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第3話 死への返事

 アダムは走っていた。


 白い施設の非常扉を抜け、眩しい外光の中へ飛び出し、舗装された道を駆け下りる。背後では警報が鳴っていた。甲高く、冷たく、どこまでも追いかけてくる音だった。


 サントベルク中央思想医療院は、丘の上に建っていた。


 そこから見下ろす都市は美しかった。白い街路。青い屋根。幾何学的に整えられた庭園。清掃用アンドロイドが磨き上げた道路には汚れ一つなく、街路樹は季節を間違えないよう管理され、広場の噴水はいつも同じ高さで水を上げていた。


 平和な都市。


 苦痛を減らすことを誓った都市。


 そして、サタンを殺した都市。


 アダムは息を切らしながら走った。


 右には桜夜がいた。黒い服の裾を揺らしながら、ほとんど息を乱さず走っている。左にはアダンがいた。騎士服のまま、アダムの手を離さずに走っている。少し後ろには秘書の女がいて、追ってくる騎士たちの足を止めるため、時折光の糸を放っていた。


 逃げている。


 アダムはその事実を、どこか遠くの出来事のように感じていた。


 自分は助かったのだろうか。


 助かったとは、何だろう。


 サタンはいない。


 あの手はもうない。


 夜になると地球の話を聞かせてくれた声もない。


 森の小屋も、もう戻れないかもしれない。


 ならば、いま走っている自分は、何から逃げているのだろう。


 死からか。


 矯正からか。


 それとも、サタンがいない世界を生きなければならないという事実からか。


「アダム」


 桜夜が名を呼んだ。


 アダムは顔を上げた。


「足を止めるな」


「うん」


 返事をした。


 だが、足は重かった。


 走れば走るほど、胸の奥の穴が大きくなっていく気がした。そこから冷たい風が吹き込んでくる。息を吸っても満たされない。心臓は動いているのに、自分の中のどこかはもう死んでいるようだった。


 丘を下りきった先で、道は二つに分かれていた。


 一つは中央都市へ戻る広い道。


 もう一つは旧市街へ続く狭い道。


 アダンは迷わず旧市街の方へ向かった。


「こちらだ」


「通信塔は北ではないのか」


 桜夜が尋ねる。


「北へ抜ける地下路が旧市街にある。表の道はすぐ封鎖される」


「信用していいか」


「好きにしろ」


「では利用する」


 桜夜はそう言って、アダムの手を引いた。


 旧市街に入ると、空気が変わった。


 整えられた中央区とは違い、そこには古い時代の名残があった。石壁にはひびが入り、使われなくなった店の看板が錆び、窓の割れた建物には蔓が絡まっている。反出生主義法が制定される前には、ここにも家族が暮らし、子どもたちが走り、夜には酒場から歌声が漏れていたのだという。


 今は、静かだった。


 だが、その静けさは中央区の静けさとは違った。


 磨かれた静けさではない。


 放置された静けさだった。


 アダムはその通りを走りながら、胸の奥に妙な痛みを覚えた。


 どこかで見た気がした。


 この道。


 この曲がり角。


 この低い壁。


 この雨の匂い。


 違う。


 いまは雨など降っていない。


 空は青い。


 けれど、アダムの記憶の中では、冷たい雨が降っていた。


 サタンが死んだ日。


 処刑台から連れ去られるはずだった彼は、一度、騎士たちの手を逃れて町を彷徨った。


 いや、逃れたのではない。


 誰も本気で捕まえようとしなかったのかもしれない。


 サタンの処刑で広場が混乱し、騎士たちの目がほんのわずかに逸れた。その隙にアダムは人波に紛れた。行く場所などなかった。森への道もわからなくなっていた。サタンのいない小屋へ帰ることが怖かった。


