第5話 まだ生まれていない未来のために
アダムは、誰かの話し声で目を覚ました。
最初は夢だと思った。
森の小屋で、サタンが朝の支度をしている音。鍋の蓋が鳴り、薪がはぜ、サタンが少し低い声で何かを呟く。そんな朝を、アダムは何度も知っていた。
けれど、目を開けると、そこにあったのは森の小屋の天井ではなかった。
低い木の天井。
壁に吊るされた薬草。
古い布で覆われた窓。
地下集落の小さな部屋。
サタンはいない。
その事実は、目覚めるたびに新しく胸を刺した。
アダムはしばらく天井を見つめていた。
昨日の夜、彼は今日一日だけ生きると決めた。
それは大きな決意ではなかった。世界を変えるためでもない。サタンの死に意味を与えるためでもない。自分が生まれてきたことを肯定するためでもない。
ただ、今日だけ。
今日だけは死を選ばない。
それだけだった。
けれど朝が来ると、今日というものはまた目の前に広がっていた。
昨日の今日ではない。
新しい今日。
もう一度、選ばなければならない今日。
アダムは布団の中で小さく丸まった。
胸の奥に、また冷たいものが広がりそうになる。
そのとき、部屋の外からイヴの声が聞こえた。
「だから、あの子はまだ動かせません」
少し怒っている声だった。
続いて、アダンの低い声がした。
「わかっている。だが、ここも安全ではない」
「安全じゃないのは知っています。でも、無理に動かして倒れたら、もっと危ないでしょう」
「それもわかっている」
「なら、わかっている顔をしてください」
しばらく沈黙があった。
アダムは思わず少し笑った。
イヴは、アダンにも遠慮がない。
昨日まで騎士団長だった男に対しても、まるで近所の頼りない大人に説教するように話す。
その強さが、少し羨ましかった。
扉が開いた。
イヴが入ってきた。
片手に湯気の立つ器、もう片方の手に新しい包帯を持っている。クリーム色の髪は昨日より少し乱れていて、眠そうな目をしていた。それでもアダムが起きていることに気づくと、彼女はすぐに表情を明るくした。
「おはよう」
「……おはよう」
アダムは小さく返した。
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
おはよう。
サタンに毎朝言っていた言葉。
もう二度と言えないと思っていた言葉。
でも、いま自分はイヴに言った。
それだけで、胸が痛んだ。
イヴはその痛みに気づいたのか、何も言わず寝台のそばに座った。
「気分は?」
「わからない」
「痛いところは?」
「いっぱい」
「それはわかりやすいね」
イヴは器を差し出した。
「薬草粥。昨日のスープよりは食べやすいと思う」
アダムは受け取った。
温かい器が手のひらに乗る。
それだけで、少しだけ身体が目を覚ますようだった。
一口食べる。
苦味はあるが、昨日のスープほどではなかった。
「少し苦い」
「薬だからね」
「でも、昨日よりまし」
「それはよかった」
イヴは満足そうに頷いた。
アダムはゆっくり粥を食べた。
食べるたびに、身体の奥に熱が戻ってくる。
食べることは、生きる準備のひとつ。
イヴがそう言ったことを思い出した。
「イヴ」
「なに?」
「今日も、生きるって決めないといけないの?」
イヴの手が止まった。
彼女は少し考えた。
「決めなくてもいいんじゃない」
「でも」
「昨日、今日一日だけ生きるって決めたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、今日も同じでいいよ。大きな決意みたいにしなくていい。朝ごはんを食べたら、昼まで生きる。昼になったら、夕方まで生きる。夕方になったら、夜まで生きる。そうやって短くすればいい」
「短く?」
「うん。長い未来は重いから」
イヴは自分の膝に視線を落とした。
「地下に来たばかりの頃、わたしもそうだった。明日も、来年も、大人になるまでなんて考えると怖くて眠れなかった。だから、まず朝までって思った。朝になったら、次は昼まで。そうしているうちに、いつの間にか少し大きくなってた」
「それでいいの?」
「たぶん。少なくとも、わたしはそれでまだ生きてる」
アダムは器の中を見た。
粥の湯気がゆっくり上っている。
朝まで。
昼まで。
