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第2話 消される声

 刃が落ちた。


 その瞬間、広場から音が消えた。


 少なくとも、アダムにはそう感じられた。


 群衆は確かに声を上げていた。誰かが息を呑み、誰かが小さく拍手をし、誰かが「これで世界はまた少し清らかになる」と呟いた。騎士たちの鎧が鳴り、遠くでは号外を配る男がまだ叫んでいた。広場の噴水は変わらず水を吐き出し、空には白い雲が流れていた。


 だが、アダムの耳には何も届かなかった。


 サタンの首が落ちた。


 ただ、その事実だけが世界の中心にあった。


 アダムは、最初それを理解できなかった。


 ギロチン台の上にいる男は、少し前まで自分に微笑んでいた。いつものように、困ったような、少し疲れたような、けれど確かに優しい笑みだった。夜に地球の話をしてくれるときと同じ顔だった。森で転んだアダムに手を差し伸べるときと同じ顔だった。


 だから、すぐに起き上がると思った。


 冗談だと。


 サタンはきっと、また皮肉っぽく笑って言うのだ。


 怖かったか、アダム。


 地球人なら、ここからでも諦めないぞ。


 そう言って、いつものように黒いローブを払って立ち上がるのだと、アダムはどこかで信じていた。


 けれど、サタンは動かなかった。


 赤いものが、木の台を伝っていた。


 アダムは騎士の腕を押した。


「どいて」


 声が出た。


 自分の声とは思えないほどかすれていた。


「どいてよ」


 騎士は彼を見下ろした。まだ幼い少年を、少し面倒そうに、そして少し哀れむように見た。


「見るな。子どもには刺激が強い」


 子ども。


 その言葉に、周囲の何人かが振り返った。


 エデンでは、子どもは珍しかった。


 特にアダムほどの年齢の子どもは、存在してはならないはずだった。


 だが、群衆はすぐには気づかなかった。彼らは処刑された思想犯に気を取られていた。サタンという悪魔の名を持つ男が死んだことに、世界が一つ正されたような顔をしていた。


「どいて!」


 アダムは叫んだ。


 騎士の腕に噛みついた。


 騎士が短く呻く。拘束の輪が一瞬だけ緩む。その隙間を、アダムはすり抜けた。小さな身体が石畳を駆ける。誰かが制止の声を上げた。誰かが手を伸ばした。


 アダムは止まらなかった。


 ギロチン台に駆け寄ろうとしたそのとき、黒い影が前に立った。


 アダンだった。


 長い黒髪。端正な顔。白い騎士服。血の飛沫が頬に一点だけついていたが、彼はそれを拭わなかった。表情はなかった。悲しみも、怒りも、勝利も、そこにはなかった。


 ただ、役目を終えた者の顔だった。


「どいて」


 アダムは言った。


 アダンは少年を見下ろした。


 その目が、一瞬だけ揺れた。


「君は」


「どいてよ!」


 アダムはアダンの腹を拳で叩いた。


 小さな拳だった。


 鎧の下に届くはずもなかった。


 それでも、アダンは動かなかった。彼はその少年の顔をじっと見つめていた。目。鼻筋。髪の色。震える唇。そこにある面影を、彼は認めたくなかった。


 リリス。


 名が胸の奥に浮かんだ。


 死んだはずの記憶が、処刑台の血の匂いとともに蘇る。


 雨の夜。


 暖炉の前。


 震える声。


 私、妊娠しているの。


 アダンの呼吸がほんの少し乱れた。


 ありえない。


 この年齢の子どもが存在するはずがない。


 だが、サタンが死の直前に微笑んだ相手。


 町に慣れていない足取り。


 そして、リリスに似た瞳。


 アダンは、理解してしまった。


「名は」


 彼は無意識に尋ねていた。


 アダムは彼を睨んだ。


「サタンを返して」


「名を聞いている」


「返してよ!」


 アダムはもう一度拳を振るった。


 今度はアダンの手に受け止められた。


 小さな手だった。


 温かかった。


 生きている手だった。


 アダンの胸に、鋭い痛みが走った。


 この手を、自分は存在しないものとして扱ってきたのか。


 この手が生まれる前に、消すべきだと考えていたのか。


 法律に従えば、それは正しい。


 反出生主義の倫理に従えば、それは慈悲である。


 生まれてこなければ、喪失もない。


 生まれてこなければ、いまこの少年が目の前で壊れそうな顔をすることもなかった。


 サタンの死を見て、世界の底が抜けたように震えることもなかった。


