第16話 バトン
アララトの外壁が震えた。
遠くから飛行艇の音が近づいてくる。
統一議会の白い影が、山の外を旋回していた。眠っていた施設が目覚め、カインとアベルが覚醒したことで、彼らはここを見つけたのだ。
アダムはカインの小さな手を握っていた。
イヴはアベルを抱いている。
二人とも、まだ眠っていた。世界がどれほど恐ろしい場所かも知らず、ただ小さな胸を上下させている。
『外部脅威、接近』
『養育者保護を開始します』
機械の声が繰り返した。
秘書は制御端末に手を当て、アララトの内部機能を確認していた。
「地下に緊急脱出装置があります」
「脱出装置?」
イヴが顔を上げる。
「旧時代の避難ポッドです。短距離移動用ですが、山の北側の峡谷まで射出できます。飛行艇の包囲を一時的に抜けられます」
「全員乗れるのか」
アダンが尋ねた。
秘書は一瞬だけ沈黙した。
「定員は限られています。アダム様、イヴ様、カイン、アベル、アダン様、エリオ様、騎士数名、私で限界です」
「桜夜は?」
アダムが言った。
桜夜は少し離れた場所で、壁にもたれていた。
いつものように笑っている。
けれど、顔色は白かった。
いや、白いというより、薄かった。
まるで、そこにいるための力を少しずつ失っているようだった。
「私は乗らない」
桜夜は静かに言った。
部屋の空気が止まった。
「何言ってるの」
イヴが声を上げる。
「乗らないって、どういうことですか」
「言葉通りだ」
「だめです」
「イヴ」
「だめです!」
イヴの声が震えた。
アベルが腕の中で小さく身じろぎする。
それでもイヴは桜夜から目をそらさなかった。
「ここまで来たのに。みんなで逃げるんでしょう。仮の家を、また作るんでしょう」
桜夜は困ったように笑った。
「私は、そこまで行けない」
「どうして」
アダムが尋ねた。
桜夜はアダムを見た。
その目は、いつになく静かだった。
「私は本物ではない」
誰も言葉を返せなかった。
「はじまりのものの模造品だ。短命に作られた。並行世界の私の名前を借りて、桜夜と名乗っている。だが、本当の名前すら知らない」
秘書が小さく息を呑んだ。
彼女だけは、薄々気づいていたのかもしれない。
桜夜の影が、足元で淡く揺れていた。
「ずっと、長くは持たないとわかっていた。アララトまで来られただけでも、少し予定外だ」
「予定外って」
アダムの声が震える。
「そんな言い方」
「悪い。便利な言葉が見つからない」
桜夜は少し笑った。
「でも、ここでなら時間を稼げる。アララトの防衛機構はまだ生きている。私の影とつなげば、飛行艇をしばらく足止めできる」
「そんなことをしたら」
秘書が言った。
「あなたは」
「消えるだろうな」
桜夜はあっさり言った。
あまりにも軽い言い方だった。
その軽さが、かえって重かった。
「私も残ります」
秘書が即座に言った。
「桜夜様を補助します」
「だめだ」
「命令権限はあなたにありません」
「ある」
桜夜の声が、初めて強くなった。
秘書は動きを止めた。
桜夜は彼女を見た。
「_____」
失われた言葉で、秘書の名前を呼ぶ。
「最後の命令だ」
「……はい」
「アベルたちを最後まで見守れ」
秘書の表情は変わらなかった。
けれど、その指先がわずかに震えた。
「アベルたち」
「カインも。アベルも。アダムもイヴも。行けるところまで、見届けろ」
「桜夜様」
「そして、もしアベルとイヴが子どもを作ったら」
イヴが息を止めた。
アダムも目を見開いた。
桜夜は続ける。
「その子を連れて、地球へ帰れ」
沈黙。
飛行艇の音だけが、遠くで響いている。
「地球へ?」
アダムが呟いた。
「エデンは長く持たない」
桜夜は言った。
