれた」
アダムは、サタンが優しい声で聞かせてくれた詩を思い出した。
ある夜、男は砂浜を神様と共に歩く夢を見た。
砂浜には男と神様の二つの足跡があった。
けれど、男が本当に辛いときには、足跡は一つしかなかった。
だから男は神様に尋ねた。
「どうして、私の一番辛いときに、あなたを一番必要としたときに、あなたは私を見捨てたのですか?」
神様は優しく微笑んで答えた。
「私はあなたを見捨てたりしない。足跡が一つしかないのは、私があなたを背負って歩いていたからだよ」
詩を話し終えると、アダムは少しだけ目が潤むのを感じた。
サタンの声を思い出したからだ。
あの声はもう聞けない。
あの腕に抱きしめてもらうこともできない。
寝る前に額へ落とされた優しいキスも、もう戻らない。
この世界では、生まれてこないことが最善とされている。
だが、もしサタンが生まれていなかったら。
自分がサタンからもらった言葉も、温もりも、地球の物語も、すべてなかったことになる。
それは、とても悲しいことではないか。
そう思ったとき、イヴが口を開いた。
「すてきな詩ね」
アダムは顔を上げた。
イヴは湯気の向こうで、少し真面目な顔をしていた。
「ねえ、アダム」
「なに」
「もしわたしが辛くて歩けなくなったら、あなたがわたしを背負って歩いてくれる?」
アダムは考えた。
イヴを背負う自分を想像した。
今より少し大きくなった自分。
疲れて歩けなくなったイヴ。
長い道。
その道を、自分が彼女を背負って歩く。
それは大変そうだった。
でも、嫌ではなかった。
アダムはしっかり頷いた。
「背負うよ」
「本当に?」
「うん」
「重いかもしれないよ」
「薪よりは軽いと思う」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
イヴは少し笑った。
そして、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。アダム」
その笑顔を、アダムは一生忘れなかった。
◇◇◇
現在の通路で、担架が大きく揺れた。
アダムは目を開けた。
夢と記憶が遠ざかる。
前方で桜夜が立ち止まっていた。
「どうしたの」
アダムが尋ねる。
イヴが灯りを掲げる。
その先で、通路が崩れていた。
天井の一部が落ち、瓦礫が道を塞いでいる。人一人なら、どうにか隙間をくぐれるかもしれない。だが、担架は通れない。
秘書が周囲を確認した。
「迂回路は?」
『地図上ではありません』
青年の声が答えた。
『崩落前は一本道です。別ルートを探すなら、かなり戻る必要があります。でも後方から防衛機構が接近中です』
遠くで、金属の足音が響いた。
アダンは剣を握り直した。
「戻る時間はない」
桜夜は崩落した瓦礫を見た。
「私が壊す」
秘書が首を振る。
「崩落が広がる可能性があります。この構造では危険です」
「なら、どうする」
イヴは瓦礫の隙間を見つめていた。
そして、低く言った。
「担架は置いていくしかない」
アダムは身体を起こそうとした。
肩に痛みが走る。
「歩く」
「無理」
イヴが即座に言った。
「でも」
「無理なものは無理」
「じゃあ、どうするの」
イヴは少し黙った。
そして、アダムを見た。
アメジストの瞳が、灯りを受けて揺れている。
「背負う」
アダムは息を止めた。
「え?」
「わたしが、あなたを背負う」
「だめだよ」
「どうして」
「イヴが潰れちゃう」
「失礼ね」
「だって、イヴは」
「わたし、けっこう強いって言ったでしょ」
「でも、傷も」
「あなたよりはまし」
イヴは担架の横に膝をついた。
「早く」
アダムは首を振った。
「だめ」
「アダム」
「だって、昔、約束したのは」
言いかけて、声が詰まった。
イヴも思い出したのだろう。
雨の日。
薄いお茶。
サタンから聞いた詩。
もしわたしが辛くて歩けなくなったら、あなたがわたしを背負って歩いてくれる?