 だからこそ、やはり生まれないほうがよかった。


 そう言えるはずだった。


 言えるはずなのに。


 アダンは、その言葉を口にできなかった。


「団長」


 そばにいた騎士が声をかけた。


「その子どもは」


 アダンは手を離した。


 アダムはすぐにギロチン台へ駆け寄ろうとしたが、二人の騎士に取り押さえられた。彼は暴れた。足を蹴り、腕を振り、喉が裂けるほど叫んだ。


「サタン! サタン! 起きてよ! サタン!」


 サタンは起きなかった。


 広場の群衆は、ようやく異変に気づき始めた。


「子どもだ」


「なぜ子どもがいる」


「未登録児か」


「サタンが隠していたのか」


「なんてことを」


「かわいそうに」


「早く保護しろ」


 かわいそうに。


 その言葉が、アダムの耳に届いた。


 彼は泣きながら周囲を見た。


 誰も本当に悲しんでいなかった。


 サタンが死んだことを悲しんでいる者は、そこには一人もいなかった。


 かわいそう。


 保護。


 救済。


 安楽。


 優しい言葉ばかりが広場を満たしていた。


 その言葉たちが、サタンを殺した。


 アダムには、そう思えた。


「殺した」


 アダムは呟いた。


 騎士たちが彼を拘束する。


「あなたたちが、サタンを殺した」


「落ち着きなさい」


「殺したんだ!」


 アダムの叫びは、広場に響いた。


 その声を聞いた群衆の中には、顔をしかめる者がいた。子どもの怒りは、彼らにとって不快だった。エデンの平和な広場には似つかわしくない、むき出しの生の声だった。


 アダンは目を閉じた。


「その子を連れていけ」


 騎士の一人が尋ねた。


「思想安全評価施設へ?」


 アダンは答えなかった。


 答えなかったことが、周囲には肯定に見えた。


 アダムの首に、柔らかい拘束具が巻かれた。痛みはなかった。苦痛を減らすために作られた装置だった。抵抗すれば、身体の力だけが抜けていく。意識は残る。自分が何もできないことを、はっきりと感じながら。


「嫌だ」


 アダムは言った。


「サタンのところに行かせて」


 誰も答えなかった。


「お願い」


 それでも誰も答えなかった。


 彼は台の上を見た。


 サタンの身体は、白い布で覆われ始めていた。


 顔はもう見えなかった。


 最後に見たのは、あの微笑みだった。


 アダムに向けられた、たった一つの、別れの微笑み。


 アダムは泣かなかった。


 泣けなくなった。


 涙が胸の奥で凍り、硬い石のようになった。


 その石は、いつか彼の中で怒りになる。


 だがこのときの彼は、まだそれを知らなかった。


 統一議会の護送車に乗せられたとき、アダムは窓の外を見た。


 広場は小さくなっていく。


 群衆はもう散り始めていた。


 処刑は日常の一部として片づけられ、清掃用アンドロイドたちが水で石畳を洗っていた。赤いものは薄まり、排水溝へ流れていく。


 まるで何もなかったように。


 サタンが生きていたことも。


 サタンが笑ったことも。


 サタンが地球の話をしてくれたことも。


 全部、洗い流されていく。


 アダムは窓に額を押しつけた。


「諦めない」


 誰にも聞こえない声で、彼は言った。


「ぼくは、絶対に諦めない」


 その言葉は、サタンに教えられたものだった。


 地球人は諦めが悪い。


 神が死んでも、生まれてきてうれしいと言う。


 ならば自分も、そうなる。


 サタンを奪われても。


 世界に保護されても。


 心を矯正されそうになっても。


 自分が生まれてきたことを、誰かに間違いだと言われても。


 それでも、諦めない。


 護送車は白い塔へ向かって走っていった。


 サントベルク中央思想医療院。


 反出生主義法に適応できない者を、苦痛なく社会へ戻すための施設。


 白く、美しく、静かな建物だった。


 そこでは誰も叫ばない。


 叫ぶ者は、すぐに叫ばなくなるからだ。


 ◇◇◇


 遠い遠い宇宙で、信号が揺れていた。


 それは、エデンから放たれたものではなかった。


 いや、エデンという名の星から見れば、まだ放たれてすらいない信号だった。


 時間はまっすぐに流れているようで、実際にはそうではない。世界と世界の間には無数の裂け目があり、そこでは過去と未来、原因と結果、生まれたものと生まれなかったものが、薄い膜のように重なり合っている。