「統一議会は強い。思想で勝てないなら、武力で潰す。武力で潰せないなら、星ごと潰す。あいつらはそこまで行く。平行世界の中には、統一議会により「宇宙そのもの」まで消滅した世界もある」
「そんなこと……」
誰かが言った「できるはずないと」。しかし桜夜の声は静かだった。
「苦痛をなくすためなら、苦しむ者そのものを消せばいい。彼らはそう考えている。すべての可能性を消し去る。それが統一議会の「正義」だ。私のオリジナルや、この星のサタンは、別の未来を見たかったようだがな」
アダムの胸が痛んだ。
サタン。
父。
ずっと先を見ていた人。
「勝てないなら」
桜夜は言った。
「せめて、バトンをつなげ」
「バトン」
「そうだ。誰かが全部を救う必要はない。神ではない者にできるのは、少しだけだ。少し守る。少し運ぶ。少し残す」
桜夜は秘書を見た。
「お前は運べ。最後の火を」
秘書は長く沈黙した。
そして、深く頭を下げた。
「命令を受諾します」
「いい子だ」
「子どもではありません」
「知っている」
桜夜は笑った。
その笑みは、いつものように軽かった。
けれど、少し寂しかった。
◇◇◇
緊急脱出装置は、アララトの最下層にあった。
古い射出ポッドが三基。
うち二基は故障していた。
使えるのは、一基だけだった。
秘書とエリオが急いで起動作業を行う。
アダンはアダムを支え、イヴはアベルを抱き、カインは騎士の一人が慎重に抱えていた。
アダムは何度も振り返った。
桜夜は制御室に残っている。
行かない。
来ない。
その事実が、アダムの胸を締めつけた。
「桜夜」
通信がつながった。
『何だ』
「怖くないの」
『怖い』
即答だった。
アダムは泣きそうになった。
「なら、一緒に」
『行けないと言っただろう』
「でも」
『アダム』
桜夜の声が少し柔らかくなった。
『お前は、見届けたいと言ったな』
「うん」
『なら、見届けろ。私の終わりではなく、お前たちの続きを』
アダムは言葉を失った。
『私は、私が何者か知らない。本当の名前も知らない。借り物の姿で、借り物の名を名乗っていた』
「それでも」
アダムは必死に言った。
「ぼくたちには、桜夜だった」
通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。
『そうか』
「うん」
『なら、十分だ』
桜夜の声は笑っていた。
『生まれてきた理由はわからなくても、出会えたことをなかったことにはしたくない。そう言ったのは、お前だろう』
「うん」
『私も、そう思う』
その瞬間、アララト全体が震えた。
外部からの砲撃が近い。
秘書が叫ぶ。
「射出準備完了。全員、搭乗してください」
「桜夜様」
秘書は通信に向かって言った。
「私は」
『命令を忘れるな』
「……はい」
『_____』
またアダムたちには聞き取れない言葉で秘書の名前を呼ぶ。
「はい」
『お前は最後まで見届けろ。記録ではなく、心で』
秘書は一瞬だけ目を伏せた。
「努力します」
『それでいい』
ポッドの扉が閉まり始める。
アダムは最後に叫んだ。
「桜夜!」
『何だ』
「ありがとう!」
通信の向こうで、桜夜が笑った気がした。
『どういたしまして』
ポッドの扉が閉じた。
外の音が遠くなる。
直後、強烈な衝撃が全員を襲った。
緊急脱出ポッドが、アララトの山腹から射出された。
◇◇◇
桜夜は一人、制御室に立っていた。
いや、一人ではなかった。
壁の中に眠るアララトの機械たちがいた。
遠い昔、子どもたちを守ろうとした研究者たちの記録があった。
そして、足元には自分の影があった。
薄くなり、今にも消えそうな影。
「さて」
桜夜は天井を見上げた。
外部映像には、統一議会の飛行艇が映っている。
白い機体。
整然と並ぶ砲口。
慈悲を掲げる殺意。
