第4話 今日だけは諦めない
地下路は、思っていたよりも長かった。
古い石壁に囲まれた通路は、都市の下を蛇のように曲がりながら北へ伸びていた。天井は低く、ところどころで水が滴っている。足元には薄く泥が溜まり、歩くたびに湿った音がした。
アダムは、桜夜の少し後ろを歩いていた。
その隣にはアダンがいる。秘書は最後尾で、背後から追手が来ないか確認していた。通信端末の向こうでは天才ハッカーの青年が道案内をしていたが、地下に入ってから通信は何度も乱れ、声は途切れがちだった。
『そこから……左……いや、右かも……待ってください、地図が古すぎる』
「頼りないな」
桜夜が言った。
『じゃあ自分で解析してくださいよ。こっちは地球から未知文明の地下道を読んでるんです。褒められてもいいくらいです』
「褒めている」
『絶対嘘でしょ』
アダムはそのやりとりを聞きながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
けれど、笑みはすぐに消えた。
足が重かった。
さっきまで歩けると思っていた。死を選ばなかった。死への返事を先延ばしにした。だからもう少し進めると思っていた。
でも、身体は正直だった。
処刑の日から、彼はまともに休んでいない。殴られ、蹴られ、雨に濡れ、思想医療院で拘束され、逃げ、走り、泣き、また走った。小さな身体は限界に近かった。
それでも、アダムは黙って歩いた。
苦しいと言えば、また誰かが自分のために立ち止まる。
自分のせいで、誰かが危険になる。
サタンは死んだ。
もう、誰かを失いたくなかった。
だから黙っていた。
だが、黙っていれば苦しみが消えるわけではなかった。
視界が揺れた。
壁の松明の光が、にじんで見えた。
足元の石が遠くなる。
次の瞬間、アダムの膝から力が抜けた。
「アダム!」
アダンの声がした。
倒れる直前、誰かの腕が彼を受け止めた。
それがアダンなのか、桜夜なのか、アダムにはわからなかった。耳鳴りがした。冷たい地下の空気が遠ざかり、身体の感覚が薄くなる。
眠ってはいけない。
そう思った。
眠れば、サタンのいない世界で目覚めなければならない。
それは怖かった。
けれど、身体はもう言うことを聞かなかった。
意識が沈んでいく。
最後に聞こえたのは、アダンの震える声だった。
「置いていかないと言っただろう」
その声は、誰に向けたものだったのか。
アダムにはわからなかった。
◇◇◇
目を覚ましたとき、アダムは最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
視界には茶色い天井があった。
白い施設の天井ではない。
森の小屋の天井でもない。
木で組まれた、低く温かみのある天井だった。灯りは柔らかく、空気には薬草の匂いが混じっていた。身体は清潔な布団に包まれている。頬も、腕も、腹も、傷が丁寧に手当てされていた。包帯が巻かれ、熱を持っていた場所には冷たい布が当てられている。
なぜ生きているのだろう。
最初に浮かんだのは、その問いだった。
次に、サタンの顔が浮かんだ。
処刑台の上で微笑んだ顔。
アダムは息を呑んだ。
「サタン」
名を呼んだ。
返事はなかった。
代わりに、部屋の扉が静かに開いた。
一人の少女が入ってきた。
アダムは目を見開いた。
少女は、クリーム色の髪を肩のあたりで揺らしていた。瞳はアメジストのように淡く輝き、肌は透けるように白い。年齢はアダムと同じくらいにも見えたし、少し年上にも見えた。服は古い布を縫い直した簡素なものだったが、不思議と彼女の雰囲気によく似合っていた。
少女は盆を持っていた。
湯気の立つ器と、水差しと、薬の小瓶が載っている。
彼女はアダムが目を覚ましていることに気づくと、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった。目が覚めたのね」
アダムは答えなかった。
声を出すことが怖かった。
誰かに優しくされることも、怖かった。
優しさは、失うと痛い。
サタンがそうだった。
「大丈夫? 自分が誰かわかる?」
少女は寝台のそばへ来た。
アダムは少しだけ身を引いた。
「……ぼくは、どうして」
「倒れたの。地下路で。桜夜って人と、騎士みたいな人があなたを抱えてここまで来た」
「桜夜と、父さんは」
