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第11話 問いを抱く者たち

 討伐隊がノアの家に到着したとき、そこにはほとんど誰もいなかった。


 森に沈んだ廃研究施設。


 割れた窓。


 蔦に覆われた外壁。


 かすれた看板。


 生命保存研究棟。


 その前に、白い鎧の騎士たちが整列していた。朝霧の中で、彼らの鎧は幽霊のように見えた。


 先頭に立つ指揮官は若かった。


 名をエリオと言った。


 アダンの部下だった男である。


 かつてはアダンの命令を疑わず、統一議会の法を疑わず、思想犯の拘束を淡々とこなしていた。だが、今は違う。


 アダムの声を聞いてしまった。


 生まれてきてよかったかは、まだわからない。


 その言葉が、耳から離れなかった。


 彼はそれを危険思想だと教えられた。苦痛を未来へ広げる毒だと教えられた。だが、毒ならばなぜ、自分の胸は痛むのだろう。


 なぜ、忘れられないのだろう。


「突入」


 エリオは命じた。


 騎士たちが扉を破る。


 中へ入る。


 しかし、そこにいたのは数人だけだった。


 アダム。


 イヴ。


 アダン。


 桜夜。


 秘書。


 そして、寝台のそばに置かれた木の鳥。


 アダムはまだ起き上がれない。だが、逃げてはいなかった。白い顔で寝台に横たわりながら、まっすぐこちらを見ている。


 イヴはその隣に立っていた。


 片手でアダムの手を握り、もう片方の手には小さな短剣を持っている。構えは素人に近い。だが、その目は逃げていなかった。


 アダンは剣を抜いていた。


 桜夜は壁にもたれ、いつものように涼しい顔をしている。


 秘書は端末を閉じた。


 すでにやるべきことは終えた、という顔だった。


「アダム」


 エリオは言った。


「第一級思想犯として、あなたを拘束する」


「うん」


 アダムは頷いた。


「抵抗は」


「する」


 イヴが即答した。


 アダムが少し困った顔で彼女を見る。


「イヴ」


「するでしょ」


「するけど」


「じゃあ、わたしが先に言っただけ」


「うん」


 そのやり取りに、騎士たちの一部が戸惑った。


 もっと恐ろしい者たちだと思っていた。


 子どもを望み、苦痛を増やし、世界を破滅へ導く反逆者たち。


 そう聞かされてきた。


 だが、目の前にいるのは、怪我をした少年と、彼を守ろうとする少女だった。


 それだけだった。


 エリオは剣を握る手に力を込めた。


「ここに集まっていた者たちはどこへ行った」


 アダムは答えなかった。


 代わりに、イヴが言った。


「朝の散歩です」


「ふざけるな」


「ふざけてません。朝に歩いて出ていったから、朝の散歩です」


「イヴ」


 アダムが困ったように呼ぶ。


「なに」


「たぶん、それはふざけてる」


「少しだけ」


 桜夜が小さく笑った。


 アダンは笑わなかった。


 彼はエリオを見ていた。


「エリオ」


 名を呼ばれ、エリオの肩がわずかに揺れた。


「隊長」


「私はもう隊長ではない」


「なら、反逆者アダン」


「それでいい」


 アダンは静かに言った。


「お前は、何を見ている」


「何を?」


「命令か。目の前の命か」


 エリオの顔が強張った。


「私は、統一議会の騎士です」


「それは答えではない」


「命令に従うのが騎士です」


「それも答えではない」


「では、何を言えばいいのですか!」


 エリオの声が荒くなった。


「私は命令を受けています。あなたたちを拘束し、必要なら処分する。それが苦痛の拡散を防ぐために必要だと」


「必要なら、殺すのか」


 アダンが尋ねた。


「はい」


「誰を」


 エリオは言葉に詰まった。


 アダンは続けた。


「あの寝台の少年をか。彼の手を握っている少女をか。私をか。地球人をか。ここにはいない者たちをか。お前は、誰を殺す」


「……反逆者を」


「違う」


 アダンの声が低くなった。


「名で呼べ」


