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第14話 眠れる山

 アララトの扉が開いた。


 その奥には、長い廊下が続いていた。


 白い廊下だった。


 だが、統一議会の白とは違う。あちらの白は、汚れを許さない白だった。ここにある白は、長い時間の中で埃をかぶり、ひび割れ、ところどころ苔の緑に侵されている。


 生きようとして、眠らされた白。


 そんなふうに、アダムには見えた。


『保護対象、未登録』


 機械の声が、天井から降ってくる。


『登録情報を照合中』


『照合失敗』


『外部管理者権限、応答なし』


 秘書が端末を見つめた。


「施設の管理中枢は一部生きています。ただし、かなり混乱しています」


「攻撃してくるか」


 アダンが尋ねる。


「現時点では不明です」


「不明が多いな」


「アララト側も、私たちをどう扱うべきかわからないようです」


 アダムはアダンの背で小さく呟いた。


「ぼくたちと同じだ」


「何がだ」


「わからないまま、起きた」


 アダンは返事をしなかった。


 だが、少しだけ背中の力が抜けた。


 イヴはアダムの隣を歩いていた。


 アララトに入ってから、彼女はずっと緊張している。無理もなかった。ここは、彼らが望んでしまったものに近すぎる場所だ。


 子を持つこと。


 命をつなぐこと。


 エデンで罪とされる願い。


 その願いを可能にするかもしれない研究が、この山の奥に眠っている。


 イヴは胸元に手を当てた。


 自分の身体の奥にあるはずの、けれど壊された機能。


 本人の意思など関係なく奪われた未来。


 それを取り戻せるかもしれない。


 そう思った瞬間、喜びより先に恐怖が来た。


 本当に取り戻していいのか。


 取り戻した先に、自分は何を望むのか。


 アダムと子を持つことを。


 自分は、どこまで本気で考えているのか。


「イヴ」


 アダムが呼んだ。


「なに」


「手」


 イヴは少し驚いた。


 彼はアダンの背中から、弱く手を伸ばしている。


 イヴはその手を握った。


「冷たい」


 アダムが言った。


「あなたが熱いの」


「そっか」


「怖い?」


「怖い」


「ぼくも」


「知ってる」


「一緒だね」


「うん」


 イヴは彼の手を握りしめた。


 その手の熱が、怖さの中に少しだけ道を作ってくれた。


 ◇◇◇


 廊下の先には、大きな吹き抜けがあった。


 天井は高く、見上げると人工の空が映し出されている。


 青ではない。


 夜明け前の淡い紫だった。


 壁に沿って、透明な容器がいくつも並んでいる。多くは割れ、空になっていた。中には乾いた管や、朽ちた布のようなものが残っている。


 アダムはそれを見て、息を呑んだ。


「ここは」


 秘書が表示を読む。


「人工子宮観察区画。旧時代、重度障害や外傷により自然妊娠が困難な者のため、体外発生技術の研究が行われていたようです」


「体外発生」


 エリオが繰り返す。


「母体の外で、子どもを育てる技術か」


「記録上は、そのようです」


 イヴは透明な容器の一つに近づいた。


 中は空だった。


 けれど、かつてそこに誰かがいたのかもしれない。


 生まれようとしていた誰か。


 守られようとしていた誰か。


 あるいは、守られなかった誰か。


 イヴは容器に触れた。


 冷たかった。


「ここで、子どもを育てようとしていたの?」


「はい」


 秘書が答えた。


「しかし、研究は中断されています。理由は不明ですが、統一議会の封鎖命令と時期が一致します」


「つまり、議会が止めた」


 エリオの声が硬くなった。


「可能性が高いです」


 エリオは唇を噛んだ。


 彼は統一議会の騎士だった。


 苦痛を減らすために、命を閉じる法を守ってきた。


 だがこの場所は、かつて命を守ろうとしていた。


 そのどちらも、同じエデンの歴史だった。


「なぜ」


 エリオは呟いた。


「なぜ、ここを残したんだ。危険思想なら、破壊すればよかったはずだ」


 桜夜が答えた。


「破壊できなかったのかもしれない」


「技術的に?」


「あるいは、心情的に」


 エリオは桜夜を見た。


 桜夜は割れた容器を見つめていた。


「命を否定する者ほど、命を恐れる。恐れるものは、時に捨てきれない」


 アダンが低く言った。


「議会は、この技術を憎みながら、必要としていた可能性がある」


「何のために」


「救済のためだ」


 アダンの顔は険しかった。


「苦痛をなくすために命を閉じる。その思想は、一見すると終わりへ向かう。だが、完全な終わりを選べない者たちもいる。自分たちだけは残り、管理し、正しい滅びを導こうとする者たちだ」