「隣の部屋で休んでる。あの騎士の人は、あなたのそばにいるって聞かなかったけど、傷の処置をしないと倒れるのはあの人のほうだったから、無理やり寝かせたわ」
「父さんを?」
「ええ」
少女は少しだけ得意げに胸を張った。
「わたし、けっこう強いの」
アダムはぼんやりと彼女を見た。
この少女は何者なのだろう。
エデンに子どもはいないはずだった。
少なくとも、存在してはいけないはずだった。
「きみは」
「わたし?」
「どうして、ここにいるの」
少女は盆を小さな机に置いた。
「この地下集落に住んでるの。旧市街の下に、昔から隠れて暮らしている人たちがいるのよ。統一議会のやり方に従えなかった人。矯正から逃げた人。子どもを産みたかった人。産めなかった人。いろんな人がいる」
「子どもも?」
「少しだけ」
アダムは息を止めた。
「ぼく以外にも」
「いるわ」
その言葉は、アダムの胸の奥に静かに落ちた。
自分だけではなかった。
生まれてはいけない星に、生まれてしまった子どもは他にもいた。
隠され、逃げ、息を潜め、それでも生きている子どもたちが。
「どうして助けたの」
アダムは尋ねた。
少女はきょとんとした。
「どうしてって、倒れていたから」
「ぼくを助けたら、危ない」
「そうね」
「統一議会に見つかったら」
「たぶんひどい目に遭うわ」
「じゃあ、どうして」
少女は少し困ったように眉を寄せた。
「あなた、変なことを聞くのね」
「変?」
「誰かが倒れていたら、助けるでしょう」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
アダムは何も言えなくなった。
町では、誰も助けてくれなかった。
道に倒れていても、人々は見て通り過ぎただけだった。かわいそうにという言葉だけが降ってきて、手は伸びてこなかった。
けれど、この少女は言った。
倒れていたから助けた、と。
それだけのことのように。
アダムは布団を握りしめた。
「……助けなくてよかったのに」
少女の手が止まった。
「え?」
「ぼくは、死にたかった」
部屋の空気が変わった。
少女の顔から微笑みが消えた。
アダムは天井を見たまま続けた。
「サタンが死んだ。ぼくを育ててくれた人。ぼくに地球の話をしてくれた人。生まれてきて嬉しいって言ってくれた人。あの人が死んだ。もう会えない」
声が震えた。
「会えないのに、生きてる意味がわからない。生まれてこなければ、こんなに苦しくなかった。サタンに会わなければ、サタンが死んでも苦しくなかった。だから、助けなくてよかった。ぼくは、死にたかったのに」
次の瞬間だった。
乾いた音が部屋に響いた。
アダムの右頬が熱を持った。
少女が、彼を叩いていた。
強い力ではなかった。
けれど痛かった。
アダムは呆然と少女を見た。
少女の瞳には、涙が浮かんでいた。
「バカ」
彼女は言った。
声が震えていた。
「そんなこと言うな」
「……」
「あんたは生きてるんだから、そんなこと言うな!」
アダムは言葉を失った。
怒鳴られたことはあった。
町で男に怒鳴られた。
騎士にも命令された。
医師には優しく否定された。
けれど、この少女の怒りは、それらのどれとも違っていた。
彼女はアダムを責めているのに、泣きそうだった。
「あんたが死にたいって言ったら、あんたに生きてほしかった人はどうなるの」
少女は拳を握りしめた。
「あなたの大切な人も、あなたに生きていてほしいと思っているんじゃないの?」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
深く。
深く。
アダムは息を止めた。
サタンの声が蘇った。
森の小屋。
夜。
暖炉の火。
サタンの膝の上。
幼いアダムは、サタンの黒いローブにくるまっていた。
「ねえ、サタン」
「何だ」
「ぼくが生まれたことで、サタンは困った?」
「なぜそう思う」
「だって、ぼくがいると危ないんでしょ。統一議会に見つかったら、サタンも捕まっちゃう」
サタンは少し黙った。
そして、アダムの頭を撫でた。
「アダム。私はお前が生まれてきて嬉しい」
「ほんとう?」
「ああ」
「でも、この世界は苦しいんでしょ」
「確かに、この世界は楽しいことばかりではない。辛いことも多いかもしれない」
「じゃあ、ぼくは生まれないほうがよかった?」
「違う」
サタンの声は、いつになくはっきりしていた。
「それでもなお、私はお前が生まれてきてくれて嬉しい」
「どうして?」