 だから、彼は歩いた。


 死んだような瞳で、町を彷徨った。


 誰かに肩がぶつかった。


 どんっ。


「おい」


 男の声がした。


 アダムは返事をしなかった。


 声が遠かった。


「おい! このクソガキ!」


 肩を掴まれた。


 無理やり振り向かされた。


 次の瞬間、顔に衝撃が走った。


 地面に叩きつけられた。


 頬が石畳に擦れ、口の中に血の味が広がった。だが、痛いとは思わなかった。男は何度もアダムを蹴った。腹を。背中を。脚を。何か怒鳴っていた。


「ぶつかって来たんだから一言くらい謝ったらどうだ!? おう!?」


 アダムは何も言わなかった。


 言葉がなかった。


 男の靴が身体に当たるたび、遠くで音が鳴るだけだった。サタンの首が落ちる音に比べれば、何もかも軽かった。


 やがて男は飽きたように去っていった。


 アダムは道に横たわった。


 人々は彼を見た。


 子どもだと気づいた者もいただろう。


 傷だらけだと気づいた者もいただろう。


 だが、誰も手を差し伸べなかった。


 彼らは立ち止まらなかった。


 かわいそうに、と小さく呟く者はいた。


 やがて雨が降った。


 冷たい雨だった。


 雨はアダムの傷だらけの頬を濡らした。


 まるで泣いているかのように。


 けれどアダムは泣いていなかった。


 泣く力もなかった。


 そのとき、彼は初めて思った。


 どうして生まれてきてしまったのか。


 サタンが与えてくれた幸福が、あまりにも大きかった。


 朝のスープ。


 暖炉の火。


 地球の話。


 抱きしめられる温かさ。


 生まれてきて、うれしい、という言葉。


 それらは確かにアダムを幸せにした。


 だが、幸福が大きければ大きいほど、それを喪った苦痛もまた大きかった。


 もしサタンに会わなければ。


 もし愛されなければ。


 もし温もりを知らなければ。


 こんなに苦しくはなかったのではないか。


 ならば、やはり生まれてこないほうがよかったのではないか。


 アダムは雨の中で目を閉じた。


 このまま横たわっていれば、やがて死ぬだろう。


 それでよかった。


 これ以上生きることは、辛すぎた。


 その記憶が、いま走るアダムの足を止めた。


 旧市街の道の真ん中で、彼は突然立ち止まった。


 アダンの手が引かれる。


「アダム?」


 桜夜も振り返った。


 アダムは荒い息をしながら、石畳を見つめていた。


 ここだ。


 あの日、自分が倒れていた道。


 雨に濡れながら、死を待っていた場所。


 いまは乾いている。


 血の跡もない。


 誰も覚えていない。


 だが、アダムの身体は覚えていた。


 蹴られた腹の痛み。


 石に擦れた頬。


 誰も助けてくれなかった視線。


 そして、死んでもいいと思った静けさ。


「どうした」


 アダンが尋ねた。


 アダムは小さく首を振った。


「ここ」


「ここが?」


「ぼく、ここで死のうとした」


 アダンの顔が強張った。


 桜夜は何も言わなかった。


 秘書だけが周囲を警戒していたが、その目が一瞬だけアダムへ向いた。


「サタンが死んだあと、ここで倒れてた。誰かに殴られて、蹴られて、雨が降って、それで……もういいって思った」


 アダムの声は淡々としていた。


 泣いていなかった。


 だからこそ、アダンにはその言葉が深く刺さった。


「生まれてこなければ、サタンに会わなかった。サタンに会わなければ、サタンが死んでもこんなに苦しくなかった。幸せを知らなければ、失っても苦しくなかった」


 彼は胸を押さえた。


「だから、みんなの言ってること、少しわかった」


 アダンは息を呑んだ。


「反出生主義のことか」


「うん」


 アダムは顔を上げた。


 目は濡れていなかった。


 その代わり、深い疲れがあった。


「生まれてこなければよかったって、思った。ほんとうに思った。サタンが言ってた地球の話も、生まれてきてうれしいって言葉も、全部嘘みたいに思えた」


 アダンは何か言おうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 お前は生きていていい。


 そう言うことはできた。


 だが、それはあまりにも簡単だった。


 アダムの苦しみに対して、薄すぎた。


 桜夜が静かに言った。


「今も、そう思うか」


 アダムはしばらく黙った。


 遠くで警報が聞こえる。


 追手は近い。


 それでも桜夜は急かさなかった。


 アダムは石畳を見た。