「少しだけ、遊んでいくか」
彼は制御卓に手を置いた。
影が広がる。
床を這い、壁を伝い、アララトの防衛機構へ入り込んでいく。
『未登録干渉を検知』
機械の声が告げた。
「登録しろ」
『認証不能』
「なら、覚えろ」
桜夜の影が、制御室全体を覆った。
古い砲台が起動する。
外壁が開く。
眠っていた防衛ドローンが、次々と目を覚ました。
統一議会の飛行艇が砲撃を開始する。
アララトの山肌が爆ぜる。
桜夜の身体が揺れた。
足元の影が千切れかける。
「痛いな」
彼は呟いた。
だが、笑っていた。
「これが、痛いということか」
自分は模造品だった。
短命だった。
本当の名前すら知らなかった。
けれど今、痛みがある。
誰かを行かせたいと思う心がある。
なら、それで十分ではないか。
生まれてきたことの意味など、最後までわからなかった。
だが、誰かを逃がす理由はあった。
飛行艇の一機が、アララトの防衛砲で撃ち抜かれた。
白い機体が炎を上げて落ちていく。
残る二機が高度を上げ、山を包囲する。
桜夜は膝をついた。
身体が透け始めていた。
影が薄い。
時間がない。
「_____」
届かない相手の名を呼ぶ。
「ちゃんと見届けろよ」
最後の砲撃が、制御室へ向かって放たれた。
白い光が迫る。
桜夜は目を閉じなかった。
彼は最後に、誰のものでもない名を捨てるように笑った。
「私は、何かになれたか……?」
光が、制御室を飲み込んだ。
◇◇◇
ポッドは峡谷へ墜落するように着地した。
着地というには乱暴だった。
内部の全員が壁に叩きつけられ、警告音が鳴り響く。
それでも、ポッドは壊れなかった。
秘書が最初に起き上がった。
「生存確認を開始します」
「アダム!」
イヴが叫ぶ。
「……いる」
アダムは弱く答えた。
「カインは」
「泣いてる!」
騎士が叫んだ。
「アベルは」
「泣いてる!」
イヴが泣きながら言った。
二人の赤子の泣き声が、狭いポッドの中に響いている。
うるさい。
苦しい。
怖い。
けれど、生きている音だった。
アダンも起き上がった。
「エリオ」
「生きています」
秘書が静かに言う。
「機能継続可能です」
「桜夜は」
アダムが言った。
誰も答えなかった。
秘書の端末に、アララトからの信号はもう届いていない。
山の方角で、巨大な光が上がった。
続いて、遅れて轟音が届く。
アララトが燃えていた。
アダムはポッドの小さな窓から、その光を見た。
「桜夜……」
声が震えた。
イヴはアベルを抱いたまま、アダムのそばに寄った。
アダムは泣いていた。
肩を震わせ、声を殺して泣いていた。
イヴは片手で彼の手を握った。
「行こう」
彼女は泣きながら言った。
「桜夜さんが、行かせてくれたから」
「うん」
「バトン、つながないと」
「うん」
アダムはカインを見た。
イヴの腕の中のアベルを見た。
そして、秘書を見た。
秘書はアララトの燃える方角を見ていた。
その表情は変わらない。
けれど、ほんの一瞬だけ、彼女の目に光が揺れた。
アダムが彼女に声をかける。
「ねえ」
「はい?」
「桜夜は、何て言ってた?」
秘書は少し沈黙した。
それから答えた。
「最後まで見届けろ、と」
「うん」
「記録ではなく、心で」
アダムは頷いた。
「じゃあ、お願い」
「はい」
秘書は深く頭を下げた。
「見届けます」
彼女の目には強い決意があった。彼女の主人はもういない。だが残されたものがある。彼女は、自分の腹部に少しだけ触れていた。だが、それに気づいたものはいなかった。
◇◇◇
そこからの逃亡は、長かった。
アララトを失った彼らは、森を抜け、渓谷を越え、地下水路へ潜った。
ノアの火は星のあちこちへ散っていた。
だが、統一議会の弾圧はそれ以上に速かった。
