第13話 アララトへの道
夜が明ける前に、彼らは中継所を出た。
火は消した。
灰は土に埋めた。
足跡も、秘書と騎士たちができる限り消した。
けれど、そこに誰かがいた気配までは消せなかった。壁に残った温もり。床に落ちた布の糸。アダムが眠っていた場所のへこみ。火の匂い。
仮の家は、いつも少しだけ痕を残す。
イヴは最後に休憩室を振り返った。
ほんの一晩だけの場所だった。
それでも、そこには確かにアダムの呼吸があり、火があり、会話があった。
「行くよ」
アダムの声がした。
彼はまたアダンの背に負われている。
顔色は悪い。
熱もまだある。
けれど、目は開いていた。
「あなたが急かす側なの?」
イヴが言うと、アダムは少しだけ笑った。
「ぼくが一番遅いから」
「わかってるなら寝て」
「森、見たい」
「またそれ」
「うん」
イヴはため息をついた。
けれど、それ以上は言わなかった。
見たいものがあるなら、見せてあげたい。
そう思ってしまう自分がいる。
生きている者には、見たいものがある。
その当たり前のことが、今はとても大切に思えた。
北の森は、歩くほどに深くなっていった。
木々の幹は太く、根は地面を這い、ところどころ古い金属片が土から突き出している。旧時代の道路だったものが、森に飲まれているのだろう。苔に覆われた標識には、読めない文字が並んでいた。
秘書が先頭を歩き、端末で地形を確認する。
だが、表示される地図は何度も途切れた。
「この先、データ欠落領域です」
「ずっと欠落しているな」
アダンが言った。
「はい。つまり、順調に未知へ向かっています」
「それは順調と言うのか」
「目的地が未知である以上、順調です」
イヴは小さく笑った。
「秘書さん、たまにアダムみたいなこと言いますね」
「光栄です」
「褒めたのかな」
アダムがアダンの背で呟く。
「たぶん」
「たぶん禁止」
イヴが即座に言った。
アダムは困ったように笑った。
エリオはそのやり取りを後ろから見ていた。
不思議な集団だと思った。
追われている。
傷ついている。
行き先も確かではない。
それなのに、彼らは時々笑う。
それは強さなのか。
愚かさなのか。
エリオにはまだわからない。
だが、自分が今まで所属していた騎士団の沈黙よりは、ずっと息がしやすかった。
◇◇◇
昼過ぎ、彼らは川に出た。
細い川だった。
水は澄んでいるが、流れは速い。倒木がいくつも川をまたぎ、足場にするには危うかった。
アダンは周囲を見た。
「渡るしかないな」
「橋は?」
イヴが聞く。
「見当たらない」
「作れますか」
エリオが秘書に尋ねる。
「資材が不足しています。倒木を使えば渡れますが、アダム様を背負った状態では危険です」
「なら、私が運ぼう」
桜夜が言った。
イヴはすぐに首を振った。
「桜夜さん、昨日から顔色悪いです」
「生まれつきだ」
「嘘です」
「では、体質だ」
「それも嘘です」
桜夜は少しだけ肩をすくめた。
彼の足元の影は、いつもより薄く見えた。
アダムもそれに気づいていた。
「桜夜」
「何だ」
「無理してる?」
「していない」
「嘘?」
「少し」
「少しじゃない顔してる」
「イヴに似てきたな」
「嬉しい」
「私は困る」
桜夜はそう言って笑ったが、その笑みの端には疲れがあった。
アダンが低く言う。
「私が背負ったまま渡る。エリオ、補助しろ」
「はい」
エリオは即座に頷いた。
イヴが前に出る。
「わたしも」
「お前は先に渡れ」
「嫌です」
「またか」
「アダムのそばにいます」
アダンはイヴを見た。
その目は厳しかったが、もう以前のように否定だけではなかった。
「足を滑らせれば、全員が危険になる」
「わかってます」
「なら」
「でも、アダムが怖いときに手を握る係なので」
アダムが少し驚いたように顔を上げた。
「係だったの?」
「そう。勝手に拝命した」
「いつから?」
「ずっと前から」
「そっか」
アダムは少し笑った。
「じゃあ、お願いします」
「任されました」
イヴは倒木へ足をかけた。
川の音が大きい。
水が岩に当たり、白く砕けている。
アダンがアダムを背負ったまま一歩を踏み出す。エリオが横から支え、秘書の光糸が三人の腰をゆるく結ぶ。桜夜は後方で影を伸ばし、万一に備えた。