夕方まで。
夜まで。
そのくらいなら、できるかもしれないと思った。
生まれてきてよかったとは、まだ言えない。
サタンが死んでしまった世界を愛することもできない。
でも、この粥を食べ終わるまでは生きる。
食べ終わったら、少し休むまでは生きる。
それくらいなら。
「じゃあ」
アダムは言った。
「このお粥を食べ終わるまでは、生きる」
イヴは一瞬きょとんとしたあと、優しく笑った。
「うん。それでいい」
アダムはまた一口食べた。
苦い。
温かい。
その二つが、同時に胸に落ちていった。
◇◇◇
地下集落は、都市の下にもうひとつの町を作っていた。
アダムが少し歩けるようになると、イヴは彼に集落の中を見せた。
通路は狭く、天井は低い。壁には手掘りの跡が残り、古い配管や電線がむき出しになっている。だが、そこには確かに生活があった。
小さな炉でパンを焼く女。
古い機械を修理する老人。
布を縫う若者。
水路のそばで薬草を洗う子ども。
子ども。
アダムは足を止めた。
自分より小さな子が二人、木の欠片で遊んでいた。
一人は茶色い髪の男の子で、もう一人は短く切った銀髪の女の子だった。二人はアダムを見ると、びくりとしてイヴの後ろに隠れた。
「大丈夫」
イヴが言った。
「この子がアダム」
男の子が目を丸くした。
「ほんもの?」
アダムは困った。
「たぶん」
銀髪の女の子が小さな声で聞いた。
「サタンの子?」
アダムは胸を押さえた。
サタンの子。
血はつながっていない。
けれど、その言葉は痛いほど温かかった。
「……うん」
アダムは答えた。
「ぼくは、サタンの子」
そう言った瞬間、涙が出そうになった。
イヴは黙って彼の隣に立っていた。
男の子は少しだけ近づいた。
「ぼく、ノア」
銀髪の女の子もイヴの服を掴んだまま言った。
「ミラ」
「アダム」
「知ってる」
ノアはそう言って、手に持っていた木の欠片を差し出した。
「これ、あげる」
アダムは受け取った。
それは、粗く削られた小さな鳥だった。
翼の形は不格好で、くちばしも曲がっている。
「鳥?」
「うん。空にいるやつ」
「見たことあるの?」
ノアは首を振った。
「ない。でも、じいちゃんが教えてくれた。空には鳥が飛ぶんだって」
アダムは木の鳥を見つめた。
地下に生まれ、空を知らない子どもが作った鳥。
空を知らないのに、飛ぶものを作った。
そのことが、不思議に胸を打った。
「ありがとう」
アダムが言うと、ノアは照れたように笑い、ミラを連れて走っていった。
その背中を見送りながら、アダムは尋ねた。
「ここには、どのくらい子どもがいるの」
「今は七人」
「七人」
「昔はもっといたって聞いた。でも、病気で死んだ子もいる。外へ逃げようとして捕まった子もいる。生まれる前に母親ごと見つかった人もいる」
イヴの声は静かだった。
静かすぎるほどだった。
「ここでも、死ぬんだね」
「うん」
「安全じゃないんだね」
「安全な場所なんて、たぶんないよ」
イヴは通路の先を見た。
「でも、ここでは名前を呼んでもらえる。生まれてきたことを、失敗みたいに言われない。それだけで、少し息ができる」
アダムは木の鳥を握った。
生まれてきたことを、失敗みたいに言われない場所。
そんな場所がエデンに残っていた。
サタンは知っていただろうか。
知っていたら、ここへ連れてきてくれただろうか。
あるいは、危険に巻き込まないために黙っていたのだろうか。
もう聞けない。
アダムは胸の奥で、その痛みを抱え直した。
消えない痛み。
でも、昨日より少しだけ持ち方がわかる痛み。
◇◇◇
会議場は、地下集落の一番奥にあった。
かつて地下鉄の駅だった場所を改造したらしい。広い空間の中央に丸い机が置かれ、その周囲に十数人の大人たちが集まっていた。老人が多かったが、中には若い者もいた。
桜夜、アダン、秘書はすでにそこにいた。
アダンは立っていた。
地下の人々の前で、逃げも隠れもせずに。
騎士服は脱ぎ、簡素な上着を羽織っている。それでも、立ち姿には騎士団長だった名残があった。
彼に向けられる視線は冷たかった。
当然だった。
地下の人々にとって、アダンは統一議会の刃だった。
多くの逃亡者を捕らえ、矯正施設へ送り、反出生主義法を守ってきた男。