「だって、お前に会えたから」
サタンは笑った。
あの、困ったような、優しい笑みだった。
「私はお前に会えて嬉しいよ。アダム」
そして、彼は言った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その記憶は、アダムの胸の奥で光った。
失ったから苦しい。
会えないから痛い。
ならば、あの言葉も痛みになる。
サタンの温もりも、声も、笑顔も、すべて刃になる。
けれど。
それでも。
サタンは、自分に死んでほしかっただろうか。
処刑台の上で、最後に微笑んだサタンは、自分に何を伝えようとしていたのだろうか。
怖かったか、アダム。
地球人なら、ここからでも諦めないぞ。
そんな声が、聞こえた気がした。
アダムの目から涙がこぼれた。
一度こぼれると、止まらなかった。
胸の奥に凍っていたものが溶けるように、涙は次々にあふれた。
「サタン」
アダムは布団を握りしめた。
「サタン、ぼく、どうしたらいいの」
少女は黙っていた。
そして、そっと寝台の端に座った。
先ほど叩いた手で、今度はアダムの頭を撫でた。
不器用な手つきだった。
サタンとは違う。
でも、温かかった。
「わからなくていいよ」
少女は言った。
「今すぐ、生きたいって思えなくてもいい。生まれてきてよかったって思えなくてもいい。でも、死にたいって思ったときは、ひとりで決めないで」
アダムは泣きながら彼女を見た。
「桜夜も、同じこと言ってた」
「なら、その人は少し信用できるわね」
「少し?」
「全部信用するのは危ないわ。大人って、たまに勝手だから」
「きみも子どもなのに、大人みたいなこと言う」
「地下では子どもでも働くの」
少女は小さく笑った。
アダムは涙を拭いた。
「名前は?」
「わたし?」
「うん」
少女は少しだけ迷った。
そして言った。
「イヴ」
アダムは目を見開いた。
「イヴ?」
「変?」
「ぼくは、アダム」
「知ってる」
「知ってるの?」
「地下ではもう有名よ。統一議会が消そうとした子。サタンに育てられた子。地球から来た人たちが助けようとしている子」
アダムは顔を伏せた。
「有名になりたくない」
「でしょうね」
「ぼくは、ただサタンと暮らしていたかった」
イヴは少し黙った。
その沈黙は優しかった。
何かをすぐに慰めようとしない沈黙だった。
「わたしも」
彼女は言った。
「わたしも、ただ普通に暮らしたかった」
「イヴも?」
「うん」
彼女は自分の膝を見た。
「わたしの母さんは、わたしを産んだあと死んだ。父さんはわたしを地下に逃がして、戻ってこなかった。たぶん捕まったんだと思う。地下の人たちは優しいけど、本当の家族じゃない。だから、普通に暮らしたかったって思うこと、あるよ」
アダムは彼女を見た。
イヴは微笑もうとしたが、うまくいかなかった。
「でも、わたしは生きてる。生きてるから、怒れる。泣ける。あなたを叩くこともできる」
「叩くのは、よくない」
「ごめん」
イヴは素直に謝った。
「でも、また死にたいって言ったら、また怒る」
「また叩く?」
「それは……たぶん我慢する」
「たぶん?」
「たぶん」
アダムは少しだけ笑った。
笑った瞬間、また涙が出た。
笑うことと泣くことが同時に来るのは、不思議だった。
イヴは、今度は何も言わずにアダムの頭を撫で続けた。
やがて扉が開いた。
アダンが立っていた。
肩に包帯を巻き、顔色は悪い。だが、立っている。彼は部屋の中のアダムを見て、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「起きたのか」
アダムは涙の跡が残る顔で頷いた。
アダンはイヴを見た。
「世話をかけた」
「ほんとにかけられました。大人が二人も三人もいて、子ども一人まともに寝かせられないなんて」
アダンは言葉に詰まった。
アダムは驚いた。
騎士団長だった父に、ここまではっきり言う人を初めて見た。
アダンは深く頭を下げた。
「すまない」
イヴは腕を組んだ。
「わたしに謝るより、この子に謝ってください」
「それは、これからずっとする」
「ずっと?」
「ああ。たぶん、一生かかる」
アダムは布団の中で小さく息を吸った。
一生。
その言葉は、少し怖かった。
だが、アダンが自分の前で未来の時間を口にしたことが、不思議でもあった。
エデンでは、未来は閉じられたものだった。
誰も次の世代を語らない。