あのとき、アダムは頷いた。
背負うよ、と言った。
守る側でいたかった。
少なくとも、イヴに対しては。
けれど今、歩けないのは自分だった。
背負われるのは、自分だった。
「ぼくが背負うって言ったのに」
アダムは悔しそうに言った。
イヴは少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。
「じゃあ、今日はわたしの番」
「番?」
「うん。あなたが歩ける日は、あなたが背負って。わたしが歩ける日は、わたしが背負う。それでいいでしょ」
「でも」
「神様の足跡の話だって、そうじゃないの」
イヴは言った。
「辛いときに背負ってくれる誰かがいるって話でしょう。だったら、あなたが今辛いなら、わたしが背負う」
「イヴは、神様じゃない」
「当たり前よ」
「じゃあ」
「神様じゃなくても、背負えるわ」
その言葉に、アダムは何も言えなくなった。
神様でなくても。
サタンでなくても。
誰かを背負うことはできる。
誰かに背負われることもできる。
アダムは胸が熱くなるのを感じた。
桜夜が静かに言った。
「時間がない」
アダンが迷うようにイヴを見た。
「私が背負う」
イヴは首を振った。
「あなたは前で戦ってください。桜夜さんも秘書さんも手を空けておいたほうがいい。わたしが一番いい」
「危険だ」
「知ってます」
「重いぞ」
「失礼ですね、親子で」
アダムは小さく言った。
「ぼく、重い?」
「少し」
イヴは正直に答えた。
「でも、背負える」
アダムは彼女の背を見た。
細い背中だった。
自分とあまり変わらない年齢の少女の背中。
けれど、その背中はまっすぐだった。
アダムはゆっくり頷いた。
「お願い」
イヴは短く答えた。
「うん」
秘書とアダンがアダムを慎重に起こした。
肩に痛みが走り、息が詰まる。
イヴが背を向ける。
アダムは彼女の肩に腕を回した。
イヴは彼の膝裏に手を入れ、力を込めた。
「立つよ」
「うん」
イヴは立ち上がった。
少しよろめいた。
アダムは慌てた。
「やっぱり」
「黙ってて」
「でも」
「今喋ると落とす」
アダムは口を閉じた。
イヴは一歩を踏み出した。
小さな一歩。
だが、確かな一歩だった。
瓦礫の隙間へ向かう。
背中越しに、イヴの呼吸が聞こえる。
少し荒い。
でも、止まらない。
アダムは彼女の背に頬を寄せた。
温かかった。
そして、懐かしかった。
サタンに背負われたことがある。
熱を出した夜、森の小屋へ戻る道で、サタンが自分を背負ってくれた。大きな背中だった。黒いローブの匂いがして、アダムはその背中で眠った。
今のイヴの背は、サタンほど大きくない。
頼りない。
少し震えている。
でも、アダムを置いていかなかった。
その背中で、アダムは泣きそうになった。
「イヴ」
「なに」
「重くない?」
「重い」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
「ありがとう?」
「そう」
イヴは息を切らしながら言った。
「ありがとうでいい」
「ありがとう、イヴ」
「どういたしまして」
瓦礫の隙間は狭かった。
桜夜が先に入り、安全を確かめる。秘書が崩れかけた梁を光糸で固定し、アダンが背後を警戒する。遠くの金属音は、もうかなり近づいていた。
イヴは身を低くした。
アダムは彼女の首にしがみつきすぎないよう、必死に力を調整した。
「痛くない?」
イヴが聞いた。
「痛い」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
アダムは小さく返した。
「ありがとうでいい」
イヴは一瞬だけ笑った。
「ありがとう、アダム」
「どういたしまして」
崩れた壁の隙間を、二人は進んだ。
石が肩に当たる。
アダムは痛みに息を詰めた。
イヴの足が滑る。
アダムは思わず声を上げかけたが、イヴは踏みとどまった。
「大丈夫」
彼女は言った。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
アダムは目を見開いた。
それは、前に自分が言った言葉だった。
痛くて、怖くて、それでも死にたくはないときに出てきた言葉。
イヴはそれを覚えていた。
「変な言葉」
アダムは言った。
「あなたが言ったのよ」
「うん」
「でも、けっこう使える」
「そうだね」
出口まであと少し。
そのとき、背後で銃声が響いた。
アダンの怒号。
秘書の光糸がきしむ音。
桜夜の低い声。
防衛機構が追いついたのだ。
「急げ!」
アダンが叫ぶ。
イヴは歯を食いしばり、最後の瓦礫を越えた。
通路の向こう側へ出る。
桜夜がすぐにアダムを支え、イヴの背から下ろした。
イヴは膝をついた。
肩で息をしている。
アダムはその場に座り込んだまま、彼女に手を伸ばした。