その男が今さら反逆者の顔をして現れたところで、簡単に許せるはずがない。
「信用できない」
長老の一人が言った。
白い髭を長く伸ばした男だった。
「この男は我々を追ってきた側の人間だ。サタンを処刑したのも、この男だと聞いている」
アダムの胸が強く痛んだ。
サタンを処刑した男。
それは事実だった。
アダンは否定しなかった。
「ああ」
彼は言った。
「私がサタンの処刑に立ち会った。命令を下したのも私だ」
会議場の空気が重くなる。
イヴがアダムの隣で拳を握った。
「ならば、なぜここにいる」
別の女が言った。
「罪を悔いたから助けてほしいとでも? 地上の人間はいつもそうだ。自分が追われる側になって初めて、地下に助けを求める」
「その通りだ」
アダンは言った。
女は言葉に詰まった。
「私は、自分が追われるまで本当には見なかった。サタンが見ていたものを、リリスが守ろうとしたものを、アダムが奪われかけたものを、見ないようにしていた」
アダンはゆっくり頭を下げた。
「許してほしいとは言わない。信用してほしいとも言わない。だが、通信塔へ行く道を貸してほしい」
「通信塔で何をする」
長老が問う。
桜夜が前へ出た。
「統一議会が隠してきた記録を、星全域へ固定送信する。今は分散端末に流しているだけだ。議会が回線を押さえれば、数時間で遮断される」
「すでに映像は流れた。十分ではないのか」
「十分ではない」
桜夜の声は静かだった。
「人は見たくないものをすぐ忘れる。特に、見ないことで生き延びてきた者は」
その言葉に、何人かが目を伏せた。
地下の人々でさえ、すべてを見てきたわけではない。
地上で起きた処刑。
病院で行われた処置。
矯正施設で消された記憶。
それらを知りながら、地下で息を潜めるしかなかった者もいる。
見ないことは、ときに生きるための方法だった。
だが、それだけでは何も変わらない。
「通信塔に残る旧時代の広域回線を使えば、記録を議会が消せない形で保存できる」
秘書が補足した。
「同時に、地球側への安定した通信経路も確保できます。桜夜様の帰還手段にも関わります」
「帰るの」
イヴが思わず言った。
桜夜は彼女を見た。
「いずれは」
「エデンを放って?」
「放っていくつもりはない」
「でも帰るんでしょう」
「地球にも、私を待つ者がいる」
イヴは口をつぐんだ。
アダムは桜夜を見た。
地球。
サタンが話してくれた星。
諦めの悪い者たちの星。
桜夜はそこから来た。
そして、いつか帰る。
その当たり前のことが、アダムには少し寂しかった。
出会ったばかりなのに。
すでに別れの影がある。
生きるということは、また誰かと別れる可能性を抱えることなのだと、アダムは思った。
それでも、出会わないほうがいいとは、今はまだ思いたくなかった。
長老はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「通信塔へ続く道はある」
会議場がざわめいた。
「だが、危険だ。塔の地下には旧時代の防衛機構が残っている。統一議会も完全には掌握していない。だからこそ、今まで我々も近づかなかった」
「案内は?」
桜夜が尋ねる。
「できる者が一人いる」
長老はイヴを見た。
アダムも彼女を見た。
イヴは驚いた顔をしなかった。
まるで、最初からそうなるとわかっていたように。
「イヴ」
長老は言った。
「お前なら道を知っているな」
「はい」
アダムは思わず声を上げた。
「イヴが行くの?」
「道を知ってるのは、わたしだけだから」
「危ないんでしょ」
「危ないね」
「じゃあ」
アダムは言いかけて、言葉に詰まった。
行かないで。
そう言いたかった。
だが、それを言う権利が自分にあるのかわからなかった。
イヴはアダムを見た。
「何?」
「……危ないなら、行かないほうがいい」
「あなたも行くんでしょ」
「ぼくは」
「あなたは止めても行く顔をしてる」
アダムは黙った。
確かに、そうだった。
怖い。
まだ身体も痛い。
サタンのいない世界を歩くことも、統一議会と向き合うことも怖い。
けれど、通信塔へ行かなければならないと思っていた。
それは世界を救うためではない。
サタンの声を消させないため。
リリスの願いをなかったことにしないため。
