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第5話 まだ生まれていない未来のために

 アダムは、誰かの話し声で目を覚ました。


 最初は夢だと思った。


 森の小屋で、サタンが朝の支度をしている音。鍋の蓋が鳴り、薪がはぜ、サタンが少し低い声で何かを呟く。そんな朝を、アダムは何度も知っていた。


 けれど、目を開けると、そこにあったのは森の小屋の天井ではなかった。


 低い木の天井。


 壁に吊るされた薬草。


 古い布で覆われた窓。


 地下集落の小さな部屋。


 サタンはいない。


 その事実は、目覚めるたびに新しく胸を刺した。


 アダムはしばらく天井を見つめていた。


 昨日の夜、彼は今日一日だけ生きると決めた。


 それは大きな決意ではなかった。世界を変えるためでもない。サタンの死に意味を与えるためでもない。自分が生まれてきたことを肯定するためでもない。


 ただ、今日だけ。


 今日だけは死を選ばない。


 それだけだった。


 けれど朝が来ると、今日というものはまた目の前に広がっていた。


 昨日の今日ではない。


 新しい今日。


 もう一度、選ばなければならない今日。


 アダムは布団の中で小さく丸まった。


 胸の奥に、また冷たいものが広がりそうになる。


 そのとき、部屋の外からイヴの声が聞こえた。


「だから、あの子はまだ動かせません」


 少し怒っている声だった。


 続いて、アダンの低い声がした。


「わかっている。だが、ここも安全ではない」


「安全じゃないのは知っています。でも、無理に動かして倒れたら、もっと危ないでしょう」


「それもわかっている」


「なら、わかっている顔をしてください」


 しばらく沈黙があった。


 アダムは思わず少し笑った。


 イヴは、アダンにも遠慮がない。


 昨日まで騎士団長だった男に対しても、まるで近所の頼りない大人に説教するように話す。


 その強さが、少し羨ましかった。


 扉が開いた。


 イヴが入ってきた。


 片手に湯気の立つ器、もう片方の手に新しい包帯を持っている。クリーム色の髪は昨日より少し乱れていて、眠そうな目をしていた。それでもアダムが起きていることに気づくと、彼女はすぐに表情を明るくした。


「おはよう」


「……おはよう」


 アダムは小さく返した。


 その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


 おはよう。


 サタンに毎朝言っていた言葉。


 もう二度と言えないと思っていた言葉。


 でも、いま自分はイヴに言った。


 それだけで、胸が痛んだ。


 イヴはその痛みに気づいたのか、何も言わず寝台のそばに座った。


「気分は?」


「わからない」


「痛いところは?」


「いっぱい」


「それはわかりやすいね」


 イヴは器を差し出した。


「薬草粥。昨日のスープよりは食べやすいと思う」


 アダムは受け取った。


 温かい器が手のひらに乗る。


 それだけで、少しだけ身体が目を覚ますようだった。


 一口食べる。


 苦味はあるが、昨日のスープほどではなかった。


「少し苦い」


「薬だからね」


「でも、昨日よりまし」


「それはよかった」


 イヴは満足そうに頷いた。


 アダムはゆっくり粥を食べた。


 食べるたびに、身体の奥に熱が戻ってくる。


 食べることは、生きる準備のひとつ。


 イヴがそう言ったことを思い出した。


「イヴ」


「なに?」


「今日も、生きるって決めないといけないの?」


 イヴの手が止まった。


 彼女は少し考えた。


「決めなくてもいいんじゃない」


「でも」


「昨日、今日一日だけ生きるって決めたんでしょ」


「うん」


「じゃあ、今日も同じでいいよ。大きな決意みたいにしなくていい。朝ごはんを食べたら、昼まで生きる。昼になったら、夕方まで生きる。夕方になったら、夜まで生きる。そうやって短くすればいい」


「短く?」


「うん。長い未来は重いから」


 イヴは自分の膝に視線を落とした。


「地下に来たばかりの頃、わたしもそうだった。明日も、来年も、大人になるまでなんて考えると怖くて眠れなかった。だから、まず朝までって思った。朝になったら、次は昼まで。そうしているうちに、いつの間にか少し大きくなってた」