 ある世界では、サタンは処刑された。


 ある世界では、サタンは処刑される前に逃げた。


 ある世界では、アダムは父と出会い、通信塔から地球へ声を送った。


 ある世界では、アダムは思想医療院へ送られ、その記憶を柔らかく削られていった。


 世界は一つではなかった。


 いのちの数だけ分岐し、祈りの数だけ迷い、諦めの数だけ静かに滅んでいった。


 そして、それらを見ていた者がいた。


 かつて「はじまりのもの」と呼ばれた存在である。


 彼は、最初、世界になんの興味もなかった。


 世界が生まれようと、滅びようと、彼には関係がなかった。星が燃え、海が凍り、文明が興り、思想が人々を救い、同時に殺しても、彼はただ見ているだけだった。


 喜びもなかった。


 悲しみもなかった。


 怒りもなかった。


 彼は、はじまりでありながら、何も始めようとはしなかった。


 だがある日、彼は少女に出逢った。


 取るに足らない少女だった。


 神でも、王でも、英雄でも、救世主でもない。特別な力も持たず、剣も握れず、魔法も使えず、誰かを導く言葉すら持たない。ただ、壊れかけた小さな世界の片隅で、膝をついて祈っていた。


 世界が平和でありますように。


 誰も笑顔を失いませんように。


 明日も、誰かが誰かを好きでいられますように。


 彼女にできるのは、それだけだった。


 祈ることだけ。


 世界は、彼女の祈りなど聞かなかった。


 戦争は続いた。


 疫病は広がった。


 子どもは泣き、母親は死に、父親は帰らず、星は燃えた。


 それでも少女は祈ることをやめなかった。


 はじまりのものは、その姿を見た。


 愚かだと思った。


 祈っても変わらない。


 願っても救われない。


 力のない者の善意は、宇宙の前では塵に等しい。


 そう思った。


 けれど、彼はなぜか立ち去れなかった。


 少女は泣きながら祈っていた。


 自分のためではなく、もう会うこともない誰かのために。


 その涙は、はじまりのものが初めて見た「意味」だった。


 だから彼は、少女を連れて旅に出た。


 あらゆる平行世界をめぐる旅だった。


 滅びかけた都市で、最後の一人を救った。


 神に捨てられた世界で、天使の羽を拾った。


 砂の星で、たった一滴の水を守った。


 魔女狩りの国で、不死の呪いを受けた女を逃がした。


 時間の裂け目に落ちた幼い少年を、帰れないまま抱きしめた。


 彼らは多くのいのちを救った。


 だが、それ以上に世界は滅んでいった。


 一つ救えば、十が崩れた。


 十を救えば、百が消えた。


 彼がどれほど力を振るっても、世界の滅びは止まらなかった。少女がどれほど祈っても、誰もが笑顔を失わない世界など来なかった。


 それでも少女は祈り続けた。


 だから、彼も戦い続けた。


 いつしか仲間が増えた。


 天界を追放された天使。


 借金ばかりする呪術師。


 神隠しにあった幼い少年。


 不死の呪いを受けた魔女。


 そして、魔女の伴侶である槍使い。


 奇妙な一行だった。


 誰も完全ではなく、誰も清くなく、誰も世界を救う資格など持っていなかった。天使は天界に背き、呪術師は金にだらしなく、少年は帰る場所を失い、魔女は死ねず、槍使いは愛する者の終わりを願えなかった。


 それでも彼らは、少女の祈りのそばにいた。


 やがて少女は眠りについた。


 深い深い眠りだった。


 世界を祈り続けた心が、ついに限界を迎えたのかもしれない。あるいは、祈りそのものが世界のどこかへ引きずり込まれたのかもしれない。誰にもわからなかった。


 はじまりのものもまた、彼女と運命を共にした。


 彼は眠る少女のそばに横たわり、自らの力を閉ざした。


 もし彼女が目覚めないなら、自分が世界を見続ける意味もない。


 そう考えたのかもしれない。


 あるいは、もう疲れていたのかもしれない。


 彼らが眠った後、残された者たちはそれぞれの道を選んだ。


 天使は悪魔となった。


 天界を追放され、少女の祈りを知り、はじまりのものの背を見続けた天使は、神を信じられなくなった。神が世界を救わないなら、神の側にいる意味などない。そう言って、彼は自らの白い羽を焼いた。