 部屋が静まり返った。


「殺すなら、名を呼べ。アダムを殺すと言え。イヴを殺すと言え。アダンを殺すと言え。桜夜を殺すと言え。反逆者という言葉の後ろに隠れるな」


 エリオの呼吸が乱れた。


 アダムはその顔を見ていた。


 若い。


 けれど、その目はひどく疲れていた。


 アダムは口を開いた。


「エリオさん」


 エリオは彼を睨んだ。


「気安く呼ぶな」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「うん」


「お前は、私たちを惑わせるためにそういう言葉を使う」


「たぶん、違う」


「たぶん?」


「ぼくも、よくわからないから」


 エリオは苛立ったように顔を歪めた。


「また、わからないか」


「うん」


「お前の声を聞いてから、皆がおかしくなった。命令に疑問を持つ者が出た。治療施設に送られる者が増えた。脱走兵まで出た。お前のせいだ」


 アダムは黙った。


 胸が痛んだ。


 自分の声が、人を苦しめた。


 それは否定できなかった。


 問いを残せば、人は迷う。


 迷えば苦しむ。


 統一議会の言う通り、問いを殺せば楽になるのかもしれない。


 少なくとも、迷う苦しみは減るのかもしれない。


 アダムの手が震えた。


 イヴがその手を握りしめる。


「アダム」


「うん」


「ひとりで背負わない」


「でも」


「また言う」


 イヴはエリオを見た。


「アダムの声を聞いて苦しんだのなら、それはあなたが考え始めたからです。アダムがあなたの中に無理やり苦しみを入れたわけじゃない」


「黙れ」


「黙りません」


「黙れ!」


 エリオが剣を抜いた。


 騎士たちも一斉に武器を構える。


 空気が張り詰めた。


 アダンが一歩前へ出る。


 桜夜の足元から黒い影が伸びる。


 秘書の指先に光糸が生まれる。


 イヴはアダムの前に立つ。


 アダムはその背中を見た。


 まただ。


 自分はまた、誰かの背中に守られている。


 サタン。


 イヴ。


 アダン。


 桜夜。


 秘書。


 集まってくれた人たち。


 そして、自分は何をするのか。


 守られるだけでいいのか。


「待って」


 アダムは言った。


 声は小さかった。


 だが、不思議と部屋に届いた。


「イヴ、少しどいて」


「嫌」


「イヴ」


「嫌」


「お願い」


 イヴは歯を食いしばった。


 それでも、少しだけ横へずれた。完全にはどかない。いつでもアダムを庇える位置にいる。


 アダムはエリオを見た。


「ぼくのせいで苦しくなったなら、ごめんなさい」


「だから謝るなと」


「でも、苦しかったなら謝りたい」


「そんな言葉で済むと思うのか」


「思わない」


「なら」


「でも、ぼくはあなたに考えるなとは言えない」


 エリオの剣先が揺れた。


「考えれば苦しい」


「うん」


「迷えば苦しい」


「うん」


「なら、考えないほうがいい」


「そうかもしれない」


「なら!」


「でも」


 アダムは息を吸った。


 肩が痛む。


 熱がぶり返している。


 それでも、言葉を続けた。


「考えないまま誰かを殺したら、その苦しみはあとで来る」


 エリオの目が揺れた。


「見ないふりをしても、来ると思う。誰かを反逆者と呼んで、思想犯と呼んで、処分対象と呼んで、名を呼ばないまま消しても。きっと、あとで来る」


 アダンが目を伏せた。


 元騎士の男が話していた処分の記憶。


 アダン自身の罪。


 それらが、この部屋には見えない影のように立っている。


「だから、ぼくは」


 アダムは言った。


「あなたに、苦しんでほしくないから、見てほしい」


「それが苦しいんだ!」


 エリオが叫んだ。


 その声は怒りではなかった。


 悲鳴に近かった。


「見たら、もう戻れない。自分が何をしてきたのか、考えてしまう。処分した者たちの顔を思い出す。泣いていた声を思い出す。なぜ命令だと言って済ませられたのか、わからなくなる」


