第10話 ノアに集う者たち
ノアの家に、最初の来訪者が現れたのは三日後だった。
朝霧の濃い時間だった。
森はまだ薄暗く、木々の葉から落ちる露の音だけが静かに響いていた。アダンは施設の外で見張りに立っていた。眠っていないわけではない。ただ、眠りが浅くなっていた。少しの枝音でも目が覚める。風が変われば、手が剣へ伸びる。
追手が来る。
そう思っていた。
だから、森の奥から足音が聞こえたとき、アダンはすぐに剣を抜いた。
「止まれ」
低い声に、霧の向こうの影がびくりと震えた。
現れたのは、少女だった。
年は十五か、十六ほどだろう。痩せていて、服は泥で汚れている。腕には古い通信端末を抱えていた。靴は片方の紐が切れていて、歩くたびに足を引きずっている。
騎士ではない。
だが、罠ではないとも言い切れない。
アダンは剣を下ろさなかった。
「名を言え」
少女は震えながら口を開いた。
「……レナ」
「なぜここに来た」
「声を、聞いたから」
アダンの目がわずかに細くなった。
「声?」
「アダムの声」
その名前が出た瞬間、施設の入口からイヴが顔を出した。
彼女も眠れていなかったのだろう。目の下に薄い影がある。それでも、アダムの名前を聞くとすぐに外へ出てきた。
「アダムの声を聞いたの?」
レナはイヴを見た。
少しの間、言葉を失ったように立ち尽くした。
それから、小さく頷いた。
「端末に、急に流れてきました。生まれてきてよかったかは、まだわからないって。出会えたことを、なかったことにはしたくないって」
イヴの胸が詰まった。
届いていた。
アダムの声は、確かに誰かへ届いていた。
「それで、どうしてここがわかったの」
「通信の方角を追いました。完全にはわからなかったけど、飛行艇がこっちへ向かったって噂を聞いて。森に入って、探して……」
「ひとりで?」
「はい」
「危ないでしょ」
イヴは思わず怒った。
レナはびくっと肩を震わせた。
「あ、ごめん。責めてるんじゃなくて」
「いえ」
レナは首を振った。
「危ないのは、知ってました。でも、行かないほうがもっと怖かった」
「どうして」
レナは通信端末を抱きしめた。
「わたし、ずっと生まれてこなければよかったって思っていました。でも、それを言うと、みんな正しいって言うんです。よく理解しているって。治療の必要はないって。わたしが消えたいことは褒められるのに、苦しいことは誰も見てくれなかった」
イヴは黙った。
その言葉は、アダムの言葉に似ていた。
苦しみを消すと言いながら、苦しむ心を見ない世界。
「アダムは、生まれてきてよかったかわからないって言いました」
レナの声が震えた。
「わからないままでいいんだって、初めて思いました。わからないまま、生きてもいいのかなって。だから、来ました」
アダンは剣を下ろした。
イヴはゆっくりレナへ近づいた。
「歩ける?」
「はい」
「足、痛いでしょ」
「少し」
「少しじゃない顔してる」
レナは困ったように目を伏せた。
イヴは小さく息を吐き、手を差し出した。
「中に入って。手当てする」
「いいんですか」
「ここは、仮の家だから」
「仮の家?」
「うん。ちゃんとした家じゃないけど、今ここで休んで、食べて、朝を待つ場所」
レナはその言葉を少しだけ口の中で繰り返した。
「仮の家」
「そう。便利でしょ」
イヴが言うと、レナは初めて少し笑った。
その笑顔を見て、イヴは思った。
アダムが目を覚ましたら、きっと喜ぶ。
◇◇◇
アダムは昼前に目を覚ました。
熱はまだ下がりきっていない。肩の傷も痛む。だが、昨日よりは顔色がよかった。
目を開けたアダムは、部屋の隅に知らない少女が座っているのを見て、しばらく瞬きをした。
「イヴ」
「なに」
「人がいる」
「うん」
「ぼく、まだ熱で幻を見てる?」
「幻じゃない」
「そっか」
アダムは少し考えた。
「じゃあ、こんにちは」
レナは慌てて立ち上がろうとした。
イヴがすぐに止めた。
「足、手当てしたばかり。立たない」
「でも」
「立たない」
「はい」