「それでいいの?」


「たぶん。少なくとも、わたしはそれでまだ生きてる」


 アダムは器の中を見た。


 粥の湯気がゆっくり上っている。


 朝まで。


 昼まで。


 夕方まで。


 夜まで。


 そのくらいなら、できるかもしれないと思った。


 生まれてきてよかったとは、まだ言えない。


 サタンが死んでしまった世界を愛することもできない。


 でも、この粥を食べ終わるまでは生きる。


 食べ終わったら、少し休むまでは生きる。


 それくらいなら。


「じゃあ」


 アダムは言った。


「このお粥を食べ終わるまでは、生きる」


 イヴは一瞬きょとんとしたあと、優しく笑った。


「うん。それでいい」


 アダムはまた一口食べた。


 苦い。


 温かい。


 その二つが、同時に胸に落ちていった。


 ◇◇◇


 地下集落は、都市の下にもうひとつの町を作っていた。


 アダムが少し歩けるようになると、イヴは彼に集落の中を見せた。


 通路は狭く、天井は低い。壁には手掘りの跡が残り、古い配管や電線がむき出しになっている。だが、そこには確かに生活があった。


 小さな炉でパンを焼く女。


 古い機械を修理する老人。


 布を縫う若者。


 水路のそばで薬草を洗う子ども。


 子ども。


 アダムは足を止めた。


 自分より小さな子が二人、木の欠片で遊んでいた。


 一人は茶色い髪の男の子で、もう一人は短く切った銀髪の女の子だった。二人はアダムを見ると、びくりとしてイヴの後ろに隠れた。


「大丈夫」


 イヴが言った。


「この子がアダム」


 男の子が目を丸くした。


「ほんもの?」


 アダムは困った。


「たぶん」


 銀髪の女の子が小さな声で聞いた。


「サタンの子?」


 アダムは胸を押さえた。


 サタンの子。


 血はつながっていない。


 けれど、その言葉は痛いほど温かかった。


「……うん」


 アダムは答えた。


「ぼくは、サタンの子」


 そう言った瞬間、涙が出そうになった。


 イヴは黙って彼の隣に立っていた。


 男の子は少しだけ近づいた。


「ぼく、ノア」


 銀髪の女の子もイヴの服を掴んだまま言った。


「ミラ」


「アダム」


「知ってる」


 ノアはそう言って、手に持っていた木の欠片を差し出した。


「これ、あげる」


 アダムは受け取った。


 それは、粗く削られた小さな鳥だった。


 翼の形は不格好で、くちばしも曲がっている。


「鳥?」


「うん。空にいるやつ」


「見たことあるの?」


 ノアは首を振った。


「ない。でも、じいちゃんが教えてくれた。空には鳥が飛ぶんだって」


 アダムは木の鳥を見つめた。


 地下に生まれ、空を知らない子どもが作った鳥。


 空を知らないのに、飛ぶものを作った。


 そのことが、不思議に胸を打った。


「ありがとう」


 アダムが言うと、ノアは照れたように笑い、ミラを連れて走っていった。


 その背中を見送りながら、アダムは尋ねた。


「ここには、どのくらい子どもがいるの」


「今は七人」


「七人」


「昔はもっといたって聞いた。でも、病気で死んだ子もいる。外へ逃げようとして捕まった子もいる。生まれる前に母親ごと見つかった人もいる」


 イヴの声は静かだった。


 静かすぎるほどだった。


「ここでも、死ぬんだね」


「うん」


「安全じゃないんだね」


「安全な場所なんて、たぶんないよ」


 イヴは通路の先を見た。


「でも、ここでは名前を呼んでもらえる。生まれてきたことを、失敗みたいに言われない。それだけで、少し息ができる」


 アダムは木の鳥を握った。


 生まれてきたことを、失敗みたいに言われない場所。


 そんな場所がエデンに残っていた。


 サタンは知っていただろうか。


 知っていたら、ここへ連れてきてくれただろうか。


 あるいは、危険に巻き込まないために黙っていたのだろうか。


 もう聞けない。


 アダムは胸の奥で、その痛みを抱え直した。


 消えない痛み。


 でも、昨日より少しだけ持ち方がわかる痛み。


 ◇◇◇


 会議場は、地下集落の一番奥にあった。


 かつて地下鉄の駅だった場所を改造したらしい。広い空間の中央に丸い机が置かれ、その周囲に十数人の大人たちが集まっていた。老人が多かったが、中には若い者もいた。


 桜夜、アダン、秘書はすでにそこにいた。


 アダンは立っていた。


 地下の人々の前で、逃げも隠れもせずに。


 騎士服は脱ぎ、簡素な上着を羽織っている。それでも、立ち姿には騎士団長だった名残があった。


 彼に向けられる視線は冷たかった。


 当然だった。


 地下の人々にとって、アダンは統一議会の刃だった。


