第15話 眠る子どもたち
誰も、すぐには答えられなかった。
冷たい部屋の中で、二つのカプセルだけが静かに光っている。
白い霧が床を這い、機械の低い音が一定の間隔で響いていた。眠っている赤子たちは、その音に守られるように目を閉じている。
一人は、胸元で小さな拳を握っていた。
もう一人は、泣き出す直前のように眉を寄せていた。
アダムは息をするのも忘れていた。
生きている。
目の前に、子どもがいる。
まだ何も知らない子ども。
苦痛も、法も、罪も、思想も知らない子ども。
けれど、目覚めれば知ることになる。
この世界がどれほど残酷かを。
生まれてきたことそのものを罪と呼ぶ者たちがいることを。
自分たちを望まない世界があることを。
『覚醒判断を要求します』
機械の声がもう一度告げた。
イヴの手が震えていた。
彼女はアダムの手を握っている。だが、その震えはアダムにも伝わっていた。
「覚醒って」
イヴが掠れた声で言った。
「この子たちを、起こすってこと?」
「はい」
秘書が答えた。
「休眠状態を解除し、通常の生命活動へ移行させます。ただし、長期休眠後の覚醒には危険が伴います。肉体は維持されていますが、神経系や免疫機能に不安定な点がある可能性があります」
「起こさなかったら?」
エリオが聞いた。
秘書は端末を見た。
「生命維持装置は老朽化しています。現在も稼働していますが、部品劣化が進んでいます。長くは持ちません」
「どれくらい」
「正確な予測は困難です。数日か、数週間か。あるいは、次の再起動不良で停止する可能性もあります」
イヴは息を呑んだ。
起こすのは危険。
起こさないのも危険。
眠らせ続けることは、安全ではない。
ただ、決断を先延ばしにしているだけかもしれない。
アダンはカプセルを見つめていた。
彼の表情は硬い。
剣を握る手よりも、今の手のほうがずっと迷っているように見えた。
「処置の成功率は」
アダンが尋ねる。
「施設の記録上は高いです。ただし、保存期間が想定を大幅に超過しています」
「つまり」
「やってみなければわかりません」
イヴが小さく笑った。
笑える場面ではなかった。
けれど、笑うしかなかった。
「また、わからない」
アダムはカプセルの中の赤子を見つめたまま言った。
「うん」
「わからないことばっかりだね」
「うん」
『覚醒判断を要求します』
機械は待ってくれない。
いや、長い間待っていたのだ。
誰かが来るのを。
この子たちを見つける誰かを。
そして今、その誰かがアダムたちだった。
アダムは目を閉じた。
サタンなら、どうするだろう。
そう思って、すぐに首を振った。
違う。
サタンならどうするかではない。
自分がどうするかだ。
サタンはきっと、そう言う。
お前が見て、お前が選べ。
怖いまま。
イヴと一緒に。
「イヴ」
「なに」
「ぼくは、起こしたい」
イヴの手に力が入った。
アダムは続けた。
「怖い。すごく怖い。この子たちが目覚めたあと、苦しむかもしれない。ぼくたちは守りきれないかもしれない。起こさなければよかったって、いつか言われるかもしれない」
「うん」
「でも、このまま機械が壊れて死ぬのを待つことは、ぼくにはできない」
イヴは目を閉じた。
その目から涙が落ちた。
「わたしも」
彼女は言った。
「わたしも、起こしたい」
アダムはイヴを見た。
イヴは震えていた。
それでも、カプセルから目をそらさなかった。
「この子たちが生きたいかどうか、わたしたちにはわからない。でも、眠ったまま終わらせることを、この子たちは選べない。だったら、まず起こして、泣いたら抱きしめたい」
「うん」
「怖がったら、怖いねって言いたい」
「うん」
「いつか、生まれてこなければよかったって言われたら」
イヴの声が震えた。
「逃げずに聞きたい」
アダムはその手を握り返した。
「うん」
アダンが低く言った。
「覚醒させれば、議会に追われる理由が増える」
「うん」
「この二人を抱えて逃げることになる」
「うん」
「アダム、お前は重傷だ。イヴも限界に近い。桜夜も万全ではない。エリオたちも議会から追われている。現実的に考えれば、最悪の選択だ」
