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第9話 仮の家へ

 滑空機は、落ちながら飛んでいた。


 風が機体を叩く。


 翼が軋む。


 桜夜の影が欠けた翼を補い、秘書の光糸が骨のように機体を縫い止めている。それでも機体は何度も大きく傾いた。そのたびに、イヴは眠るアダムの身体に覆いかぶさり、彼を守るように腕を回した。


 アダムは目を覚まさない。


 熱のせいか、傷のせいか、顔は青白かった。だが、呼吸は続いている。浅く、頼りなく、それでも確かに続いている。


「アダム」


 イヴは風の音に負けないよう、彼の耳元で呼びかけた。


「起きなくていいからね。でも、ちゃんと戻ってきて」


 返事はない。


 その代わり、胸元の木の鳥が小さく揺れた。


 ノア。


 空を知らなかった鳥。


 今、その鳥はアダムと一緒に空の中にいる。


 飛べないはずのものが、落ちながら飛んでいる。


 それはこの世界そのもののようだと、イヴは思った。


 きれいに飛べるわけではない。


 どこへ向かえばいいのかもわからない。


 けれど、完全に墜ちてしまわないように、誰かが必死に支えている。


『右から来ます!』


 通信の向こうで青年が叫んだ。


 白い飛行艇が、雲を裂いて迫ってくる。


 統一議会の紋章。


 冷たい白。


 苦痛を減らすと言いながら、問いを許さない者たちの色。


 光弾が放たれた。


 アダンが後部で剣を構える。


 だが、空中だ。


 足場は揺れ、踏み込むこともままならない。


 桜夜の影が伸び、光弾を受け止めた。衝撃で滑空機が沈む。


「くっ」


 桜夜がわずかに顔を歪めた。


「桜夜さん!」


 イヴが叫ぶ。


「問題ない」


「問題ない顔じゃないです!」


「なら、問題がある顔だ」


「そういうことじゃなくて!」


 桜夜は短く笑った。


 それでも影は消えなかった。


 アダンが操縦桿を握り直す。


「下へ潜る」


『その先は雲です。視界ゼロになりますよ』


「見えていても撃たれるだけだ」


『まあ、それはそうですけど!』


 滑空機が大きく傾いた。


 イヴはアダムを抱きしめる。


 胃が浮くような感覚。


 空が回る。


 雲が迫る。


 次の瞬間、白い霧が視界を覆った。


 何も見えなくなった。


 風の音だけがある。


 追撃音も、飛行艇の警告も、どこか遠くなった。


 白い世界。


 上下も左右もわからない。


 その中で、アダムが小さく呻いた。


「アダム!」


 イヴが顔を覗き込む。


 アダムのまぶたが震えた。


「……イヴ」


「いるよ」


「空は」


「飛んでる」


「落ちてない?」


「落ちながら飛んでる」


「そっか」


 アダムは少し笑った。


「なら、まだ大丈夫だね」


「大丈夫じゃないけど、大丈夫」


「それ、使いすぎ」


「便利だから」


 イヴは泣きそうになりながら笑った。


 アダムはゆっくり目を開けようとしたが、光が眩しいのかすぐに閉じた。


「声、届いたかな」


「届いたよ」


「みんなに?」


「わからない」


「そっか」


「でも、アダンさんには届いた」


 アダムは少しだけ顔を動かした。


 後部で操縦桿を握るアダンの背中を見る。


「父さん」


 その声は弱かった。


 けれどアダンには届いたらしい。


「起きたのか」


「少しだけ」


「なら、黙って寝ていろ」


「うん」


 アダムは素直に頷いた。


 アダンは少し驚いたように沈黙した。


 イヴが小さく言う。


「珍しく素直」


「眠いから」


「寝て」


「うん」


 アダムはまた目を閉じた。


 けれど、その手はイヴの手を探した。


 イヴはすぐに握った。


「離さないよ」


「うん」


 アダムはそれだけ言って、再び眠った。


 ◇◇◇


 雲を抜けたとき、世界は緑だった。


 森だ。


 広い森。


 死の森よりもさらに奥、地図にもほとんど記されていない外縁の樹海。統一議会の管理が薄く、古い時代の施設が点在している場所だと青年は言った。


『そのあたりに降りてください。完全に安全とは言いませんけど、飛行艇は追いにくいはずです』


「降りる場所は」


『ありません』


「ない?」


『正確には、まともな滑走路はありません』


「では、どうする」


『木に引っかけて止まります』