レナは小さく座り直した。
アダムはその様子を見て、少し笑った。
「イヴに怒られた」
「あなたもよく怒られるでしょ」
「うん」
「誇らしげに言わない」
レナは緊張していた。
アダムはそれに気づいたのか、寝台の上で少し身体を起こそうとした。
イヴが即座に肩を押さえた。
「起きない」
「でも、挨拶」
「寝たままする」
「うん」
アダムは素直に頷き、レナを見た。
「ぼくはアダム」
「知っています」
「そっか」
「声を聞きました」
「届いた?」
「はい」
「じゃあ、よかった」
アダムは本当に安心したように息を吐いた。
それだけで、レナの目に涙が浮かんだ。
「どうして泣くの」
アダムが尋ねる。
レナは首を振った。
「わかりません」
「わからないことは多いよね」
「はい」
「でも、今は泣いてもいいと思う」
レナは口元を押さえた。
声を殺して泣いた。
イヴは何も言わず、そっと彼女の隣に座った。
泣いている人に何を言えばいいのか、イヴにもわからない。
けれど、隣にいることはできる。
アダムも黙っていた。
部屋には、小さな火の音だけがあった。
その火は昨夜より少し大きくなっていた。
◇◇◇
レナを迎えた翌日、二人目の来訪者が来た。
その翌日には、三人目と四人目が来た。
老夫婦。
片腕を失った元騎士。
孤児の少年。
法に従って子を諦めた女。
地下集落から来た医師。
そして、サタン派の残党だと名乗る数人の者たち。
彼らはみな、アダムの声を聞いたと言った。
ある者は救われたと言い、ある者は腹が立ったと言った。
「何が、まだわからない、だ」
元騎士の男は吐き捨てるように言った。
「そんな曖昧な言葉で、人を惑わせるな。正しいなら正しいと言え。間違っているなら間違っていると言え」
アダムは寝台の上で、静かに聞いていた。
「そう言えたら、楽だったと思います」
「楽?」
「はい」
アダムは頷いた。
「ぼくも、答えがほしかった。生まれてきてよかったって言える答えか、生まれてこなければよかったって言える答えか。どちらかがあれば、迷わなくて済むから」
「なら、なぜ迷う」
「迷うくらい、大切だからだと思います」
元騎士は黙った。
アダムは続けた。
「生まれてくることも、生きることも、子どもを望むことも、誰かを愛することも。簡単に正しいとか間違っているとか決めたくないんです。怖いから」
「怖いなら、やめればいい」
「そうかもしれません」
「お前はいつも、そうかもしれないと言うのか」
「たぶん」
横で聞いていたイヴが口を挟んだ。
「たぶん禁止」
「あ」
アダムは少し困った顔をした。
元騎士はしばらく彼を睨んでいた。
だが、やがて視線をそらした。
「……私は、処分に立ち会ったことがある」
部屋の空気が重くなった。
「思想犯だった。若い女だった。泣いていた。まだ死にたくないと言っていた。だが上官は言った。苦痛を長引かせるほうが残酷だと。私はその言葉に従った」
アダムは黙って聞いた。
「今でも夢に見る」
元騎士は自分の片腕の跡を見た。
「私は、生まれてこなければよかった。あの女も、生まれてこなければ処分されずに済んだ。そう考えれば、少しだけ眠れた」
「うん」
「だが、お前の声を聞いてから、眠れない」
「ごめんなさい」
アダムは素直に言った。
元騎士は顔を歪めた。
「謝るな。謝られると、私は自分で考えなければならなくなる」
「うん」
「だから腹が立つ」
「うん」
「だが、ここに来た」
「うん」
「なぜだと思う」
アダムは少し考えた。
「ひとりで考えるのが、苦しかったから?」
元騎士は答えなかった。
ただ、深く息を吐いた。
「……当たっているから腹が立つ」
イヴが小さく言った。
「じゃあ、ここにいてください」
「私がか」
「はい」
「元騎士だぞ」
「アダンさんも元騎士です」
「私は片腕だ」
「片腕でもできることはあります」
「私は罪人だ」
イヴは少し黙った。
それから、静かに言った。
「ここ、罪人ばっかりです」
元騎士は目を見開いた。
アダンが壁際で少し咳払いをした。
「否定はしない」