 彼の剣が震えていた。


「お前のせいだ」


「うん」


「お前の声を聞かなければ、私は騎士のままでいられた」


「うん」


「苦痛を減らすために、正しいことをしていると信じていられた」


「うん」


「なのに」


 エリオの目から涙が落ちた。


「私は、もう誰を殺せばいいのかわからない」


 沈黙。


 その沈黙の中で、アダムは静かに言った。


「殺さなくていいと思います」


 エリオはアダムを見た。


 信じられないという顔だった。


「命令は」


「命令より先に、あなたがいる」


「私は騎士だ」


「騎士である前に、エリオさんです」


「……名前で呼ぶな」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「うん」


 エリオは剣を下ろせなかった。


 だが、振り上げることもできなかった。


 そのとき、外から轟音が響いた。


 飛行艇の音。


 それも一機ではない。


 森の上空を、複数の影が覆っている。


 通信端末が強制的に開き、議会の声が流れた。


『討伐隊へ告ぐ。現場指揮官エリオ。応答せよ』


 エリオは唇を噛んだ。


 端末の向こうから、冷たい声が続いた。


『対象の拘束が遅れている。直ちにアダムを確保せよ。抵抗する場合、同伴者ごと排除せよ』


 エリオは答えない。


『エリオ。聞こえているな』


 部屋の騎士たちが彼を見る。


 アダムも、イヴも、アダンも、彼を見る。


 エリオの手が震えていた。


 選ばなければならない。


 命令か。


 目の前の命か。


 アダンの問いが、今になって彼を追いつめる。


『エリオ。これは慈悲である。苦痛を拡散する者を止めよ』


 慈悲。


 その言葉を聞いた瞬間、エリオの表情が変わった。


 彼はゆっくり端末を手に取った。


「こちら、エリオ」


『状況を報告せよ』


 エリオはアダムを見た。


 傷ついた少年。


 彼を守る少女。


 剣を構える元隊長。


 影を操る男。


 光糸を持つ秘書。


 そして、空になった施設。


 火はもう分かたれている。


 ここを潰しても、問いは消えない。


 エリオは目を閉じた。


 そして言った。


「対象は、確認できません」


 騎士たちが息を呑んだ。


 通信の向こうが沈黙した。


『何だと』


「施設は放棄されています。反逆者の痕跡はありますが、現在地は不明」


『映像を送れ』


「通信障害により困難」


『エリオ』


 声が低くなった。


『お前は何をしている』


 エリオは剣を鞘に戻した。


「見ています」


『何をだ』


 エリオはアダムを見た。


 それから、自分の手を見た。


「自分が何をしているのかを」


 彼は端末を床に落とした。


 そして踏み潰した。


 瞬間、外の飛行艇が動いた。


 議会は裏切りを察したのだ。


 警告音が森に響く。


『現場部隊の反逆を確認。全対象を排除する』


 白い光が、窓の外で膨れ上がった。


「伏せろ!」


 アダンが叫ぶ。


 次の瞬間、施設の外壁が爆ぜた。


 ◇◇◇


 爆風が医療室を吹き飛ばした。


 イヴはアダムに覆いかぶさった。


 耳が鳴る。


 視界が白くなる。


 誰かの叫び声が遠い。


 天井の一部が崩れ、粉塵が部屋を満たした。


「アダム!」


 イヴは咳き込みながら叫んだ。


「アダム!」


「……いる」


 下から弱い声がした。


 イヴは泣きそうになった。


「生きてる?」


「たぶん」


「たぶん禁止!」


「ごめん」


 アダムは苦しそうに笑った。


 だが、すぐに顔を歪めた。


 傷が開いたのか、包帯に赤がにじんでいる。


 イヴの顔から血の気が引いた。


「動かないで」


「動けない」


「よしじゃない」


「うん」


 アダンが瓦礫を押しのけて立ち上がる。


「全員、無事か!」


 桜夜は片膝をついていた。


 影で崩落を支えたのだろう。顔色が悪い。


「私は生きている」


 秘書も立ち上がった。


「機能継続可能です」


 エリオは騎士たちに指示を飛ばしていた。


「負傷者を運べ! 反撃するな、防御に回れ!」


「隊長、議会は我々を」


「わかっている!」


 エリオは叫んだ。


「それでも、目の前の命を助けろ!」