 多くの逃亡者を捕らえ、矯正施設へ送り、反出生主義法を守ってきた男。


 その男が今さら反逆者の顔をして現れたところで、簡単に許せるはずがない。


「信用できない」


 長老の一人が言った。


 白い髭を長く伸ばした男だった。


「この男は我々を追ってきた側の人間だ。サタンを処刑したのも、この男だと聞いている」


 アダムの胸が強く痛んだ。


 サタンを処刑した男。


 それは事実だった。


 アダンは否定しなかった。


「ああ」


 彼は言った。


「私がサタンの処刑に立ち会った。命令を下したのも私だ」


 会議場の空気が重くなる。


 イヴがアダムの隣で拳を握った。


「ならば、なぜここにいる」


 別の女が言った。


「罪を悔いたから助けてほしいとでも? 地上の人間はいつもそうだ。自分が追われる側になって初めて、地下に助けを求める」


「その通りだ」


 アダンは言った。


 女は言葉に詰まった。


「私は、自分が追われるまで本当には見なかった。サタンが見ていたものを、リリスが守ろうとしたものを、アダムが奪われかけたものを、見ないようにしていた」


 アダンはゆっくり頭を下げた。


「許してほしいとは言わない。信用してほしいとも言わない。だが、通信塔へ行く道を貸してほしい」


「通信塔で何をする」


 長老が問う。


 桜夜が前へ出た。


「統一議会が隠してきた記録を、星全域へ固定送信する。今は分散端末に流しているだけだ。議会が回線を押さえれば、数時間で遮断される」


「すでに映像は流れた。十分ではないのか」


「十分ではない」


 桜夜の声は静かだった。


「人は見たくないものをすぐ忘れる。特に、見ないことで生き延びてきた者は」


 その言葉に、何人かが目を伏せた。


 地下の人々でさえ、すべてを見てきたわけではない。


 地上で起きた処刑。


 病院で行われた処置。


 矯正施設で消された記憶。


 それらを知りながら、地下で息を潜めるしかなかった者もいる。


 見ないことは、ときに生きるための方法だった。


 だが、それだけでは何も変わらない。


「通信塔に残る旧時代の広域回線を使えば、記録を議会が消せない形で保存できる」


 秘書が補足した。


「同時に、地球側への安定した通信経路も確保できます。桜夜様の帰還手段にも関わります」


「帰るの」


 イヴが思わず言った。


 桜夜は彼女を見た。


「いずれは」


「エデンを放って?」


「放っていくつもりはない」


「でも帰るんでしょう」


「地球にも、私を待つ者がいる」


 イヴは口をつぐんだ。


 アダムは桜夜を見た。


 地球。


 サタンが話してくれた星。


 諦めの悪い者たちの星。


 桜夜はそこから来た。


 そして、いつか帰る。


 その当たり前のことが、アダムには少し寂しかった。


 出会ったばかりなのに。


 すでに別れの影がある。


 生きるということは、また誰かと別れる可能性を抱えることなのだと、アダムは思った。


 それでも、出会わないほうがいいとは、今はまだ思いたくなかった。


 長老はしばらく黙っていた。


 やがて、低い声で言った。


「通信塔へ続く道はある」


 会議場がざわめいた。


「だが、危険だ。塔の地下には旧時代の防衛機構が残っている。統一議会も完全には掌握していない。だからこそ、今まで我々も近づかなかった」


「案内は?」


 桜夜が尋ねる。


「できる者が一人いる」


 長老はイヴを見た。


 アダムも彼女を見た。


 イヴは驚いた顔をしなかった。


 まるで、最初からそうなるとわかっていたように。


「イヴ」


 長老は言った。


「お前なら道を知っているな」


「はい」


 アダムは思わず声を上げた。


「イヴが行くの?」


「道を知ってるのは、わたしだけだから」


「危ないんでしょ」


「危ないね」


「じゃあ」


 アダムは言いかけて、言葉に詰まった。


 行かないで。


 そう言いたかった。


 だが、それを言う権利が自分にあるのかわからなかった。


 イヴはアダムを見た。


「何?」


「……危ないなら、行かないほうがいい」


「あなたも行くんでしょ」


「ぼくは」


「あなたは止めても行く顔をしてる」


 アダムは黙った。


 確かに、そうだった。


 怖い。


 まだ身体も痛い。


 サタンのいない世界を歩くことも、統一議会と向き合うことも怖い。


 けれど、通信塔へ行かなければならないと思っていた。


 それは世界を救うためではない。


 サタンの声を消させないため。


 リリスの願いをなかったことにしないため。


 自分と同じように、生まれてきたことを罪にされた子どもたちの名前を、どこかに残すため。


