第12話 アララトを探して
北の森は、静かすぎた。
風はある。
木々も揺れている。
鳥の声のような音も、遠くで何度か聞こえた。
けれど、それは本物の鳥ではなかった。木々の隙間を抜ける風が、割れた旧時代の観測機に当たって鳴っているだけだった。
アダムはアダンの背に負われていた。
さっきまでは腕に抱えられていたが、長く歩くにはそれでは無理がある。秘書が古い布と騎士たちの装備を使い、即席の背負い具を作ったのだ。
アダムは最初、申し訳なさそうにしていた。
「重くない?」
「重い」
アダンは即答した。
「ごめん」
「謝るな」
「ありがとう?」
「それでいい」
前にも似たような会話をした気がして、イヴは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄れた。
アダムの顔色は悪い。
傷口は応急処置で押さえたものの、熱は下がらず、呼吸も浅かった。本人は平気な顔をしようとしているが、イヴにはわかる。大丈夫ではない顔だ。
だからイヴは、何度も振り返った。
「アダム」
「なに」
「起きてる?」
「少し」
「痛い?」
「痛い」
「怖い?」
「怖い」
「死にたい?」
アダムは少しだけ考えた。
「今は、眠りたい」
「それは寝なさい」
「でも、森を見たい」
「見なくていい」
「見たい」
「病人はわがまま」
「うん」
認められると、イヴは怒る言葉を失った。
アダンの背中で、アダムは少しだけ顔を上げる。
木々の隙間から、空が見えた。
通信塔で見た空より狭い。
枝に区切られ、雲に隠れ、煙の色が少し混じっている。
それでも空だった。
「イヴ」
「なに」
「空、まだあるね」
イヴは胸が詰まった。
「あるよ」
「ノアの家、燃えたのに」
「うん」
「空は、燃えないんだね」
「……うん」
イヴは泣きそうになり、慌てて前を向いた。
泣いている場合ではない。
レナたちは無事だろうか。
元騎士は廃鉱へ着けただろうか。
老夫婦は誰かを隠せただろうか。
ノアの火は、どこかでまだ灯っているだろうか。
考え始めると、胸の奥が冷たくなった。
自分たちは彼らを逃がした。
けれどそれは、彼らを危険へ送り出したことでもある。
アダムが背負おうとしていたものの重さを、イヴは少しだけ知った気がした。
「イヴ」
アダムがまた呼んだ。
「なに」
「ひとりで背負わない」
イヴは足を止めかけた。
「あなたに言われたくない」
「うん」
「うんじゃない」
「でも、言いたかった」
イヴは唇を噛んだ。
そして、小さく答えた。
「わかってる」
アダンは何も言わずに歩いていた。
だが、背中越しにアダムの声を聞いていた。
ひとりで背負わない。
その言葉は、自分にも向けられている気がした。
◇◇◇
日が傾くころ、彼らは古い中継所を見つけた。
観測所ではなかった。
山でもなかった。
ただ、森の中に埋もれた小さな建物だった。
外壁は苔に覆われ、入口は半分土に埋まっている。看板には文字が残っていたが、風化してほとんど読めなかった。
「使えるか」
エリオが尋ねる。
秘書は入口付近を調べた。
「短時間なら。内部に生体反応はありません。罠の反応もありません。ただし、構造劣化が進んでいます」
「つまり?」
イヴが聞く。
「静かに使ってください」
「わかりやすい」
桜夜が壁に手を触れ、目を細めた。
「地下があるな」
「入れる?」
「入るだけなら」
「出られる?」
「それは入ってから考える」
「不安すぎる」
イヴはそう言ったが、他に選択肢はなかった。
飛行艇の音は遠ざかっている。
だが、いつ戻ってくるかわからない。
夜の森をアダムを背負ったまま進むのは危険だった。
彼らは中継所の中へ入った。
内部は狭かった。
壁には古い通信機材が並び、床には割れたガラスと枯れ葉が積もっている。奥に小さな休憩室があり、そこにアダムを寝かせることになった。
イヴはすぐに包帯を替えた。
布を外した瞬間、彼女の顔が強張る。
「悪い?」
アダムが聞く。
「よくない」
「そっか」
「でも、まだ治せる」
「うん」
「だから寝て」
「うん」
アダムは素直に目を閉じた。
素直すぎて、かえって怖かった。
イヴは彼の額に手を当てる。
熱い。
ひどく熱い。
「秘書さん」
「はい」
「薬、何か残ってますか」
「鎮痛剤と解熱剤が少量あります。ただし、感染を抑える薬は不足しています」
「沢の水を煮沸して、傷を洗います。薬草も探さないと」
「私が行こう」
エリオが言った。
イヴは彼を見た。
白い鎧は泥と煤で汚れ、ところどころ欠けていた。もはや騎士団の輝きはない。それでも彼は、まだ騎士のように立っていた。
「薬草、わかるんですか」
「わからない」
「じゃあ、だめです」
「しかし」
「わからないものを採ってこられても困ります」