「それは着陸か」


『墜落よりは着陸です』


 イヴは目を閉じた。


「もう、怖い言葉ばっかり」


「生きていれば怖いことは多い」


 アダンが言った。


「今それ言います?」


「すまん」


「謝れるんですね」


「私を何だと思っている」


「怖い人」


「……間違ってはいない」


 イヴは少し笑った。


 笑う余裕があることに、自分でも驚いた。


 滑空機は森へ向かって降下していく。


 枝が迫る。


 緑が迫る。


 風が悲鳴のように鳴る。


「全員、掴まれ!」


 アダンが叫んだ。


 秘書が光糸を張る。


 桜夜の影が機体全体を包む。


 イヴはアダムの身体を抱きしめた。


 衝撃。


 枝が折れる音。


 金属が裂ける音。


 身体が投げ出されそうになる。


 それでも光糸が皆を繋ぎ止めた。


 もう一度、衝撃。


 そして、静止。


 長い沈黙。


 最初に声を出したのは青年だった。


『……皆さん、生きてます?』


「たぶん」


 イヴが答えた。


『たぶん禁止にしません?』


「今はたぶんで許して」


『許します』


 イヴはアダムの呼吸を確かめた。


 続いている。


 生きている。


 それだけで、胸の奥から力が抜けた。


「アダムは」


 アダンが尋ねる。


「生きてます」


「そうか」


 アダンは短く息を吐いた。


 その息に、どれほどの安堵が混じっていたのか、本人は気づいていないようだった。


 滑空機は大木の枝に半ば突き刺さるように止まっていた。翼は折れ、胴体はひしゃげている。もう二度と飛べないだろう。


 けれど、飛んだ。


 確かに飛んだ。


 アダムを空へ連れていき、そしてここまで運んだ。


 イヴは壊れた翼を見た。


「ありがとう」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 滑空機にか。


 木の鳥にか。


 空にか。


 それとも、ここまで運んでくれた全員にか。


 桜夜が外へ出て、周囲を確認した。


「追手は撒いたようだ」


「一時的にです」


 秘書が言った。


「通信の発信地点は割れています。墜落方向もある程度推測されます。長く留まるのは危険です」


「アダムは動かせるの?」


 イヴが尋ねる。


 秘書はアダムの状態を確認した。


「短距離なら。ただし、すぐに処置が必要です」


「場所は」


『北西に旧研究施設があります』


 青年が答えた。


『地図上では廃棄済みですが、外壁は残っています。隠れるには使えるかもしれません』


「そこが仮の家?」


 アダムが眠ったまま小さく呟いた。


 イヴは驚いて顔を覗き込んだ。


「起きてたの?」


「少しだけ」


「寝てて」


「仮の家、見つかった?」


 イヴは唇を噛んだ。


 泣きそうになった。


 それでも笑った。


「うん。たぶん」


「たぶん」


「便利でしょ」


「うん」


 アダムはまた眠った。


 イヴは彼の髪をそっと撫でた。


「行こう」


 彼女は言った。


「仮の家へ」


 ◇◇◇


 旧研究施設は、森の中に沈むように建っていた。


 外壁には蔦が絡まり、窓の多くは割れている。かつては白かった壁も、雨と苔で灰色に変わっていた。入口の看板には、かすれた文字が残っている。


 生命保存研究棟。


 アダンの表情が変わった。


「ここは」


「知っているのか」


 桜夜が尋ねる。


「昔の施設だ。反出生主義法が今ほど徹底される前、生命の延命や人工子宮の研究が行われていた場所だと聞いたことがある」


「人工子宮」


 イヴがその言葉を繰り返した。


 アダムも薄く目を開けた。


「子どもを、育てる場所?」


「かつてはな」


 アダンは苦い顔をした。


「だが、議会が方針を変えた。新しい命を守る研究は、苦痛を未来へ引き延ばすものだとされた。施設は閉鎖され、研究者の多くは処分された」


「処分」


 イヴの声が冷たくなった。


「便利な言葉ですね」


 アダンは何も言わなかった。


 その言葉をかつて自分も使ってきたことを、思い出しているのかもしれない。


 施設の中は暗かった。


 だが、雨風はしのげる。


 秘書が内部を調べ、比較的安全な部屋を見つけた。そこは古い医療室だった。寝台が二つ、壊れた棚、使えそうな消毒器具が少し。水は出なかったが、外の沢から汲めばどうにかなりそうだった。