桜夜も肩をすくめた。
「私も清廉潔白ではない」
秘書は淡々と言った。
「私については分類が難しいですが、少なくとも法令遵守型ではありません」
アダムは困ったように笑った。
「ぼくは第一級思想犯らしいです」
「わたしは騎士にタックルしました」
イヴが言った。
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
元騎士は呆れたように彼らを見た。
やがて、床に腰を下ろした。
「少しだけだ」
「はい」
「少し考えるだけだ」
「はい」
イヴは頷いた。
「仮でいいです」
仮の家は、少しずつ人を増やしていった。
◇◇◇
人が増えれば、問題も増えた。
食料は足りない。
寝る場所も足りない。
水を汲む者、見張る者、怪我人を診る者、施設を補修する者。役割を決めなければ、すぐに混乱が起きる。
アダムはまだ寝台からほとんど動けなかった。
だからイヴが動いた。
「水汲みは二人一組。ひとりで行かないこと。食料は今日から配分制。子どもと怪我人を優先。見張りは三交代。寝てない人は見張り禁止」
「イヴさん、寝てませんよね」
レナが言うと、イヴは目をそらした。
「わたしは例外」
「だめです」
レナが即答した。
イヴは驚いた。
「だめ?」
「だめです。イヴさんが倒れたら、アダムさんが泣きます」
「泣かないよ」
寝台の上からアダムが言った。
「泣く顔してる」
イヴが言った。
「してない」
「してる」
「……少しするかも」
「ほら」
レナは真面目な顔で続けた。
「だから、イヴさんも寝る係です」
「寝る係」
アダムが少し嬉しそうに言った。
「仲間だね」
「病人と一緒にしないで」
「でも、寝る係」
「うるさい」
イヴはそう言いながらも、少しだけ肩の力を抜いた。
仮の家には、怒る人が増えた。
心配する人が増えた。
誰かが無理をすれば、誰かが止める。
誰かが泣けば、誰かが隣に座る。
それはまだ共同体と呼ぶには頼りなく、秩序と呼ぶには不安定だった。
けれど、ただの隠れ家ではなくなり始めていた。
火は、少しずつ大きくなっていた。
◇◇◇
その夜、アダムはアダンに呼ばれた。
といっても、アダムはまだ歩けない。だからアダンが寝台の横へ来た。
「話がある」
「うん」
「ここに人が集まっている」
「うん」
「このまま増えれば、議会に見つかる」
「うん」
「見つかれば、戦いになる」
アダムは黙った。
それは、避けて通れない問題だった。
ノアの家は、誰かを受け入れるためにある。
だが、人が集まれば目立つ。
目立てば追われる。
追われれば、守るために武器を取らなければならなくなるかもしれない。
「ぼくは、戦いたくない」
アダムは言った。
「だが、戦わなければ守れない時もある」
「うん」
「その時、お前はどうする」
アダムは天井を見た。
割れた天井。
布で塞いだ窓。
隣の部屋から聞こえる人々の寝息。
レナの声。
元騎士の沈黙。
イヴの手。
まだ見ぬ子どもたち。
「わからない」
アダンは目を細めた。
「また、それか」
「うん」
「指導者が、それでいいのか」
「ぼくは、指導者になりたいわけじゃない」
「だが、人々はお前の声を聞いて集まった」
「それは、ぼくが正しいからじゃないと思う」
「では、なぜだ」
「みんな、ひとりで考えるのが苦しかったから」
アダンは黙った。
「ぼくは、命令したくない。正しい答えを与える人にもなりたくない。ただ、一緒に考えたい。怖いねって言いながら、どうすれば少しでも苦しみを減らせるか考えたい」
「それでは遅い時がある」
「うん」
「迷っている間に、人が死ぬこともある」
「うん」
「それでもか」
アダムは目を閉じた。
少しの沈黙のあと、答えた。
「それでも、問いを殺したくない」
アダンは息を吐いた。
呆れたのか、怒ったのか、悲しんだのか、自分でもわからないようだった。
「サタンに似ている」
「サタンに?」
「ああ」
「嬉しい」
「褒めていない」
「でも、嬉しい」
アダンは視線をそらした。
