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第1話 それでも、アダムは生まれた

 サタンとともに旅をしていたころ、アダムは地球の話を好んだ。


 エデンにはもう、子どもがほとんどいなかった。


 街の公園には遊具だけが残り、学校は記念館になり、玩具店は古い文化資料を売る店に変わっていた。かつて子どもたちの笑い声で満ちていた場所には、苦痛を知らないアンドロイドたちが静かに花を植え、落ち葉を掃き、ひび割れた石畳を修理していた。


 それは、穏やかな世界だった。


 争いは少なかった。飢えも少なかった。犯罪も少なかった。ヒューマノイドたちは互いに多くを求めなくなっていたからだ。未来を奪い合う必要がなかった。誰も次の世代に土地を残そうとしない。誰も家名を継がせようとしない。誰も自分の血が永遠に続くことを願わない。


 彼らは諦めることに慣れていた。


 愛した者が死ねば、そういうものだと受け入れた。


 夢が叶わなければ、夢など苦痛の芽だったのだと手放した。


 誰かに去られれば、執着は相手も自分も苦しめると笑って別れた。


 病に伏せれば、治療を望まず、静かな薬を選ぶ者も多かった。


 諦めは、美徳とされた。


 諦めの早さは、成熟と呼ばれた。


 諦めのよい者ほど、優しい者だと讃えられた。


 ヒューマノイドは、諦めがよかった。


 だからエデンは平和だった。


 だが、その平和の裏に何があったのかを、アダムはまだ知らなかった。


 彼が知っていたのは、森の奥の小さな家と、サタンの温かな手と、夜になると聞かせてくれる地球の話だけだった。


 死の森は、名前ほど死んではいなかった。


 確かに鳥は少なく、獣もほとんどいなかった。古い戦争で大地は汚れ、木々の葉はところどころ黒く縮れていた。雨が降ると土の底から金属の匂いがのぼり、夜には地面が青白く光ることもあった。統一議会の地図では、そこは居住不能区域に指定されていた。


 しかし、完全な死ではなかった。


 春には小さな草が芽吹いた。夏には名も知らぬ花が咲いた。秋には硬い実が落ち、冬には雪が枝を白く染めた。水は深く掘れば飲めたし、サタンは古い浄化装置を修理して、森の毒を少しずつ取り除いていた。


 その家は、かつて観測小屋だった。


 今は屋根に苔が生え、外壁には蔓が絡み、遠くから見れば森の一部にしか見えない。中には粗末な寝台と、金属の机と、古い端末と、書物の山があった。書物の多くは禁書だった。生を肯定する詩。子どもを祝福する古い歌集。反出生主義法が制定される前の家族記録。地球から受信された断片的な文化資料。


 サタンは、それらを隠し持っていた。


 彼は統一議会から見れば、単なる思想犯ではなかった。


 生を肯定する者。


 出生をかばった者。


 逃亡者を助けた者。


 そして、子どもを育てている者。


 それらはすべて、国家反逆罪に値した。


 だがアダムにとってサタンは、ただの家族だった。


 父という言葉を彼は知っていた。母という言葉も知っていた。だが、それらが自分にどう関わるのかを、幼いころはよく理解していなかった。サタンは自分を産んだ者ではない。だが、眠れない夜には胸に抱いてくれた。熱を出せば一晩中額を冷やしてくれた。食べ物を噛めないころは、自分の分を潰して口に運んでくれた。歩く練習をするときは、何度転んでも立ち上がるまで待ってくれた。


 だからアダムは、サタンをサタンと呼んだ。


 その名に、父より深い響きを込めて。


「ねえ、サタン」


 ある夜、アダムは寝台の上で毛布にくるまりながら言った。


 外では風が鳴っていた。森の木々が揺れ、屋根に古い枝が擦れる音がする。暖炉の火は小さく、部屋の隅では古い浄化装置が低く唸っていた。


「地球人って、どうしてそんなに変なの」


 サタンは端末の光を消し、椅子の背にもたれた。


「何が変だと思う」


「だって、神様が死んだって言われても、生まれてきてうれしいって言うんでしょ」


「ああ」


「エデンの人なら、神様がいないならなおさら、生まれてこないほうがよかったって言うと思う」


「そうだな」


「地球人は、苦しくないの」


 サタンは少し考えた。


 彼はいつも、アダムの問いにすぐ答えなかった。正しい答えを持っていないからではない。むしろ、正しい答えなどというものを簡単に渡したくなかったからだ。


「苦しいだろう」


「じゃあ、どうして諦めないの」


「地球人はな、諦めが悪いんだ」


「諦めが悪い?」


「ああ。エデンでは諦めのよさが美徳だ。だが地球では、諦めないことを美徳とする者たちもいる」


「どうして」


「たぶん、彼らは負けるのが嫌いなんだ」


 アダムは眉を寄せた。


「苦しみに?」


「そうだ。病にも、飢えにも、孤独にも、死にも、神の不在にも、世界の理不尽にも。地球人はよく負ける。何度も負ける。大勢が倒れる。泣く。怒る。間違える。互いを傷つける。それでも、次の日になるとまた立ち上がる者がいる」


「変だね」


「変だな」


 サタンは笑った。


 アダムもつられて笑った。


「でも、ぼくは好きかもしれない」


「地球人が?」


「うん。だって、なんか……しつこい」


「そうだ。地球人はしつこい」


「おもしろいね」


 アダムは毛布の中で膝を抱いた。


「エデンの人は、しつこくないの」


「少なくとも今はな」


「昔は?」


 サタンの表情が、ほんの少しだけ変わった。


 暖炉の火が揺れ、その横顔に深い影を作った。


「昔は、そうでもなかった」


「昔のエデン人も、諦めが悪かった?」


「かなりな」


「じゃあ、どうして変わったの」


 サタンはしばらく黙った。


 その沈黙の長さで、アダムは自分が難しいことを聞いたのだとわかった。彼は毛布を握りしめる。サタンが答えたくないことを無理に聞きたいわけではなかった。だが、知らないままでいることもできなかった。


 サタンはやがて、ゆっくりと口を開いた。


「アダム。平和には、二種類ある」


「二種類?」


「一つは、みんなが互いを大切にして作る平和だ。もう一つは、誰かが声を奪われたことで作られる平和だ」


 アダムは黙って聞いていた。


「今のエデンは、静かだ。争いも少ない。みんな微笑んでいる。だが、その静けさは、すべての者が納得して得たものではない」


「どういうこと」


「反出生主義法ができたとき、それに反対した者も大勢いた」


「リリスみたいに?」


 サタンの瞳が揺れた。


 アダムは、自分の母の名を知っていた。彼女が自分を産もうとして死んだことも知っていた。けれど、その死の細部をサタンはまだ話していなかった。アダムも、まだ聞けなかった。


「そうだ。リリスのように」


「その人たちは、どうなったの」


 サタンは目を伏せた。


「弾圧された」


 その言葉は、アダムにはまだ重すぎた。


「だんあつ?」


「自分と違う考えを持つ者を、力で黙らせることだ」


「でも、エデンの人は優しいんでしょ。苦しみをなくしたいんでしょ」


「だからこそ、彼らは自分たちを正義だと信じた」


 サタンの声は静かだった。


 怒りはなかった。


 いや、怒りが消えたのではない。あまりにも長い時間燃え続けた怒りが、黒く固まって声の底に沈んでいるようだった。


「苦しみをなくすためなら、少しの苦しみは仕方ない。未来の命を救うためなら、今いる反対者を拘束しても仕方ない。生まれてくる子どもを苦痛から守るためなら、その子を望む親を罰しても仕方ない。そう考えた」