「ぼくも、行く」


 アダムは言った。


 アダンが即座に反応した。


「駄目だ」


 アダムは彼を見た。


「どうして」


「身体が回復していない。危険すぎる」


「父さんは行くんでしょ」


「私は」


「ぼくを置いていくの?」


 アダンは息を呑んだ。


 置いていかない。


 昨日、自分でそう言った。


 だが、危険な場所へ連れていくことが本当に置いていかないことなのか。守るとは何か。生きてほしいと願うなら、危険から遠ざけるべきではないのか。


 アダンは迷った。


 その迷いは、かつての彼ならすぐに答えを出していただろう。


 保護。


 安全。


 苦痛の軽減。


 子どものため。


 そういう言葉で、アダムの意思を覆っていたはずだ。


 しかし今、その言葉は使えなかった。


 桜夜が静かに言った。


「アダム」


「なに」


「行くなら、守られるだけでは済まない」


「わかってる」


「たぶん、わかっていない」


 アダムは唇を噛んだ。


 桜夜は続けた。


「怖いものを見る。サタンを失った痛みを何度も突かれる。お前の声を、お前の存在を、また誰かに利用されるかもしれない。私も利用するかもしれない」


「桜夜は、そういうことを先に言うんだね」


「言わずに使うよりはましだと思っている」


「ましなだけ?」


「ああ。ましなだけだ」


 アダムは少しだけ笑った。


 桜夜は、優しいのかひどいのかよくわからない。


 でも、わからないことをわからないまま言うところは、信じてもいい気がした。


「それでも行く」


 アダムは言った。


「サタンが死んだことを、なかったことにされたくない。ぼくが生まれてきたことも、リリスがぼくを産んだことも、地下の子どもたちが生きてることも、消されたくない」


 声は震えていた。


 だが、言葉は途切れなかった。


「ぼくはまだ、生まれてきてよかったって言えない。でも、生まれてきたことを、誰かに失敗みたいに言われたくない」


 会議場は静まり返った。


 イヴはアダムを見ていた。


 アダンも。


 桜夜も。


 秘書も。


 長老たちも。


 アダムは怖かった。


 皆に見られるのは怖い。


 自分の声がまた使われるのも怖い。


 でも、昨日イヴに叱られた。


 死にたいと思ったら、ひとりで決めない。


 ならば、生きることも、ひとりで決めなくていいのかもしれない。


 怖いと言いながら、誰かと一緒に進んでもいいのかもしれない。


 イヴが小さく息を吐いた。


「じゃあ、わたしも行く」


「イヴ」


「あなた一人じゃ、また無理するでしょ」


「しないよ」


「嘘」


「……少しするかも」


「ほら」


 イヴは長老に向き直った。


「案内します」


 長老は苦しそうに目を閉じた。


「お前まで危険に晒したくはない」


「わたしはもう、ずっと危険の中にいます」


「イヴ」


「地下に隠れているだけで安全なら、ノアもミラも空を知らずに生きなくてよかったはずです」


 イヴの声は静かだった。


「わたしは、空を見たい。あの子たちにも見せたい。アダムが地上で生まれてきたことを罪にされない世界を見たい。だから行きます」


 長老は長く沈黙した。


 そして、深く頷いた。


「わかった」


 アダンはまだ迷っていた。


 だが、やがてアダムの前に膝をついた。


「私は、お前を止めたい」


「うん」


「危険な場所へ行ってほしくない」


「うん」


「それでも、お前の意思を奪って守ることは、もうしたくない」


 アダムは目を見開いた。


 アダンは苦しそうに言った。


「だから、条件がある」


「条件?」


「苦しくなったら言え。怖くなったら言え。歩けなくなったら言え。死にたいと思ったら、必ず言え。黙って消えようとするな」


 アダムは少し黙った。


 それから頷いた。


「言う」


「約束できるか」


「たぶん」


「たぶんか」


「イヴも、たぶん我慢するって言ってた」


 イヴが横から言った。


「叩く話をここで出さないで」


 アダムは少し笑った。


 アダンも、ほんのわずかに笑った。


「なら、たぶんでいい」


 彼はそう言って、アダムの頭に手を置いた。


 その手は不器用だった。


 サタンのようではなかった。


 だが、逃げない手だった。


 アダムはその手を、今だけは振り払わなかった。


 ◇◇◇


 出発は、夜明け前に決まった。


 地下集落の人々は、静かに準備を始めた。


 食料、水、古い通信部品、薬、包帯、地下道の地図。秘書は必要なものを淡々と選び、イヴは使える道具と使えない道具を即座に分けていった。桜夜は地球側の青年と通信をつなぎ直し、通信塔の構造を確認している。