「……確かに」
エリオは少し落ち込んだ顔をした。
アダンが外套を脱ぎながら言った。
「私が行く。サタンほどではないが、森の薬草は多少知っている」
「私も行こう」
桜夜が続けた。
「お前は休め」
アダンが言う。
「お前に言われる筋合いはない」
「顔色が悪い」
「お前ほどではない」
「私は歩ける」
「私も歩ける」
二人はしばらく睨み合った。
イヴはため息をついた。
「二人とも行ってください。でも、ちゃんと帰ってきてください」
アダンと桜夜は同時にイヴを見た。
「ちゃんと?」
「はい。薬草を採って、無茶をせず、喧嘩もせず、帰ってくること」
アダンは少しだけ眉をひそめた。
桜夜は笑った。
「命令されたぞ」
「お前が余計なことを言うからだ」
「喧嘩しない」
イヴが言うと、二人は黙った。
エリオが小さく呟いた。
「強いな」
「生活です」
イヴは短く答えた。
◇◇◇
夜が来た。
中継所の窓は布で塞がれ、小さな火が床の中央で揺れている。
ノアの家よりも狭い。
壊れた匂いがする。
床も冷たい。
けれど、火がある。
人がいる。
眠る場所がある。
だからイヴは思った。
ここも、少しだけ仮の家だ。
アダムは眠っていた。
汗をかき、ときどき苦しそうに眉を寄せる。イヴはそのたびに額を拭き、手を握った。
「アダム」
小さく呼ぶ。
返事はない。
それでいい。
眠れるなら眠ってほしい。
少しでも痛みから離れてほしい。
そう思うのに、返事がないと怖くなる。
イヴは自分の勝手さに苦笑した。
「起きなくていいけど、いなくならないで」
そう呟くと、眠っているはずのアダムの指が少し動いた。
握り返されたような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいでもよかった。
エリオは入口のそばに座っていた。
騎士たちも交代で見張りに立っている。彼らはまだイヴたちに遠慮していた。何を話せばいいのかわからないのだろう。
さっきまで敵だった。
今は同じ場所で火を囲んでいる。
それは奇妙なことだった。
エリオが口を開いた。
「イヴさん」
「はい」
「アダムは、いつもああなのか」
「ああ?」
「謝る。頷く。わからないと言う。怖いと言う」
「だいたい」
「指導者らしくない」
「本人もなりたがってないです」
「では、なぜ人が集まる」
イヴはアダムの寝顔を見た。
少し考えてから答える。
「わからないって言ってくれるからじゃないですか」
「わからないことに、人はついていくのか」
「答えを決めつけられるのに疲れた人は、たぶん」
「たぶん」
「便利な言葉です」
エリオは火を見つめた。
「私は、ずっと答えを与えられてきた。出生は悪。苦痛は悪。迷いは治療すべき不調。命令は慈悲。処分は救済。そう教えられた」
「はい」
「だが、今は何もわからない」
「じゃあ、アダムと同じですね」
エリオは少し驚いた顔をした。
「同じか」
「はい。わからない仲間」
「嬉しくない仲間だ」
「でも、ひとりよりはましです」
エリオは何も言わなかった。
しばらくして、かすかに頷いた。
「そうかもしれない」
そのとき、アダムが小さく呻いた。
イヴはすぐに身をかがめる。
「アダム?」
「……イヴ」
「いるよ」
「サタンが」
イヴは息を止めた。
アダムの目は閉じたままだった。
熱に浮かされている。
「サタンが、いたの?」
「うん」
「何て?」
「……火を、消すなって」
イヴの喉が震えた。
「そっか」
「でも、火が多いと、燃えるって」
「うん」
「気をつけろって」
「うん」
「イヴ」
「なに」
「ぼくたち、間違ってるかな」
イヴは答えられなかった。
熱の中で出た問い。
けれど、それはアダムがずっと抱えている問いだった。
自分たちは希望を広げているのか。
それとも、苦痛を増やしているのか。
子どもを望むことは、未来を祝うことなのか。
それとも、未来に苦しみを押しつけることなのか。
イヴはアダムの手を両手で包んだ。
「わからない」
彼女は正直に答えた。
「でも、間違っているかもしれないから、ちゃんと考える」
「うん」
「正しいって決めつけない」
「うん」
「でも、あなたを生きさせたいと思うことは、今は間違いにしたくない」
アダムの目尻から、涙が一筋落ちた。
眠っているのか、聞いているのか、わからない。
それでも彼は小さく言った。
「ぼくも、イヴに生きていてほしい」
「うん」
「子どもも」
イヴの手が震えた。
「うん」
「もし、いつか」
「うん」
「ぼくたちの子どもが、ぼくたちを恨んだら」
イヴは目を閉じた。
その想像は、怖かった。
生まれてこなければよかったと、我が子に言われる未来。
なぜ産んだのかと責められる未来。
愛では埋められない苦しみを、その子が抱える未来。