「それって」


 アダムは言葉を探した。


「変だよ」


「変だな」


「優しいのに、怖い」


「優しさは、怖くなることがある」


 サタンは暖炉に薪を足した。


 火が少し大きくなり、部屋の壁に書物の影が揺れた。


「相手のためだと信じている者は、自分の暴力に気づきにくい。お前のためだ。未来のためだ。世界のためだ。そう言いながら、人は人を縛ることがある」


「地球人も?」


「ああ。地球人もよくやる」


「じゃあ、地球人もだめじゃないか」


「だめなところはたくさんある」


「なのに、生まれてきてうれしいって言うの」


「そうだ」


「やっぱり、地球人は変だ」


「地球人は、だいぶ変だ」


 サタンは微笑んだ。


 その夜、アダムはなかなか眠れなかった。


 平和。


 諦め。


 弾圧。


 優しさ。


 どれも、彼の中でうまくつながらなかった。


 エデンの人々は苦しみを減らしたかった。ならば、それは良いことのはずだった。子どもが苦しまないように、生まれないほうがいいと考えた。ならば、それも優しさのはずだった。


 けれど、その優しさのためにリリスは逃げた。


 逃げて、死んだ。


 自分は生まれた。


 それは良かったことなのか。


 悪かったことなのか。


 アダムは寝台の上で寝返りを打った。


 サタンは机に向かって、古い資料を読んでいた。背中が少し丸い。その肩は、いつもより小さく見えた。


「ねえ、サタン」


「まだ起きていたのか」


「ぼくは、生まれちゃいけなかったの」


 サタンの手が止まった。


 部屋の音が消えたように感じられた。


 風の音も、火の音も、浄化装置の唸りも、遠くなった。


 サタンはゆっくりと振り返った。


 その顔には、怒りでも悲しみでもない、もっと深く傷ついたものが浮かんでいた。


「誰がそんなことを言った」


「誰も言ってない」


「なら、なぜ聞く」


「だって、エデンの法律がそう言ってるから」


 アダムは毛布を握りしめた。


「ぼくは生まれてきた。だから、法律では悪いことなんでしょ。リリスも、サタンも、悪いことをしたんでしょ」


 サタンは立ち上がり、寝台のそばへ来た。


 そして膝をつき、アダムと同じ高さで目を合わせた。


「アダム」


「うん」


「お前が生まれたことは、罪でも罰でもない」


「本当?」


「ああ」


「でも、ぼくはいつか苦しむよ」


「そうだ」


「死ぬよ」


「そうだ」


「サタンも死ぬ?」


「ああ」


 アダムの目に涙が浮かんだ。


「それは嫌だ」


「私も嫌だ」


「じゃあ、やっぱり生まれないほうがよかったんじゃないの」


 サタンは答えなかった。


 答えの代わりに、アダムを抱きしめた。


 アダムは最初、抵抗しなかった。ただ、サタンの胸に顔を押し当てていた。心臓の音がした。ゆっくりで、確かな音だった。その音を聞いているうちに、涙がこぼれた。


「嫌だよ」


「うん」


「サタンが死ぬの、嫌だ」


「うん」


「ぼくが死ぬのも、嫌だ」


「そうだな」


「みんな死ぬの、嫌だ」


「そうだ」


「じゃあ、どうすればいいの」


 サタンはアダムの背を撫でた。


「それでも生きるんだ」


「それだけ?」


「それだけだ」


「そんなの、答えになってない」


「そうだな」


 サタンは苦く笑った。


「だが地球人は、そういう答えになっていない答えを抱えて生きてきた。神がいないかもしれない。死後の世界もないかもしれない。苦しみに意味などないかもしれない。それでも、朝になればパンを焼き、誰かを愛し、詩を書き、子どもに名をつけた」


「どうして」


「諦めが悪いからだ」


 アダムは涙で濡れた顔を上げた。


「ぼくも、諦めが悪くなれる?」


「もう十分悪い」


「そうかな」


「眠れないのにまだ質問している」


 アダムは少し笑った。


 その笑みを見て、サタンも笑った。


 けれどその夜、サタンはアダムが眠ったあとも長く椅子に座っていた。


 机の上には、統一議会の古い記録が開かれていた。


 反出生主義法施行後、各地で起きた抵抗運動についての資料である。そこには、多くの名前が並んでいた。


 妊娠した妻を隠した男。


 生まれた子を森へ逃がそうとした老夫婦。


 禁じられた子守歌を配信した歌手。


 学校の壁に「未来を殺すな」と書いた教師。


 新生児安楽死施設に火を放った医師。


 彼らは逮捕され、裁かれ、矯正された。


 矯正という言葉は、エデンでは柔らかく響いた。


 だが実際には、人格の根に手を入れる処置だった。反出生主義に対する抵抗感を取り除き、諦めを受け入れやすくする神経調整。怒りを鎮め、執着を薄め、未来への欲望を消す治療。


 多くの者は、それを受けた後に穏やかになった。


 穏やかに微笑み、穏やかに謝罪し、穏やかに自分の過ちを認めた。


 そして、穏やかに生きることをやめた。


 サタンは記録を閉じた。


 彼はその施設を知っていた。


 若いころ、騎士として警備に就いたことがあった。まだアダンと共に統一議会に仕えていたころである。


 当時の彼は、反出生主義を完全には信じていなかったが、強く疑ってもいなかった。世界には苦しみが多すぎる。これ以上命を増やさないという選択にも、一定の理がある。そう考えていた。


 だが、施設で見たものが彼を変えた。


 白い部屋。


 柔らかな椅子。


 微笑む医師。


 そして、かつて激しく泣き叫んでいた女が、処置後に静かにこう言った。


「私は間違っていました。私の子は、生まれないほうが幸せでした」


 その声には涙がなかった。


 怒りもなかった。


 ただ、何かが抜き取られていた。


 サタンはそのとき初めて、平和という言葉を恐ろしいと思った。


 騒がない者たちで満たされた世界。


 抵抗しない者たちで保たれる秩序。


 泣き叫ぶ力すら奪われた者たちの静寂。


 その上に成り立つ平和を、本当に平和と呼んでよいのか。


 サタンは答えを出せなかった。


 だが、その日から彼は統一議会の資料を盗むようになった。処分される前の文化記録を隠し、生を肯定する思想書を集め、反出生主義法に抵抗した者たちの名前を密かに残した。


 そして、アダンと決裂した。


 アダンは正しい騎士だった。


 彼は苦しみを減らしたかった。愛するリリスさえも、苦しみから守りたかった。生まれる前の子どもさえも、苦しみの世界に出さないことで救おうとした。


 サタンは、その優しさを憎めなかった。


 憎めなかったからこそ、許せなかった。


 外で枝が折れる音がした。


 サタンは顔を上げた。


 一度だけなら風かもしれない。


 二度目は違う。


 彼は灯りを消した。


 部屋は闇に沈んだ。寝台の上でアダムが小さく身じろぎする。サタンは壁に掛けてあった古い銃を手に取った。統一議会の騎士が使う最新式ではない。弾数も少ない。だが、ないよりはましだった。


 窓の外に影があった。


 人ではない。


 アンドロイドだった。


 森の闇の中に、細い白い顔が浮かんでいた。表情はない。目だけが青く光っている。清掃用でも介護用でもない。統一議会の捜索機である。


 見つかった。


 サタンは息を殺した。


 アダムを起こすべきか。


 いや、まだ早い。捜索機が一体だけなら、偶然の巡回かもしれない。だが死の森に偶然などない。ここは監視網の外れにある。来る理由があるとすれば、何かを探しているからだ。