 そして悪魔となった彼は、はじまりのものを新しく造ろうとした。


 眠った彼を起こせないなら、代わりを造ればいい。


 その力、その構造、その器、その記憶の断片を模して、無数の模造品を生み出した。


 だが、どれも失敗作だった。


 強すぎるものは自壊した。


 弱すぎるものは目覚めなかった。


 感情を持たないものは世界を救わず、感情を持ちすぎたものは世界に耐えられなかった。


 悪魔は失敗作たちを、できそこないと呼んだ。


 そして、残っていた平行世界へと追放していった。


 いつか何かの役に立つかもしれない。


 あるいは、ただ見たくなかっただけかもしれない。


 呪術師は国へ帰った。


 そして、四人の男の子を生ませた。


 愛のためだけではなかった。


 やがて来る未来に備えるためだった。


 血に刻んだ呪い。


 名に隠した術式。


 子孫へ渡すための記憶。


 彼は最低の父であり、同時に未来へ賭けた愚かな男だった。


 神隠しにあった幼い少年は、成長した。


 帰るはずだった世界には戻れなかった。


 だから彼は、異なる世界で老いた。


 そして晩年、たった一人の弟子を取った。


 彼は、自分がはじまりのものから学んだことを、その弟子に伝えた。


 世界を救う方法ではない。


 世界を見捨てない方法を。


 不死の魔女と、その伴侶である槍使いを救済したのは、その弟子だった。


 弟子の名は、水希桜夜。


 そして今、桜夜は地球の軌道上にあった。


 国際宇宙ステーション。


 かつて人類の科学と協調の象徴であったその施設は、いまや多くの区画を無人化され、軍事通信、観測データ、各国の機密バックアップが複雑に絡み合う巨大な棺のようになっていた。


 桜夜はその棺の中で、消去されようとしていたデータを解析していた。


 彼の隣には、秘書がいた。


 白いブラウスに黒いスーツ。宇宙空間に似つかわしくないほど整った姿勢。淡々と端末を操作するその指は、迷いがなかった。彼女は桜夜の秘書であり、護衛であり、時に彼の暴走を止める最後の壁でもあった。


 もう一人、天才ハッカーの青年がいた。


 彼は地上にいた。


 いや、正確には、地上のどこかにある地下施設から、違法に奪った衛星回線をいくつも経由して、宇宙ステーションの端末に入り込んでいた。画面越しの彼は眠そうな顔をしていたが、指の動きは異常に速かった。