アダムも、それを恐れている。
だからこそ、望むことを簡単には肯定できない。
「そのときは」
イヴは震える声で言った。
「逃げずに聞く」
「うん」
「謝るところは謝る」
「うん」
「でも、ひとりにはしない」
「うん」
「生まれてきてよかったって言えなくても、言えないまま抱きしめる」
アダムは長い息を吐いた。
「イヴは、強いね」
「強くない」
「強いよ」
「怖いだけ」
「怖くても、手を離さない」
アダムはうっすら目を開けた。
「それは、強いと思う」
イヴは泣きそうになった。
「寝て」
「うん」
「起きたら、また話そう」
「うん」
「約束」
「絶対?」
「今だけは、嘘でもいい」
アダムは少しだけ笑った。
「絶対、起きる」
「よし」
アダムは再び眠った。
イヴはその手を握り続けた。
火の向こうで、エリオが静かに目を伏せていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、その会話を聞いていた。
子を望むこと。
子に恨まれるかもしれないこと。
それでも、ひとりにしないと誓うこと。
統一議会では、誰もそんな話をしなかった。
子を作ることは悪。
それで終わりだった。
しかし、ここでは終わらない。
問いが続く。
怖いまま、続いていく。
エリオはそのことを、恐ろしいと思った。
そして、少しだけ眩しいと思った。
◇◇◇
アダンと桜夜が戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。
二人とも泥にまみれていた。
薬草は手に入っていた。
しかし、それだけではなかった。
アダンの表情が険しい。
桜夜はいつものように笑っていたが、その笑みは薄かった。
「追手ですか」
エリオが立ち上がる。
「いや」
アダンは首を振った。
「追手より厄介かもしれない」
イヴの胸が冷えた。
「何があったんですか」
桜夜が古い金属片を差し出した。
それは施設の標識の一部だった。
文字が残っている。
北方観測所。
その下に、もう一つの文字。
生殖機能回復実験区画。
イヴは息を呑んだ。
「それって」
アダンが重く頷いた。
「アララトは、ただの観測所ではない可能性がある」
「どういうことですか」
エリオが尋ねる。
アダンはアダムを見た。
眠る彼の胸元には、木の鳥がある。
それから、イヴを見た。
「かつて議会が封じた研究が、北に残っているかもしれない。薬に頼らず、生殖機能を回復させるための研究だ」
部屋の火が、ぱちりと鳴った。
イヴは言葉を失った。
アダムがずっと抱えてきた願い。
愛する人との子どもが欲しいという願い。
エデンでは罪とされる願い。
その願いに関わる場所が、北にある。
アララト。
ノアの箱舟がたどり着いた山。
新しい始まりの名。
だが同時に、それは統一議会が最も恐れる場所かもしれなかった。
「行くしかないですね」
イヴは言った。
アダンが厳しい顔で見る。
「危険だ」
「知ってます」
「議会もその情報を掴んでいれば、必ず向かう」
「でしょうね」
「そこへ行けば、戦いになる」
「それでも」
イヴはアダムの手を握った。
「アダムが起きたら、きっと行きたいって言います」
桜夜が小さく笑った。
「言うだろうな」
「そして、怖いって言います」
「それも言う」
「でも行くって言います」
「間違いない」
イヴはアダムを見た。
「だから、わたしが先に決めておきます。行きます。アララトへ」
アダンは長く黙っていた。
やがて、短く言った。
「わかった」
エリオも頷いた。
「同行します」
「いいの?」
イヴが尋ねる。
「私はもう、自分が何をしているのかを見ると決めました。なら、その先も見ます」
秘書が端末を操作した。
「北方観測所への推定経路を算出します。ただし、地形情報が著しく欠落しています」
「つまり?」
イヴが聞く。
「かなり迷います」
「わかりやすいけど、嫌な情報です」
そのとき、アダムが小さく声を漏らした。
「……アララト」
全員が彼を見る。
アダムは目を閉じたままだった。
「行こう」
イヴは驚いて顔を近づけた。
「起きてるの?」
「少し」
「聞いてたの?」
「少し」
「寝てて」
「うん」
アダムは本当に眠りに落ちかけていた。
けれど最後に、かすれた声で言った。
「怖いけど、見たい」
イヴは笑った。
涙がこぼれた。
「知ってた」
彼女はアダムの手を握った。
「じゃあ、行こう。怖いまま」
火が揺れる。
外では、北の森が深く眠っている。
そのさらに奥に、アララトがある。
命を禁じた世界が、かつて命をつなごうとした場所。
希望か。
罠か。
答えはまだない。
それでも、彼らは向かうことにした。
問いを抱いたまま。
次の仮の家を探して。
そして、まだ生まれていない誰かのために。