自分と同じように、生まれてきたことを罪にされた子どもたちの名前を、どこかに残すため。
「ぼくも、行く」
アダムは言った。
アダンが即座に反応した。
「駄目だ」
アダムは彼を見た。
「どうして」
「身体が回復していない。危険すぎる」
「父さんは行くんでしょ」
「私は」
「ぼくを置いていくの?」
アダンは息を呑んだ。
置いていかない。
昨日、自分でそう言った。
だが、危険な場所へ連れていくことが本当に置いていかないことなのか。守るとは何か。生きてほしいと願うなら、危険から遠ざけるべきではないのか。
アダンは迷った。
その迷いは、かつての彼ならすぐに答えを出していただろう。
保護。
安全。
苦痛の軽減。
子どものため。
そういう言葉で、アダムの意思を覆っていたはずだ。
しかし今、その言葉は使えなかった。
桜夜が静かに言った。
「アダム」
「なに」
「行くなら、守られるだけでは済まない」
「わかってる」
「たぶん、わかっていない」
アダムは唇を噛んだ。
桜夜は続けた。
「怖いものを見る。サタンを失った痛みを何度も突かれる。お前の声を、お前の存在を、また誰かに利用されるかもしれない。私も利用するかもしれない」
「桜夜は、そういうことを先に言うんだね」
「言わずに使うよりはましだと思っている」
「ましなだけ?」
「ああ。ましなだけだ」
アダムは少しだけ笑った。
桜夜は、優しいのかひどいのかよくわからない。
でも、わからないことをわからないまま言うところは、信じてもいい気がした。
「それでも行く」
アダムは言った。
「サタンが死んだことを、なかったことにされたくない。ぼくが生まれてきたことも、リリスがぼくを産んだことも、地下の子どもたちが生きてることも、消されたくない」
声は震えていた。
だが、言葉は途切れなかった。
「ぼくはまだ、生まれてきてよかったって言えない。でも、生まれてきたことを、誰かに失敗みたいに言われたくない」
会議場は静まり返った。
イヴはアダムを見ていた。
アダンも。
桜夜も。
秘書も。
長老たちも。
アダムは怖かった。
皆に見られるのは怖い。
自分の声がまた使われるのも怖い。
でも、昨日イヴに叱られた。
死にたいと思ったら、ひとりで決めない。
ならば、生きることも、ひとりで決めなくていいのかもしれない。
怖いと言いながら、誰かと一緒に進んでもいいのかもしれない。
イヴが小さく息を吐いた。
「じゃあ、わたしも行く」
「イヴ」
「あなた一人じゃ、また無理するでしょ」
「しないよ」
「嘘」
「……少しするかも」
「ほら」
イヴは長老に向き直った。
「案内します」
長老は苦しそうに目を閉じた。
「お前まで危険に晒したくはない」
「わたしはもう、ずっと危険の中にいます」
「イヴ」
「地下に隠れているだけで安全なら、ノアもミラも空を知らずに生きなくてよかったはずです」
イヴの声は静かだった。
「わたしは、空を見たい。あの子たちにも見せたい。アダムが地上で生まれてきたことを罪にされない世界を見たい。だから行きます」
長老は長く沈黙した。
そして、深く頷いた。
「わかった」
アダンはまだ迷っていた。
だが、やがてアダムの前に膝をついた。
「私は、お前を止めたい」
「うん」
「危険な場所へ行ってほしくない」
「うん」
「それでも、お前の意思を奪って守ることは、もうしたくない」
アダムは目を見開いた。
アダンは苦しそうに言った。
「だから、条件がある」
「条件?」
「苦しくなったら言え。怖くなったら言え。歩けなくなったら言え。死にたいと思ったら、必ず言え。黙って消えようとするな」
アダムは少し黙った。
それから頷いた。
「言う」
「約束できるか」
「たぶん」
「たぶんか」
「イヴも、たぶん我慢するって言ってた」
イヴが横から言った。
「叩く話をここで出さないで」
アダムは少し笑った。
アダンも、ほんのわずかに笑った。
「なら、たぶんでいい」
彼はそう言って、アダムの頭に手を置いた。
その手は不器用だった。
サタンのようではなかった。
だが、逃げない手だった。
アダムはその手を、今だけは振り払わなかった。
◇◇◇
出発は、夜明け前に決まった。
地下集落の人々は、静かに準備を始めた。