倒木は濡れていた。
一歩。
また一歩。
アダムはイヴの手を握っていた。
彼女の手は冷たかった。
「イヴ」
「なに」
「怖い?」
「怖い」
「ぼくも」
「知ってる」
「でも、川きれいだね」
「今それ言う?」
「うん」
イヴは怒ろうとして、川を見た。
確かに、きれいだった。
木漏れ日が水面に落ち、流れの中できらきらと砕けている。エデンの管理区域では見たことのない光だった。
「……きれいね」
「うん」
「でも、足元見て」
「ぼくは運ばれてるから」
「なおさら黙ってて」
「うん」
そのとき、後方で銃声が響いた。
エリオが振り返る。
「追手か!」
森の奥に白い影が見えた。
騎士団ではない。
小型の追跡機だ。
音もなく木々の間を滑り、こちらへ向かってくる。
「速いな」
桜夜が呟いた。
「議会の自律機です。生体反応を追っています」
秘書が言った。
「この足場で戦うのは不利です」
「渡り切れ!」
アダンが叫んだ。
追跡機から光弾が放たれる。
桜夜の影がそれを受け止めた。
だが、影が揺らいだ。
桜夜の膝が落ちる。
「桜夜さん!」
イヴが叫ぶ。
「見るな、進め!」
桜夜が叫び返す。
アダンは歯を食いしばり、アダムを背負ったまま倒木を進む。
エリオが後方へ銃を向ける。
しかし撃てない。
桜夜のすぐ近くに追跡機がいる。
撃てば彼に当たるかもしれない。
「くそっ」
エリオが呻いた。
その瞬間、アダムが顔を上げた。
「エリオさん」
「今は黙っていてください!」
「撃たなくていい」
「ではどうしろと!」
「見て」
「何を!」
「追跡機の動き」
エリオは一瞬、怒鳴り返そうとした。
だが、アダムの声に何かを感じ、追跡機を見た。
追跡機は直線では来ない。
木々を避け、水面近くを通り、必ず同じ間隔で高度を変えている。
生体反応を追っている。
だが、地形情報は完全ではない。
「……川面の反射か」
エリオが呟いた。
彼は銃口を追跡機ではなく、川面へ向けた。
撃つ。
水が弾けた。
光と水しぶきが広がり、追跡機のセンサーが一瞬乱れる。
その隙に、桜夜の影が伸びた。
追跡機を掴み、川へ叩き落とす。
機械は水の中で火花を散らし、流れに飲まれて消えた。
静寂。
川の音だけが戻ってくる。
「やるな」
桜夜が息を切らしながら言った。
エリオは銃を下ろした。
「アダムが見ろと言ったので」
「いい騎士だ」
「私はもう騎士では」
「なら、いい奴だ」
エリオは言葉に詰まった。
イヴが振り返る。
「二人とも、いいから早く渡って!」
その声に、全員が再び動き出した。
川を渡り終えたとき、アダンは膝をついた。
アダムを下ろさないよう必死に支える。
イヴが駆け寄った。
「アダム!」
「大丈夫」
「嘘」
「少し嘘」
「だめ!」
イヴはアダムの顔を覗き込んだ。
彼は汗をかいていた。
唇の色も悪い。
だが、目はまだ開いている。
「エリオさん、すごかったね」
「今それ?」
「うん」
エリオは近づき、少し気まずそうに言った。
「あなたのおかげです」
「ぼくは見てって言っただけ」
「それが助かりました」
「じゃあ、よかった」
アダムは小さく笑った。
その笑顔を見て、エリオは胸が痛んだ。
この少年は、弱い。
傷つき、熱を出し、歩くこともできない。
それなのに、ときどき誰より遠くを見る。
命令ではなく、目の前を見る。
それはエリオにとって、まだ慣れない生き方だった。
◇◇◇
その夜、彼らは川沿いの岩陰で休んだ。
火は小さくした。
煙が上がらないよう、湿った枝は避けた。
アダムは眠っている。
イヴはその横で薬草を煎じていた。アダンと桜夜が採ってきたものだ。苦い匂いがする。
「これ、飲めるのか?」
エリオが尋ねる。
「飲ませます」
「味は」
「たぶん最悪です」
「たぶん禁止では」
「これは確信に近いたぶんです」
エリオは少し笑った。
自分が笑ったことに、自分で驚いた。
少し前までなら、逃亡中に笑うなど考えられなかった。
だが、この集団では誰かが必ず変なことを言う。
そして、その変な言葉に少し救われる。
アダンは離れたところで剣の手入れをしていた。
桜夜は木にもたれて目を閉じている。
秘書は端末を分解し、通信遮断装置を組み直している。
騎士たちは交代で見張りに立っていた。