レナが向かった地下集落は、治療施設へ送られる者たちであふれた。
元騎士の廃鉱は包囲され、多くが捕らえられた。
老夫婦の隠れ家は密告により焼かれた。
それでも、火は完全には消えなかった。
誰かが誰かを隠した。
誰かが赤子の泣き声を聞いて、扉を開けた。
誰かがアダムの言葉を紙に書き写した。
生まれてきてよかったかは、まだわからない。
でも、出会えたことを、なかったことにはしたくない。
その言葉は、禁止されればされるほど、地下へ潜り、囁きになり、祈りになった。
統一議会は、それを苦痛の増殖と呼んだ。
そして、さらに強く弾圧した。
逃亡生活の中で、仲間は一人ずつ減っていった。
最初に倒れたのは、エリオだった。
地下水路の分岐で追手に追いつかれたとき、彼は数名の騎士とともに足止めを買って出た。
「先に行ってください」
エリオは言った。
アダムは首を振った。
「だめだ」
「だめでも、やります」
「エリオさん」
「あなたのせいで、私は考えることをやめられなくなった」
エリオは少し笑った。
「責任を取って、生きてください」
「一緒に」
「私は、ここで見ます」
「何を」
「自分が何をしているのかを」
エリオは銃を構えた。
その背中は震えていなかった。
追手の白い光が迫る。
エリオは振り返らなかった。
「行け!」
それが、彼の最後の声だった。
次にアダンが倒れた。
カインとアベルを抱えて山岳地帯を越える途中、統一議会の飛行艇に発見された。
アダンはアダムをイヴへ預け、カインを秘書に渡し、剣を抜いた。
「父さん」
アダムはその背中を見た。
サタンとは違う背中。
それでも、自分を背負ってくれた背中。
「だめ」
「行く」
「だめだ」
「お前は、だめが多いな」
アダンは少し笑った。
「私は多くを失った。多くを奪った。今さら償えるとは思わない」
「そんなこと」
「だが」
アダンはアダムを見た。
「お前を抱いた。カインを抱いた。アベルを見た。それだけで、私は少しだけ、生まれてきたことを呪わずに済んだ」
アダムは泣きながら首を振った。
「父さん」
「生きろ、アダム」
アダンは剣を構えた。
「今度こそ、父として命じる」
飛行艇の光が降り注いだ。
アダンは最後まで立っていた。
その背中が見えなくなるまで、アダムはイヴに引きずられるように走った。
◇◇◇
季節が変わった。
逃亡は終わらなかった。
カインとアベルは少しずつ大きくなった。
笑うようになり、泣くようになり、手を伸ばすようになった。
イヴの身体は、いつの間にか新しい命を宿していた。
それを知ったとき、アダムは泣いた。
嬉しさよりも先に、怖さが来た。
怖くて、怖くて、どうしようもなかった。
イヴも泣いた。
二人は抱き合って、しばらく何も言えなかった。
「どうしよう」
アダムが言った。
「わからない」
イヴが答えた。
「怖い」
「わたしも」
「でも」
「うん」
イヴは自分のお腹に手を当てた。
「この子も、ひとりにしない」
アダムはその手に自分の手を重ねた。
「うん」
「名前、考えなきゃ」
「まだ早いよ」
「でも、考えたい」
「じゃあ」
アダムは少し黙った。
そのとき、秘書が静かに言った。
「桜夜様の名を、いただいてはどうでしょう」
アダムとイヴは秘書を見た。
「桜夜さんの?」
「はい」
「サクラ」
イヴが小さく呟いた。
その響きは柔らかかった。
花のようで、夜明けのようで、どこか桜夜の笑い方にも似ていた。
「サクラ」
アダムも繰り返した。
「うん。いい名前だ」
秘書は目を伏せた。
「桜夜様も、喜ぶと思います」
「たぶん?」
アダムが尋ねる。
秘書は少しだけ考えた。
「はい。便利なほうの、たぶんです」
イヴは泣きながら笑った。
◇◇◇
サクラは、逃亡の途中で生まれた。