 捜索機はゆっくりと家に近づいた。


 足音はほとんどしない。


 その滑らかな動きは、生き物のものではなかった。痛みを知らない身体。恐怖を知らない心。命令に疑問を持たない知性。統一議会が最後の時代のために作った、苦しまない労働者。


 そして今は、苦しまない追跡者。


 サタンは扉の横に立った。


 捜索機が戸口の前で止まる。


 短い電子音。


 錠前に外部接続する音。


 扉が開く前に、サタンは銃を撃った。


 乾いた音が小屋に響いた。


 弾丸は捜索機の頭部を貫き、青い目が消えた。白い身体が膝から崩れ落ちる。だがサタンは安堵しなかった。一体が来たということは、記録が送られた可能性がある。


「アダム」


 サタンは寝台へ駆け寄った。


 アダムは目を覚ましていた。怯えた顔で身体を起こしている。


「何の音」


「出るぞ」


「どこへ」


「ここにはもういられない」


 アダムは何かを聞こうとしたが、サタンの顔を見て口を閉じた。


 彼はすぐに毛布を跳ねのけ、靴を履いた。幼いころから、こういう日のために訓練はしていた。どんなに眠くても、サタンが出ると言えば出る。持つものは小さな鞄一つ。思い出の品は持たない。命より重いものはない。


 だが、アダムは机の上の一冊に目をやった。


 地球の哲学者たちについて書かれた古い記録である。


「持っていきたい」


「重い」


「でも」


 サタンは一瞬だけ迷い、すぐに本を鞄へ押し込んだ。


「走れるな」


「うん」


 二人は小屋を出た。


 森は冷たかった。


 空には雲がかかり、月は見えなかった。木々の間を抜ける風が黒い葉を鳴らしている。倒れた捜索機の身体から、焦げた金属の匂いが漂っていた。


 遠くで、かすかな青い光が瞬いた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 サタンは舌打ちした。


「多いな」


「サタン」


「大丈夫だ。森の地形はこちらが知っている」


 二人は走った。


 死の森は、外から来た者には迷宮だった。汚染を避けるための古い溝、戦争時代の地下壕、朽ちた観測塔、毒の濃い沼。サタンはそれらをすべて覚えていた。アダムもまた、何度も歩かされていた。


 だが夜の森を逃げるのは初めてだった。


 枝が顔を打った。根につまずいた。肺が痛くなった。けれどアダムは止まらなかった。


 諦めが悪い。


 その言葉が、頭の中で何度も鳴った。


 地球人は諦めが悪い。


 なら、自分も。


 背後で電子音が響いた。


 捜索機の声だった。


「停止してください。あなた方の保護が必要です」


 保護。


 アダムはその言葉にぞっとした。


 優しい言葉だった。


 だが、その優しさが何をするのか、もう少しだけ知っていた。


「対象者サタン。あなたには統一議会への出頭義務があります。対象者アダム。あなたは出生記録未登録の保護対象です。危険環境から救助します」


「救助って言ってる」


 アダムは息を切らしながら言った。


「そうだな」


「ぼくを殺すの?」


「法律では、新生児ではないお前をすぐに安楽死させるとは限らない」


「じゃあ」


「矯正される」


 アダムは走りながら、サタンの横顔を見た。


「ぼくも、諦めがよくなるの」


「そうだ」


「リリスのことも、サタンのことも、生まれてきてうれしいって思うことも、間違いだと思うようになる?」


「そうだ」


 アダムの胸に、これまで感じたことのない熱が生まれた。


 それは恐怖ではなかった。


 悲しみでもなかった。


 怒りだった。


「嫌だ」


「ああ」


「絶対に嫌だ」


「ああ」


「ぼくは、諦めない」


 サタンは一瞬だけアダムを見た。


 森の闇の中で、その目がかすかに笑った。


「いいぞ」


 二人は崖の手前で進路を変えた。


 そこには古い排水路の入口があった。大人が身をかがめてようやく入れるほどの狭い穴で、外から見れば岩と蔓に隠れている。サタンは錆びた格子を外し、アダムを先に押し込んだ。


「中へ」


「サタンは」


「すぐ行く」


 そのとき、青い光が背後に迫った。


 捜索機が三体、木々の間から現れた。白い身体は枝に傷ついていたが、動きは鈍っていなかった。彼らは銃を持っていなかった。捕獲用の電磁糸を腕から展開している。


「対象者を確認しました」


 サタンは銃を構えた。


「アダム、奥へ進め」


「嫌だ」


「行け」


「サタンも一緒に」


「すぐ行くと言った」


 アダムは動かなかった。


 サタンは振り返らず、低い声で言った。


「諦めが悪いのと、聞き分けが悪いのは違う」


 アダムは唇を噛んだ。


 そして奥へ進んだ。


 排水路の中は暗く、冷たかった。水はほとんど流れていない。壁には古い苔が生え、ところどころ天井から雫が落ちている。アダムは膝をつきながら進んだ。背後で銃声がした。一発。二発。金属が砕ける音。続いて、サタンのうめき声。


 アダムは振り返った。


 入口の向こうで青い光が揺れている。


「サタン!」


「進め!」


 その声はまだ強かった。


 アダムは泣きそうになりながら進んだ。進むしかなかった。狭い管の中を這い、手のひらを擦りむき、膝を打ち、それでも進んだ。


 やがて背後からサタンが入ってきた。


 片腕を押さえている。袖が裂け、血が流れていた。


「怪我してる」


「浅い」


「嘘だ」


「嘘だが、今は信じろ」


 サタンは格子を内側から引き戻し、簡易の爆薬を取り付けた。


「耳を塞げ」


 爆発音が排水路の中で反響した。


 入口が崩れ、土と石が外界を塞いだ。青い光は消えた。しばらくの間、二人は闇の中で息を殺していた。


 アダムは震えていた。


 サタンはその肩に手を置いた。


「よく走った」


「怖かった」


「私も怖かった」


「サタンも?」


「ああ。とても」


 アダムは少し驚いた。


 サタンはいつも強く見えた。森のことを知り、銃を扱い、古い機械を直し、地球の哲学まで知っている。そんなサタンが怖がるのだと知ったとき、アダムは不思議と安心した。


「怖くても、走るの?」


「怖いから走るんだ」


「地球人みたい」


「残念ながらな」


 二人は暗い排水路を進んだ。


 それは古い戦争時代に作られた避難路につながっていた。地図には残っていない。サタンが何年もかけて調べた道だった。奥へ進むほど空気は重くなり、壁には古い標識が残っていた。


 避難区域。


 医療区画。


 収容室。


 その文字を見たとき、サタンの足が止まった。


「どうしたの」


「ここは」


 彼は懐中灯を壁に向けた。


 そこには、消えかけた紋章があった。


 統一議会が成立するより前に存在した、北方連合軍の印である。


「昔の避難施設だと思っていたが」


「違うの」


「ここは、収容所だったのかもしれない」


 アダムはその言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 だが、先へ進むにつれてわかった。


 小さな部屋が並んでいた。


 扉には外側から鍵がかかる構造が残っていた。壁には爪で引っかいたような傷があり、床には腐食した寝台の残骸があった。ある部屋には、子どもの背丈ほどの線が壁に刻まれていた。日付らしき数字もあった。


 アダムはその線に触れた。


「ここに、誰かいたの」


「いた」


「子ども?」


「たぶんな」


「どうして」


 サタンは答えなかった。


 奥の部屋に、古い記録端末が残っていた。電源は死んでいたが、サタンは携帯電源をつなぎ、端末を起動させた。画面は何度も乱れた後、かすかに文字を映した。


 サタンの顔がこわばった。


「何が書いてあるの」


「反出生主義法の初期運用記録だ」


「ここも関係あるの?」


「ああ」


 サタンは画面を読み進めた。


 そこに記されていたのは、法律制定直後に拘束された妊婦たちと、その家族の記録だった。中絶を拒んだ者。逃亡を試みた者。生まれた子を隠した者。彼らは安全保護の名目で施設に収容された。