『塔の上層は議会が押さえてますけど、地下の旧管理層から入れる可能性があります。問題は防衛機構ですね。古すぎて逆に読めない』


「古い機械は嫌いか」


『新しい機械も嫌いです。思い通りにならない機械が嫌いです』


「では、ほとんど全部だな」


『そうとも言います』


 アダムは寝台の上で、その声を聞いていた。


 本当は手伝いたかった。


 けれどイヴに寝ていなさいと言われ、アダンにも休めと言われ、秘書には「今のあなたの仕事は回復です」と言われた。


 だから、横になっていた。


 横になっているだけなのに、落ち着かなかった。


 何もしていないと、サタンのことを考えてしまう。


 処刑台。


 白い布。


 赤い石畳。


 最後の微笑み。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 その言葉は、昨夜アダムを今日につなぎ止めた。


 けれど、同時に痛かった。


 ありがとうと言われたのに、自分はまだ生まれてきてよかったと言えない。


 ありがとうと言ってくれた人を、助けることもできなかった。


 アダムは布団の中で木の鳥を握った。


 ノアがくれた鳥。


 空を知らない子どもが作った鳥。


 不格好な翼を指でなぞっていると、扉が開いた。


 イヴだった。


「まだ起きてたの」


「眠れない」


「明日歩くんだから寝なきゃ駄目」


「わかってる」


「わかってる顔をして」


「それ、父さんにも言ってた」


「大人も子どもも、わかってないときは同じ顔をするの」


 イヴは寝台のそばに座った。


 アダムは木の鳥を彼女に見せた。


「ノアがくれた」


「いいな。あの子、気に入った人にしか渡さないのよ」


「そうなの?」


「うん。わたしはまだもらってない」


「じゃあ、返したほうがいい?」


「いいの。もらっておきなさい」


 イヴは木の鳥を見て、少し微笑んだ。


「空を見たこともないのに、鳥を作るんだよね。あの子」


「うん」


「変だよね」


「変かな」


「でも、いい変」


 アダムは木の鳥を胸に置いた。


「ぼく、明日が怖い」


「うん」


「通信塔も怖い。統一議会も怖い。父さんがまたいなくなるのも怖い。桜夜が帰っちゃうのも怖い。イヴが怪我するのも怖い」


「うん」


「生きてると、怖いことが増える」


「そうだね」


「死んだら、怖くなくなるのかな」


 イヴは少し黙った。


 そして言った。


「わからない」


「イヴもわからないの?」


「わからない。死んだことないから」


 アダムは少しだけ笑った。


「そっか」


「でも、生きてると怖いことが増えるのは本当だと思う」


 イヴは自分の手を見た。


「大切な人ができたら、その人を失うのが怖くなる。空を見たいと思ったら、見られないまま死ぬのが怖くなる。明日が来てほしいと思ったら、明日が来ないのが怖くなる」


「じゃあ、やっぱり苦しいね」


「うん。苦しい」


「それでも、生きるの?」


 イヴはアダムを見た。


 アメジストのような瞳が、薄暗い部屋の灯りを映していた。


「怖いものが増えるってことは、大切なものが増えたってことでもあるから」


 アダムは黙った。


「わたしは、そう思うことにしてる」


「思うことにしてる?」


「本当にそうかは知らない。でも、そう思うことにしてる。じゃないと、怖いだけになっちゃうから」


 アダムは木の鳥を握った。


 怖いものが増える。


 大切なものが増える。


 サタンを失った怖さ。


 アダンをまた失うかもしれない怖さ。


 イヴが傷つくかもしれない怖さ。


 桜夜がいなくなるかもしれない怖さ。


 それらは全部、自分が大切に思い始めているからなのだろうか。


 だとしたら、生きることはずるい。


 苦しいのに、大切なものを増やしてしまう。


 失えば痛いのに、出会ってしまう。


「イヴ」


「なに」


「ぼく、イヴが怪我したら嫌だ」


 イヴは少し驚いた顔をした。


 それから、照れたように目を逸らした。


「じゃあ、怪我しないように頑張る」


「約束?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「絶対って言うと嘘になるから」


「そっか」


 アダムは頷いた。


「じゃあ、ぼくもたぶん頑張る」


「うん。たぶんでいい」


 イヴは布団をかけ直した。


「寝て」


「うん」


「怖くなったら?」


「言う」


「死にたくなったら?」


「ひとりで決めない」


「よし」


 イヴは立ち上がろうとした。


 アダムは思わず彼女の袖を掴んだ。


 イヴが振り返る。


「どうしたの」