 その言葉に、騎士たちは一瞬迷った。


 だが、一人が動いた。


 倒れた仲間を引きずり出す。


 別の者が、瓦礫の下敷きになりかけた秘書の端末を拾う。


 また別の者が、イヴのもとへ駆け寄った。


「手伝います」


 イヴは彼を見た。


 白い鎧。


 さっきまで敵だった者。


 けれど、その手は震えていた。


 敵の手ではない。


 迷っている人の手だった。


「アダムを運んで」


 イヴは言った。


「はい」


 騎士は頷いた。


 外では飛行艇が旋回している。


 次の攻撃が来るまで、時間はない。


 アダンがアダムを見た。


「動かすぞ」


「うん」


「痛む」


「うん」


「死ぬな」


「うん」


 アダンは少しだけ言葉に詰まった。


「……頼む」


 アダムは彼を見た。


 その顔に、わずかな笑みが浮かんだ。


「うん。父さん」


 アダンはすぐに顔をそらした。


 そして、アダムを慎重に抱き上げた。


 イヴが木の鳥を拾い、彼の胸元に押し込む。


「ノアも一緒」


「うん」


 アダムは小さく答えた。


 ◇◇◇


 施設の地下には、古い避難通路があった。


 秘書が前夜のうちに確認していたが、崩落が多く、全員を通すのは難しいと判断されていた道だ。


 だが、今はそこしかない。


 桜夜が影で瓦礫を押しとどめ、秘書が光糸で支柱を補強する。


 エリオと数名の騎士が、アダムたちの後方を守る。


 上では、飛行艇の砲撃が続いていた。


 ノアの家が崩れていく。


 昨日まで火を囲んだ部屋。


 レナが泣いた場所。


 元騎士が腰を下ろした床。


 アダムとイヴが仮の家だと笑った場所。


 それらが、ひとつずつ壊されていく。


 イヴは振り返った。


 胸が痛かった。


「イヴ」


 アダムが呼んだ。


「見ないほうがいい」


「でも」


「火は、もう分けた」


 その言葉に、イヴは唇を噛んだ。


「うん」


「ここだけがノアじゃない」


「うん」


「でも、寂しいね」


 アダムは静かに言った。


 イヴの目から涙が落ちた。


「うん。寂しい」


「また作ろう」


「うん」


「仮の家」


「うん」


「今度は、雨漏りしないところ」


「贅沢」


「窓も割れてないところ」


「もっと贅沢」


「イヴが眠れるところ」


 イヴは泣きながら笑った。


「それが一番難しいかも」


「じゃあ、がんばる」


「病人は寝て」


「うん」


 避難通路の奥へ進むにつれ、砲撃音は遠くなっていった。


 だが、安全になったわけではない。


 追跡は続く。


 議会は止まらない。


 むしろ、今この瞬間から、彼らはノアに集う者たちだけでなく、迷い始めた騎士たちまでも敵に回すことになる。


 問いは広がった。


 その分だけ、苦しみも広がる。


 それでも。


 それでも、誰かが自分で見て選んだ。


 エリオが、そうした。


 騎士たちが、そうし始めた。


 アダムはアダンの腕の中で、薄く目を開けた。


「エリオさん」


 前を歩いていたエリオが振り返る。


「何だ」


「ありがとう」


 エリオは顔を歪めた。


「礼を言われることではない」


「でも、ありがとう」


「私は、あなたたちを捕まえに来た」


「うん」


「あなたのせいで、私はもう戻れない」


「うん」


「だから」


 エリオは少し言葉を詰まらせた。


「責任を取れ」


 アダムは瞬きをした。


「責任?」


「私が考えるのを、途中でやめないように。あなたも生きろ」


 イヴが隣で力強く頷いた。


「いいこと言う」


「イヴまで」


 アダンも低く言った。


「同感だ」


 秘書も淡々と告げた。


「アダム様の生存は、現状における最重要事項です」


 アダムは困ったように笑った。


「みんなに言われると、少し重い」


「背負い合うんでしょ」


 イヴが言った。


「あなたも少しは背負われなさい」


「うん」


 アダムは目を閉じた。


 身体は痛い。


 傷は熱い。


 ノアの家は壊れた。


 追手は増えた。


 それでも、彼は思った。


 今は、死にたくない。


 見届けたい。


 問いを抱いた人たちが、どこへ行くのか。


 小さな火が、消えずに残るのか。


 それを、イヴと一緒に見たい。