 処置。


 説得。


 隔離。


 矯正。


 その単語が何度も繰り返されていた。


 アダムは画面の一行を見つめた。


 新生児一名、処理済。


 処理。


 その言葉が、彼の中で何かを裂いた。


「赤ちゃんを、処理って言ったの」


 サタンは何も言わなかった。


「苦しませたくないからって」


「そうだ」


「優しさだからって」


「そうだ」


「ひどい」


 アダムの声が震えた。


「ひどいよ」


 彼は壁を殴った。


 小さな拳に痛みが走った。皮膚が裂け、血がにじんだ。それでももう一度殴ろうとした。サタンが手首をつかむ。


「やめろ」


「嫌だ」


「手を壊す」


「壊れたっていい」


「よくない」


「だって、ひどいんだよ!」


 アダムは叫んだ。


 その声は収容所の廊下に響き、古い壁に跳ね返った。


「生まれたのに! 泣いたかもしれないのに! 誰かが抱きたかったかもしれないのに! 処理って、そんな言い方ないよ!」


 サタンはアダムを抱きしめた。


 アダムは暴れなかった。ただ、サタンの胸を拳で叩いた。何度も。弱い力で。やがて力が抜け、泣き声に変わった。


「ぼくも、そうなるはずだったの」


「そうだ」


「リリスが逃げなかったら」


「そうだ」


「サタンが助けなかったら」


「そうだ」


「じゃあ、ぼくは、みんなの代わりに生きてるの」


 サタンはすぐには答えなかった。


「代わりではない」


「でも」


「お前はお前の命を生きればいい」


「そんなの、ずるいよ」


「ずるくてもいい」


「みんな死んだのに」


「だからといって、お前が幸せになってはいけない理由にはならない」


 アダムは泣きながら首を振った。


「わからない」


「今はわからなくていい」


「サタンはわかるの」


「わからない」


「大人なのに」


「大人でも、わからないことばかりだ」


 サタンはそう言って、古い端末から記録媒体を抜き取った。


 アダムは涙を拭いた。


「それ、持っていくの」


「ああ」


「どうするの」


「いつか、誰かに見せる」


「誰に」


「エデンに」


 アダムは顔を上げた。


「エデンの人たちに?」


「ああ」


「信じてくれるかな」


「信じない者もいる」


「怒るかな」


「怒る者もいる」


「それでも見せるの」


「見せる」


「どうして」


 サタンは端末を鞄に入れた。


「諦めが悪いからだ」


 その言葉は、今度は少し違って聞こえた。


 地球人の性質としてではなく、サタン自身の決意として。


 二人は収容所を抜け、さらに地下を進んだ。


 道はやがて上り坂になり、古い扉に突き当たった。サタンが錆びたハンドルを回すと、扉は重い音を立てて開いた。


 外の光が差し込んだ。


 夜は明けかけていた。


 空は薄い灰色で、東の端が淡く明るんでいる。そこは森の外れだった。遠くに、サントベルクの塔が見えた。白い都市は朝靄の中で静かに輝いている。何も知らない者が見れば、平和そのものの都市だった。


 アダムはその光景を見つめた。


「あそこに、アダンがいるの」


 サタンは少し息を止めた。


「おそらく」


「ぼくの父さん」


「ああ」


「サタンの親友」


「ああ」


「ぼくを殺そうとする?」


 サタンは遠い都市を見た。


「アダンは、殺すとは言わないだろう」


「じゃあ、何て言うの」


「救うと言う」


 アダムは黙った。


 その言葉は、殺すよりも怖かった。


「会ったことあるの」


「誰に」


「ぼくの父さん」


「ある」


「どんな人」


 サタンは朝靄の向こうを見たまま、しばらく黙っていた。


「真面目な男だ」


「うん」


「約束を守る。弱い者を見捨てない。自分より他人を優先する。正しいと思ったことのためなら、自分の心も傷つける」


「いい人みたい」


「いい奴だ」


「でも、リリスを止めようとした」


「ああ」


「ぼくを生まれさせたくなかった」


「ああ」


「いい人なのに」


「いい奴でも、間違える」


 アダムは足元の石を蹴った。


「サタンも間違える?」


「毎日だ」


「ぼくも?」


「もちろん」


「地球人も?」


「しょっちゅうだ」


「じゃあ、正しい人なんていないの」


「たぶんな」


「それで、どうやって生きるの」


「間違えたら、また考える」


「それだけ?」


「それだけだ」


 アダムは不満そうに口を尖らせた。


「サタンの答えって、いつも少ない」


「真実はだいたい貧しい」


「地球の哲学者っぽい」


「褒めているのか」


「たぶん」


 二人は森の外れにある岩陰で休んだ。


 サタンの腕の傷は深かった。アダムは震える手で包帯を巻いた。血を見るのは初めてではなかったが、サタンの血は怖かった。いつも守ってくれる人の身体にも穴が開くのだと知ることは、世界の床が抜けるような感覚だった。