 あの日の雨はもうない。


 サタンもいない。


 だが、いま自分の右手には桜夜の手があり、左手にはアダンの手がある。


 父の手。


 サタンを処刑した男の手。


 憎い手。


 けれど、いま自分を置いていかないと約束した手。


「わからない」


 アダムは言った。


「生まれてきてよかったって、まだ言えない。サタンが死んだのに、よかったなんて言ったら、サタンの死までよかったことになりそうで嫌だ」


「なら、言わなくていい」


 桜夜は答えた。


 アダムは驚いたように彼を見た。


「いいの?」


「いい。生まれてきてよかったと、無理に言う必要はない」


「でも、サタンは」


「サタンは、お前に嘘をつかせるために地球の話をしたわけではないだろう」


 アダムは唇を噛んだ。


 桜夜は続けた。


「生を肯定することは、苦痛を否定することではない。生まれてきてよかったと言えない日もある。生まれてこなければよかったと思う夜もある。それでも、その思いだけで自分のすべてを決めつけないことはできる」


「難しい」


「難しい。だから大人もよく失敗する」


「桜夜も?」


「何度も」


「サタンも?」


「きっと」


「地球人も?」


「かなり」


 アダムは小さく息を吐いた。


「じゃあ、ぼくが今、生まれてこなければよかったって思っても、サタンを裏切ったことにならない?」


 桜夜の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「ならない」


「ほんとうに?」


「ああ」


 アダムの目に、ようやく涙が浮かんだ。


「ぼく、苦しい」


「ああ」


「サタンに会いたい」


「ああ」


「でも、会えない」


「ああ」


「じゃあ、どうすればいいの」


 桜夜は答えなかった。


 代わりに、アダンが膝をついた。


 騎士団長としてではなく、父として、アダムの前に膝をついた。


「私には、答えがない」


 アダンは言った。


「私は、お前を苦しみから守ろうとして、お前を消そうとした。リリスの願いを、サタンの生を、お前の悲しみを、法の名で踏みつけた。だから、私にお前を慰める資格があるとは思わない」


 アダムは黙って彼を見た。


「それでも、ひとつだけ言わせてほしい」


「なに」


「死なないでくれ」


 アダムの唇が震えた。


「それは、父さんが困るから?」


「違う」


「法に反するから?」


「違う」


「じゃあ、どうして」


 アダンは一度目を閉じた。


 そして、はっきりと言った。


「私が、お前に生きていてほしいからだ」


 アダムは息を止めた。


「それは私の願いだ。正義ではない。倫理でもない。反出生主義への答えでもない。ただ、私の身勝手な願いだ。お前が苦しむとわかっていても、お前に生きていてほしいと思ってしまう」


「それって、ひどいよ」


「ああ」


「ぼくが苦しいのに」


「ああ」


「父さんは、ぼくに生きろって言うの」


「ああ」


「サタンみたい」


 アダンの顔が歪んだ。


 それは、罰のような言葉だった。


 そして、救いのような言葉でもあった。


「そうか」


「うん」


「なら、私は彼に少しだけ近づけたのかもしれない」


「まだ許してない」


「わかっている」


「たぶん、ずっと許せない」


「それでもいい」


「でも」


 アダムは手を伸ばした。


 迷いながら、アダンの袖を掴んだ。


「いまは、置いていかないで」


 アダンは深く頷いた。


「置いていかない」


 そのとき、旧市街の入口から騎士たちの声が聞こえた。


「いたぞ!」


 秘書が即座に前へ出た。


「感動的な場面を壊す趣味は、どの世界でも共通なのですね」


「余裕だな」


 桜夜が言う。


「余裕はありません。皮肉です」


「それは頼もしい」


 騎士たちが通りへなだれ込んでくる。


 アダンは立ち上がり、アダムを背に庇った。


 だが桜夜は剣を抜かなかった。


 彼は空を見上げた。


「そろそろか」


「何が」


 アダンが尋ねる。


 桜夜が答える前に、旧市街全体の通信端末が一斉に点灯した。


 家の壁に埋め込まれた古い投影板。


 商店跡の広告装置。


 広場の案内端末。


 すべてが同時に光り、同じ映像を映し出した。


 宇宙ステーションの制御室。


 青年の顔が画面いっぱいに映った。


『あー、聞こえてますか、エデンの皆さん。こちら地球側、違法通信中です。たぶんそっちの法律ではかなり駄目なやつですが、残念ながら僕はそっちの法律を知らないので無視します』