そのうちの一人、まだ若い騎士がイヴに近づいた。
「手伝えることはありますか」
「名前は?」
イヴが尋ねた。
若い騎士は少し驚いた。
「名前、ですか」
「はい。手伝ってもらうなら名前で呼びたいので」
「……リオルです」
「じゃあ、リオルさん。この布を煮沸してください」
「はい」
リオルは鍋を受け取った。
その手は緊張していた。
イヴは少し考えてから言った。
「リオルさん」
「はい」
「怖いですか」
リオルは一瞬迷った。
騎士としては、恐怖を口にするべきではない。
そう教えられてきたのだろう。
けれど、彼は小さく頷いた。
「怖いです」
「わたしもです」
リオルは目を見開いた。
「あなたも?」
「怖いです。ずっと」
「でも、平気そうに」
「平気なふりが少し上手いだけです」
イヴはアダムを見た。
「アダムのほうが正直です。痛いって言うし、怖いって言うし、わからないって言うから」
「弱く見えませんか」
「見えます」
イヴは即答した。
「でも、弱いところを隠して強いふりをしている人より、手を伸ばしやすいです」
「手を伸ばしやすい」
「はい。助けてって言ってくれたほうが、助けられるから」
リオルは黙った。
やがて、小さく言った。
「私は、助けてと言ったことがありません」
「じゃあ、練習します?」
「練習?」
「はい。ここ、そういう変な場所なので」
リオルは困惑していた。
だが、しばらくして、本当に小さな声で言った。
「……助けて」
イヴは頷いた。
「はい」
「これで、いいのですか」
「たぶん」
「あ」
「今のは便利なたぶんです」
リオルは少しだけ笑った。
その笑いはぎこちなかった。
けれど、確かに笑いだった。
火の向こうで、アダムが眠ったまま少しだけ口元を緩めた。
聞こえていたのかもしれない。
あるいは、夢の中で誰かに会っているのかもしれない。
◇◇◇
深夜、アダムは目を覚ました。
周囲は静かだった。
イヴは彼の隣で眠っている。座ったまま、彼の手を握っていた。いつものように無理な姿勢だ。
アダムはその手をそっと見た。
細い手。
自分を支え、叱り、背負い、守ってくれる手。
いつかこの手が、自分たちの子どもを抱くのだろうか。
そう思った瞬間、胸が熱くなった。
同時に、怖くなった。
子ども。
まだいない誰か。
望んでしまった誰か。
その子は、自分たちの世界に生まれてきて幸せだと思うだろうか。
それとも、なぜ生んだのかと責めるだろうか。
アダムは目を閉じた。
夢の中で、サタンに会った気がした。
火のそばに座り、いつものように困ったような顔で笑っていた。
『怖いか、アダム』
夢の中のサタンは言った。
『怖いよ』
『なら、怖いまま行け』
『それでいいの?』
『怖くない者に、命を預けるな』
『どうして』
『怖がる者は、失う痛みを知っている。痛みを知る者は、軽く扱わない』
サタンは火に薪をくべた。
『だが、怖さだけに従うな。怖さは時に、愛を閉じ込める』
『愛?』
『お前がイヴと子を望むことも、怖さも、どちらも本当だ。どちらかを殺すな』
『じゃあ、どうすればいいの』
サタンは笑った。
『私にもわからん』
『サタンも?』
『ああ。わからないことは多い』
アダムは夢の中で少し笑った。
『でもな、アダム』
サタンは続けた。
『わからないまま、誰かの手を握ることはできる』
そこで目が覚めた。
アダムは隣のイヴを見た。
彼女は眠っている。
手はまだつながっている。
「イヴ」
小さく呼ぶ。
起こすつもりはなかった。
けれど、イヴはすぐに目を開けた。
「なに」
「ごめん、起こした」
「いい」
「寝てて」
「あなたが起きたなら起きる」
「それ、身体に悪いよ」
「あなたに言われたくない」
「うん」
イヴは彼の額に触れた。
「少し下がった」
「熱?」
「うん」
「よかった」
「まだ安心できない」
「うん」
アダムは少し黙った。
それから言った。
「夢を見た」
「サタン?」
「うん」
「何て?」
「わからないまま、手を握ることはできるって」
イヴは目を伏せた。
「サタンらしい、のかな?」
「うん」
「それで?」
「イヴの手、握ってた」
「今も握ってる」
「うん」
「離す?」
アダムは首を振った。
「離さない」
「よし」
イヴは小さく笑った。