「痛い?」


「痛い」


「苦しい?」


「少しな」


「生まれなければ、痛くなかった?」


「そうだな」


「でも、生まれてきてよかった?」


 サタンは包帯を巻くアダムの手を見た。


 小さな手だった。


 リリスの腹から取り上げたときは、もっと小さかった。血と羊水に濡れ、今にも消えそうだった命が、今は自分の傷を手当てしている。


「よかった」


「本当に?」


「ああ」


「どうして」


「お前に会えた」


 アダムは黙った。


 そして少し笑った。


「ぼくと同じだ」


「そうだな」


 サタンは空を見上げた。


 朝日が、雲の底を淡く染めていた。


 そのとき、遠くから鐘の音が聞こえた。


 サントベルクの中央塔から鳴る警戒鐘だった。低く、長く、冷たい音。森の上を渡り、死んだ収容所の跡を越え、二人のいる岩陰まで届いた。


 サタンは立ち上がった。


「捜索が始まる」


「どこへ行くの」


「北へ」


「北には何があるの」


「古い通信施設がある」


「それで、エデンのみんなに記録を見せるの?」


「ああ。だがそれだけじゃない」


「他にもあるの」


 サタンはアダムを見た。


「地球へ信号を送る」


 アダムは目を丸くした。


「地球に?」


「ああ」


「本当に地球ってあるの?」


「ある」


「地球人も?」


「いるはずだ」


「返事してくれるかな」


「わからない」


「遠いんでしょ」


「とても遠い」


「じゃあ、返事が来る前にぼくたち死んじゃうかも」


「かもしれない」


「それでも送るの」


「送る」


「どうして」


 サタンは笑った。


「お前、もう答えを知っているだろう」


 アダムは少し考え、それから言った。


「諦めが悪いから?」


「そうだ」


 アダムはサントベルクの塔を見た。


 平和な都市。


 未来を閉ざした都市。


 優しさの名でリリスを追い詰め、赤ん坊を処理と呼び、抵抗する者を穏やかに黙らせてきた都市。


 そこに、アダンがいる。


 父がいる。


 自分を愛していたかもしれない男。


 自分を救うために、自分の生を否定するかもしれない男。


 アダムは胸を押さえた。


 そこには心臓があった。


 小さなころからずっと動いてきた心臓。


 リリスの死んだ身体の中で、それでも止まらなかった心臓。


 サタンの手に包まれて、この世界に哭いた心臓。


「サタン」


「何だ」


「ぼく、父さんに会いたい」


 サタンの表情が固まった。


「今は危険だ」


「今じゃなくていい」


「会えば、傷つくかもしれない」


「うん」


「拒まれるかもしれない」


「うん」


「お前を矯正しようとするかもしれない」


「うん」


「それでもか」


 アダムは頷いた。


「ぼく、知りたい」


「何を」


「ぼくが生まれたことを、父さんが本当はどう思っているのか」


 サタンは長い息を吐いた。


 その横顔には、疲労と恐れと、どこか諦めに似た優しさがあった。


「お前は本当に、諦めが悪いな」


「地球人ほど?」


「地球人はおろか、ヒューマノイドの中でもかなりだ」


「それ、褒めてる?」


「たぶんな」


 アダムは少し得意げに笑った。


 その笑顔は、リリスに似ていた。


 サタンはそう思い、胸が痛んだ。


 そのころ、サントベルクの中央塔では、アダンが警戒報告を聞いていた。


 白い会議室だった。


 壁も床も天井も白く、机だけが黒い。窓の向こうには朝の都市が広がっている。塔の下ではアンドロイドたちが整然と動き、通勤するヒューマノイドたちは足を止めて警戒鐘を聞いていた。誰も叫ばない。誰も走らない。ただ、穏やかに空を見上げている。


 アダンはその光景を見下ろしていた。


 彼の髪には、かつてなかった白いものが混じっていた。頬は少し痩せ、目元には深い疲れが刻まれている。それでも服装は乱れていなかった。統一議会騎士団長として、彼は常に正しく立っていなければならなかった。


 報告官が言った。


「死の森区域で未登録居住施設を確認。捜索機一体が破壊されました。熱反応二名。うち一名は成人男性、もう一名は未成年と推定されます」


 アダンの指がわずかに動いた。


「成人男性の照合は」


「反逆者サタンである可能性が高いです」


 会議室に緊張が走った。


 サタンの名は、統一議会にとって古い傷だった。かつて騎士団に所属し、機密資料を盗み、複数の逃亡者を支援した男。数年前から行方不明となり、死亡したと見る者も多かった。


 アダンは表情を変えなかった。


「未成年の照合は」


「記録がありません」


「年齢推定は」


「肉体発育から、およそ七歳から九歳」


 報告官は一瞬ためらった。


「この星に、その年齢の登録児童は存在しません」


 部屋の空気が凍った。


 アダンは窓の外を見たままだった。


 朝の光が都市を白く照らしている。


 彼の胸の奥で、遠い雨音が蘇った。


 リリスの声。


 私、妊娠しているの。


 この子は、本当に苦しむだけなのかしら。


 私、あなたに会えてよかった。


 アダンは目を閉じた。


 その記憶は、彼が何年も封じてきたものだった。リリスが逃げた夜、彼はすぐに追跡命令を出せなかった。夫としての心が、騎士としての義務を一瞬だけ遅らせた。その遅れが、彼女の死につながったのかもしれない。あるいは、その遅れが、子を生かしたのかもしれない。


 どちらにせよ、彼は喪った。


 リリスを。


 友を。


 そして、生まれていたかもしれない子を。


 だが、もし。


 もし、その子が生きているなら。


「団長」


 報告官が呼んだ。


 アダンは目を開けた。


「捕獲部隊を編成します。対象未成年は保護後、医療評価と思想安全評価に移送する手順でよろしいですか」


 思想安全評価。


 矯正の前段階である。


 アダンは静かに言った。


「対象を傷つけるな」


「もちろんです。保護対象ですので」


「サタンもだ」


 報告官は驚いたように顔を上げた。


「しかし、反逆者です」


「殺す必要はない」


「抵抗した場合は」


「制圧に留めろ」


「承知しました」


 報告官が退室した後、アダンは一人になった。


 机の引き出しを開ける。


 そこには一枚の古い写真が入っていた。


 若いアダンとリリスが写っている。反出生主義法が制定される前、まだ未来という言葉を罪悪感なく口にできたころの写真だった。リリスは笑っていた。目尻に小さなしわが寄っている。アダンはそのしわが好きだった。


 写真の裏には、リリスの字で短く書かれていた。


 いつか、三人で。


 アダンはその文字を指でなぞった。


「リリス」


 声は誰にも届かなかった。


「私は、間違っていたのか」


 答える者はいなかった。


 統一議会の塔は静かだった。


 静かすぎるほどに。


 その静けさの中で、アダンは初めて、自分が何年も平和の音だと思っていたものが、実は誰かの声が消えた後の空白なのではないかと思った。


◆◆◆


 北へ向かう道は険しかった。


 死の森を抜けた先には、灰色の荒野が広がっていた。古い戦争で焼かれた土地で、岩と錆びた金属片がどこまでも続いている。かつて都市だった場所もあった。建物は骨組みだけになり、道路には草が生え、駅のホームには行き先の消えた案内板が傾いていた。