「うん」
「それでもか」
アダムはアダンを見た。
「父さんは、反対?」
アダンはしばらく黙った。
そして、カプセルの中の赤子を見た。
「……反対したい」
イヴの表情がこわばった。
だがアダンは続けた。
「この世界を知っているからだ。追われる苦しみも、失う苦しみも、守れない苦しみも知っている。だから、眠っているなら眠らせておけと言いたくなる」
アダンの声は低く、苦かった。
「だが、それは私の恐怖だ」
アダムは息を呑んだ。
「この子たちの意思ではない。私の恐怖で、この子たちの可能性を閉じることはできない」
アダンはアダムを見た。
「起こすなら、守るぞ」
「うん」
「私も背負う」
アダムの目が潤んだ。
「ありがとう、父さん」
「礼を言うのは、まだ早い」
エリオも一歩前へ出た。
「私も手伝います」
「エリオさん」
「騎士団で乳児保護の訓練は受けていません。ですが、警護ならできます」
イヴが少しだけ笑った。
「赤ちゃん、警護だけじゃ育たないですよ」
「学びます」
エリオは真面目に言った。
「怖いですが、学びます」
桜夜は壁にもたれたまま言った。
「では、決まりだな」
秘書が端末へ向き直る。
「覚醒処置を開始します」
イヴが深く息を吸った。
アダムも、アダンの背から身を乗り出すようにカプセルを見た。
機械の声が響く。
『覚醒判断、承認』
『保護対象二名、休眠解除処理を開始します』
カプセルの光が変わった。
青白い光から、少しだけ温かい色へ。
白い霧が濃くなり、管の中を液体が流れ始める。
小さな身体が、わずかに震えた。
イヴは両手を胸の前で握った。
「大丈夫」
誰に言ったのかわからなかった。
赤子にか。
アダムにか。
自分にか。
それとも、この場にいる全員にか。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
アダムが小さく続けた。
イヴは泣きながら笑った。
「そう」
処理は長く感じられた。
実際には数分だったのかもしれない。
けれど、アダムには永遠のようだった。
やがて、最初のカプセルが音を立てて開いた。
冷たい霧があふれる。
秘書が慎重に中へ手を伸ばした。
小さな赤子を抱き上げる。
胸元で拳を握っていた子だった。
赤子はしばらく動かなかった。
イヴの呼吸が止まる。
アダムも、全身が凍るようだった。
次の瞬間。
赤子が、小さく息を吸った。
そして、泣いた。
弱い声だった。
かすれていて、頼りなくて、今にも消えてしまいそうな声だった。
それでも、確かに泣いた。
イヴの目から涙がこぼれた。
「泣いた」
アダムが呟く。
「うん」
「生きてる」
「うん」
秘書が赤子をイヴへ渡した。
イヴは震える腕で受け取った。
あまりにも軽かった。
あまりにも小さかった。
けれど、温かかった。
赤子は泣いていた。
生きていることを、世界へ知らせるように。
「こんにちは」
イヴは泣きながら言った。
「怖かったね。寒かったね。もう、ひとりじゃないよ」
赤子は泣き続けた。
イヴはぎこちなく抱きしめた。
自分の腕の中に命がある。
その重さに、膝が震えそうだった。
続いて、二つ目のカプセルが開いた。
今度はアダンが近くにいた。
眠りながら泣きそうな顔をしていた赤子。
その子は、なかなか呼吸をしなかった。
秘書が処置を行う。
小さな胸を確認する。
イヴは最初の赤子を抱いたまま、祈るように見ていた。
アダムは声も出せなかった。
アダンの拳が震える。
桜夜の影が、床で静かに揺れた。
エリオが息を止めている。
そして。
小さな口が開いた。
空気を求めるように、赤子が息を吸う。
すぐには泣かなかった。
だが、もう一度息を吸い。
それから、細い声で泣いた。
アダムは涙をこぼした。
「二人とも」
声が震えた。
「生きてる」
アダンはその赤子を見下ろしていた。
どうしていいかわからない顔だった。
「抱きますか」
秘書が尋ねた。
アダンは固まった。
「私が?」
「はい」
「いや、私は」
そのとき、アダムが言った。
「父さん」