誰も一生を約束しない。
けれど今、アダンは「一生」と言った。
アダムのそばにいるために。
桜夜も部屋に入ってきた。
その後ろには秘書がいる。
桜夜はアダムの頬を見て、眉を上げた。
「叩かれたのか」
イヴが身構えた。
「叩きました」
「そうか」
「怒りますか」
「いや」
桜夜はアダムを見た。
「目が戻った」
アダムは自分の目元を触った。
「目?」
「死にたい者の目ではなくなった」
「まだ、わからない」
「それでいい」
桜夜はイヴを見た。
「助かった」
「助けたのはわたしだけじゃありません。地下の人たちです」
「なら、全員に礼を言う」
「礼より、説明がほしいです。地球から来たとか、平行世界とか、通信塔とか、変な話ばかり聞かされて、みんな混乱しています」
「説明はする」
秘書が淡々と言った。
「ただし、追手が来る前に次の行動を決める必要があります」
イヴは頷いた。
「地下集落の奥に会議場があります。長老たちが待っています」
「長老?」
アダムが尋ねる。
「地下で暮らしている人たちのまとめ役。みんな年寄りよ。話が長いの」
「それは困るな」
桜夜が言った。
「あなたも話が短そうには見えません」
イヴが返す。
秘書がわずかに頷いた。
「的確です」
桜夜は肩をすくめた。
アダムはまた少し笑った。
部屋の中に、不思議な空気が流れた。
サタンはいない。
それは変わらない。
胸の痛みも消えない。
だが、痛みのある場所に、誰かの声が入り込んでくる。
桜夜の静かな声。
アダンの苦しそうな声。
秘書の淡々とした声。
通信の向こうの変な青年の声。
そして、イヴの怒った声。
バカ。
あんたは生きてるんだから、そんなことを言うな。
その言葉は乱暴だった。
優しいだけの言葉ではなかった。
けれど、アダムの中で何かをつなぎ止めていた。
アダムは布団から起き上がろうとした。
アダンが慌てて近づく。
「まだ寝ていろ」
「歩ける」
「無理だ」
「でも」
イヴが布団を押さえた。
「寝てなさい」
「でも、通信塔に」
「あなたが倒れたら、みんな困るでしょ」
アダムは言葉に詰まった。
「でも、ぼくのせいで」
「違う」
イヴはきっぱりと言った。
「あなたのせいじゃない。統一議会のせい。反出生主義法のせい。見て見ぬふりをしてきた大人たちのせい。あなたが生まれたせいじゃない」
その言葉は、部屋にいた大人たちにも突き刺さった。
アダンは目を伏せた。
桜夜は何も言わなかった。
秘書だけが静かにイヴを見ていた。
「あなたが生きてることを、誰かの罪みたいに言わないで」
イヴは続けた。
「それを言っていいのは、あなたを生かそうとして死んだ人たちに失礼よ」
アダムの胸が震えた。
サタン。
リリス。
顔も覚えていない母。
けれど、自分を産むために死んだ人。
「ぼく」
アダムは小さく言った。
「ぼく、まだ生まれてきてよかったって言えない」
イヴは頷いた。
「うん」
「でも」
アダムは胸を押さえた。
「サタンが、ぼくに会えて嬉しいって言ってくれたことは、忘れたくない」
「うん」
「生まれてきてくれて、ありがとうって」
声が震えた。
「言ってくれた」
イヴは静かに微笑んだ。
「なら、今はそれだけ持っていればいいんじゃない」
「それだけ?」
「うん。それだけで、今日一日くらいは生きられるかもしれない」
アダムは黙った。
今日一日。
それは小さすぎる未来だった。
けれど、今のアダムにはそれくらいがちょうどよかった。
一生なんて考えられない。
世界を変えるなんて背負えない。
生を肯定するなんて、まだできない。
でも、今日一日なら。
サタンがくれた言葉を持って、今日一日だけなら。
生きられるかもしれない。
「今日だけ」
アダムは言った。
桜夜が頷いた。
「それでいい」
アダンも頷いた。
「明日のことは、明日考えればいい」
秘書が淡々と言った。
「そのためにも、今は食事と休息です」
イヴは器を手に取った。
「そういうこと。まずはこれを飲んで。薬草のスープ。苦いけど効くわ」
アダムは器を受け取った。
湯気が顔に当たる。
匂いは少し苦かった。
一口飲むと、やはり苦かった。
「苦い」
「効くって言ったでしょ」
「おいしくない」
「贅沢言わない」
アダムは眉を寄せながら、もう一口飲んだ。
温かかった。
喉を通り、胸に落ち、空っぽだった身体に少しずつ熱が戻ってくる。
それは、森の小屋でサタンが作ってくれたスープとは違った。