「イヴ」
「平気」
「平気じゃない顔してる」
「わかっている顔をして」
「してる」
「してない」
二人は少しだけ笑った。
その直後、瓦礫の隙間の向こうで大きな爆発音がした。
崩落が広がる。
アダンと秘書がこちらへ飛び込むように転がり込んだ。桜夜が最後に通路を抜け、手を振る。崩れかけた天井が黒い影に押し返されるように一瞬止まり、その間に彼もこちらへ抜けた。
直後、瓦礫が完全に崩れ、通路を塞いだ。
追ってきていた防衛機構の金属音は、向こう側で遠く響いたあと、聞こえなくなった。
静寂。
誰もすぐには動かなかった。
アダンが息を整えながらアダムを見た。
「無事か」
「うん」
「イヴは」
「生きてます」
イヴが床に座り込んだまま答えた。
「でも、二度と重くないなんて言いません」
「言ったことあった?」
アダムが聞く。
「ないけど、今後も言わない」
アダムは笑った。
肩が痛んだ。
それでも笑った。
桜夜は崩れた通路を見つめていた。
「戻れなくなったな」
秘書が答える。
「前進するしかありません」
「わかりやすくなった」
「前向きな言い方ですね」
「後ろがないだけだ」
青年の通信がざらつきながら入った。
『皆さん、生きてます?』
「たぶん」
アダムが答えた。
『たぶんは怖いんですよ』
「イヴが、絶対は嘘になるって」
『イヴさん、哲学が強いなあ』
イヴは息を整えながら言った。
「哲学じゃなくて生活です」
桜夜が小さく頷いた。
「生活から出る言葉は強い」
アダムはイヴを見た。
イヴは疲れ切っていた。
額には汗が浮かび、手は震えている。それでも、彼女はアダムを見ると少しだけ笑った。
「約束、半分果たしたね」
「約束?」
「辛くて歩けなくなったら、背負うって話」
「あれは、ぼくがイヴを背負う約束だった」
「今日は逆」
「じゃあ、半分?」
「うん。残り半分は、いつかあなたがわたしを背負う番」
アダムは少し黙った。
そして頷いた。
「うん。いつか、ぼくが背負う」
「重いかもよ」
「薪よりは軽いと思う」
「それ、前にも言った」
「覚えてる」
「じゃあ、ちゃんと覚えておいて」
「うん」
アダムはイヴの手を握った。
「一生、忘れない」
イヴの頬が赤くなった。
彼女は慌てて顔をそらした。
「そういうこと、さらっと言わないで」
「どうして」
「なんでもない」
アダムは不思議そうに首を傾げた。
アダンはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
その表情には、悲しみと安堵が混じっていた。
サタンが見ていたら、何と言っただろう。
アダンはふと思った。
きっと、困ったように笑っただろう。
そして、自分には少し意地の悪いことを言ったかもしれない。
お前の息子は、ちゃんと誰かを大切にしているぞ。
その声を想像し、アダンは胸の奥が痛むのを感じた。
痛みは消えない。
罪も消えない。
だが、アダムが誰かに手を伸ばしている。
誰かに背負われ、誰かを背負う約束をしている。
それだけで、サタンが守ったものはまだ途切れていないのだと思えた。
◇◇◇
休憩区画は、崩落地点からさらに少し進んだ先にあった。
古い扉には錆が浮き、半分開いたまま固まっていた。中は狭かったが、外の通路よりは安全そうだった。壁には折りたたみ式のベッドがあり、壊れた給水装置と、埃をかぶった収納棚が残っていた。
秘書が中を確認し、安全を告げる。
「短時間の休息は可能です」
「短時間ってどれくらい?」
イヴが尋ねる。
「10分」
「短すぎる」
「15分」
「少しだけまし」
秘書は無表情のまま言った。
「譲歩です」
イヴはため息をついた。
アダムは壁際のベッドに寝かされた。
イヴが肩の包帯を確認する。出血は増えていなかったが、熱は少し上がっているらしい。彼女は薬草を潰し、水で溶いて、包帯の上から冷たい布を当てた。
「痛む?」
「痛む」
「我慢しなくていいからね」
「うん」
「痛いときは?」
「痛いって言う」
「怖いときは?」
「怖いって言う」
「死にたくなったら?」
「ひとりで決めない」
「よし」
イヴは頷いた。
「それで、今は?」
アダムは少し考えた。
「眠い」
「じゃあ寝て」
「でも、15分だけでしょ」
「15分でも寝るの」
「イヴは?」
「わたしも少し休む」
「ここにいる?」
「いる」
アダムは安心したように息を吐いた。
目を閉じる。
すると、また雨の日の記憶が浮かんだ。
薄いお茶。
地球の神様。
砂浜の足跡。
背負って歩く約束。
サタンが教えてくれた詩は、サタンがいなくなったあとも残っていた。
サタンの声は戻らない。
でも、彼がくれた物語は、イヴへ渡った。
そして今、イヴの背中になってアダムを運んだ。
物語は、そんなふうに生きるのかもしれない。