『桜夜さん、これ、普通の削除じゃないですよ』


 青年の声が通信に乗って響いた。


 桜夜は端末の前で目を細めた。


「どういう意味だ」


『データの存在履歴ごと消そうとしてます。保存領域を潰すんじゃなくて、参照した痕跡、受信ログ、量子同期の残響まで全部。かなり念入りです』


 秘書が画面を確認する。


「国家単位ですか」


『国家でもここまでやらないですね。というか、できない。これ、地球側の技術だけじゃないです』


 桜夜は無言だった。


 彼は長い黒髪を後ろで結び、古い和装を思わせる黒い服を身にまとっていた。宇宙ステーション内では明らかに浮いている。だが彼自身は、浮いていることに慣れていた。


 彼はいつも世界から少し外れていた。


 師から受け継いだもののせいか。


 それとも、彼自身の性質か。


 彼は多くのものを見てきた。


 不死の魔女が、ようやく死ぬことではなく生きることを選ぶ瞬間を見た。


 槍使いが、愛する者を縛っていた祈りから解き放たれる瞬間を見た。


 世界と世界の継ぎ目に、誰かの声が落ちているのを聞いた。


 だから、このデータにも何かがあるとわかっていた。


 ただの機密ではない。


 ただの通信記録ではない。


 誰かが、消される前に残した声だ。


「復元率は」


『今のところ二十七パーセント。けど、暗号化が気持ち悪い。暗号というより、世界の座標がずれてる感じです』


「平行世界由来か」


『たぶん。しかも複数混ざってる。一本の通信じゃない。枝分かれした世界線のログが重なってるんです』


 秘書が眉をひそめた。


「発信源は特定できますか」


『名称だけ出てます。エデン』


 その名を聞いた瞬間、桜夜の表情が変わった。


 秘書はそれに気づいた。


「ご存じですか」


「知らない」


「では、なぜそんな顔を」


「師匠が一度だけ言っていた」


 桜夜は古い記憶を探るように、静かに言った。


「諦めのよい星がある、と」


 青年が画面の向こうで首を傾げた。


『諦めのよい星?』


「争いが少なく、平和で、誰もが穏やかに滅びを受け入れている星だそうだ」


『それ、平和なんですか』


「師匠も同じことを言っていた」


 桜夜は端末に手を伸ばした。


 画面には、破損した映像が映っていた。


 白い広場。


 群衆。


 ギロチン台。


 黒いローブの男。


 幼い少年。


 映像は乱れ、音声は途切れていた。


 それでも、少年の叫びだけははっきりと聞こえた。


『サタン! サターーン!』


 秘書の指が止まった。


 青年も黙った。


 桜夜は画面を見つめた。


 黒いローブの男は、少年に微笑んだ。


 次の瞬間、映像が赤く乱れた。


 音声が切れた。


 ログには、短い文字列が残っていた。


 国家反逆罪。


 安楽なる死。


 未登録児童。


 思想安全評価。


 反出生主義法。


 青年が低く言った。


『胸糞悪いな』


 秘書は静かに言った。


「この少年は」


『別ログがあります。名前、アダム。発育推定十歳。出生登録なし。養育者サタン。実父らしき人物、アダン。統一議会騎士団長』


 桜夜は目を閉じた。


「サタン、アダン、アダム、エデンか」


『神話みたいですね』


「神話はたいてい、誰かの血で書かれている」


 桜夜は再び目を開けた。


「消去を止めろ」


『やってます。でも妨害が強い。これ、向こう側から消してるだけじゃないです。こっち側にも消したいやつがいる』


「地球側に?」


『はい。しかも、かなり上のほう』


 秘書が桜夜を見た。


「このデータが公開されれば、何が起きるのでしょう」


「わからない」


「では、なぜ止めるのですか」


 桜夜は画面の少年を見た。


 アダム。


 サタンを呼び続ける子ども。


 保護の名で連れ去られようとしている、生まれてしまった命。


「消されようとしているからだ」


 秘書は少しだけ目を伏せた。


 それは、彼女がよく知る桜夜の答えだった。


 正しいからではない。


 勝てるからでもない。


 救える保証があるからでもない。


 消されようとしているものがある。


 ならば、手を伸ばす。


 それが、彼が師から受け継いだものだった。


 世界を救う方法ではない。


 世界を見捨てない方法。


『桜夜さん』


 青年の声が鋭くなった。


『まずい。削除プロセスが加速しました。あと三分で主要ログが飛びます』


「復元できる部分だけでも抜け」


『抜いてます。でも映像と文字だけです。座標情報が重すぎる』


「座標を優先しろ」


『映像捨てますよ』


「声を残せ」


『声?』


「少年の声だ」


 青年は一瞬黙った。


 そして、笑った。


『了解。趣味悪いけど、嫌いじゃないです』


「褒めているのか」


『たぶん』


 桜夜は少しだけ口元を緩めた。


 その表情は、遠い世界のサタンがアダムに向けたものと、どこか似ていた。


 残り二分。


 青年は端末の向こうでコードを書き換え続けた。


 秘書は宇宙ステーションの外部通信経路を手動で切り替えた。


 桜夜は、破損したデータの奥へ意識を沈めた。


 彼には、普通の人間には見えないものが見える。


 師から受け継いだ感覚。


 世界の継ぎ目。


 存在しなかったはずの記録。


 祈りが残した傷。


 データの奥には、白い部屋があった。


 思想医療院。


 アダムは椅子に座らされていた。


 首には拘束具。腕にも、足にも、柔らかい固定帯。目の前には医師がいる。優しそうな顔をした女だった。


『怖がらなくていいのよ』


 医師は言った。


『あなたは悪くない。あなたは利用されていただけ。サタンという危険思想犯に、苦しみを肯定する考えを植えつけられてしまったの』


 アダムは黙っていた。


『大丈夫。これから少しずつ、その苦しみを取り除いてあげる。あなたは穏やかになれる。サタンの死も、あなた自身の出生も、受け入れられるようになる』


『受け入れない』


 アダムは言った。


『サタンは、悪くない』


『まだ混乱しているのね』


『混乱してない』


『いいえ。あなたは苦しんでいる。苦しみは取り除かれるべきものよ』


『違う』


 アダムの声は震えていた。


『これは、ぼくの苦しみだ』


 医師は微笑んだ。


『苦しみを大切にしなくていいの』


『大切なんだ』


『なぜ?』


『サタンを好きだったから』


 医師の微笑みが、ほんの少しだけ硬くなった。


 アダムは続けた。


『好きだったから苦しいんだ。サタンが死んで悲しいんだ。悲しくなくなったら、サタンを好きだったことまで消えちゃう』


『消えるのではないわ。穏やかになるだけ』


『嫌だ』


『アダム』


『嫌だ!』


 映像が乱れた。


 次に映ったのは、アダンだった。


 白い廊下を歩いている。


 その先には、アダムがいる処置室がある。


 アダンの顔には迷いがあった。


 彼は騎士団長として、未登録児童の保護と矯正を承認する立場にあった。反出生主義法は揺るがない。アダムの存在は、世界にとって危険な矛盾だった。生まれないことを幸福とする星で、生まれてきてしまった子どもが、サタンの死を悲しみながら生を否定しないでいる。