 アダムは寝台に寝かされた。


 イヴが包帯を替える。


 傷口を見た瞬間、彼女の顔が強張った。


「悪い?」


「……よくはない」


「そっか」


「でも、治す」


「イヴが?」


「みんなで」


 イヴは薬草を潰し、秘書が残った医療器具を洗浄し、桜夜が火を起こした。アダンは外の見張りに立った。


 動ける者が動く。


 できることをする。


 それだけで、廃墟だった場所に少しずつ生活の気配が生まれていった。


 夜になるころには、部屋の中央に小さな灯りがともった。


 それは暖炉ではない。


 森の小屋でもない。


 地下集落の保守員室でもない。


 けれど、イヴは静かに言った。


「仮の家だね」


 アダムは寝台の上で頷いた。


「うん」


「雨漏りするかな」


「しそう」


「床は?」


「……傾いてはない」


「じゃあ、前より少し上等」


「窓、割れてる」


「布で塞ぐ」


「寒い?」


「あなたは熱があるから暑いでしょ」


「たぶん」


「たぶん禁止」


「イヴも使う」


「わたしはいいの」


「ずるい」


 イヴは笑った。


 その笑い声を聞いて、アダムも少しだけ笑った。


 肩が痛んで顔をしかめる。


「笑うと痛い」


「じゃあ笑わないで」


「イヴが笑うから」


「わたしのせい?」


「うん」


「じゃあ、わたしも責任を取って寝るまでそばにいる」


「ずっと?」


「今夜は」


「明日は?」


「明日考える」


「便利な言葉」


「仮の家には、便利な言葉が必要なの」


 イヴはアダムの手を握った。


 彼の手は熱かった。


「イヴ」


「なに」


「声、届いたかな」


「またそれ?」


「うん」


「届いたよ」


「誰かに?」


「誰かには」


「誰かって」


「わたし」


 アダムは目を開けた。


 イヴは彼を見つめていた。


「わたしには届いた。アダンさんにも届いた。桜夜さんにも、秘書さんにも、通信の向こうの人にも。まずはそれでいいんじゃない」


「少ない」


「最初は少なくていい」


「そうかな」


「火だって、最初は小さいでしょ」


 イヴは部屋の中央の灯りを見た。


「消さなければ、少しずつ大きくなる」


 アダムはその灯りを見つめた。


 小さな火。


 サタンの小屋にも火があった。


 地下の仮の家にも小さな火鉢があった。


 そして今、この廃墟にも灯りがある。


 火は場所を変えても、また点けられる。


 家も、そうなのかもしれない。


 失っても。


 壊されても。


 誰かがいて、火を点ければ、そこは少しだけ家になる。


「イヴ」


「なに」


「子どもができたら」


 イヴの手が少し強張った。


 アダムは続けた。


「この火を見せたい」


 イヴは黙っていた。


「空も見せたい。雨の日のお茶も、地球の話も、サタンの話も。あと、怖いときは怖いって言っていいことも」


 イヴの目が潤んだ。


「うん」


「でも、まだ怖い」


「うん」


「怖いままでいい?」


「いいよ」


 イヴは手を握り返した。


「わたしも怖いまま考える」


「一緒に?」


「一緒に」


 アダムは安心したように息を吐いた。


「じゃあ、寝る」


「うん。寝て」


「イヴも寝て」


「あとで」


「今」


「あなたが寝たら」


「一緒がいい」


 イヴは少しだけ顔を赤くした。


「病人はわがまま」


「うん」


「認めるのね」


「今日は病人だから」


「便利な言葉ばっかり覚える」


 イヴは寝台の横に椅子を寄せ、そのまま彼の手を握って座った。


「これでいい?」


「うん」


「寝て」


「おやすみ、イヴ」