食料、水、古い通信部品、薬、包帯、地下道の地図。秘書は必要なものを淡々と選び、イヴは使える道具と使えない道具を即座に分けていった。桜夜は地球側の青年と通信をつなぎ直し、通信塔の構造を確認している。
『塔の上層は議会が押さえてますけど、地下の旧管理層から入れる可能性があります。問題は防衛機構ですね。古すぎて逆に読めない』
「古い機械は嫌いか」
『新しい機械も嫌いです。思い通りにならない機械が嫌いです』
「では、ほとんど全部だな」
『そうとも言います』
アダムは寝台の上で、その声を聞いていた。
本当は手伝いたかった。
けれどイヴに寝ていなさいと言われ、アダンにも休めと言われ、秘書には「今のあなたの仕事は回復です」と言われた。
だから、横になっていた。
横になっているだけなのに、落ち着かなかった。
何もしていないと、サタンのことを考えてしまう。
処刑台。
白い布。
赤い石畳。
最後の微笑み。
生まれてきてくれて、ありがとう。
その言葉は、昨夜アダムを今日につなぎ止めた。
けれど、同時に痛かった。
ありがとうと言われたのに、自分はまだ生まれてきてよかったと言えない。
ありがとうと言ってくれた人を、助けることもできなかった。
アダムは布団の中で木の鳥を握った。
ノアがくれた鳥。
空を知らない子どもが作った鳥。
不格好な翼を指でなぞっていると、扉が開いた。
イヴだった。
「まだ起きてたの」
「眠れない」
「明日歩くんだから寝なきゃ駄目」
「わかってる」
「わかってる顔をして」
「それ、父さんにも言ってた」
「大人も子どもも、わかってないときは同じ顔をするの」
イヴは寝台のそばに座った。
アダムは木の鳥を彼女に見せた。
「ノアがくれた」
「いいな。あの子、気に入った人にしか渡さないのよ」
「そうなの?」
「うん。わたしはまだもらってない」
「じゃあ、返したほうがいい?」
「いいの。もらっておきなさい」
イヴは木の鳥を見て、少し微笑んだ。
「空を見たこともないのに、鳥を作るんだよね。あの子」
「うん」
「変だよね」
「変かな」
「でも、いい変」
アダムは木の鳥を胸に置いた。
「ぼく、明日が怖い」
「うん」
「通信塔も怖い。統一議会も怖い。父さんがまたいなくなるのも怖い。桜夜が帰っちゃうのも怖い。イヴが怪我するのも怖い」
「うん」
「生きてると、怖いことが増える」
「そうだね」
「死んだら、怖くなくなるのかな」
イヴは少し黙った。
そして言った。
「わからない」
「イヴもわからないの?」
「わからない。死んだことないから」
アダムは少しだけ笑った。
「そっか」
「でも、生きてると怖いことが増えるのは本当だと思う」
イヴは自分の手を見た。
「大切な人ができたら、その人を失うのが怖くなる。空を見たいと思ったら、見られないまま死ぬのが怖くなる。明日が来てほしいと思ったら、明日が来ないのが怖くなる」
「じゃあ、やっぱり苦しいね」
「うん。苦しい」
「それでも、生きるの?」
イヴはアダムを見た。
アメジストのような瞳が、薄暗い部屋の灯りを映していた。
「怖いものが増えるってことは、大切なものが増えたってことでもあるから」
アダムは黙った。
「わたしは、そう思うことにしてる」
「思うことにしてる?」
「本当にそうかは知らない。でも、そう思うことにしてる。じゃないと、怖いだけになっちゃうから」
アダムは木の鳥を握った。
怖いものが増える。
大切なものが増える。
サタンを失った怖さ。
アダンをまた失うかもしれない怖さ。
イヴが傷つくかもしれない怖さ。
桜夜がいなくなるかもしれない怖さ。
それらは全部、自分が大切に思い始めているからなのだろうか。
だとしたら、生きることはずるい。
苦しいのに、大切なものを増やしてしまう。
失えば痛いのに、出会ってしまう。
「イヴ」
「なに」
「ぼく、イヴが怪我したら嫌だ」
イヴは少し驚いた顔をした。
それから、照れたように目を逸らした。
「じゃあ、怪我しないように頑張る」
「約束?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「絶対って言うと嘘になるから」
「そっか」
アダムは頷いた。
「じゃあ、ぼくもたぶん頑張る」
「うん。たぶんでいい」
イヴは布団をかけ直した。
「寝て」
「うん」
「怖くなったら?」