 アダムは、世界がこんなに広いことを初めて知った。


 森と小屋だけが世界ではなかった。


 壊れた都市があった。


 誰も乗らない列車があった。


 名前の消えた墓地があった。


 壁に残された絵があった。子どもが描いたらしい、三人家族の絵だった。大きな人が二人、小さな人が一人。頭の上には太陽がある。


 アダムはその絵の前で立ち止まった。


「これを描いた子は」


「わからない」


「もう死んだ?」


「たぶんな」


「生まれてきてよかったと思ったかな」


「わからない」


「苦しんだかな」


「きっと」


「笑ったかな」


「きっと」


 アダムは壁の絵を見つめた。


 太陽は丸く、線は歪んでいた。上手な絵ではなかった。けれどそこには、世界が明るいものだと信じていた手つきがあった。


「ぼく、この絵、好きだ」


「そうか」


「下手だけど」


「下手でも残るものはある」


 サタンはそう言って歩き出した。


 その日の夕方、二人は廃墟の駅で休んだ。


 サタンの熱は上がっていた。傷が悪化している。アダムは食料を分け、水を飲ませ、額に濡れた布を置いた。サタンは大丈夫だと言ったが、その声には力がなかった。


「嘘つき」


 アダムは言った。


「大丈夫じゃない」


「そうだな」


「どうすればいい」


「明日まで休めば動ける」


「本当?」


「半分くらい」


「もう半分は?」


「願望だ」


 アダムは泣きそうになったが、泣かなかった。


 泣いても傷は治らない。そう思ったからだ。けれど、泣かないことと諦めることは違う。彼は鞄から地球の哲学書を取り出し、サタンの隣に座った。


「読んであげる」


「お前が?」


「うん。いつもサタンが読んでくれたから」


「難しいぞ」


「わからないところは飛ばす」


「それはいい読み方だ」


 アダムは本を開いた。


 そこには、地球の神話や思想についての断片が記されていた。彼はまだ多くの字を知らなかったが、サタンに教えられて少しずつ読めるようになっていた。


「えっと……サタン、という名は、地球では悪魔の名として伝わることがある」


 アダムは顔を上げた。


「サタン、悪魔なの?」


「違う」


「でも同じ名前」


「名前が同じだけだ」


「会ったことある?」


 サタンは熱に浮かされたように少し笑った。


「ある」


 アダムは目を丸くした。


「本当に?」


「ああ」


「地球の悪魔に?」


「地球の通信記録の中でな」


「それは会ったって言うの?」


「私は会ったと思っている」


「どんな悪魔だった」


 サタンは天井の穴から見える夕空を眺めた。


「昔、地球の古い物語を読んだ。そこに、サタンという悪魔が出てきた」


「怖かった?」


「少しな」


「悪いことをするの?」


「物語によって違う。神に逆らう者。人を試す者。誘惑する者。罰する者。嘘つき。告発者。反逆者」


「反逆者」


 アダムはその言葉を繰り返した。


「サタンと同じだ」


「そうだな」


「嫌じゃなかった?」


「最初は嫌だった。私は悪魔になりたかったわけではない」


「今は?」


「少しだけ、悪くないと思っている」


「どうして」


「神の命令が間違っているなら、悪魔が最初に異議を唱えることもある」


 アダムは本を抱えた。


「エデンでは、統一議会が神様?」


「神ではない。だが神のように振る舞うことがある」


「じゃあ、サタンは悪魔なの?」


「統一議会から見ればな」


「ぼくは?」


「悪魔に育てられた子どもだ」


 アダムは少し考え、真剣な顔で言った。


「それ、かっこいいかもしれない」


 サタンは声を立てて笑った。


 笑うと傷が痛んだのか、すぐに顔をしかめた。


「笑わせるな」


「サタンが勝手に笑ったんだよ」


「そうだな」


 夕日が廃駅の床を赤く染めていた。


 その光の中で、サタンは目を閉じた。


「地球のサタンは、神に逆らった。私は統一議会に逆らった。だが本当は、何かに逆らうために生きているわけじゃない」


「じゃあ、何のため」


「守りたいものがあるから、結果として逆らうことになる」


「ぼく?」


「ああ」


「リリスも?」


「ああ」


「生まれた赤ちゃんたちも?」


「ああ」


「これから生まれるかもしれない誰かも?」


 サタンは目を開けた。


「そうだ」


 アダムは本を閉じた。


「じゃあ、ぼくも悪魔になる」


「やめておけ」


「どうして」


「苦労する」


「でも、守りたいものがある」


「何を」


 アダムはしばらく考えた。


「まだ、わからない。でも、たぶん、みんなが諦めちゃったもの」


 サタンは何も言わなかった。


 ただ、アダムの頭に手を置いた。


 その夜、アダムは廃駅のベンチで眠った。


 サタンは眠れなかった。


 熱は高く、意識は何度も薄れた。そのたびに、過去の声が聞こえた。


 アダンの声。


 サタン、お前は世界を苦しみに戻すつもりか。


 リリスの声。


 この子に会いたい。


 救世主の声。


 皆で静かに滅びようではないか。


 そしてアダムの声。


 ぼくは、諦めない。


 サタンは目を開けた。


 夜空には星があった。


 そのどこかに、地球がある。


 青い星かもしれない。荒れた星かもしれない。もう滅びているかもしれない。通信記録は古い。地球人が今もそこにいる保証などない。


 それでも、彼は信号を送りたかった。


 助けを求めるためだけではない。


 エデンだけが世界ではないと、アダムに知らせたかった。


 生を否定する思想が星を覆っても、別の星では誰かがまだ諦め悪く生きているかもしれない。神が死んでも、悪魔が笑われても、戦争が起きても、病が広がっても、それでも誰かが朝食を作り、誰かに会いたいと願っているかもしれない。


 その可能性だけで、世界は少し広くなる。


 翌朝、追跡部隊が廃駅に到達した。


 サタンは足音で目を覚ました。


 規則正しい足音。アンドロイドではない。ヒューマノイドの兵士たちだった。彼らは慎重に駅を囲んでいる。殺すつもりなら、遠距離から撃てばいい。そうしないのは、命令が生け捕りだからだ。


 サタンはアダムを起こした。


「来た」


 アダムはすぐに立ち上がった。


 怯えていたが、泣かなかった。


「走る?」


「いや。囲まれている」


「じゃあ」


「交渉する」


「できるの?」


「少しだけ時間を稼ぐ」


 駅のホームに、白い制服の騎士たちが現れた。


 その中央に、一人の男がいた。


 黒髪に白いものが混じり、背筋をまっすぐ伸ばし、静かな目をしている。アダムはその男を見た瞬間、理由もなく胸が苦しくなった。


 サタンが小さく息を吐いた。


「アダン」


 男は立ち止まった。


 その目がサタンを見た。


 次に、アダムを見た。


 時間が止まったようだった。


 アダムはその視線を受け止めた。


 怖かった。


 けれど、逃げなかった。


 アダンの顔には、驚きも、悲しみも、喜びも、すべてが一瞬だけ浮かび、すぐに騎士の表情で覆われた。


「サタン」


 声は低かった。


「生きていたのか」


「残念だったな」


「そうは言っていない」


「なら、嬉しいか」


 アダンは答えなかった。


 彼の目は、またアダムへ向いた。


「その子は」


「見ればわかるだろう」


「名は」


 サタンは沈黙した。


 アダムが一歩前に出た。


「アダム」


 アダンの喉が動いた。


「誰がつけた」


「リリス」


 その名を聞いた瞬間、アダンの表情が崩れた。


 ほんの一瞬だった。


 だがアダムは見逃さなかった。


 この人は、リリスを愛していた。


 そのことがわかった。


「あなたが、父さん?」


 騎士たちがざわめいた。


 アダンは動かなかった。


 答えるまでに、長い時間がかかった。


「ああ」


 アダムの胸が熱くなった。


 嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからなかった。


「ぼくが生きていて、嫌?」


 サタンが息を呑んだ。


 騎士たちは言葉を失った。


 アダンは目を閉じた。


 その問いは、剣より深く彼を刺した。


 法律なら答えられる。


 倫理なら答えられる。


 統一議会騎士団長としてなら、いくらでも言葉を持っている。


 出生は苦痛の始まりであり、生まれなかった命は苦しまない。ゆえに新たな命を生じさせることは避けるべきである。君は保護対象であり、思想的危険環境から救助される必要がある。


 だが、父としては。


 リリスを愛した男としては。


 目の前に立つ、リリスの面影を持つ子どもに向かって、生きていて嫌だとは言えなかった。


「嫌ではない」


 その声は、かすれていた。


 アダムは唇を噛んだ。


「じゃあ、嬉しい?」


 アダンは答えられなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 アダムの目に涙が浮かんだ。


「どうして黙るの」


「アダム」


「嬉しいなら嬉しいって言えばいい。嫌なら嫌って言えばいい。どうしてみんな、優しい言葉で本当のことを隠すの」


 アダンは一歩近づいた。


「私は君を苦しませたくない」


「もう苦しいよ」


 アダンは足を止めた。


「ぼくはもう生まれてる。サタンが傷つくのも怖い。リリスが死んだことも悲しい。あなたがぼくを見て黙るのも苦しい。だから、ぼくを生まれなかったことにはできない」


 アダムの声は震えていた。


 それでも、彼は続けた。


「苦しまないようにって言って、ぼくの心を消さないで」


 廃駅に沈黙が落ちた。


 風がホームを通り抜けた。


 古い案内板がきしむ。


 アダンは目の前の少年を見つめた。


 その瞳はリリスに似ていた。だが、リリスそのものではなかった。そこにはサタンの影もあった。森で育った頑固さ。地球の哲学を聞いて育った奇妙な明るさ。そして、生きている者だけが持つ、傷つきやすい強さ。