「少しだけ、ここにいて」


 自分で言ってから、アダムは恥ずかしくなった。


 だが、イヴは笑わなかった。


「いいよ」


 彼女は椅子を引き寄せ、寝台のそばに座った。


 アダムは目を閉じた。


 誰かがそばにいる気配。


 それは、サタンとは違う。


 けれど、孤独ではなかった。


 眠りに落ちる直前、アダムは胸の中で呟いた。


 サタン。


 ぼく、また怖いものが増えたよ。


 返事はなかった。


 でも、どこかで困ったように笑う気配がした。


 それは気のせいかもしれない。


 それでも、アダムはその気配を抱いて眠った。


 ◇◇◇


 夜明け前、地下集落の門が開いた。


 地上へ向かうのではない。


 さらに深く、通信塔の地下へつながる古い保守通路へ向かう門だった。


 アダムは厚手の上着を着せられ、肩から小さな鞄を下げていた。中には水筒と包帯、それからノアの木の鳥が入っている。


 イヴは短い外套を羽織り、腰に小さなナイフと工具を下げていた。


 桜夜は黒い服のまま、何も持っていないように見えたが、秘書によれば「持っていないように見える人ほど危険」らしい。


 アダンは古い剣を持っていた。


 騎士団の剣ではない。


 地下の武器庫に残っていた、旧時代の剣だった。


「それでいいの?」


 アダムが尋ねる。


 アダンは剣を見た。


「ああ」


「前の剣じゃないんだ」


「騎士団の剣は、置いてきた」


「どうして」


「私が守っていたものを、もう守れないからだ」


 アダムは少し考えた。


「じゃあ、その剣では何を守るの」


 アダンはアダムを見た。


「お前の選択を」


 アダムは何も言えなかった。


 その言葉は、まだ少し重かった。


 けれど、嫌ではなかった。


 出発前、ノアとミラが走ってきた。


 ノアは息を切らしながら言った。


「アダム、鳥、持ってる?」


「持ってる」


「それ、空を見たら教えて」


「鳥に?」


「うん。ぼくの代わりに」


 アダムは鞄を押さえた。


「わかった」


 ミラが小さく手を伸ばした。


 アダムは少し迷って、その手を握った。


「帰ってくる?」


 ミラが聞いた。


 アダムは答えに詰まった。


 帰ってくる。


 そう言いたかった。


 でも、言い切るのが怖かった。


 すると、イヴが横から言った。


「帰ってくる努力はする」


 ミラは不満そうに眉を寄せた。


「努力?」


「うん。絶対って言うと嘘になるから」


「じゃあ、努力して」


「する」


 アダムも頷いた。


「努力する」


 ミラは少し考えてから、アダムの手を離した。


「じゃあ、いい」


 地下の人々が見送る中、アダムたちは保守通路へ入った。


 扉が閉まる。


 背後の集落の灯りが細くなり、やがて見えなくなった。


 前には暗闇があった。


 冷たい風が吹いていた。


 アダムは足を止めなかった。


 怖い。


 足は震えている。


 胸の奥では、サタンを失った痛みがまだ疼いている。


 けれど、鞄の中には木の鳥がある。


 隣にはイヴがいる。


 少し前には桜夜が歩き、後ろにはアダンがいる。秘書の足音も静かに続いている。


 ひとりではない。


 それが救いなのか、また失うものが増えたということなのか、アダムにはまだわからない。


 でも、今は歩いた。


 暗闇の先へ。


 通信塔へ。


 消されかけた声を、消させないために。


 しばらく進むと、通路の壁に古い文字が刻まれていた。


 イヴが灯りを近づける。


「旧時代の標語ね」


「なんて書いてあるの」


 アダムが尋ねる。


 イヴは少し読みにくそうに目を細めた。


「未来は、まだ生まれていない者のために」


 その場の空気が止まった。


 反出生主義法が生まれる前の言葉。


 かつてエデンにも、まだ生まれていない者のために未来を残そうとした時代があった。


 その言葉は、ひび割れた壁に刻まれたまま、長い時間を越えて残っていた。


 アダムはその文字に触れた。


 冷たい石の感触。


 だが、そこに刻まれた言葉は、どこか温かかった。


「まだ生まれていない者」


 アダンが呟いた。


 その声には、悔恨が滲んでいた。


 桜夜は壁を見上げた。


「どの世界でも、未来を信じた言葉ほど、あとから読むと痛い」


「地球にもあるの?」


 アダムが聞く。


「たくさんある」


「それでも、地球人は未来を信じるの?」


「信じたり、裏切ったり、また信じたりする」


「忙しいね」


「諦めが悪いからな」


 アダムは小さく笑った。


 そのときだった。


 通路の奥から、低い機械音が響いた。


 秘書が即座に前へ出る。