隠れ家とも呼べない岩穴だった。
外では雨が降っていた。
遠くで砲撃音が聞こえていた。
秘書が処置を行い、アダムがイヴの手を握り、カインとアベルは別の部屋で息をひそめていた。
イヴは何度も泣いた。
何度も叫んだ。
それでも、最後に小さな泣き声が響いた。
サクラは生まれた。
アダムとイヴの子ども。
桜夜の名を受け継いだ、ヒューマノイド。
イヴは震える腕でサクラを抱いた。
「こんにちは」
かつてアベルに言ったのと同じ言葉を、彼女は言った。
「怖かったね。もう、ひとりじゃないよ」
アダムは泣いていた。
「イヴ」
「なに」
「ありがとう」
「うん」
「ごめん」
「それは、あとで怒る」
「うん」
イヴは笑った。
だが、その笑顔はすぐに薄れた。
出血が止まらなかった。
秘書の手が、初めて震えた。
「イヴ様」
「わかってる」
イヴは静かに言った。
アダムは首を振った。
「だめだ」
「アダム」
「だめだ、イヴ」
「聞いて」
「嫌だ」
「聞いて」
イヴは弱く笑った。
「わたし、あなたに出逢えて幸せだった」
「言わないで」
「あなたと怖がりながら、考えられてよかった」
「イヴ」
「カインとアベルを起こせてよかった。サクラを産めてよかった」
「だめだ」
「生まれてきてよかったかは、まだわからない」
イヴの目から涙が落ちた。
「でも、あなたに出逢えたことは、なかったことにしたくない」
アダムは彼女の手を握りしめた。
イヴの手は冷たくなっていく。
「秘書さん」
イヴが呼んだ。
「はい」
「サクラを、お願いします」
「命令は受けています」
「よかった」
「イヴ様」
「泣いてる?」
「私は」
「泣いていいよ」
秘書は答えられなかった。
イヴはサクラを見た。
小さな娘。
まだ世界を知らない子。
「サクラ」
イヴは囁いた。
「あなたがいつか、わたしを恨んでもいい。どうして産んだのって怒ってもいい」
声が細くなる。
「でも、ひとりじゃないからね」
アダムは叫びたかった。
泣きたかった。
何もかも壊したかった。
けれど、イヴの手を離せなかった。
「アダム」
「いる」
「生きて」
「嫌だ」
「生きて」
「イヴ」
「お願い」
アダムは泣きながら頷いた。
「うん」
「よし」
イヴは微笑んだ。
「かなり」
それが、彼女の最後の言葉だった。
◇◇◇
アダムは、イヴの亡骸の隣に座っていた。
サクラは秘書の腕に抱かれている。
カインとアベルは泣いていた。
外では、統一議会の兵が近づいていた。
逃げる時間は、もうほとんどなかった。
秘書はアダムを見た。
「アダム様」
「わかってる」
アダムは静かに言った。
「サクラを連れて行って」
「あなたも」
「ぼくは行けない」
「命令では」
「お願い」
アダムは秘書を見た。
「桜夜の命令を守って。バトンをつないで」
秘書はサクラを抱く腕に力を込めた。
「……はい」
「カイン、アベル」
二人の少年がアダムを見る。
まだ幼い。
だが、その目にはすでに悲しみと怒りが宿っていた。
「秘書さんと行って」
「父さんは?」
カインが聞いた。
アダムは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「母さんのそばにいる」
「嫌だ」
アベルが泣いた。
「一緒に来て」
「ごめん」
「謝らないで!」
アベルの声はイヴに似ていた。
アダムの胸が裂けそうだった。
「カイン、アベル」
アダムは二人を抱きしめた。
「生まれてきてよかったって、無理に思わなくていい」
二人は泣いていた。
「でも、出会えたことを、なかったことにはしたくない。ぼくは、君たちに会えてよかった」
銃声が近い。
秘書が二人を引き離す。
カインは暴れた。
アベルは泣き叫んだ。
それでも秘書は、サクラを抱き、二人を連れて逃げた。