 だが桜夜だけは気づいていた。アダムとイヴ、そして自分(・・)に残された時間が少ないことを。


 ◇◇◇


 避難通路の出口は、森の北側の渓谷にあった。


 岩の割れ目から外へ出ると、空は昼の色になっていた。


 遠くで煙が上がっている。


 ノアの家があった場所だ。


 イヴはその煙を見つめた。


 アダムも、アダンの腕の中から見た。


 誰もすぐには話さなかった。


 やがて、エリオが言った。


「ここから先、どうしますか」


 アダンが周囲を見回す。


「東へ行けば、地下水路に入れる。西は議会の監視圏だ。南は飛行艇に見つかりやすい」


「北は?」


 イヴが尋ねる。


 アダンは少し黙った。


「死の森のさらに奥だ。地図がない」


「なら、北ですね」


 イヴは即答した。


 アダンが眉を寄せる。


「なぜそうなる」


「地図がないなら、議会も追いにくいでしょ」


「危険だ」


「どこも危険です」


「食料もない」


「探します」


「アダムは重傷だ」


「運びます」


「無茶だ」


「知ってます」


 イヴはアダンをまっすぐ見た。


「でも、わたしたちは落ちながら飛んだんです。今さら道がないくらいで止まれません」


 桜夜が小さく笑った。


「いい答えだ」


 秘書が地図を表示した。


「北方には旧時代の観測所が存在した可能性があります。記録は不完全ですが、避難先として使えるかもしれません」


「また仮の家?」


 アダムが目を閉じたまま言った。


 イヴは彼の顔を覗き込んだ。


「起きてるの?」


「少し」


「寝てて」


「北、行きたい」


「理由は?」


「まだ、見たことないから」


 イヴは呆れたように、でも少し嬉しそうに笑った。


「あなたらしい」


「だめ?」


「だめじゃない」


 エリオが周囲の騎士たちを見た。


 彼らも疲れていた。


 混乱していた。


 だが、もう議会へ戻る顔ではなかった。


「私たちも同行します」


 エリオは初めて敬語で言った。


「いいの?」


 アダムが尋ねる。


「戻れませんから」


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「うん」


「でも」


 エリオは少しだけ笑った。


 初めて見る、年相応の笑みだった。


「仮の家というものが、少し気になります」


 イヴは頷いた。


「じゃあ、作りましょう」


「北に?」


「北に」


「名前は?」


 レナなら聞きそうなことを、エリオが聞いた。


 イヴはアダムを見た。


 アダムは少し考えた。


 ノアの家は壊れた。


 けれど、ノアは一つではなくなった。


 火は分かれた。


 問いは広がった。


 そして今、自分たちは地図のない北へ向かおうとしている。


「次の家は」


 アダムは弱い声で言った。


「アララト」


 イヴは首を傾げた。


「アララト?」


「サタンが話してくれた。ノアの箱舟が、洪水のあとにたどり着いた山の名前」


「山」


「うん」


「北に山があるかはわからないよ」


「わからないから、いい」


「またそれ」


「うん」


 イヴは笑った。


「じゃあ、アララトを探そう」


 アダンが歩き出した。


 アダムを抱えたまま、森の北へ。


 イヴがその隣を歩く。


 桜夜と秘書が続き、エリオと騎士たちが後方を守る。


 背後には、燃えるノアの家。


 前方には、地図のない森。


 そして空には、煙に少し汚れた青が広がっていた。


 アダムは胸元の木の鳥に触れた。


「ノア」


 小さく呟く。


「次は、山を探そう」


 風が吹いた。


 木々が揺れた。


 どこか遠くで、別の小さな火が灯っている気がした。


 レナたちが、誰かを迎えているかもしれない。


 元騎士が、廃鉱に火を点けているかもしれない。


 老夫婦が、誰かの悲しみを初めて聞いているかもしれない。


 それぞれの場所で、問いを抱く者たちが生まれている。


 統一議会は、それを苦痛の拡散と呼ぶだろう。


 けれどアダムは、別の名前で呼びたかった。


 それは、たぶん。


 まだ、とても小さな。


 希望だった。


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