 騎士たちが足を止めた。


 旧市街の住民たちも、窓から顔を出した。


 青年は眠そうな顔のまま続けた。


『現在、統一議会が消去しようとしていたデータを復元、全域に分散送信しています。途中で止めても無駄です。もうかなりの端末に複製しました。削除したいなら、星中の端末を壊してください』


 桜夜が小さく笑った。


「派手にやるな」


 秘書が言った。


「請求額も派手になるでしょう」


 映像が切り替わった。


 白い広場。


 ギロチン台。


 サタンの処刑。


 アダムの叫び。


 群衆の声。


 かわいそうに。


 保護しろ。


 安楽なる死を。


 次に、思想医療院の記録。


 医師の声。


 あなたは悪くない。


 苦しみを取り除いてあげる。


 穏やかになれる。


 そして、アダムの声。


『これは、ぼくの苦しみだ』


 旧市街に沈黙が広がった。


 騎士たちも動けなかった。


 市民たちは画面を見つめていた。


 その中には、かつて子を望んだ者もいた。


 妊娠した妻を病院へ連れていった者もいた。


 中絶手術の後で、安心したはずなのに夜ごと泣いた者もいた。


 生まれるはずだった名前を、誰にも言えずに胸の奥へしまった者もいた。


 彼らは、忘れたふりをしていた。


 諦めたふりをしていた。


 それが成熟であり、優しさであり、平和なのだと信じていた。


 だが、画面の中の少年は叫んでいた。


『悲しくなくなったら、サタンを好きだったことまで消えちゃう』


 その言葉は、静かな都市の奥に刺さった。


 桜夜はアダムの肩に手を置いた。


「聞いている」


「誰が?」


「この星が」


 アダムは震えた。


「ぼく、そんなこと望んでない」


「何を」


「みんなに見られるの、怖い」


「当然だ」


「ぼくの苦しいの、みんなに聞かれるの、嫌だ」


「そうだろうな」


「じゃあ、どうして」


 桜夜は少しだけ目を伏せた。


「すまない。これは、お前を利用している」


 アダムは驚いた。


 大人がそんなふうに言うのを、初めて聞いた気がした。


「利用?」


「ああ。この星を動かすために、お前の声を使っている。綺麗なことではない」


「じゃあ、桜夜もひどい人?」


「そうだ」


「地球人なのに?」


「地球人は、ひどいこともする」


「じゃあ、なんで信じればいいの」


「信じなくていい」


 桜夜はアダムを見た。


「怒っていい。恨んでいい。後で殴ってもいい」


「殴っていいの?」


「痛いから一回にしてくれ」


 アダムは思わず少し笑った。


 すぐに顔を伏せた。


「わからないよ」


「私もわからない」


「大人なのに、わからないことばっかり」


「大人になっても、世界は難しい」


 アダムは投影板を見た。


 画面の中では、今度は別の記録が流れていた。


 反出生主義法制定直後の収容施設。


 隔離された妊婦たち。


 中絶を拒んだ者。


 生まれた子を隠した者。


 処理済、と記された新生児の記録。


 旧市街のどこかで、誰かが嗚咽した。


 それは小さな声だった。


 だが、その声に続くように、別の場所でも泣き声が上がった。


 エデンの人々は、泣くことを忘れていたわけではなかった。


 ただ、泣かないほうが成熟していると教えられていただけだった。


 騎士の一人が、剣を握りしめたまま叫んだ。


「これは反逆だ!」


 桜夜は静かに言った。


「そうだ」


「平和を乱すつもりか!」


「平和だったのか」


「少なくとも争いはなかった!」


「声もなかった」


 騎士は言葉に詰まった。


 別の騎士がアダンに向かって叫ぶ。


「団長! なぜ黙っているのです! 命令を!」


 アダンは旧市街に流れる記録を見ていた。


 自分が知らなかったもの。


 いや、知ろうとしなかったもの。


 処理済。


 矯正完了。


 保護対象。


 安楽なる死。


 その一つ一つの言葉の裏に、誰かの顔があった。


 サタンはそれを見ていた。