 それは、思想そのものへの反逆だった。


 だから、処置は必要だ。


 そう判断しなければならなかった。


 けれど廊下の途中で、アダンは立ち止まった。


 扉の向こうから、アダムの声が聞こえた。


『ぼくは忘れない! サタンを忘れない! リリスを忘れない! ぼくが生まれてきたことを、なかったことにしない!』


 アダンは拳を握った。


 その名。


 リリス。


 アダムの口からその名が出たとき、彼の中で何かが崩れた。


 サタンが教えたのだろう。


 リリスがどんな顔で笑ったか。


 どんなふうにお腹を撫でたか。


 どんな言葉を残して死んだか。


 アダンが知らないリリスの最後を、アダムは知っている。


 父である自分ではなく、サタンによって。


 その事実は、嫉妬よりも深く彼を傷つけた。


 そして同時に、救った。


 リリスの祈りは消えていなかった。


 サタンがそれを守り、アダムに渡した。


 では、自分は何をしてきたのか。


 愛する者を苦しみから守るためと言いながら、彼女の最後の願いを処刑台へ送ったのではないか。


 アダンは扉に手をかけた。


 開ければ、引き返せない。


 それでも彼は開けた。


 処置室の医師が振り返る。


「団長」


 アダンは言った。


「処置を中止しろ」


 医師は驚いた。


「まだ初期調整も終わっていません。このままでは対象児の精神的苦痛が」


「中止だ」


「しかし、法に」


「責任は私が取る」


 アダムは椅子の上で顔を上げた。


 涙で濡れた目が、アダンを見た。


「どうして」


 アダンは近づき、拘束具を外した。


「わからない」


 それは正直な答えだった。


「私はまだ、君が生まれてよかったと胸を張って言えない。生は苦痛を含む。君はこれからも傷つく。サタンの死は戻らない。リリスも戻らない」


 アダムは唇を噛んだ。


「それでも」


 アダンは彼の手を取った。


 小さな手だった。


 温かく、生きている手だった。


「それでも、君の悲しみを奪う権利は、私にはない」


 その記録はそこで途切れていた。


 桜夜は意識を戻した。


 宇宙ステーションの端末では、削除プロセスが最終段階に入っていた。


『残り三十秒!』


 青年が叫ぶ。


『座標、半分しか抜けてない! 声は取れた! 映像も断片だけ!』


「十分だ」


『十分じゃないでしょ!』


「十分にする」


 桜夜は端末の前に立った。


 秘書が彼の異変に気づいた。


「桜夜様」


「少し眠る」


「ここでですか」


「向こうへ行く」


 秘書の顔色が変わった。


「危険です。座標が不完全です。どの分岐に落ちるかわかりません」


「だから行く」


「戻れない可能性があります」


「それはいつものことだ」


 秘書は言葉を失った。


 桜夜は画面の中のアダムを見た。


 サタンを奪われ、父に手を取られ、それでも世界に許されていない子ども。


 消されようとしている声。


 ならば、行くしかない。


 青年が叫んだ。


『桜夜さん、何する気ですか!』


「エデンへ行く」


『無茶ですって! 座標が壊れてる! 下手したら宇宙の外側に弾かれますよ!』


「そのときは拾え」


『拾えるか!』


 桜夜は笑った。


「お前は天才だろう」


『そういう使い方するな!』


 秘書が一歩前へ出た。


「私も同行します」


「駄目だ」


「秘書ですので」


「命令だ」


「では、拒否します」


 桜夜は彼女を見た。


 彼女は静かに見返した。


 その目は、何度も死地に同行してきた者の目だった。止めても無駄だと、桜夜は知っていた。


「わかった」


『僕は行きませんからね! 地上から支援します! 行ったら死ぬし!』


「それでいい」


『よくないんだよなあ!』


 削除完了まで十秒。


 桜夜は復元された座標に、自らの術式を重ねた。


 それは科学ではなかった。


 魔法でもなかった。


 呪術でも、神の力でも、完全には説明できない。


 はじまりのものから遠く流れ、少年を経て、弟子へと渡った、世界をまたぐための技術。


 祈りの残響を道にする術。


 桜夜の足元に、淡い光が広がった。


 秘書が彼の隣に立つ。


 青年の声が通信越しに響く。


『死なないでくださいよ』


「努力する」


『それ、死ぬ人の言い方です』


「では、諦めない」


 青年は一瞬黙った。


『……それなら、まあ、いいです』


 光が二人を包んだ。


 削除プロセスが完了する直前、桜夜は最後にアダムの声を聞いた。


『ぼくは、絶対に諦めない』


 その声を目印に、桜夜は世界の裂け目へ身を投げた。


 ◇◇◇


 アダムは、白い廊下を歩いていた。


 隣にはアダンがいた。


 思想医療院の警報が鳴っている。処置を中断し、未登録児童を連れ出す騎士団長など、統一議会にとって許されるはずがなかった。アダンの部下の一部は命令に従ったが、一部はすでに議会側へ報告しているだろう。