「言う」
「死にたくなったら?」
「ひとりで決めない」
「よし」
イヴは立ち上がろうとした。
アダムは思わず彼女の袖を掴んだ。
イヴが振り返る。
「どうしたの」
「少しだけ、ここにいて」
自分で言ってから、アダムは恥ずかしくなった。
だが、イヴは笑わなかった。
「いいよ」
彼女は椅子を引き寄せ、寝台のそばに座った。
アダムは目を閉じた。
誰かがそばにいる気配。
それは、サタンとは違う。
けれど、孤独ではなかった。
眠りに落ちる直前、アダムは胸の中で呟いた。
サタン。
ぼく、また怖いものが増えたよ。
返事はなかった。
でも、どこかで困ったように笑う気配がした。
それは気のせいかもしれない。
それでも、アダムはその気配を抱いて眠った。
◇◇◇
夜明け前、地下集落の門が開いた。
地上へ向かうのではない。
さらに深く、通信塔の地下へつながる古い保守通路へ向かう門だった。
アダムは厚手の上着を着せられ、肩から小さな鞄を下げていた。中には水筒と包帯、それからノアの木の鳥が入っている。
イヴは短い外套を羽織り、腰に小さなナイフと工具を下げていた。
桜夜は黒い服のまま、何も持っていないように見えたが、秘書によれば「持っていないように見える人ほど危険」らしい。
アダンは古い剣を持っていた。
騎士団の剣ではない。
地下の武器庫に残っていた、旧時代の剣だった。
「それでいいの?」
アダムが尋ねる。
アダンは剣を見た。
「ああ」
「前の剣じゃないんだ」
「騎士団の剣は、置いてきた」
「どうして」
「私が守っていたものを、もう守れないからだ」
アダムは少し考えた。
「じゃあ、その剣では何を守るの」
アダンはアダムを見た。
「お前の選択を」
アダムは何も言えなかった。
その言葉は、まだ少し重かった。
けれど、嫌ではなかった。
出発前、ノアとミラが走ってきた。
ノアは息を切らしながら言った。
「アダム、鳥、持ってる?」
「持ってる」
「それ、空を見たら教えて」
「鳥に?」
「うん。ぼくの代わりに」
アダムは鞄を押さえた。
「わかった」
ミラが小さく手を伸ばした。
アダムは少し迷って、その手を握った。
「帰ってくる?」
ミラが聞いた。
アダムは答えに詰まった。
帰ってくる。
そう言いたかった。
でも、言い切るのが怖かった。
すると、イヴが横から言った。
「帰ってくる努力はする」
ミラは不満そうに眉を寄せた。
「努力?」
「うん。絶対って言うと嘘になるから」
「じゃあ、努力して」
「する」
アダムも頷いた。
「努力する」
ミラは少し考えてから、アダムの手を離した。
「じゃあ、いい」
地下の人々が見送る中、アダムたちは保守通路へ入った。
扉が閉まる。
背後の集落の灯りが細くなり、やがて見えなくなった。
前には暗闇があった。
冷たい風が吹いていた。
アダムは足を止めなかった。
怖い。
足は震えている。
胸の奥では、サタンを失った痛みがまだ疼いている。
けれど、鞄の中には木の鳥がある。
隣にはイヴがいる。
少し前には桜夜が歩き、後ろにはアダンがいる。秘書の足音も静かに続いている。
ひとりではない。
それが救いなのか、また失うものが増えたということなのか、アダムにはまだわからない。
でも、今は歩いた。
暗闇の先へ。
通信塔へ。
消されかけた声を、消させないために。
しばらく進むと、通路の壁に古い文字が刻まれていた。
イヴが灯りを近づける。
「旧時代の標語ね」
「なんて書いてあるの」
アダムが尋ねる。
イヴは少し読みにくそうに目を細めた。
「未来は、まだ生まれていない者のために」
その場の空気が止まった。
反出生主義法が生まれる前の言葉。
かつてエデンにも、まだ生まれていない者のために未来を残そうとした時代があった。
その言葉は、ひび割れた壁に刻まれたまま、長い時間を越えて残っていた。
アダムはその文字に触れた。
冷たい石の感触。
だが、そこに刻まれた言葉は、どこか温かかった。
「まだ生まれていない者」
アダンが呟いた。
その声には、悔恨が滲んでいた。
桜夜は壁を見上げた。
「どの世界でも、未来を信じた言葉ほど、あとから読むと痛い」
「地球にもあるの?」
アダムが聞く。
「たくさんある」
「それでも、地球人は未来を信じるの?」