 だから反逆者になった。


 自分はそれを見なかった。


 だから騎士団長でいられた。


 アダンは剣を抜いた。


 騎士たちが安堵したように構える。


 だが、アダンが剣先を向けたのは、彼らだった。


「武器を下ろせ」


「団長……?」


「私はもう団長ではないのだろう」


「あなたは反逆するのですか」


 アダンはアダムを見た。


 そして、サタンが死の直前に見せた微笑みを思い出した。


 あれは勝利の笑みではなかった。


 許しの笑みでもなかった。


 託す者の笑みだった。


 アダンは言った。


「遅すぎた反逆だ」


 騎士たちが一斉に動いた。


 秘書の光糸が走る。


 桜夜が地面を蹴る。


 アダンの剣が白い軌跡を描く。


 旧市街の狭い道で、戦闘が始まった。


 アダムは壁際に押しやられた。


 怖かった。


 剣がぶつかる音。


 誰かのうめき声。


 倒れる身体。


 それらはすべて、生の音だった。


 平和なエデンが隠してきた音。


 アダムは耳を塞ぎたくなった。


 けれど、塞がなかった。


 見ることは痛かった。


 聞くことは苦しかった。


 だが、目を逸らした先にある平和が何だったのか、彼はもう知ってしまった。


 桜夜は騎士を殺さなかった。


 秘書も殺さなかった。


 アダンも、できる限り刃を返していた。


 それでも血は流れた。


 痛みはあった。


 誰かが叫んだ。


 やはり、苦しみはなくならない。


 アダムは震えながら、その場に立っていた。


 そのとき、彼の足元に、小さな端末が転がってきた。


 騎士のものだった。


 画面には、地球側の青年からの通信が開いたままになっていた。


『聞こえます? アダム君』


 アダムは驚いて端末を拾った。


「ぼく?」


『そう。今、周辺端末を経由して話してます。いやあ、そっちの通信規格、癖が強いですね』


「あなた、誰?」


『天才ハッカーです』


「名前は?」


『いま言うといろいろ面倒なので、天才ハッカーで覚えてください』


「変な人」


『よく言われます』


 アダムは戦闘の音を背に、端末を握りしめた。


「どうして話しかけたの」


『桜夜さんには言いづらいことを伝えようと思って』


「なに」


『逃げてもいいですよ』


 アダムは目を見開いた。


『怖いなら逃げていい。世界を救うとか、エデンを変えるとか、そういう大きい話、十歳の子どもが背負うものじゃないです』


「でも、ぼくの声を流してる」


『はい。そこは大人が最低です。僕も含めて』


「自分で言うんだ」


『言いますよ。言わない大人よりは、少しマシでしょう』


 アダムは黙った。


 青年の声は続いた。


『アダム君。あなたが生きる理由を、世界のためにしなくていい。サタンさんのためにしなくてもいい。リリスさんのためにしなくてもいい。桜夜さんの期待にも、アダンさんの後悔にも、応えなくていい』


「じゃあ、何のために生きればいいの」


『知らないです』


「知らないの?」


『はい。そんなの、僕にわかるわけない。でも、わかるまで生きててもいいんじゃないですか』


 アダムは息を止めた。


 わかるまで生きる。


 それは、前にも聞いたような言葉だった。


 生まれてきてよかったのか、全部はわからない。


 でも、わかるまで生きたい。


 どこか別の可能性の自分が、そんなことを言った気がした。


「わかる前に、苦しくなったら?」


『そのときは誰かに言ってください。苦しいって』


「言ったら、消される」


『エデンではそうだったかもしれません。でも、少なくとも僕は消しません』


「地球人だから?」


『いえ、僕が諦め悪いからです』


 アダムは端末を握る手に力を込めた。


 戦闘は終わりかけていた。


 騎士たちは地面に倒れ、拘束されている。殺された者はいないようだった。アダンは肩で息をしていた。桜夜の頬には血がついていたが、彼自身のものではなさそうだった。秘書は乱れた髪を整えながら、淡々と周囲を確認している。