 アダンはそのとき初めて理解した。


 自分が守ろうとしていたものは、まだ生まれていない抽象的な命だった。


 だが目の前にいるのは、抽象ではなかった。


 アダムはいた。


 息をしていた。


 泣きそうになりながら、自分の言葉で立っていた。


「アダム」


 アダンは静かに言った。


「私は」


 その瞬間、騎士の一人が叫んだ。


「団長、命令を」


 現実が戻った。


 アダンの背後には統一議会があった。法律があった。平和があった。彼一人の感情で覆せるものではなかった。


 サタンがアダムの肩をつかんだ。


「走るぞ」


「でも」


「今だ」


 サタンは鞄から小さな装置を投げた。


 閃光が弾けた。


 白い光が駅を満たし、騎士たちが目を覆う。サタンはアダムを引いて線路へ飛び降りた。二人は廃線を走った。


「追え!」


 誰かが叫んだ。


 だがアダンの声ではなかった。


 アダンは光の中で動けずにいた。


 目が眩んだのではない。


 アダムの言葉が、彼の中で鳴り続けていた。


 苦しまないようにって言って、ぼくの心を消さないで。


 その言葉は、彼が長年信じてきた優しさの中心に亀裂を入れた。


 サタンとアダムは走った。


 廃線は北へ続いていた。追跡の音が背後から迫る。サタンの呼吸は荒い。アダムも足がもつれそうだった。それでも止まらなかった。


 前方に、黒い塔が見えた。


 北方通信施設。


 かつて星間観測に使われた巨大な送信塔である。反出生主義法の施行後、外宇宙との通信はほとんど意味を失った。未来を持たない星に、他の星となにかを結ぶ理由はなかったからだ。施設は放棄され、荒野の中で眠っていた。


「あそこ?」


「ああ」


「動くの?」


「動かす」


「壊れてたら?」


「直す」


「直らなかったら?」


 サタンは苦しい息の中で笑った。


「諦めない」


 アダムも笑った。


 涙と汗で顔はぐしゃぐしゃだった。


 それでも笑った。


 通信施設の扉は閉ざされていた。


 サタンは古い認証装置に盗んだ鍵を差し込んだ。赤い警告灯が点滅する。拒否。再試行。拒否。背後から騎士たちの声が近づく。


「サタン!」


「黙って祈れ」


「誰に?」


「知らん!」


 アダムは両手を握った。


 神様がいるのかは知らない。


 地球のニーチェは神は死んだと言ったらしい。


 ならば、死んだ神でもいい。


 悪魔でもいい。


 リリスでもいい。


 まだ名前も残らなかった赤ん坊たちでもいい。


 誰でもいいから、少しだけ力を貸してほしかった。


 認証装置が緑に変わった。


 扉が重い音を立てて開く。


「入れ!」


 二人は施設内へ飛び込んだ。


 中は暗く、埃に満ちていた。巨大な機械が何層にも並び、天井からは切れた配線が垂れている。中央制御室まで階段を駆け上がる。背後で扉がこじ開けられる音がした。


 時間がない。


 サタンは制御盤に飛びついた。


 古い端末を起動し、記録媒体を差し込み、送信先を設定する。地球。太陽系第三惑星。古い受信座標。通信形式は不確実。届く保証はない。


 アダムは窓の外を見た。


 騎士たちが塔に入ってくる。


 その中に、アダンがいた。


 父が来る。


 アダムは怖かった。


 でも、もう逃げるだけでは嫌だった。


「サタン、何を送るの」


「記録だ。収容所の記録。反出生主義法の弾圧記録。エデンの現状」


「それだけ?」


「他に何を送る」


 アダムは制御盤の前に立った。


「ぼくの声も」


 サタンは彼を見た。


「アダム」


「地球人に、聞いてほしい」


「何を」


「エデンに、まだ子どもがいるって」


 サタンは一瞬だけ迷った。


 そして、録音装置を起動した。


「話せ」


 赤い光が灯った。


 アダムは息を吸った。


 何を言えばいいのかわからなかった。地球人が本当にいるのかもわからない。返事が来るのかもわからない。自分の言葉が宇宙の闇で消えていくだけかもしれない。


 それでも、言わなければならなかった。


「地球の人へ」


 声は震えていた。


「ぼくは、アダムです。エデンという星で生まれました。この星では、子どもは生まれちゃいけないことになっています。生まれたら苦しむから、生まれないほうが幸せだって、みんな言います」


 背後で足音が近づく。


 サタンは扉に銃を向けた。


 アダムは続けた。


「たしかに、苦しいことはあります。ぼくは今日、たくさん怖かったです。サタンが怪我をして、母さんが死んだことを知って、父さんに会って、胸が痛くなりました。生まれなければ、こんな思いはしなかったのかもしれません」


 彼は一度、言葉に詰まった。


 それでも、続けた。


「でも、ぼくはサタンに会いました。サタンの手は温かいです。森の朝はきれいです。古い壁に残った絵を、ぼくは好きだと思いました。父さんがぼくを見て、少しだけ泣きそうな顔をしたのを見ました。それが何なのか、まだわかりません。でも、ぼくは知りたいです」


 扉が叩かれた。


「サタン、投降しろ!」


 アダンの声だった。


 サタンは答えなかった。


 アダムは録音装置を見つめた。


「地球人は、諦めが悪いって聞きました。神様が死んでも、生まれてきてうれしいって言う人がいるって聞きました。ぼくも、そうなりたいです。ぼくはまだ、生まれてきてよかったのか、全部はわかりません。でも、わかるまで生きたいです」