アダムはその笑顔を見て、胸の奥に小さな決意が生まれるのを感じた。
「イヴ」
「なに」
「アララトに着いたら、ちゃんと話そう」
「何を?」
「子どものこと」
イヴの目が揺れた。
「うん」
「薬のことも。研究のことも。怖いことも。望んでいることも」
「うん」
「答えを急がないで」
「うん」
「でも、逃げないで」
イヴは彼の手を握り返した。
「一緒に考える」
「うん」
「怖いまま」
「うん」
「もし、泣いたら?」
「抱きしめる」
「怒ったら?」
「聞く」
「わからなくなったら?」
「手を握る」
アダムは安心したように息を吐いた。
「それなら、少し進める気がする」
「少し?」
「うん。少しだけ」
「それでいいよ」
イヴは言った。
「神様じゃないから」
アダムは笑った。
「便利な言葉」
「でしょ」
二人はしばらく手を握っていた。
火は小さく揺れている。
川の音が遠くで聞こえる。
森は暗い。
追手は来る。
アララトに何があるのかはわからない。
それでも、今この瞬間だけは、二人の間に静かな夜があった。
◇◇◇
翌朝、霧の向こうに山影が見えた。
最初に気づいたのは秘書だった。
「前方、地形上昇。自然山脈ではなく、人工構造物の可能性があります」
「人工の山?」
エリオが聞き返す。
「はい。旧時代の隔離施設は、外部観測を避けるため地形偽装を行うことがありました」
イヴは目を凝らした。
森の向こうに、確かに何かがある。
山のように見える。
けれど、輪郭が少しだけ不自然だった。
木々に覆われているが、その下に巨大な壁があるようにも見える。
アダムがアダンの背で目を開けた。
「アララト?」
「まだわからない」
イヴが答える。
「でも、近い?」
「たぶん」
「便利なほう?」
「かなり便利なほう」
アダムは小さく笑った。
アダンは黙って山影を見ていた。
その顔には、警戒と、別の感情が混じっていた。
「父さん」
アダムが呼ぶ。
「何だ」
「あそこ、知ってる?」
「記録でしか知らない」
「怖い?」
アダンは少しだけ沈黙した。
そして答えた。
「ああ」
アダムはその答えに、少し驚いた。
アダンが怖いと言うのは、初めて聞いた気がした。
「そっか」
「お前は?」
「怖い」
「だろうな」
「でも、見たい」
「知っている」
アダンは歩き出した。
「だから連れていく」
その背中は大きかった。
サタンとは違う。
イヴとも違う。
けれど、今はアダムを背負っている。
それだけで、確かな背中だった。
山影へ近づくにつれ、森の様子は変わっていった。
木々の幹に、古い金属の管が絡んでいる。
地面には割れた透明な板が埋まり、ところどころ淡い光を放っていた。
そして、巨木の根元に、古い碑があった。
苔を払うと、文字が現れた。
生命保存区画。
立入禁止。
統一議会封鎖指定。
その文字を見て、誰もすぐには話さなかった。
ついに着いた。
アダムが望み、恐れた場所。
命をつなぐ研究が眠る場所。
未来を開くかもしれない場所。
未来を壊すかもしれない場所。
イヴがアダムの手を握った。
「着いたね」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「わたしも」
「でも」
「うん」
二人は同時に言った。
「見よう」
アダンが剣を抜いた。
エリオも銃を構える。
秘書が封鎖扉の制御盤へ向かう。
桜夜は影を足元に広げた。
巨大な偽装岩壁の奥で、古い扉が眠っている。
長い間、誰にも開かれなかった扉。
生まれてくることを罪とした世界が、かつて生まれることを守ろうとした場所。
秘書の光糸が制御盤に入り込む。
低い音がした。
扉が、目覚め始めた。
アダムは胸元の木の鳥を握った。
「ノア」
彼は小さく呟いた。
「山に着いたよ」
風が吹いた。
木々がざわめいた。
扉の隙間から、冷たい空気が漏れ出す。
それは死の匂いではなかった。
長い眠りの匂いだった。
そして、その奥から。
かすかに、機械の声が聞こえた。
『生体反応を確認』
全員が身構えた。
声は続いた。
『保護対象、未登録』
『妊娠機能回復区画、再起動準備中』
イヴの手が震えた。
アダムも息を呑んだ。
扉がゆっくりと開いていく。
アララトが、彼らを迎え入れようとしていた。