アダンはアダムを見る。
「抱いてあげて」
アダンは何か言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
彼は剣を持つ手で、恐る恐る赤子を受け取った。
ぎこちなかった。
危なっかしかった。
イヴがすぐに言う。
「首、支えてください」
「こうか」
「もっと優しく」
「これ以上どう優しくする」
「力を抜いて」
「落とす」
「落とさない程度に」
「難しい」
アダンは本気で困っていた。
その姿を見て、アダムは泣きながら少し笑った。
アダンの腕の中で、赤子は泣いている。
その泣き声に、アダンの表情が崩れた。
「小さい」
彼は呟いた。
「こんなに、小さいのか」
アダムはその声を聞いて、胸が苦しくなった。
自分も、かつてはこんなに小さかったのだろう。
リリスに抱かれたのか。
アダンに抱かれたことはあったのか。
サタンに拾われたとき、自分はどんな声で泣いたのか。
そのすべては、もうわからない。
だが今、アダンは赤子を抱いている。
かつて抱けなかったものを、今度は落とさないように。
アダンの頬を、一筋の涙が伝った。
「私は」
彼は掠れた声で言った。
「私は、どこかの世界では、お前をこうして抱いたことがあったのだろうか」
アダムは答えられなかった。
アダンも答えを求めてはいなかった。
ただ、腕の中の赤子を見つめていた。
◇◇◇
二人の赤子は、しばらく泣き続けた。
それは制御室にいた全員を混乱させた。
戦闘には慣れている者たち。
追跡には慣れている者たち。
痛みや死には慣れてしまった者たち。
だが、赤子の泣き声には誰も慣れていなかった。
「どうすれば」
エリオが真剣な顔で言った。
「敵襲時より混乱しているな」
桜夜が言う。
「あなたも何とかしてください」
イヴが言うと、桜夜は少し首を傾げた。
「泣き止ませる影は持っていない」
「役に立たない」
「ひどいな」
秘書が記録を確認する。
「体温維持、栄養補給、皮膚接触が必要です」
「栄養って」
イヴが赤子を抱えたまま青ざめる。
「わたし、母乳なんて出ないよ」
「人工乳の製造装置があります」
「あるんですか」
「旧式ですが、稼働可能です。調整します」
「お願いします」
エリオがすぐに言った。
「私は何を」
「水を」
秘書が答える。
「温めるための清潔な水が必要です」
「わかった」
エリオは走り出しかけて、立ち止まった。
「清潔な水とは、どの程度の」
「こちらで滅菌します。まずは施設内の貯水槽を確認してください」
「了解」
エリオは数人の騎士を連れて出ていった。
イヴは赤子を抱きながら、少しだけ笑った。
「みんな、真面目」
「赤ちゃん相手に不真面目では困る」
アダムが言った。
「あなたは寝て」
「見てたい」
「またそれ」
「うん」
イヴは赤子を見下ろした。
泣いている。
顔を真っ赤にして、小さな手を動かしている。
その手が、イヴの服を掴んだ。
ほんの少し。
それだけで、イヴの胸がいっぱいになった。
「アダム」
「なに」
「掴まれた」
「うん」
「すごい」
「うん」
「わたし、この子に掴まれた」
アダムは微笑んだ。
「離せないね」
「うん」
イヴは赤子を抱きしめた。
怖い。
どうしようもなく怖い。
この子を守れるのか。
この子が苦しんだとき、どうすればいいのか。
自分に親のようなことができるのか。
何もわからない。
でも、今この小さな手が自分を掴んでいる。
それを振りほどくことだけは、できない。
アダンの腕の中の赤子も、少しずつ泣き声を弱めていた。
彼はまだぎこちなく抱いている。
だが、先ほどより少しだけ腕の形が安定していた。
アダムはその様子を見ていた。
「父さん」
「何だ」
「似合ってる」
アダンは顔をしかめた。
「からかうな」
「からかってない」
「なら余計に悪い」
イヴが笑った。
その笑いにつられたように、アダムも笑った。
肩が痛んで、すぐに顔をしかめる。
「痛い」
「ほら」
「でも、笑った」
「知ってる」
泣き声と笑い声が、アララトの休眠区画に混じった。