「おやすみ、アダム」


 アダムは目を閉じた。


 今度こそ深く眠った。


 イヴはしばらくその寝顔を見ていた。


 彼が生きている。


 ただそれだけのことが、今は何より大きかった。


 ◇◇◇


 夜更け、アダンは施設の外に立っていた。


 森は静かだった。


 遠くで獣のような声がする。


 空には星が出ていた。


 エデンにも星はある。


 だが、議会都市の空に浮かぶ星はいつも遠く、冷たく、誰の救いにもならないものに見えた。


 今夜の星は違う。


 同じ星なのに、違って見える。


 たぶん、自分が違うのだろう。


「眠らないのか」


 桜夜が背後から声をかけた。


「見張りだ」


「眠らない理由にはならない」


「お前こそ」


「地球人は寝なくても平気なんだ」


 二人は並んで森を見た。


 しばらく沈黙が続いた。


 アダンが口を開いた。


「アダムは、私を父と呼んだ」


「ああ」


「私に、その資格がない」


「資格があるから呼ばれたわけではないだろう」


 アダンは桜夜を見た。


「どういう意味だ」


「呼びたかったから呼んだ。それだけだ」


「それだけで、父になれるのか」


「なれないかもしれない」


 桜夜はあっさり言った。


「だが、呼ばれたあとにどうするかは選べる」


 アダンは黙った。


 選べる。


 アダムもそう言った。


 自分で見て選べと。


「私は、多くを殺した」


「知っている」


「サタンも救えなかった」


「知っている」


「リリスも」


「知っている」


「アダムも、殺しかけた」


「知っている」


「お前はそれしか言えないのか」


「知らないとは言えないからな」


 アダンは苦く笑った。


 その笑いはすぐに消えた。


「私は、あの子たちを守れると思うか」


 桜夜は少し考えた。


「守れるかどうかは知らない」


「そうか」


「だが、守ろうとすることはできる」


「それだけか」


「たいてい、それだけだ」


 桜夜は空を見た。


「神ではない者にできるのは、だいたい少しだけだ。少し背負う。少し守る。少し火を点ける。少し道を開ける。それを誰かがつなぐ」


「サタンも、そうだったのか」


「どうだろうな」


 アダンは目を閉じた。


 サタン。


 親友。


 裏切った相手。


 アダムの本当の父。


 血ではなく、時間と愛で父になった男。


「私は、あいつに勝てないな」


「勝つ必要があるのか」


「ないのか」


「アダムにはサタンが必要だった。そして今、お前も必要としている。それでいいだろう」


 アダンは何も言わなかった。


 胸が痛かった。


 だがその痛みは、以前のようにただ自分を滅ぼすものではなかった。


 痛い。


 それでも、まだ立っていられる。


 アダムが言っていた。


 痛い。


 怖い。


 でも、今は死にたくない。


 その言葉が、今になってアダンの中に沈んでいく。


「桜夜」


「何だ」


「私は、まだ生きていていいと思うか」


 桜夜は少しだけ目を細めた。


「それを私に決めさせるな」


「……そうだな」


「だが」


 桜夜は続けた。


「アダムが目を覚ましたとき、お前がいなければ怒るだろうな」


「怒るか」


「たぶん」


「たぶんか」


「便利な言葉らしい」


 アダンは今度こそ、少し笑った。


 ◇◇◇


 その夜、エデンの各地では小さな異変が起きていた。


 地下集落の古い受信機の前で、一人の少女が泣いていた。


 彼女はずっと、生まれてこなければよかったと思っていた。そのことを誰にも言えなかった。言えば、正しい市民として褒められるか、治療を勧められるか、そのどちらかだったからだ。