人から人へ渡り、姿を変え、痛みの中で誰かを支える。
アダムは目を閉じたまま、そっと言った。
「サタン」
誰も返事をしなかった。
けれど、イヴが隣で聞いていた。
「呼んだだけ?」
「うん」
「そっか」
しばらく沈黙があった。
それからイヴが小さく言った。
「きっと、見捨ててないよ」
アダムは目を開けた。
イヴは床に座り、壁にもたれていた。
「足跡が一つしかないときは、背負ってくれてるんでしょう」
「それは神様の話」
「サタンでもいいじゃない」
「サタンが?」
「うん。あなたが歩けないとき、目に見えなくても、どこかで背負ってくれてるのかもしれない」
アダムの胸が震えた。
「でも、さっき背負ってくれたのはイヴだよ」
「じゃあ、サタンがわたしを使ったのかも」
「イヴは、サタンに使われたの?」
「ちょっと嫌な言い方ね」
「桜夜みたい」
「たしかに」
二人は小さく笑った。
アダムの目に涙がにじんだ。
「サタン、いるのかな」
「わからない」
「わからないことばっかり」
「でも、そう思うことにしてもいいんじゃない」
イヴは静かに言った。
「本当かどうかはわからなくても、少し歩けるなら」
アダムは天井を見た。
錆びた金属の天井。
砂浜ではない。
足跡もない。
それでも、自分は誰かに背負われてここまで来た。
イヴに。
アダンに。
秘書に。
桜夜に。
通信の向こうの青年に。
そして、もしかすると、サタンの残した言葉に。
「イヴ」
「なに」
「ぼくも、いつか誰かを背負えるかな」
「もう少し大きくなったら」
「今は?」
「今は寝なさい」
「うん」
「でも」
イヴは少しだけ微笑んだ。
「さっき、わたしを守ろうとしたでしょ。あれも、少しだけ背負ったことになるんじゃない」
「そうかな」
「たぶん」
「たぶん」
アダムは目を閉じた。
たぶん。
絶対ではない。
でも、嘘でもない。
今のアダムには、そのくらいの言葉がちょうどよかった。
◇◇◇
15分後、彼らは再び歩き出した。
アダムはまだ自力では歩けなかったため、簡易担架の代わりに、休憩区画に残っていた古い運搬台を使うことになった。車輪は一つ壊れていたが、秘書が即席で修理し、イヴが布で揺れを抑えた。
通路は少しずつ上り坂になっていた。
通信塔の基部へ近づいているのだ。
空気が変わった。
地下の湿った匂いに、金属と乾いた埃の匂いが混じる。壁には旧時代の案内表示が増え始めた。
広域通信中枢。
非常用昇降路。
外部観測デッキ。
外部観測デッキ。
その文字を見たとき、アダムは鞄の中の木の鳥を思い出した。
ノアの鳥。
空を見たことのない鳥。
「イヴ」
「なに」
「観測デッキって、空が見えるの?」
「たぶん」
「行けるかな」
「通信塔の中に入れたら、もしかしたら」
「ノアの鳥に見せたい」
イヴは少し笑った。
「うん。見せよう」
「イヴも?」
「もちろん。わたしも見たい」
「空」
「うん。空」
アダムは目を閉じず、前方を見た。
まだ暗い。
まだ痛い。
まだ怖い。
だが、暗闇の先に空があるかもしれない。
そのことが、身体の奥に小さな力をくれた。
生きる理由は、相変わらず小さかった。
ノアの鳥に空を見せること。
イヴにあとで怒られること。
いつか、イヴを背負うこと。
サタンの話を忘れないこと。
それらは世界を救う理由としては小さすぎる。
けれど、ひとりの少年が次の呼吸をする理由としては、十分だった。
やがて、通路の先に巨大な扉が見えた。
通信塔旧管理層入口。
その文字が、錆びた扉に刻まれていた。
桜夜が立ち止まる。
秘書が端末を取り出す。
青年の声が通信から響いた。
『着きましたね。ここから先が本番です』
アダンが剣を握る。
イヴがアダムの手を握る。
桜夜は扉を見上げ、静かに言った。
「開けるぞ」
重い扉が、長い眠りから覚めるように軋み始めた。
その向こうから、冷たい風が流れ込む。
地下の風ではなかった。
高い場所の風。
空に近い風。
アダムはその風を頬に受けた。
鞄の中の木の鳥が、小さく揺れた気がした。
サタン。
もう少しで、空が見えるかもしれない。
アダムは胸の中で呟いた。
そして、扉の向こうの暗がりを見つめた。
彼はまだ歩けない。
けれど、ひとりではなかった。
歩けないときには、誰かが背負ってくれる。
その誰かもまた、いつか歩けなくなるかもしれない。
そのときは、自分が背負えばいい。
神様でなくても。
サタンでなくても。
弱い人間でも、傷ついた子どもでも。
誰かを少しだけ運ぶことはできる。
そのことを知った少年は、通信塔の扉が開く音を聞きながら、初めて少しだけ思った。
生まれてきたことは、まだわからない。
でも、出会えたことは、なかったことにしたくない。
扉が開いた。
彼らは、空へ続く塔の中へ入っていった。