「……戦いになれば、私は剣を取る」
「うん」
「お前を守るためなら、人を斬るかもしれない」
アダムの顔が少し歪んだ。
「嫌か?」
「嫌だ」
「だが、必要ならする」
「うん」
「止めるか」
アダムはアダンを見た。
「止めたい」
「なら」
「でも、父さんが誰かを守るために剣を取るなら、ぼくはその剣を簡単に否定したくない」
アダンは目を見開いた。
「ただ、忘れないでほしい」
「何を」
「斬る相手も、きっと誰かに生まれてこなければよかったと思わされてきた人だってこと」
アダンの手が、剣の柄に触れた。
「難しいことを言う」
「うん」
「戦場でそんなことを考えれば、死ぬ」
「かもしれない」
「それでも忘れるなと?」
「うん」
アダムは静かに言った。
「忘れたら、ぼくたちも議会と同じになる」
アダンは長く黙っていた。
やがて、短く答えた。
「わかった」
「ありがとう」
「守れるとは言っていない」
「うん」
「努力するだけだ」
「それでいい」
アダンは少しだけ苦笑した。
「少しだけ、か」
「神様じゃないから」
「便利な言葉だな」
「イヴが言った」
「だろうな」
二人は静かに笑った。
それは、父と子の会話というにはぎこちなかった。
けれど、命令でも尋問でもなかった。
少なくとも、今は。
◇◇◇
数日後、ノアの家に知らせが届いた。
若い騎士がひとり、森の入口に倒れていたのだ。
見張りが連れてきたその騎士は、鎧を脱ぎ捨て、傷だらけだった。背中には追跡用の焼き印が押されている。
脱走兵。
彼は水を飲むと、震える声で言った。
「議会が、討伐隊を送ります」
部屋にいた全員が息を呑んだ。
アダンが前へ出る。
「規模は」
「大隊規模です。飛行艇もあります。アダン隊長を反逆者と認定し、地球人とアダムを最重要排除対象に指定しました」
アダンの表情は変わらなかった。
だが、イヴは彼の拳が固く握られるのを見た。
「いつ来る」
「早ければ、明日の夜明け」
沈黙が落ちた。
明日の夜明け。
早すぎる。
逃げるには人が増えすぎた。
戦うには準備が足りない。
隠れるには火が大きくなりすぎた。
「それだけじゃありません」
脱走兵は震えながら続けた。
「議会は、アダムの言葉を危険思想として完全封鎖しました。受信記録を持っている者、話を広めた者は、治療施設へ送られています」
「治療施設」
レナが青ざめた。
イヴが彼女の肩を抱く。
「さらに」
脱走兵は唇を噛んだ。
「議会は、アダムに関わる者を苦痛拡散者と呼んでいます。苦しみを未来に広げる者だと。捕らえれば処分ではなく、公開審問にかけると」
「公開審問?」
アダムが尋ねた。
脱走兵はアダムを見た。
そして、言いにくそうに答えた。
「あなたの思想が、どれほど苦しみを生むかを証明するためです」
部屋の空気が凍った。
アダムは黙った。
イヴが彼の手を握る。
「アダム」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「うん」
「怖い」
「うん」
「でも」
アダムは部屋を見回した。
レナ。
元騎士。
老夫婦。
脱走兵。
医師。
サタン派の者たち。
アダン。
桜夜。
秘書。
イヴ。
みんなが、彼を見ていた。
答えを求める目ではなかった。
少なくとも、アダムにはそう見えた。
一緒に考えるために、彼の声を待っている目だった。
「逃げよう」
アダムは言った。
アダンが眉を寄せる。
「どこへ」
「一か所に集まっていたら、みんな捕まる。ノアの家は大事だけど、場所にしがみついたら危ない」
「捨てるのか」
「捨てない」
アダムは首を振った。
「火を分ける」
「火を?」
「ここに集まった人たちが、それぞれ別の場所へ行く。小さな仮の家を作る。怖い人、考えたい人、逃げたい人を少しずつ受け入れる。ノアの家を一つの場所じゃなくて、たくさんの場所にする」
イヴは目を見開いた。
「ノアを、増やすの?」
「うん」
「でも、それだと会えなくなる人もいる」
「うん」
「危ない」
「うん」
「寂しい」
「うん」