「信じたり、裏切ったり、また信じたりする」
「忙しいね」
「諦めが悪いからな」
アダムは小さく笑った。
そのときだった。
通路の奥から、低い機械音が響いた。
秘書が即座に前へ出る。
「熱源反応。複数」
イヴの顔が強張った。
「防衛機構」
暗闇の奥で、赤い光が点いた。
一つ。
二つ。
三つ。
古い自律兵器だった。
錆びた装甲をまとい、脚部を軋ませながら、通路の奥からゆっくりと現れる。長い年月のせいで動きは鈍いが、腕部に備えられた銃口はまだ生きていた。
『まずいです』
通信端末から青年の声がした。
『それ、旧時代の軍用機です。議会の現行兵器より荒いけど、火力は高い』
「止められるか」
桜夜が聞く。
『遠隔では無理。閉鎖系です。物理的に止めてください』
「簡単に言う」
『そっちのほうが得意でしょ』
桜夜は前に出た。
アダンも剣を構える。
秘書の光糸が展開する。
イヴはアダムを壁際へ引いた。
「伏せて」
「でも」
「いいから」
アダムは壁際にしゃがんだ。
心臓が激しく鳴る。
銃口が光った。
次の瞬間、通路に轟音が響いた。
桜夜が手を振る。
目に見えない壁のようなものが弾丸を逸らした。秘書の光糸が一体の脚を絡め取り、アダンがその関節部へ剣を叩き込む。火花が散る。
だが、機械は止まらなかった。
もう一体が腕を上げる。
銃口はイヴのほうを向いていた。
アダムは息を呑んだ。
怖いものが増えるってことは、大切なものが増えたってことでもある。
イヴの声が蘇る。
撃たれる。
そう思った瞬間、身体が動いていた。
「イヴ!」
アダムは彼女を突き飛ばした。
銃声。
熱いものが、左肩をかすめた。
痛みが遅れてやってきた。
アダムは地面に倒れた。
「アダム!」
イヴの叫びが響く。
アダンの顔が変わった。
桜夜が低く何かを呟いた。
次の瞬間、通路の空気が歪んだ。
桜夜の影が伸びる。
黒い線のようなものが床を走り、自律兵器の足元に絡みついた。秘書の光糸がそれを補強し、アダンの剣が中枢部を貫く。
一体。
二体。
三体。
機械は火花を散らしながら崩れ落ちた。
通路に、焦げた金属の匂いが満ちる。
イヴがアダムに駆け寄った。
「バカ!」
泣きそうな声だった。
「またバカって言った」
アダムは痛みに顔をしかめながら言った。
「言うわよ! なんで飛び出したの!」
「イヴが、撃たれそうだったから」
「自分が撃たれたら意味ないでしょ!」
「かすっただけ」
「血が出てる!」
「でも、生きてる」
イヴは言葉を失った。
アダンが膝をつき、すぐに傷を確認する。弾は肩を浅く裂いただけだった。深くはない。だが、痛みは鋭く、アダムの顔色は真っ白だった。
アダンの手が震えていた。
「すぐに止血する」
「父さん」
「喋るな」
「ぼく、言ったよ」
アダンは動きを止めた。
「怖いって、言った。痛いって、今言う。死にたいとは、思ってない」
アダンの目が揺れた。
アダムは苦しそうに息をしながら、それでも言った。
「だから、大丈夫じゃないけど、大丈夫」
イヴは涙をこぼした。
「何それ」
「わからない」
「ほんと、わからないことばっかり」
「うん」
アダムは小さく笑った。
痛い。
怖い。
でも、イヴが生きている。
そのことに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
誰かを守ろうとして身体が動いた。
それは、死にたいからではなかった。
生きていてほしいと思ったからだった。
アダムはそのことに、少し遅れて気づいた。
自分は今、イヴに生きていてほしいと思った。
それは、サタンが自分に向けてくれた願いと同じ形をしていた。
痛みの中で、アダムは泣きそうになった。
「イヴ」
「なに」
「ぼく、今、イヴに生きててほしいって思った」
イヴは目を見開いた。
「それで飛び出すのは違う」
「うん。たぶん、違う」
「たぶんじゃない」
「でも、思った」
イヴは唇を噛んだ。
そして、アダムの手を握った。
「わたしも、あなたに生きててほしい」
アダムの喉が詰まった。
サタンとは違う声。
でも、同じ願い。
生きていてほしい。
その願いは、優しいだけではない。
ときに身勝手で、重くて、痛い。
それでも、誰かからそう願われることは、アダムの身体をこの世界につなぎ止めた。