長い間、機械音しかなかった場所に、生活の音が戻ってきた。
◇◇◇
数時間後、赤子たちはようやく落ち着いた。
人工乳を飲み、体温を保たれ、柔らかい布に包まれて眠っている。
一人はイヴの腕の中。
もう一人は、アダムの横に置かれた簡易寝台に眠っていた。
アダムはその寝顔を見つめていた。
触れるのが怖かった。
壊してしまいそうだった。
だが、指先をそっと伸ばすと、赤子の小さな手が動いた。
アダムの指を握る。
ほんの弱い力。
けれど、確かに握られた。
アダムは息を止めた。
「イヴ」
「なに」
「握られた」
「わたしも」
「すごいね」
「うん」
「生きてるね」
「うん」
二人はしばらく黙っていた。
ただ、赤子たちを見ていた。
やがて、イヴが言った。
「名前」
アダムは彼女を見た。
「名前?」
「呼ぶ名前がないと、困るでしょ」
「そうだね」
「記録には?」
秘書が端末を確認する。
「休眠区画の保護対象名は、封鎖直前に削除されています。識別番号のみ残っています」
「番号じゃ、嫌」
イヴは即答した。
「名前をつけよう」
アダムは頷いた。
「うん」
「何がいい?」
アダムは赤子たちを見た。
二人。
眠りを越えてきた二人。
アララトの山に運ばれてきた、小さな命。
サタンから聞いた地球の物語が、胸に浮かぶ。
アダム。
イヴ。
そして、その子どもたち。
その名前には、重さがあった。
悲しみもあった。
けれど、この世界ではまだ語られていない未来もあった。
「カイン」
アダムは言った。
イヴが息を呑む。
「もう一人は、アベル」
「地球の物語の?」
「うん」
「でも、その名前って」
イヴは途中で口を閉じた。
サタンから聞いた地球の物語。
最初の兄弟。
その物語の結末。
兄が弟を殺すという、悲しい物語。
「怖い名前かもしれない」
アダムは言った。
「でも、だからこそ、別の物語にしたい」
「別の?」
「この世界のカインとアベルは、殺し合わないように。憎しみだけを受け継がないように。ぼくたちが、ちゃんと背負う」
イヴは赤子たちを見た。
カイン。
アベル。
まだ何も知らない二人。
名前の重さなど知らず、ただ眠っている。
「いい名前だと思う」
イヴは静かに言った。
「怖いけど」
「うん」
「でも、怖いまま呼ぼう」
「うん」
アダムは指を握っている赤子を見た。
「カイン」
その子は眠ったまま、小さく指を動かした。
イヴは腕の中の赤子にそっと言った。
「アベル」
アベルは小さく口を動かした。
泣きはしなかった。
ただ、イヴの胸に頬を寄せるように少し身じろぎした。
イヴは息を止め、それから柔らかく微笑んだ。
「よろしくね、アベル」
アダムはカインの小さな手を見つめた。
「よろしく、カイン」
アララトの山の奥で、二つの名前が生まれた。
それは、まだ誰にも知られていない始まりだった。
◇◇◇
だが、始まりはすぐに危険を連れてくる。
秘書の端末が警告音を発した。
「外部通信を検知」
アダンが顔を上げる。
「議会か」
「はい。アララト周辺の封鎖信号が再起動しました。施設の起動を検知された可能性があります」
エリオが戻ってきたばかりの騎士たちを見る。
「追手が来るのか」
「時間の問題です」
秘書は端末を操作しながら答えた。
「さらに、施設内部にも未確認区画があります。休眠区画の覚醒により、管理中枢が完全再起動しつつあります」
「攻撃してくる?」
イヴがアベルを抱きしめる。
「現時点では不明です。ただし、先ほどから管理中枢が同じ文言を繰り返しています」
「何て?」
秘書が少しだけ沈黙した。
そして、天井のスピーカーから機械の声が響いた。
『保護対象、二名覚醒』
『養育者登録、未完了』
『外部脅威、検知』
『保護機構、起動準備』
床の奥で、何かが動く音がした。
重い機械音。
眠っていた山が、さらに深く目を覚まそうとしている。
アダンが剣を抜いた。
「保護機構だと」
桜夜が影を広げようとして、わずかによろめいた。
秘書が彼を支える。
「桜夜様」
「問題ない」
「問題あります」
「あとで聞く」
「今聞いてください」
イヴは二人を見たあと、アダムへ視線を戻した。