 けれど、アダムの声は言った。


 生まれてきてよかったかは、まだわからない。


 その言葉を聞いたとき、少女は初めて、自分の気持ちを否定されなかった気がした。


 議会都市の集合住宅では、老いた夫婦が沈黙していた。


 彼らは昔、子を望んだことがあった。


 しかし法に従い、その望みを捨てた。正しいことをしたのだと、何十年も自分たちに言い聞かせてきた。


 だが、アダムの声を聞いたあと、妻は夫に言った。


「わたし、欲しかった」


 夫は長い沈黙のあと、答えた。


「私もだ」


 二人はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、初めてその悲しみを同じ場所に置いた。


 騎士団の宿舎では、若い騎士が端末を見つめていた。


 彼は何度も反逆者を捕らえてきた。


 思想犯という名の人間を、処分場へ送ってきた。


 それが秩序だと教えられた。


 それが慈悲だと信じてきた。


 だが、アダムの声を聞いたとき、彼は初めて思った。


 自分は本当に見て選んだのか。


 命令に従っただけではないのか。


 そして統一議会の白い塔では、円卓の議員たちが沈黙していた。


『危険だ』


 誰かが言った。


『あの声は危険だ』


『即時に討伐隊を再編せよ』


『アダンは信用できない』


『地球人もいる。旧サタン派の残党も合流する可能性がある』


『アダムを殺せ』


 その言葉に、誰も反対しなかった。


 だが議長だけは、少し長く黙っていた。


 やがて、彼は低く言った。


『殺すだけでは足りない』


 議員たちの影が揺れた。


『あの声は、問いを残した。問いは死体より厄介だ。アダムを殺しても、問いが残れば第二、第三のサタンが現れる。アダムがサタンの意思を引き継いだように』


『では、どうする』


『証明するのだ』


 議長の声は冷たかった。


『希望が、より大きな苦痛を生むことを。子を望む者が、最後には子を苦しめることを。アダム自身に、思い知らせる』


 白い部屋に、重い沈黙が落ちた。


 それは、ただの追討命令ではなかった。


 アダムの思想そのものを折るための、戦いの始まりだった。


 ◇◇◇


 夜明け前、アダムは目を覚ました。


 最初に見えたのは、割れた天井だった。


 次に、傍らで眠っているイヴの横顔。


 彼女は椅子に座ったまま、アダムの手を握って眠っていた。無理な姿勢で、眉間に少し皺が寄っている。


「イヴ」


 小さく呼ぶと、彼女はすぐに目を覚ました。


「アダム?」


「おはよう」


「おはようじゃない」


「え?」


「心配した」


「ごめん」


「謝るところ?」


「うん。ごめん」


 イヴは泣きそうな顔で彼を睨んだ。


 そのあと、そっと額を合わせた。


「生きてる」


「うん」


「ちゃんと起きた」


「うん」


「よし」


「かなり?」


「ものすごく」


 アダムは笑った。


 今度は少しだけ肩が痛んだ。


「痛い」


「笑うから」


「イヴが嬉しそうだから」


「嬉しいわよ」


 イヴは当たり前のように言った。


「あなたが起きたんだから」


 その言葉に、アダムは胸がいっぱいになった。


 外から朝の光が差し込んでいる。


 廃墟の医療室。


 壊れた窓。


 小さな火。


 隣にはイヴがいる。


 遠くには追手がいる。


 これから苦しみも待っている。


 それでも、朝が来た。


「イヴ」


「なに」


「ここ、仮の家にしよう」


 イヴは部屋を見回した。


「雨漏りしそう」


「直す」


「窓が割れてる」


「塞ぐ」


「追手が来る」


「逃げ道を作る」


「あなた、病人」


「寝ながら考える」


「それは少し役に立つ」


 イヴは小さく笑った。


「じゃあ、仮の家」


「うん」


 アダムは手を伸ばした。


 イヴがその手を握る。


「ここから始めよう」


 アダムは言った。


「声が届いたなら、きっと誰かが来る。来なくても、ぼくたちで火を消さないようにする」


「うん」


「子どもたちが、ぼくたちより少しでも幸せに生きられる場所を作る」


 イヴは静かに頷いた。


 その目には、怖さがあった。


 けれど、怖さだけではなかった。


「アダム」


「なに」


「その場所の名前、決める?」


「名前?」


「仮の家じゃ、ちょっと心許ないでしょ」


 アダムは少し考えた。


 サタンの小屋。


 地下の家。


 通信塔。


 空。


 ノアの鳥。


 生きて帰れ、という落書き。


 それらが胸の中で混ざった。


「ノア」


 アダムは言った。


「ノア?」


「うん。たくさんのものを乗せて、どこかへ運ぶ場所」


「箱舟みたいに?」


「サタンが話してくれた。洪水の中で、命を運んだ舟の話」


 イヴは少し考え、微笑んだ。


「じゃあ、ここはノアの家?」


「仮のノア」


「また仮」


「まだ本物になれるかわからないから」


「でも、いい名前」


「うん」


 アダムは木の鳥を手に取った。


 その翼には、空の風の匂いが残っている気がした。


「ノア。ここから始めるよ」


 木の鳥は答えない。


 けれど、朝の光がその翼に触れた。


 アダムはそれを見て、少しだけ笑った。


 生まれてきた理由は、まだわからない。


 でも、始める理由ならあった。


 小さな火を消さないこと。


 誰かが来たとき、座れる場所を作ること。


 歩けない者を、少しだけ背負うこと。


 そしていつか。


 まだ見ぬ子どもたちに、空を見せること。


 その朝、森に沈んだ廃研究施設は、初めて家になった。


 仮の家。


 ノアの家。


 終わりへ向かう物語の中で、アダムたちはそれでも始まりを選んだ。


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