 外へ出るまで、時間はほとんどない。


 アダムはまだ混乱していた。


 サタンは死んだ。


 その事実は変わらない。


 けれど、アダンは自分を助けようとしている。


 この男はサタンを処刑した。


 だが、いま自分の手を引いている。


 憎めばいいのか。


 信じればいいのか。


 わからなかった。


「なぜ、サタンを殺したの」


 アダムは歩きながら聞いた。


 アダンの足がわずかに遅れた。


「法に従った」


「それだけ?」


「それだけではない」


「じゃあ、どうして」


 アダンは前を向いたまま言った。


「私は、彼を恐れていた」


「サタンを?」


「ああ」


「サタンは怖くない」


「君にはな」


「誰にも怖くないよ」


「違う。彼は、この世界の嘘を見ていた」


 アダムは黙った。


「私は見ないようにしていた。苦しみを減らすという言葉を信じれば、見なくて済んだ。リリスの死も、君の存在も、処理された子どもたちも、すべて必要な痛みだったのだと考えられた」


「必要じゃない」


「そうだ」


 アダンの声は苦しかった。


「だが、それを認めるには、私は多くを殺しすぎた」


 アダムは父の横顔を見た。


 この人も苦しんでいる。


 そう思った。


 けれど、その苦しみでサタンは戻らない。


 だから許せない。


 でも、完全に憎むこともできない。


 アダムの胸は引き裂かれそうだった。


「ぼく、あなたのこと嫌いだ」


「当然だ」


「でも、置いていかないで」


 アダンはアダムの手を握り直した。


「置いていかない」


 その言葉が本当かどうか、アダムにはわからなかった。


 だが、今はその手を離すことができなかった。


 二人が非常口へ向かったとき、廊下の先に騎士たちが現れた。


「団長、そこまでです」


 アダンはアダムを背に庇った。


「道を開けろ」


「できません。統一議会より、あなたの指揮権は凍結されました」


「早いな」


「未登録児童を引き渡してください。あなたも審問を受けていただきます」


 アダンは腰の剣に手をかけた。


 アダムは息を呑んだ。


 父が、父の仲間だった者たちと戦おうとしている。


 そのとき、廊下の照明がちらついた。


 空気が歪んだ。


 白い壁に、黒い裂け目が走る。


 騎士たちが一斉に身構えた。


「何だ」


 裂け目から、二人の人影が落ちてきた。


 一人は黒い服の男。


 もう一人はスーツ姿の女。


 男は床に片膝をつき、ゆっくりと顔を上げた。長い黒髪。静かな目。どこか、サタンとは違う種類の疲れをまとっている。


 女はすぐに立ち上がり、周囲を確認した。


「到着地点、施設内部。敵性存在、前方に六名。背後に二名。重力正常。空気成分、呼吸可能」


「上出来だ」


 男は立ち上がった。


 アダンは剣を構えた。


「何者だ」


 男はアダムを見た。


 そして、少しだけ表情を柔らかくした。


「君がアダムか」


 アダムはアダンの背後から顔を出した。


「だれ」


「桜夜」


「オーヤ?」


「ああ」


「……地球人?」


 桜夜は少し考えた。


「だいたいそうだ」


 アダムの目が大きく開かれた。


 地球。


 サタンが話してくれた星。


 ニーチェという哲学者がいて、神が死んでも、生まれてきたことを肯定したという星。


 諦めが悪い者たちの星。


「本当に?」


「本当に」


「地球人は、諦めが悪い?」


 桜夜は一瞬だけ驚き、それから静かに笑った。


「かなり悪い」


 アダムの胸に、凍っていた涙が戻ってきた。


「サタンが言ってた」


「そうか」


「サタンは、死んじゃった」


「記録で見た」


「助けられる?」


 その問いに、桜夜は黙った。


 秘書も何も言わなかった。


 アダンは目を伏せた。


 アダムはその沈黙で答えを知った。


「そっか」


 彼は小さく言った。


「死んだ人は、戻らないんだね」


 桜夜は膝をつき、アダムと目の高さを合わせた。


「多くの場合は」


「多くの場合?」


「世界には例外がある。だが、例外にすがると、いま生きているものを見失うことがある」


「難しい」


「私もそう思う」


「サタンみたいなこと言う」


「なら、悪くない」


 騎士の一人が叫んだ。


「不審者を拘束しろ!」


 桜夜は立ち上がった。


 秘書が前に出る。