「熱源反応。複数」


 イヴの顔が強張った。


「防衛機構」


 暗闇の奥で、赤い光が点いた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 古い自律兵器だった。


 錆びた装甲をまとい、脚部を軋ませながら、通路の奥からゆっくりと現れる。長い年月のせいで動きは鈍いが、腕部に備えられた銃口はまだ生きていた。


『まずいです』


 通信端末から青年の声がした。


『それ、旧時代の軍用機です。議会の現行兵器より荒いけど、火力は高い』


「止められるか」


 桜夜が聞く。


『遠隔では無理。閉鎖系です。物理的に止めてください』


「簡単に言う」


『そっちのほうが得意でしょ』


 桜夜は前に出た。


 アダンも剣を構える。


 秘書の光糸が展開する。


 イヴはアダムを壁際へ引いた。


「伏せて」


「でも」


「いいから」


 アダムは壁際にしゃがんだ。


 心臓が激しく鳴る。


 銃口が光った。


 次の瞬間、通路に轟音が響いた。


 桜夜が手を振る。


 目に見えない壁のようなものが弾丸を逸らした。秘書の光糸が一体の脚を絡め取り、アダンがその関節部へ剣を叩き込む。火花が散る。


 だが、機械は止まらなかった。


 もう一体が腕を上げる。


 銃口はイヴのほうを向いていた。


 アダムは息を呑んだ。


 怖いものが増えるってことは、大切なものが増えたってことでもある。


 イヴの声が蘇る。


 撃たれる。


 そう思った瞬間、身体が動いていた。


「イヴ!」


 アダムは彼女を突き飛ばした。


 銃声。


 熱いものが、左肩をかすめた。


 痛みが遅れてやってきた。


 アダムは地面に倒れた。


「アダム!」


 イヴの叫びが響く。


 アダンの顔が変わった。


 桜夜が低く何かを呟いた。


 次の瞬間、通路の空気が歪んだ。


 桜夜の影が伸びる。


 黒い線のようなものが床を走り、自律兵器の足元に絡みついた。秘書の光糸がそれを補強し、アダンの剣が中枢部を貫く。


 一体。


 二体。


 三体。


 機械は火花を散らしながら崩れ落ちた。


 通路に、焦げた金属の匂いが満ちる。


 イヴがアダムに駆け寄った。


「バカ!」


 泣きそうな声だった。


「またバカって言った」


 アダムは痛みに顔をしかめながら言った。


「言うわよ! なんで飛び出したの!」


「イヴが、撃たれそうだったから」


「自分が撃たれたら意味ないでしょ!」


「かすっただけ」


「血が出てる!」


「でも、生きてる」


 イヴは言葉を失った。


 アダンが膝をつき、すぐに傷を確認する。弾は肩を浅く裂いただけだった。深くはない。だが、痛みは鋭く、アダムの顔色は真っ白だった。


 アダンの手が震えていた。


「すぐに止血する」


「父さん」


「喋るな」


「ぼく、言ったよ」


 アダンは動きを止めた。


「怖いって、言った。痛いって、今言う。死にたいとは、思ってない」


 アダンの目が揺れた。


 アダムは苦しそうに息をしながら、それでも言った。


「だから、大丈夫じゃないけど、大丈夫」


 イヴは涙をこぼした。


「何それ」


「わからない」


「ほんと、わからないことばっかり」


「うん」


 アダムは小さく笑った。


 痛い。


 怖い。


 でも、イヴが生きている。


 そのことに、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 誰かを守ろうとして身体が動いた。


 それは、死にたいからではなかった。


 生きていてほしいと思ったからだった。


 アダムはそのことに、少し遅れて気づいた。


 自分は今、イヴに生きていてほしいと思った。


 それは、サタンが自分に向けてくれた願いと同じ形をしていた。


 痛みの中で、アダムは泣きそうになった。


「イヴ」


「なに」


「ぼく、今、イヴに生きててほしいって思った」


 イヴは目を見開いた。


「それで飛び出すのは違う」


「うん。たぶん、違う」


「たぶんじゃない」


「でも、思った」


 イヴは唇を噛んだ。


 そして、アダムの手を握った。


「わたしも、あなたに生きててほしい」


 アダムの喉が詰まった。


 サタンとは違う声。


 でも、同じ願い。


 生きていてほしい。


 その願いは、優しいだけではない。


 ときに身勝手で、重くて、痛い。


 それでも、誰かからそう願われることは、アダムの身体をこの世界につなぎ止めた。


 桜夜が近づいてきた。


「動けるか」


 イヴが睨んだ。


「動かせるわけないでしょう」