 彼は唇を噛み、それから叫ぶように言った。


「だから、ぼくたちを忘れないでください。エデンには、まだ諦めたくない人がいます」


 録音は終わった。


 サタンは送信ボタンに手を伸ばした。


 その瞬間、扉が破られた。


 騎士たちが制御室になだれ込む。


 サタンは撃たなかった。


 アダンが先頭に立っていたからだ。


 アダンは銃を構えていなかった。


 ただ、アダムを見ていた。


「送るな」


 彼は言った。


「それを送れば、エデンは混乱する」


 サタンは笑った。


「平和が壊れるか」


「多くの者が傷つく」


「もう傷ついている」


「社会は崩れるかもしれない」


「未来のない社会を守るために、何を犠牲にする」


 アダンは答えられなかった。


 サタンは送信ボタンに指を置いた。


「アダン。お前は昔、よく言っていたな。騎士は弱い者を守るためにいると」


「今もそう思っている」


「なら、目の前の子どもを見ろ」


 アダンはアダムを見た。


 アダムも彼を見返した。


 その目には、恐れも怒りもあった。


 だが、消えてはいなかった。


 この子の心を消すことが、本当に救いなのか。


 アダンは自分に問うた。


 答えは、まだ出ない。


 だが、出ないままでも、選ばなければならない瞬間がある。


 騎士の一人が前に出た。


「団長、命令を。送信を阻止します」


 アダンは動かなかった。


「団長」


 サタンの指が震えていた。


 アダムは目を閉じた。


 次の瞬間、アダンは静かに言った。


「全員、武器を下ろせ」


 騎士たちは耳を疑った。


「団長?」


「命令だ」


「しかし」


「武器を下ろせ」


 その声には、騎士団長としての力があった。


 騎士たちは困惑しながらも従った。


 サタンはアダンを見た。


「いいのか」


「わからない」


 アダンは言った。


「だが、わからないなら、消すべきではない」


 サタンは少しだけ笑った。


「遅いぞ」


「知っている」


「リリスは戻らない」


「知っている」


「処理された子どもたちも戻らない」


「知っている」


「それでもか」


 アダンはアダムを見た。


「それでも、今ここにいる子を、いなかったことにはしない」


 アダムの涙がこぼれた。


 サタンは送信ボタンを押した。


 塔全体が震えた。


 長い間眠っていた機械が目を覚ます。巨大な送信アンテナが空へ向かって動き始め、錆びついた金属が悲鳴のような音を立てた。制御盤に光が走り、古い回路が熱を持つ。


 送信開始。


 その文字が画面に浮かんだ。


 収容所の記録。


 弾圧の記録。


 処理された命の記録。


 そして、アダムの声。


 それらは光の信号となり、エデンの空を抜けた。


 青い大気を越え、白い雲を越え、夜の都市の光を越え、星の重力を振り切って宇宙へ出た。


 信号は細く、弱かった。


 宇宙は広すぎた。


 地球に届く保証はない。


 届いたとしても、読める者がいる保証はない。


 読めたとしても、助けが来る保証はない。


 それでも信号は進んだ。


 諦めのよい星から放たれた、諦めの悪い声として。


 送信が終わると、制御室には長い沈黙が残った。


 アダムは窓の外を見た。


 空は青かった。


 エデンの空。


 生まれてくるべきではないと定められた星の空。


 それでも美しい空。


「ねえ、父さん」


 アダムは言った。


 アダンの身体が小さく震えた。


「ぼく、生きていていい?」


 アダンは目を閉じた。


 法律は、まだそれを許していなかった。


 統一議会は、まだ彼らを許さないだろう。


 エデンの平和は、今まさに揺らぎ始めていた。


 この先には、混乱がある。


 争いがある。


 傷つく者がいる。


 誰かはきっと言うだろう。やはり生は苦痛だ、と。やはり生まれないほうがよかったのだ、と。


 だがアダンは、もうその言葉だけで目の前の子を消すことはできなかった。


 彼はゆっくりと膝をついた。


 騎士団長としてではなく、統一議会の剣としてでもなく、一人の父として。


 そして、アダムの前で頭を下げた。


「すまなかった」


 アダムは息を止めた。


「私は、君を救うという言葉で、君を見ないようにしていた」


 アダンの声は震えていた。


「生きていていいのかと、君が私に聞く必要など、本当はなかった。君はもう生きている。誰かの許可で生きているわけではない」


 アダムは泣いた。


 声を殺さずに泣いた。


 サタンは壁にもたれ、深く息を吐いた。


 その顔には疲労があった。


 痛みがあった。


 だが、ほんの少しだけ安堵もあった。


 通信塔の外では、朝の光が荒野を照らしていた。


 遠くサントベルクでは、すでに騒ぎが起き始めていた。送信された記録は、地球へ向かっただけではない。サタンが仕掛けていた副回線によって、エデン全域にも流れ始めていた。


 収容所の記録。


 矯正された者たちの声。


 処理と呼ばれた赤ん坊たちの記録。


 そして、一人の少年の言葉。


 エデンの人々は、それを聞いた。


 食卓で。


 病室で。


 広場で。


 眠る前の部屋で。


 アンドロイドが整えた静かな公園で。


 多くの者は沈黙した。


 怒る者もいた。


 嘘だと言う者もいた。


 平和を壊すなと叫ぶ者もいた。


 だが、中には泣く者もいた。


 忘れていた記憶を思い出す者もいた。


 かつて子どもを望んだこと。


 かつて未来を夢見たこと。


 かつて誰かに、生まれてきてくれてありがとうと言いたかったこと。


 諦めたはずのものが、胸の奥でかすかに動いた。


 それはまだ、希望と呼ぶには弱すぎた。


 だが、完全な沈黙ではなかった。


 エデンの平和に、初めて声が戻り始めた。


 アダムは通信塔の窓から空を見上げた。


 信号はもう見えない。


 それでも、どこか遠くへ向かっている。


 地球へ。


 諦めの悪い者たちがいるかもしれない星へ。


「返事、来るかな」


 アダムが呟いた。


 サタンは疲れた声で言った。


「来ないかもしれない」


「来るかもしれない?」


「ああ」


「じゃあ、待つ?」


「待つだけではだめだ」


「何をするの」


 サタンはアダンを見た。


 アダンもまた、アダムを見た。


 世界は変わり始めていた。


 だが、変わることは苦痛を伴う。静かな滅びを選んだ星が、もう一度生を考えるには、あまりにも多くの傷を見なければならない。弾圧の記録を認め、失われた命に名前を返し、生まれることの是非を誰かに押しつけずに語り直さなければならない。


 それは長い道だった。


 おそらく、ひどく苦しい道だった。


 だがアダムは、もう知っていた。


 苦しいからといって、すべてを諦めなければならないわけではない。


 痛むからこそ、手を伸ばすこともある。


 怖いからこそ、走ることもある。


 死ぬからこそ、生きている者に言える言葉がある。


 アダムは二人を見た。


 悪魔の名を持つ育ての親。


 騎士だった父。


 そして、自分を産むために死んだ母。


 誰も完全ではなかった。


 誰も正しくなかった。


 それでも、彼はここにいた。


「ぼく、みんなに話したい」


 アダムは言った。


「エデンの人たちに。ぼくが怖いこと。苦しいこと。生まれてきてうれしいこと。全部、話したい」


 サタンは笑った。


「石を投げられるかもしれないぞ」


「痛いね」


「罵られるかもしれない」


「苦しいね」


「逃げたくなるかもしれない」


「逃げるかも」


「それでも?」


 アダムは頷いた。


「それでも、話す」


 アダンは静かに言った。


「私も行く」


 サタンは彼を見た。


「統一議会を敵に回すぞ」


「もう遅い」


「騎士団長が悪魔の仲間入りか」


「お前と同じ名の悪魔には、会ってみたいものだ」


 サタンは少し驚き、それから笑った。


「やめておけ。ろくなものじゃない」


「だが、時には神よりましなのだろう」


 アダムは二人を見比べた。


 そして、笑った。


 その笑い声は小さかった。


 だが、確かに通信塔の中に響いた。


 エデンはまだ滅びていなかった。


 未来はまだ閉じたままだったが、その扉には細い隙間ができていた。


 そこから光が入るのか、嵐が吹き込むのかは誰にもわからない。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 アダムは生まれた。


 生まれてしまったのではない。


 生まれたのだ。


 そして彼は、諦めなかった。


 地球人はおろか、ヒューマノイドであるはずの彼が、誰よりも諦めが悪かった。


 その諦めの悪さが、いつか星を救うのか。


 それとも、さらに深い苦しみへ導くのか。


 まだ誰にもわからない。


 けれどアダムは、空へ向かって小さく手を振った。


 届くはずのない地球へ。


 まだ見ぬ、しつこく、愚かで、泣き虫で、それでも生まれてきたことを肯定しようとする者たちへ。


「返事、待ってるよ」


 そう言って、彼は笑った。


 その笑顔を見て、サタンは思った。


 ああ、リリス。


 君の子は、こんなふうに笑う。


 苦しみを知らない笑顔ではない。


 何も失わない笑顔でもない。


 失うことを知り始め、それでもまだ世界を見たいと願う者の笑顔だ。


 もしこれが罪ならば、自分はやはり悪魔でいい。


 もしこれが反逆ならば、何度でも反逆者になろう。


 そしてアダンは、同じ笑顔を見ながら思った。


 平和とは、声が消えることではない。


 泣き声をなくすことでもない。


 泣く者のそばに、誰かが残ることなのかもしれない。


 その答えは、まだ確信ではなかった。


 だが、彼は初めて、確信でなくても歩き出せるのだと知った。


 三人は通信塔を出た。


 荒野の向こうに、サントベルクが見える。


 そこには怒りが待っている。


 混乱が待っている。


 議会が、法が、矯正施設が、静かな平和を守ろうとする者たちが待っている。


 それでも、三人は歩き出した。


 アダムを真ん中にして。


 右に悪魔。


 左に騎士。


 空には、朝が広がっていた。


 エデンという名の星に、長い長い夜明けが始まろうとしていた。


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