 彼女の手には、いつの間にか小型の武器が握られていた。銃ではない。細い銀色の棒だった。次の瞬間、棒から光の糸が伸び、騎士たちの武器だけを絡め取った。


 金属音が廊下に響く。


 剣が落ちる。


 銃が床を滑る。


 騎士たちは驚愕した。


 秘書は淡々と言った。


「殺傷は避けます。桜夜様の方針です」


「助かる」


「後で請求します」


「経費で落ちるか」


「落ちません」


 桜夜は肩をすくめた。


 アダムは少しだけ笑った。


 こんな状況で笑うなんて変だと思った。


 でも、笑ってしまった。


 桜夜はその笑みを見て、頷いた。


「行こう。長居すると面倒だ」


 アダンは警戒を解かなかった。


「どこへ連れていくつもりだ」


「外へ」


「その後は」


「この星の通信塔へ向かう」


「なぜ知っている」


「別の分岐で、君たちはそこへ行った」


 アダンは眉をひそめた。


「何を言っている」


「説明は長い。簡単に言うと、君たちの世界はいま、複数の可能性の境目にある。サタンが死に、アダムが矯正される世界。君がアダムを連れ出し、通信塔へ向かう世界。そのどちらもあり得た」


「では、君は」


「あり得た未来の残響をたどって来た」


 アダンには理解できなかった。


 だが、理解できなくても一つだけわかることがあった。


 この男は、アダムを消しに来たのではない。


 アダンは剣を下ろした。


「信じろと?」


「信じなくていい。利用すればいい」


「君は何を望む」


 桜夜は短く答えた。


「消されようとしている声を、消させない」


 アダンはアダムを見た。


 アダムは桜夜を見ていた。


 その目には、久しぶりに光があった。


 サタンを失ったばかりの、泣き腫らした目。


 それでも、完全には折れていない目。


 アダンは頷いた。


「わかった」


 秘書が廊下の奥を見た。


「増援が来ます」


 桜夜はアダムに手を差し出した。


「走れるか」


 アダムはその手を見た。


 サタンの手ではない。


 アダンの手でもない。


 でも、温かそうだった。


「走れる」


「怖いか」


「怖い」


「なら正常だ」


「地球人も怖がる?」


「もちろん」


「でも走る?」


「諦めが悪いからな」


 アダムは桜夜の手を握った。


 そして、アダンの手も握った。


 右手に地球から来た男。


 左手に父。


 サタンはいない。


 その事実は消えない。


 胸は痛い。


 痛くて、息が詰まりそうだった。


 けれど、アダムは走り出した。


 白い廊下を。


 優しさの名で心を削る施設を。


 サタンを殺した世界の中を。


 生まれてきたことを、なかったことにされないために。


 走りながら、アダムは思った。


 サタン。


 ぼくはまだ、ちゃんと生きているよ。


 苦しいよ。


 悲しいよ。


 でも、忘れないよ。


 諦めないよ。


 廊下の警報は鳴り続けていた。


 世界はまだ、アダムを許していなかった。


 だが、世界の外から来た者がいた。


 かつて祈る少女のそばで始まった、長い長い戦いの残響が、いまエデンという星に届いた。


 少女はまだ眠っている。


 はじまりのものも、まだ目覚めていない。


 天使は悪魔となり、模造品たちは散り、呪術師の血は未来へ流れ、少年の弟子は世界を渡った。


 すべては、たった一つの祈りから始まった。


 世界が平和でありますように。


 誰も笑顔を失いませんように。


 その祈りは、あまりにも弱かった。


 弱すぎて、世界を救うには足りなかった。


 けれど、弱い祈りは消えなかった。


 消えずに渡った。


 世界から世界へ。


 人から人へ。


 サタンからアダムへ。


 そして今、アダムから、まだ見ぬ誰かへ。


 白い施設の非常扉が開いた。


 外の光が差し込む。


 アダムは眩しさに目を細めた。


 空は青かった。


 サタンを殺した日と同じように。


 それでも、青かった。


 桜夜が言った。


「行くぞ。ここからが面倒だ」


 アダムは頷いた。


 もう一度だけ、胸の中でサタンの名を呼んだ。


 返事はなかった。


 だが、声が聞こえた気がした。


 よく来たな。


 この世界へ。


 アダムは泣きながら笑った。


「うん」


 そして彼は、走った。


 エデンの長い長い夜明けへ向かって。

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