味も、匂いも、器の重さも違う。
でも、温かかった。
その温かさに、また泣きそうになった。
イヴは何も言わなかった。
ただ、そばに座っていた。
やがて、アダムはスープを飲み終えた。
器を返すと、イヴは満足そうに頷いた。
「よし」
「何が」
「生きる準備、ひとつ目」
「ひとつ目?」
「食べること」
イヴは指を一本立てた。
「眠ること。泣くこと。怒ること。誰かの名前を呼ぶこと。そういうのを、一個ずつやるの。そうしたら、いつの間にか一日くらい過ぎてる」
アダムは少し考えた。
「イヴは、そうやって生きてきたの?」
「うん」
「強いね」
「強くないわ」
イヴは首を振った。
「強くないから、そうやってごまかしてるの」
「ごまかすのは、悪いこと?」
「たぶん、悪くない。死なないためなら」
桜夜が静かに言った。
「良い答えだ」
イヴは少し照れたように顔を背けた。
「大人に褒められても嬉しくありません」
「そうか」
「少しだけです」
アダムは、また笑った。
今度は少しだけ長く笑えた。
その笑い声を聞いて、アダンは目を閉じた。
サタンが最後に見せた微笑み。
リリスがかつて見せた笑顔。
それらが重なり、胸の奥を痛めつけた。
だが、その痛みから目を逸らさなかった。
これは自分の苦しみだ。
アダムがそう言ったように。
アダンにも、背負うべき苦しみがある。
その夜、地下集落では小さな会議が開かれた。
アダムはまだ動けないため、寝台のある部屋に残された。イヴがそばにいる。扉の向こうでは、桜夜とアダンと秘書が長老たちに説明をしている声が聞こえた。
通信塔。
地球。
平行世界。
統一議会の弾圧記録。
全星への公開。
聞こえてくる言葉はどれも大きく、アダムにはまだ遠かった。
彼は布団の中で、イヴに尋ねた。
「イヴは、外の世界を見たい?」
「外?」
「地下じゃなくて。空の下」
イヴは少し考えた。
「見たい」
「怖くない?」
「怖い」
「じゃあ、どうして」
「怖いからって、見たくないことにはならないでしょう」
アダムはその言葉を胸の中で繰り返した。
怖いからって、見たくないことにはならない。
生きることも、そうなのだろうか。
苦しいからって、生きたくないことにはならない日が、いつか来るのだろうか。
まだわからない。
でも、イヴはそう言った。
サタンもきっと、少し似たことを言っただろう。
「イヴ」
「なに」
「ぼく、明日も死にたいって思うかもしれない」
「うん」
「そのとき、怒る?」
「怒る」
「叩く?」
「たぶん我慢する」
「たぶんなんだ」
「たぶんね」
アダムは笑った。
そして、小さく言った。
「じゃあ、言う」
「うん。言って」
「死にたいって思ったら、ひとりで決めない」
「そうして」
イヴは布団を直した。
「それで、今日一日は?」
アダムは目を閉じた。
サタンの声が胸に残っていた。
生まれてきてくれて、ありがとう。
その言葉はまだ痛かった。
けれど、痛いだけではなかった。
温かさも、少しだけ残っていた。
「今日一日は、生きる」
アダムは言った。
イヴは優しく微笑んだ。
「うん」
地下集落の外では、統一議会の捜索部隊が旧市街を包囲し始めていた。
都市全域では、消されたはずの記録がまだ流れ続けていた。
エデンの人々は、眠れない夜を迎えようとしていた。
誰かは怒り、誰かは否定し、誰かは泣き、誰かは忘れていた名前を思い出していた。
世界はまだ変わっていない。
法律も、議会も、騎士団も、矯正施設も残っている。
サタンは戻らない。
リリスも戻らない。
死んだ子どもたちも戻らない。
それでも、地下の小さな部屋で、アダムはスープを飲み、涙を流し、少女に叱られ、今日一日だけ生きることにした。
それは、歴史書に残るような偉大な決断ではなかった。
革命でもない。
勝利でもない。
ただ、ひとりの少年が、死を選ぶことを一日だけやめたというだけのことだった。
けれど、ある世界では、それを奇跡と呼ぶ。
ある世界では、それを祈りと呼ぶ。
そして、サタンならきっと、困ったように笑ってこう言っただろう。
よくやった、アダム。
地球人に負けないくらい、諦めが悪いじゃないか。
アダムは眠りに落ちる直前、胸の中で返事をした。
うん。
ぼく、今日だけは諦めない。
その夜、地下の小さな部屋で、アダムは久しぶりに眠った。
サタンのいない世界で。
それでも、誰かの手の温もりが残る世界で。