「矛盾してる」


 イヴが言った。


「そうだ」


 アダンは短く答えた。


「だが、矛盾しているからこそ恐ろしい」


 アダムは透明な容器を見つめていた。


 ここには、いくつもの可能性が眠っていた。


 生まれなかった子どもたち。


 生まれることを止められた未来。


 アダムは胸元の木の鳥を握った。


「ノア」


 小さく呟く。


「ここにも、舟があったんだね」


 誰もその言葉を否定しなかった。


 ◇◇◇


 さらに奥へ進むと、中央制御室があった。


 そこだけは、他の区画よりもよく保存されていた。


 円形の部屋。


 中央に古い操作卓。


 壁面には無数の記録媒体。


 そして奥に、一つの端末が光っている。


『管理者不在』


『保護対象未登録』


『緊急保全モード継続中』


 機械の声が繰り返す。


 秘書が端末へ接続した。


 光糸が細く伸び、古い回路の中へ入っていく。


 しばらくして、壁面に映像が浮かび上がった。


 古い記録だった。


 白衣を着た人々が映っている。


 今よりもずっと昔のヒューマノイドたち。


 彼らの顔には疲れがあった。


 だが、目は死んでいなかった。


『記録、生命保存区画、最終報告』


 映像の中の女性研究者が言った。


『統一議会は本日、妊娠機能回復研究および人工子宮研究の永久凍結を決定した。理由は、未来世代への苦痛拡散を防ぐためである』


 イヴの手に力が入った。


 アダムも息を止めた。


『我々は議会の判断に反対する。生きることに苦痛が伴うのは事実である。しかし、苦痛があることは、命を生み出す可能性そのものを否定する理由にはならない。苦痛を減らす技術、社会、関係性を作ることこそが、我々の研究目的であった』


 アダムは目を見開いた。


 それは、彼が言ってきたことに似ていた。


 自分よりずっと前に、同じように考えた人たちがいた。


 孤独ではなかった。


 サタンだけではなかった。


 イヴだけではなかった。


 この世界には、かつて同じ問いを抱えた者たちがいた。


 映像の女性は続ける。


『この施設は封鎖される。だが、我々はすべてを破棄しない。未来に、再び問いを抱く者が現れることを信じる』


 桜夜が目を細めた。


 アダンは動かなかった。


 エリオは黙って拳を握っていた。


『もしこの記録を見ている者がいるなら、覚えていてほしい。命を望むことは、軽いことではない。だが、命を望む心を罪として封じることもまた、軽いことではない』


 アダムの目から涙が落ちた。


『どうか、簡単に答えを出さないでほしい。生むことも、生まないことも、どちらも人の尊厳に関わる選択である。恐怖だけで閉じず、欲望だけで進まず、愛という言葉だけに酔わず、苦痛という言葉だけに屈しないでほしい』