「聞いただけだ」


「聞かなくてもわかるでしょう」


「わかっている顔をしていなかったか」


「してません」


 アダムは痛みの中で少し笑った。


 アダンが包帯を巻きながら言った。


「少し休む。だが、長くは止まれない」


 秘書が通路の奥を確認する。


「銃声に反応して、他の防衛機構が起動する可能性があります」


『あと、議会側も地下振動を検知したかもしれません』


 青年の声が続いた。


『急いだほうがいいです。でも、アダム君の状態だと走るのは無理ですね』


 イヴは迷わず言った。


「担架を作る」


「材料は」


 秘書が尋ねる。


「壊れた機械の外装と、持ってきた布」


「可能です」


 秘書はすぐに動いた。


 アダンも手伝う。


 桜夜は周囲を警戒しながら、アダムのそばに立っていた。


 アダムは壁にもたれ、浅く息をした。


 肩が痛い。


 痛いのに、不思議と心は昨日ほど暗くなかった。


 痛みは、生きている証拠だ。


 そんな綺麗なことを思ったわけではない。


 ただ、痛いと口にできた。


 怖いと知っていた。


 死にたいとは思っていなかった。


 それだけだった。


 イヴが戻ってきて、彼の額に手を当てた。


「熱はまだない」


「イヴ」


「なに」


「叩かない?」


「今は叩かない」


「よかった」


「あとで怒る」


「やっぱり」


 イヴは目を赤くしたまま、少しだけ笑った。


「生きて帰ったらね」


 生きて帰ったら。


 その言葉が、アダムの胸に残った。


 帰る場所。


 昨日までは、そんなものはないと思っていた。


 森の小屋には戻れない。


 サタンはいない。


 地上は敵だらけだ。


 でも、地下にはノアとミラがいる。


 イヴがいる。


 生きて帰ったら怒られる約束がある。


 それは、ささやかすぎる未来だった。


 けれど、確かに未来だった。


 アダムは鞄の中の木の鳥を思い出した。


 空を知らない鳥。


 まだ飛んでいない鳥。


 自分も、そうなのかもしれない。


 生まれてきたことの意味もわからない。


 生きる理由もわからない。


 でも、まだ飛んでいない。


 まだ見ていない空がある。


 担架が完成した。


 簡素なものだったが、アダム一人を運ぶには十分だった。


 彼はそこに寝かされた。


「ごめん」


 アダムは言った。


 イヴが即座に答えた。


「謝るところじゃない」


「でも」


「ありがとうでいい」


 アダムは戸惑った。


「ありがとう?」


「助けてくれたんでしょ。だったら、謝るよりありがとうって言わせて」


 アダムは目を伏せた。


 そして、小さく頷いた。


「うん」


 イヴは彼の顔を覗き込んだ。


「ありがとう、アダム」


 その言葉は、サタンの言葉と少し似ていた。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 そこまではまだ遠い。


 けれど、今この瞬間、アダムが生きていて、身体を動かし、イヴを守ろうとしたことに、イヴはありがとうと言った。


 アダムの目に涙が浮かんだ。


「どういたしまして」


 声は小さかった。


 でも、確かに出た。


 桜夜が前方を見た。


「進むぞ」


 アダンが担架の片側を持ち、秘書がもう片側を持った。イヴはアダムの横につき、桜夜は先頭を歩く。


 通路の奥には、まだ暗闇が続いていた。


 その先に通信塔がある。


 そのさらに先に、地上の空がある。


 アダムは担架の上で、ゆっくり息をした。


 肩は痛い。


 怖さも消えない。


 けれど、死にたいとは思っていない。


 今はまだ。


 少なくとも、この暗闇を抜けるまでは。


 少なくとも、ノアの鳥に空を見せるまでは。


 少なくとも、イヴにあとで怒られるまでは。


 生きていようと思った。


 それは小さな理由だった。


 とても小さな、生きる理由だった。


 だが、アダムにはそれで十分だった。


 サタン。


 ぼく、また少しだけ理由が増えたよ。


 暗闇の中で、アダムは胸の内に語りかけた。


 返事はない。


 それでも、彼は目を閉じなかった。


 前を見る。


 壊れた機械の残骸を越え、冷たい風の吹く通路の先へ。


 未来は、まだ生まれていない者のために。


 壁に刻まれていた言葉が、アダムの胸の奥で静かに響いていた。


 生まれてはいけないと教えられた星で。


 生まれてきてしまった少年は。


 まだ生まれていない未来のために、暗闇の中を運ばれていった。


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