桜夜が近づいてきた。
「動けるか」
イヴが睨んだ。
「動かせるわけないでしょう」
「聞いただけだ」
「聞かなくてもわかるでしょう」
「わかっている顔をしていなかったか」
「してません」
アダムは痛みの中で少し笑った。
アダンが包帯を巻きながら言った。
「少し休む。だが、長くは止まれない」
秘書が通路の奥を確認する。
「銃声に反応して、他の防衛機構が起動する可能性があります」
『あと、議会側も地下振動を検知したかもしれません』
青年の声が続いた。
『急いだほうがいいです。でも、アダム君の状態だと走るのは無理ですね』
イヴは迷わず言った。
「担架を作る」
「材料は」
秘書が尋ねる。
「壊れた機械の外装と、持ってきた布」
「可能です」
秘書はすぐに動いた。
アダンも手伝う。
桜夜は周囲を警戒しながら、アダムのそばに立っていた。
アダムは壁にもたれ、浅く息をした。
肩が痛い。
痛いのに、不思議と心は昨日ほど暗くなかった。
痛みは、生きている証拠だ。
そんな綺麗なことを思ったわけではない。
ただ、痛いと口にできた。
怖いと知っていた。
死にたいとは思っていなかった。
それだけだった。
イヴが戻ってきて、彼の額に手を当てた。
「熱はまだない」
「イヴ」
「なに」
「叩かない?」
「今は叩かない」
「よかった」
「あとで怒る」
「やっぱり」
イヴは目を赤くしたまま、少しだけ笑った。
「生きて帰ったらね」
生きて帰ったら。
その言葉が、アダムの胸に残った。
帰る場所。
昨日までは、そんなものはないと思っていた。
森の小屋には戻れない。
サタンはいない。
地上は敵だらけだ。
でも、地下にはノアとミラがいる。
イヴがいる。
生きて帰ったら怒られる約束がある。
それは、ささやかすぎる未来だった。
けれど、確かに未来だった。
アダムは鞄の中の木の鳥を思い出した。
空を知らない鳥。
まだ飛んでいない鳥。
自分も、そうなのかもしれない。
生まれてきたことの意味もわからない。
生きる理由もわからない。
でも、まだ飛んでいない。
まだ見ていない空がある。
担架が完成した。
簡素なものだったが、アダム一人を運ぶには十分だった。
彼はそこに寝かされた。
「ごめん」
アダムは言った。
イヴが即座に答えた。
「謝るところじゃない」
「でも」
「ありがとうでいい」
アダムは戸惑った。
「ありがとう?」
「助けてくれたんでしょ。だったら、謝るよりありがとうって言わせて」
アダムは目を伏せた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
イヴは彼の顔を覗き込んだ。
「ありがとう、アダム」
その言葉は、サタンの言葉と少し似ていた。
生まれてきてくれて、ありがとう。
そこまではまだ遠い。
けれど、今この瞬間、アダムが生きていて、身体を動かし、イヴを守ろうとしたことに、イヴはありがとうと言った。
アダムの目に涙が浮かんだ。
「どういたしまして」
声は小さかった。
でも、確かに出た。
桜夜が前方を見た。
「進むぞ」
アダンが担架の片側を持ち、秘書がもう片側を持った。イヴはアダムの横につき、桜夜は先頭を歩く。
通路の奥には、まだ暗闇が続いていた。
その先に通信塔がある。
そのさらに先に、地上の空がある。
アダムは担架の上で、ゆっくり息をした。
肩は痛い。
怖さも消えない。
けれど、死にたいとは思っていない。
今はまだ。
少なくとも、この暗闇を抜けるまでは。
少なくとも、ノアの鳥に空を見せるまでは。
少なくとも、イヴにあとで怒られるまでは。
生きていようと思った。
それは小さな理由だった。
とても小さな、生きる理由だった。
だが、アダムにはそれで十分だった。
サタン。
ぼく、また少しだけ理由が増えたよ。
暗闇の中で、アダムは胸の内に語りかけた。
返事はない。
それでも、彼は目を閉じなかった。
前を見る。
壊れた機械の残骸を越え、冷たい風の吹く通路の先へ。
未来は、まだ生まれていない者のために。
壁に刻まれていた言葉が、アダムの胸の奥で静かに響いていた。
生まれてはいけないと教えられた星で。
生まれてきてしまった少年は。
まだ生まれていない未来のために、暗闇の中を運ばれていった。