 イヴは震える声で言った。


「アダム」


「うん」


「同じだね」


「うん」


 映像の女性は、最後に少しだけ微笑んだ。


 疲れた、けれど優しい笑みだった。


『我々は、未来のあなたたちに答えを残せない。ただ、問いを残す。どうか、それを殺さないで』


 映像はそこで途切れた。


 制御室には、長い沈黙が落ちた。


 アダムは泣いていた。


 声を出さずに、ただ涙を流していた。


 イヴはその手を握った。


「アダム」


「……ぼく、ひとりじゃなかった」


「うん」


「サタンだけじゃなかった」


「うん」


「ずっと前にも、考えてくれた人がいた」


「うん」


「でも、負けたんだね」


 その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。


 研究者たちは問いを残した。


 けれど、施設は封鎖された。


 統一議会は反出生主義法を強めた。


 多くの人が生まれる可能性を奪われた。


 その意味では、彼らは負けたのかもしれない。


 だが、記録は残っていた。


 施設も残っていた。


 そして今、アダムたちがここにいる。


「完全には、負けていない」


 アダンが言った。


 アダムは彼を見た。


 アダンは映像の消えた壁を見つめていた。


「少なくとも、問いは残った。お前がここへ来た」


 アダムの涙がまた落ちた。


「父さん」


「何だ」


「ぼく、見たい」


「何を」


「この施設が、何を残したのか」


 アダンは少しの間黙った。


 それから頷いた。


「わかった」


 ◇◇◇


 秘書が記録を解析した。


 残っていた資料は膨大だった。


 妊娠機能回復薬。


 避妊手術後の組織再生。


 人工子宮。


 胎児期の苦痛反応の低減。


 出生後の心理的支援。


 親になる者への教育。


 孤立家庭を防ぐ共同養育制度。


 それは、ただ子どもを生ませるための研究ではなかった。


 生まれたあと、ひとりにしないための研究だった。


「すごい」


 イヴは小さく言った。


 秘書が画面を切り替える。


「ただし、未完成のものが多いです。安全性も不明です。実用化には時間と検証が必要です」


「今すぐ使えるものは」


 アダムが尋ねる。


 秘書は少し沈黙した。


「一部あります」


 イヴの手が強張った。


 アダムの呼吸も止まる。


「妊娠機能回復の基礎処置。人工子宮の初期再起動。生殖細胞保存機能。ですが、どれも危険を伴います。特にイヴ様の身体状態は、詳細な検査なしに判断できません」


 イヴはうつむいた。


 アダムはすぐに言った。


「使わない」


 イヴが顔を上げた。


「アダム」


「今は使わない」


「でも」


「イヴの身体を危険にしたくない」


「わたしの身体のことは、わたしが決める」


「うん」


 アダムは頷いた。


「だから、イヴがちゃんと決められるようになるまで使わない」


 イヴは言葉を失った。


 アダムは続けた。


「怖いまま考えるって言った。急がないって言った。ここに来たからって、すぐに答えを出したら、ぼくは欲望だけで進むことになる」


「欲望」


「イヴとの子どもがほしい」


 アダムははっきり言った。


 部屋の空気が少しだけ揺れた。


 イヴの頬が赤くなる。


 けれど、彼は目をそらさなかった。


「それは本当。でも、イヴに生きていてほしいのも本当。子どもが苦しむかもしれないのが怖いのも本当。だから、今すぐは決めない」


 イヴの目に涙が浮かんだ。


「ずるい」


「え?」


「そんなふうに言われたら、怒れない」


「怒ってもいい」


「怒らない」


「そっか」


 イヴはアダムの手を強く握った。


「でも、わたしも言う」


「うん」


「わたしも、あなたとの子どもを考えたい」


 アダムは息を止めた。


「うん」


「でも、怖い。すごく怖い。わたしの身体も、子どもの未来も、あなたを失うことも、全部怖い」


「うん」


「だから、今すぐじゃない」


「うん」


「でも、逃げない」


 アダムは泣きながら笑った。


「うん」


 桜夜は少し離れたところで、その二人を見ていた。


 静かな目だった。


 どこか遠くを見るような目でもあった。


 秘書はその横顔を見た。


「桜夜様」


「何だ」


「体調が悪化しています」


「わかっている」


「休息を推奨します」


「あとでな」


「その返答は信用できません」


「だろうな」


 桜夜は軽く笑った。


 だが、その笑いのあと、わずかに咳き込んだ。


 黒い影が足元で小さく揺れた。


 秘書はそれを見逃さなかった。


 ◇◇◇


 制御室の奥には、さらに深い区画へ続く扉があった。


 そこには短い文字が刻まれていた。


 保育記録室。


 イヴが立ち止まる。


「保育?」


 秘書が端末を見る。


「出生後の成育記録を保管した区画のようです」


「生まれた子が、いたの?」


「可能性があります」


 アダムはアダンの背で身体を強張らせた。


「見たい」


 イヴも頷いた。


「わたしも」


 アダンは何も言わず、扉の前に立った。


 秘書がロックを解除する。


 扉が開く。


 そこは、小さな部屋だった。


 制御室や人工子宮区画とは違う。


 壁には色あせた絵が貼られていた。


 丸い太陽。


 青い空。


 奇妙な形の動物。


 小さな手形。


 床には古い積み木が散らばっている。


 そして中央に、低い棚があった。


 棚には、いくつもの記録板が並んでいる。