 アダムは端末に向かって言った。


「ぼく、まだ生まれてきてよかったって言えない」


『はい』


「死にたいって思った」


『はい』


「また思うかもしれない」


『そうかもしれません』


「それでも、生きてていいの?」


 通信の向こうで、青年が少しだけ黙った。


 そして、いつもの軽い調子ではなく、静かに言った。


『いいです』


「どうして」


『生きているからです』


 アダムは顔を伏せた。


 涙が落ちた。


 今度は雨ではなかった。


 自分の涙だった。


 桜夜が近づいてきた。


「誰と話している」


「天才ハッカー」


「あいつか」


「変な人だね」


「かなりな」


「でも、少しサタンに似てる」


「それを聞いたら調子に乗る」


 端末の向こうから声がした。


『聞こえてますからね』


 秘書が言った。


「調子に乗らないでください」


『秘書さんまでひどい』


 アダムは泣きながら、少し笑った。


 笑うことができた。


 サタンが死んだのに。


 胸が痛いのに。


 生まれてこなければよかったと思ったのに。


 それでも、笑いは小さくこぼれた。


 そのことが、アダムには不思議だった。


 笑ったからといって、サタンの死が軽くなるわけではない。


 笑ったからといって、悲しみが消えるわけでもない。


 ただ、悲しみの隣に笑いがあった。


 それは、サタンが教えてくれた地球の話に少し似ていた。


 神が死んでも。


 世界が残酷でも。


 人はパンを焼き、誰かを愛し、くだらない冗談で笑う。


 それは強さではなく、しつこさなのかもしれなかった。


 旧市街の投影板では、まだ記録が流れていた。


 今度はアダムの声ではない。


 過去に矯正された者たちの証言だった。


『私は、子どもがほしかった』


『でも、それは残酷な願いだと言われた』


『処置の後、私は穏やかになった』


『穏やかになったはずなのに、なぜか毎年同じ日に花を買ってしまう』


『誰に供える花なのか、思い出せない』


 旧市街の住民たちは立ち尽くしていた。


 ある老婆が、震える手で胸を押さえていた。


 彼女の隣にいた老爺が、投影板を見つめたまま呟いた。


「名前を、考えていた」


 老婆が彼を見た。


「あなたも?」


「ああ」


「私もよ」


 二人はしばらく見つめ合った。


 そして、泣いた。


 何十年も前に諦めたはずの子どもの名前を、二人は同時に思い出した。


 その小さな泣き声が、旧市街に広がっていく。


 それは暴動ではなかった。


 革命でもなかった。


 ただ、忘れたふりをしていた悲しみが、少しずつ声を取り戻していく音だった。


 アダンはその光景を見ていた。


「私は」


 彼は呟いた。


「こんなものを、平和だと思っていたのか」


 桜夜は答えた。


「多くの世界で、平和は沈黙と間違えられる」


「地球もか」


「ああ」


「なら、地球も愚かだな」


「かなり」


 アダンは苦く笑った。


「なぜ滅びていない」


「諦めが悪いからだろう」


 アダンはアダムを見た。


 アダムはまだ端末を握りしめている。


 泣いた跡の残る顔で、それでも立っている。


「アダム」


 アダンが呼んだ。


「行けるか」


 アダムは少し考えた。


 足は震えていた。


 胸は痛かった。


 サタンのいない世界は、まだ怖かった。


 けれど、さっきまでとは違った。


 死にたいと思った場所で、彼はもう一度立っていた。


 その事実だけは、確かだった。


「行く」


 アダムは言った。


「でも、少しだけ歩きたい」


 桜夜が頷いた。


「走らなくていい。今は追手を止めた」


「うん」


「泣いてもいい」


「うん」


「怒ってもいい」


「うん」


「生まれてこなければよかったと思ってもいい」


 アダムは桜夜を見た。


 桜夜は静かに続けた。


「ただ、その思いが来たとき、一人で決めるな。誰かに言え」


「誰かって?」