アダムはカインの手を握っている。
その顔は青白い。
だが、目は開いていた。
「アダム」
「うん」
「どうする?」
アダムはカインを見た。
次に、イヴの腕の中のアベルを見た。
そして、アララトの天井を見上げた。
保護機構。
この施設は、子どもたちを守ろうとしている。
けれど、機械の守りは時に命を傷つける。
統一議会もまた、苦痛から守ると言って命を閉じた。
守るとは何か。
保護とは何か。
その問いが、また目の前に現れる。
「まず」
アダムは言った。
「この子たちの養育者登録をしよう」
イヴは目を見開いた。
「養育者」
「うん」
「わたしたちが?」
「嫌?」
イヴはアベルを見た。
小さな寝顔。
自分の服を掴む手。
胸の奥が震える。
「嫌じゃない」
「怖い?」
「怖い」
「ぼくも」
「でも」
二人は互いを見た。
そして、同時に頷いた。
「ひとりにしない」
秘書が端末を開いた。
「養育者登録を開始します。登録名を入力してください」
イヴの腕が震えた。
アダムは深く息を吸った。
「アダム」
イヴが続ける。
「イヴ」
少し遅れて、アダンが言った。
「アダンも入れろ」
アダムは驚いて父を見る。
アダンは目をそらした。
「二人だけでは無理だ」
エリオも前に出た。
「私も補助者として登録してください」
「エリオさんまで?」
「警護だけでは育たないので、学びます」
桜夜が笑った。
「では、私も入れておけ」
秘書が即座に言う。
「桜夜様はご自身の生命維持を優先してください」
「冷たいな」
「事実です」
アダムは少し笑った。
イヴも笑った。
こんな状況で笑えることが、不思議だった。
秘書は登録作業を進める。
『養育者登録、確認』
『主養育者、アダム、イヴ』
『補助養育者、アダン、エリオ』
『保護対象名、入力してください』
アダムとイヴは顔を見合わせた。
アダムが言う。
「カイン」
イヴが言う。
「アベル」
機械の声が応答した。
『保護対象名、カイン、アベル』
『登録完了』
その瞬間、部屋の灯りが変わった。
赤い警告灯が消え、淡い白に変わる。
床の奥で動いていた機械音が止まった。
代わりに、壁に新しい表示が浮かぶ。
養育支援モード、起動。
イヴは力が抜けそうになった。
「よかった」
しかし、安心するには早かった。
秘書の端末に、別の警告が走る。
「外部から高速飛行体が接近しています」
エリオが表情を硬くした。
「議会か」
「識別信号は統一議会。数は三」
アダンが低く言う。
「ここで迎え撃つしかないか」
イヴはアベルを抱きしめた。
アダムはカインの手を離さなかった。
アララトは子どもたちを保護対象として認めた。
けれど、世界はまだ認めていない。
生まれてくることを罪とする世界が、二人の目覚めを許すはずがない。
アダムは静かに言った。
「逃げない」
イヴが彼を見る。
「戦うの?」
「守る」
「同じことになるかもしれない」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「わたしも」
アダムはカインを見た。
イヴはアベルを見た。
二人は眠っている。
まだ何も知らない。
けれど、その小さな呼吸が、確かにここにある。
「この子たちに」
アダムは言った。
「最初に見る世界を、砲撃の光にしたくない」
アダンが剣を構えた。
「なら、防ぐ」
エリオも銃を手に取った。
「私も」
桜夜は影を広げ、秘書はアララトの防衛端末へ接続した。
イヴはアベルを抱きしめながら、アダムのそばに立つ。
機械の声が告げる。
『外部脅威、接近』
『養育者保護を開始します』
アララトの山が、目覚める。
眠っていた命を守るために。
アダムは胸元の木の鳥を握った。
「ノア」
彼は小さく呟いた。
「この子たちを、運ぼう」
遠くで、飛行艇の音が響いた。
アララトの外壁が震える。
新しい物語は、生まれたばかりで、もう追われていた。
それでも、カインとアベルは眠っていた。
小さな手を握りしめて。
まだ世界を知らずに。
その世界で、誰かが自分たちを守ろうとしていることも知らずに。