アダムはイヴの手を握り返した。
「でも、問いを一か所に閉じ込めたら、燃やされて終わる。なら、小さく分けよう。火を消されないように」
アダンは考え込んだ。
桜夜が静かに言った。
「悪くない」
「追う側からすれば、厄介ですね」
秘書が続けた。
「一点を潰しても、思想は残る。統一議会が最も嫌う形です」
「準備は間に合うか」
アダンが問う。
「完全には無理です」
秘書は即答した。
「ですが、完全でなくても始めるしかありません」
レナが立ち上がった。
「わたし、集落に戻ります」
イヴが驚いた。
「レナ?」
「怖いです。でも、わたしみたいに声を聞いて泣いた人が、きっとまだいます。治療施設に送られる前に、逃げ道を作りたい」
元騎士の男も立ち上がった。
「私は南の廃鉱へ行く。昔の補給路を知っている」
老夫婦は手を取り合った。
「私たちは、受信記録を持っている人たちを隠せるかもしれない」
脱走兵は傷だらけの身体を起こした。
「騎士団の中にも、迷っている者がいます。連絡を取ります」
次々と声が上がった。
怖い。
無理かもしれない。
でも、やる。
その言葉が、部屋の中に広がっていく。
アダムはそれを見ていた。
自分が命令したわけではない。
誰かが、誰かの意思で立ち上がっている。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
この人たちは、傷つくかもしれない。
死ぬかもしれない。
自分の声が、この人たちを危険へ向かわせているのかもしれない。
そう思うと、胸が潰れそうだった。
イヴはそれに気づいた。
「アダム」
「うん」
「ひとりで背負わない」
アダムは彼女を見た。
「でも」
「今、みんな自分で選んだ」
「うん」
「あなたが全部背負ったら、みんなの選択まで奪うことになる」
アダムは息を呑んだ。
イヴは静かに続けた。
「わたしたちは、背負い合うの。あなたが全部背負うんじゃない」
アダムは少し黙った。
そして頷いた。
「うん」
「よし」
「かなり?」
「かなり」
イヴはそう言って笑った。
その笑顔を見て、アダムも笑った。
火は分けられる。
分けても、消えるとは限らない。
むしろ、増えることもある。
その夜、ノアの家では初めて会議が開かれた。
地図が広げられ、逃走路が引かれ、食料が分けられ、合図が決められた。
誰も楽観していなかった。
明日には討伐隊が来る。
捕まれば、治療か審問か死が待っている。
それでも、人々は動いた。
生まれてきてよかったかは、まだわからない。
けれど、今ここにいる誰かをなかったことにはしたくない。
その小さな思いだけを頼りに、彼らは夜を越える準備を始めた。
そして夜明け前。
森に沈む廃研究施設から、いくつもの小さな灯りが出ていった。
北へ。
南へ。
地下へ。
町へ。
死の森へ。
誰かの仮の家になるために。
ノアは、一つの場所ではなくなった。
それはまだ、派閥ではなかった。
教団でも、軍でもなかった。
ただ、問いを抱えたまま生きようとする者たちの、小さな火の群れだった。
アダムは寝台の上から、その灯りを見送った。
イヴが隣に立っている。
アダンは剣を持ち、桜夜は森の奥を見ていた。
秘書は最後の通信端末を調整している。
「行っちゃったね」
イヴが言った。
「うん」
「寂しい?」
「寂しい」
「怖い?」
「怖い」
「死にたい?」
アダムは少し考えた。
そして、首を振った。
「今は、生きて見届けたい」
イヴは小さく頷いた。
「なら、よし」
「かなり?」
「ものすごく」
遠くで、飛行艇の音が聞こえ始めた。
夜明けの空が、白み始めている。
統一議会の討伐隊が来る。
ノアの家は、もうすぐ見つかるだろう。
だが、そこに残っている火は一つではなかった。
すでに森の外へ、いくつも分かれていた。
アダムは胸元の木の鳥を握った。
「ノア」
小さく呟く。
「みんなを、運んで」
木の鳥は答えない。
けれど、朝の風が窓から入り、その翼を少しだけ揺らした。
まるで、また飛ぼうとしているみたいに。