 秘書が一つを起動した。


 映像が浮かぶ。


 小さな子どもが笑っていた。


 まだ言葉もはっきりしない幼い子。


 誰かが名前を呼ぶ。


『カナ』


 子どもは笑う。


 次の記録では、別の子が積み木を積んでいた。


『ノル。上手だね』


 また別の記録では、数人の子どもが手をつないで歩いていた。


 アダムは息をするのを忘れた。


 子ども。


 本物の子どもたち。


 管理施設の資料ではなく、議会の数字でもなく、思想の象徴でもなく、そこにいた誰か。


 笑っている。


 泣いている。


 転んでいる。


 誰かに抱き上げられている。


「生きてた」


 アダムは呟いた。


「ここで、子どもたちが生きてた」


 イヴは口元を押さえた。


 涙がこぼれていた。


「かわいい」


 それは、ごく普通の言葉だった。


 けれどエデンでは、あまりにも危険な言葉だった。


 アダムは映像を見つめた。


 胸の奥が痛い。


 苦しい。


 でも、その苦しみは嫌ではなかった。


 子どもたちは、やがてどうなったのだろう。


 封鎖されたとき、守られたのか。


 どこかへ移されたのか。


 それとも。


 考えたくない想像が頭をよぎる。


 アダムの手が震えた。


 イヴが握る。


「今は、見よう」


「うん」


「なかったことにしないために」


「うん」


 記録は続いた。


 子どもたちの笑い声が、眠っていた部屋に戻ってくる。


 長い年月を越えて。


 アララトの山の奥で。


 失われたはずの声が、もう一度響いた。


 そのとき、端末が別の記録を読み込んだ。


 映像が乱れる。


 部屋の空気が変わった。


 映ったのは、先ほどの女性研究者だった。


 だが、顔色が悪い。


 背後では警報が鳴っている。


『封鎖命令が実行された。子どもたちの移送は間に合わない』


 イヴの顔から血の気が引いた。


 アダムの呼吸が乱れる。


『我々は、保育区画の子どもたちを低温休眠へ移行する。これは議会命令に反する行為である。しかし、処分させるわけにはいかない』


 エリオが目を見開いた。


「低温休眠」


 秘書がすぐに端末を操作した。


「待ってください。保育記録室の奥に、休眠区画の接続記録があります」


 映像の女性は続ける。


『未来に誰かがこの施設を開くなら、どうか子どもたちを見つけてほしい。我々の願いは、彼らが必ず生きるべきだと押しつけることではない。ただ、処分ではなく、目覚める可能性を残したい』


 映像の中で、女性は泣いていた。


『どうか、彼らをひとりにしないで』


 映像はそこで途切れた。


 部屋は静まり返った。


 イヴは震える声で言った。


「子どもたちが、まだいるの?」


 秘書は端末を見つめていた。


 その表情は変わらない。


 だが、声は少しだけ低かった。


「休眠区画の生命維持信号を検出しました」


 アダムは息を呑んだ。


「生きてる?」


「微弱ですが、生体反応があります」


「何人」


 秘書は沈黙した。


 その沈黙が、答えの重さを示していた。


「二人です」


 イヴの手が震えた。


「二人」


「はい」


「子ども?」


「記録上、封鎖当時の年齢は一歳未満。低温休眠が正常に維持されていれば、肉体年齢はほぼ変化していないはずです」


 アダムは目を閉じた。


 二人。


 眠っている子ども。


 遠い昔に処分から隠され、未来に託された命。


 アララトは、研究だけを残したのではなかった。


 命そのものを残していた。


 アダンが低く言った。


「場所は」


 秘書が奥の扉を指した。


「この先です」


 イヴはアダムを見た。


 アダムもイヴを見た。


 問いが、形を持って目の前に現れた。


 まだ生まれていない誰かではない。


 もう生きている誰か。


 眠っている誰か。


 そして、目覚めれば苦しむかもしれない誰か。


「アダム」


 イヴの声は震えていた。


「どうする?」


 アダムは答えられなかった。


 目覚めさせることは、彼らを苦痛のある世界へ戻すことだ。


 眠らせ続けることは、彼らの時間を奪い続けることだ。


 処分することは、論外だった。


 でも、どれが正しいのか。


 わからない。


 わからない。


 わからない。


 アダムは泣きそうになった。


「……見よう」


 彼はようやく言った。


「まず、会おう」


 イヴは頷いた。


「うん」


 アダンが歩き出した。


 扉が開く。


 その向こうは冷たい部屋だった。


 白い霧が床を這っている。


 中央に、二つの透明なカプセルが並んでいた。


 小さな身体が眠っていた。


 二人の赤子。


 一人は小さな拳を胸元で握り。


 もう一人は、眠りながら泣きそうな顔をしていた。


 イヴは息を止めた。


 アダムは声を失った。


 木の鳥が、彼の胸元で小さく揺れた。


 サタンの話したノアの箱舟。


 洪水を越えて、命を運んだ舟。


 アララトの山にたどり着いた舟。


 その山の奥で、彼らは見つけた。


 未来へ運ばれてきた、小さな命を。


 機械の声が静かに告げた。


『保護対象二名、生命維持継続中』


『覚醒判断を要求します』


 アダムはイヴの手を握った。


 イヴも握り返した。


 答えはまだない。


 けれど、もう逃げることはできなかった。


 二人の命が、彼らの前で眠っていた。


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