「今いる誰かでいい。私でも、秘書でも、地球の変なハッカーでも」


『変なは余計です』


「父でもいい」


 アダムはアダンを見た。


 アダンは何も言わず、ただ頷いた。


「サタンには言えない」


「心の中で言えばいい」


「聞こえるかな」


「わからない」


「わからないことばっかりだね」


「そうだ」


 アダムは空を見上げた。


 青い空だった。


 あの日、自分が死を待った道の上にも、今日と同じ空があったのだろうか。


 あのときは見えなかった。


 雨しか見えなかった。


 でも、雨の上にも空はあった。


 そのことを、今になって知った。


「サタン」


 アダムは小さく呟いた。


「ぼく、まだ生きてる」


 風が吹いた。


 返事はなかった。


 けれど、胸の奥で何かが少しだけ温かくなった。


 それは慰めと呼ぶには弱すぎた。


 希望と呼ぶには頼りなかった。


 だが、完全な空白ではなかった。


 アダムは歩き出した。


 桜夜が隣に並ぶ。


 アダンも隣を歩く。


 秘書は少し後ろで周囲を警戒し、端末の向こうでは天才ハッカーが何かを文句を言いながら操作している。


 旧市街の人々は、道を開けた。


 誰も拍手はしなかった。


 誰も歓声を上げなかった。


 ただ、何人かが深く頭を下げた。


 それが誰に向けたものなのか、アダムにはわからなかった。


 サタンにか。


 死んだ子どもたちにか。


 かつて子を望んだ自分自身にか。


 あるいは、まだ生きているアダムにか。


 わからなかった。


 でも、アダムはその頭を下げる人々を見て、初めて思った。


 この星の人たちも、苦しかったのかもしれない。


 間違えた。


 諦めた。


 声を失った。


 それでも、彼らもまた生きていた。


 生きているから、間違えた。


 生きているから、傷つけた。


 生きているから、今、泣いている。


 許せるわけではない。


 だが、知ることはできる。


 アダムはそう思った。


 旧市街を抜けると、北へ続く地下路の入口があった。


 アダンが古い扉を開ける。


 冷たい空気が流れ出した。


「この先が通信塔へ続く」


「暗いね」


 アダムが言った。


「怖いか」


 桜夜が尋ねる。


「うん」


「なら正常だ」


「さっきも言った」


「大事なことは何度も言う」


 アダムは少し笑った。


 そして、地下路へ一歩踏み出した。


 その一歩は小さかった。


 世界を変えるには、あまりにも小さな一歩だった。


 だが、死のうとした場所から歩き出した者にとっては、十分すぎるほど大きな一歩だった。


 背後の空は青い。


 前方の道は暗い。


 その暗闇の向こうに何があるのか、アダムにはわからない。


 通信塔へたどり着けるのか。


 エデンの人々が声を取り戻すのか。


 地球から来た者たちが本当に自分たちを救えるのか。


 サタンの死に意味を見つけられる日が来るのか。


 自分がいつか、生まれてきてよかったと言えるのか。


 何一つ、わからなかった。


 けれどアダムは歩いた。


 わからないまま。


 苦しいまま。


 悲しいまま。


 それでも、歩いた。


 地球人は諦めが悪い。


 サタンはそう言った。


 ならば。


 エデンで生まれた自分も、少しくらい諦めが悪くてもいいのかもしれない。


 アダムは胸の奥で、もう一度だけサタンの名を呼んだ。


 そして、地下の暗闇へ進んでいった。


 生まれてこなければよかったと願った少年は、その日、死を選ばなかった。


 それはまだ、生の肯定ではなかった。


 ただ、死への返事を少しだけ先延ばしにしたにすぎなかった。


 けれど、ある世界では、それを希望と呼ぶことがある。


 ある世界では、それを祈りと呼ぶことがある。


 そして地球では、たぶんこう呼ぶのだろう。


 諦めが悪い、と。


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