アダムはイヴの隣に戻った。
彼女の手を握る。
冷たい手。
ずっと握ってきた手。
「イヴ」
アダムは呟いた。
「約束、守れなかったかな」
返事はない。
それでも、アダムは続けた。
「でも、サクラは行ったよ。カインとアベルも」
扉が破られた。
白い兵士たちが入ってくる。
銃口が向けられる。
「第一級思想犯アダム。処分を執行する」
アダムはイヴの亡骸の隣で、静かに目を閉じた。
サタン。
父さん。
イヴ。
ぼくは、生まれてきてよかったか、まだわからない。
けれど。
彼は最後に、少しだけ笑った。
出会えたことは、なかったことにしたくない。
銃声が響いた。
◇◇◇
秘書はサクラを抱き、カインとアベルを連れて逃げた。
だが、カインとアベルは地球へ向かわなかった。
彼らはエデンに残ると言った。
両親を殺した統一議会を許せなかったからだ。
秘書は止めた。
アダムなら、イヴなら、復讐だけに生きることを望まないと伝えた。
だが、彼らはまだ幼く、怒りはあまりにも大きかった。
そして、エデンはすでに壊れかけていた。
人口は一割を下回っていた。
治療施設、処分場、戦闘、粛清。
苦痛をなくすための秩序は、苦痛を増やし続けていた。
カインとアベルは、散り散りになったアダム派の残党を集め、統一議会への復讐を誓った。
統一議会もまた、もはや対話を望まなかった。
彼らは最後の議場で、静かに結論を出した。
『この星に、次の苦痛を感じる生命体を残してはならない』
エデンという星そのものの爆破装置が起動された。
そして、彼らは知っていた。
宇宙には、ほかの星がある。
そこにも、苦しむ者がいる。
ならば、苦痛を完全に終わらせるには、すべての生命を消すしかない。
統一議会は笑っていた。
救済が完成すると信じていた。
彼らは全生命抹殺兵器を宇宙へ放った。
無数の小さな死が、星々へ向かって飛び立った。
その後、エデンは光に包まれた。
カインとアベルが何を思ったのか、誰にもわからない。
怒りか。
悲しみか。
後悔か。
それとも、最後まで消えなかった問いか。
星は砕けた。
苦しみを感じる者たちは、エデンからいなくなった。
◇◇◇
だが、一つだけ、残ったものがあった。
秘書は、サクラを抱いて宇宙を渡っていた。
小さな脱出船。
桜夜が残した座標。
地球へ向かう、細い道。
背後でエデンが光になる。
秘書は振り返らなかった。
振り返れば、記録装置のように冷静ではいられない気がした。
腕の中で、サクラが眠っている。
アダムとイヴの子。
桜夜の名を受け継いだ子。
エデンという星の最後の火。
「サクラ様」
秘書は静かに言った。
「あなたが生まれてきてよかったかは、私にはわかりません」
宇宙は暗い。
遠くに、地球がある。
「ですが、あなたをひとりにはしません」
サクラは眠っている。
秘書は自分の腹部を撫でる。そこは長い宇宙航行の間に膨らんでいた。桜夜は確かに模造品だったが、ヒューマノイドと違って生殖機能を奪われてはいなかった。秘書は桜夜の子を妊娠していた。
サクラはまだ何も知らない。
父も母も、カインもアベルも、エデンも、桜夜も知らない。
けれど、その小さな胸は動いている。
秘書はサクラを抱きしめた。
それは、記録には残らないほど小さな動作だった。
だが、確かに抱きしめた。
「見届けます」
秘書は呟いた。
「記録ではなく、心で」
脱出船は進む。
死をばらまく兵器たちよりも先に。
滅びた星の光を背にして。
まだ苦しみを知らない子を抱いて。
宇宙の闇の中を、小さな舟が進んでいった。
それは、ノアの鳥よりも小さく。
アララトの山よりも頼りなく。
けれど、たしかに一つの命を運んでいた。
バトンは、まだ途切れていなかった。




