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エピローグ 春の眠り

 地球の春は、静かに始まった。


 エデンの春とは違っていた。


 管理された気温ではない。


 調整された空ではない。


 風は気まぐれに吹き、雨は予測より少し遅れ、花は誰の許可もなく咲いた。


 その庭にも、花が咲いていた。


 白い花。


 淡い桃色の花。


 小さな黄色い花。


 名前を覚えきれないほどの花が、柔らかな土の上に揺れていた。


 サクラは、その中を走っていた。


 黒い髪が風にほどけ、笑い声が庭に広がる。


「こっち!」


 サクラが振り返って叫んだ。


 その後ろを、小さな男の子が追いかけている。


 まだ足取りは少し危なっかしい。


 転びそうになりながら、それでも両手を広げて走っている。


 その子の名は、ヨル。


 秘書と桜夜の子どもだった。


 桜夜は、エデンで消えた。


 けれど、すべてが消えたわけではなかった。


 秘書の子宮に残されたわずかな遺伝情報。


 桜夜が冗談のように残していた、存在の断片。


 産むべきかどうか、秘書は長い間迷った。


 自分にそんな権利があるのか。


 桜夜はそれを望んだのか。


 生まれてくる子は、苦しむことになるのではないか。


 アダムとイヴが抱え続けた問いは、地球へ来ても消えなかった。


 むしろ、サクラを育てる日々の中で、何度も何度も戻ってきた。


 夜泣きの声。


 熱を出した日の震え。


 言葉を覚えたサクラが、どうしてママはいないの、と尋ねた日。


 どうしてエデンはなくなったの、と尋ねた日。


 そのたびに、秘書は答えを探した。


 記録ではなく、心で。


 そしてある日、秘書は思った。


 桜夜なら、きっと笑う。


 怖いなら、怖いまま行け。


 そう言う気がした。


 だから、ヨルは生まれた。


 生まれてきてよかったのかは、まだ誰にもわからない。


 けれど今、ヨルは笑っていた。


 サクラを追いかけ、花びらを踏み、転んで、泣きそうになって、それでもサクラに手を引かれると、また笑った。


「大丈夫?」


 サクラがしゃがみ込む。


「だいじょうぶ」


 ヨルは泣きそうな顔で答えた。


「痛い?」


「いたい」


「じゃあ、痛いね」


「いたいね」


「でも歩ける?」


 ヨルは少し考えた。


 そして、小さく頷いた。


「あるける」


「じゃあ行こう」


 サクラはヨルの手を握った。


 ヨルも握り返した。


 二人はまた庭を走り出した。


 秘書は、縁側の椅子に座ってそれを見ていた。


 地球の家。


 小さな家だった。


 立派ではない。


 床は少し軋む。


 雨の日には窓枠が鳴る。


 冬は寒く、夏は暑い。


 けれど、そこには火があった。


 食卓があった。


 眠る場所があった。


 帰ってくる足音があった。


 仮の家として始まったその場所は、いつの間にか本当の家になっていた。


 秘書の身体は、もう限界に近かった。


 エデンからの長い航行。


 地球での隠れた暮らし。


 サクラを育て、ヨルを産み、守り続けた歳月。


 もともと永遠に作られた身体ではなかった。


 何度も修復し、部品を替え、記憶領域を圧縮し、不要な機能を切り離した。


 それでも、終わりは来る。


 秘書はそれを、ずっと前から知っていた。


「おかあさん」


 サクラが呼んだ。


 秘書は顔を上げる。


 サクラはもう、幼い子どもではなかった。


 アダムに似た目をしていた。


 イヴに似た強さがあった。


 そして、ときどき桜夜のように笑った。


「見て」


 サクラは花びらで作った小さな輪を、ヨルの頭に乗せていた。


 ヨルは得意げに胸を張っている。


「王さま」


「王さま?」


 秘書が尋ねる。


「ううん」


 サクラは少し考えて、首を振った。


「王さまじゃない。ヨルはヨル」


 ヨルは嬉しそうに笑った。


「よるは、よる」


 秘書は、その言葉を聞いて静かに微笑んだ。


 名前。


 誰かを番号ではなく、役割ではなく、罪ではなく、名前で呼ぶこと。


 アダムが残したもの。


 イヴが守ったもの。


 アダンが最後に選んだもの。


 エリオが見ようとしたもの。


 桜夜が命じたもの。


 そのすべてが、今この庭にあった。


 サクラがヨルの手を引き、花の中を歩いていく。


 二人の後ろ姿は、小さかった。


 けれど、その小ささが秘書には眩しかった。


 守らなければならないものは、いつも小さい。


 簡単に壊れてしまう。


 だからこそ、誰かが手を伸ばす。


 秘書は目を細めた。


 視界の端に、古い記録が浮かぶ。


 エデンの空。


 燃えるアララト。


 桜夜の背中。


 サクラを抱いた脱出船。


 イヴの最後の言葉。


 アダムの涙。


 カインとアベルの叫び。


 すべてが、遠い。


 けれど、消えてはいなかった。


 心で見届ける。


 桜夜の命令。


 秘書は、それを守れただろうか。


 完全ではなかった。


 救えなかった命は多すぎる。


 繋げなかった言葉もある。


 カインとアベルを止められなかった。


 エデンを救えなかった。


 アダムとイヴを守れなかった。


 桜夜に、ただいまと言うこともできなかった。


 それでも。


 サクラは生きている。


 ヨルは生きている。


 二人は今、地球の庭で遊んでいる。


 その事実だけは、誰にも奪えない。


「おかあさん?」


 サクラが戻ってきた。


 秘書の膝に手を置く。


「眠いの?」


「ええ」


 秘書は穏やかに答えた。


「少し、眠いです」


「中に入る?」


「いいえ」


 秘書は首を振った。


「ここがいいです」


 サクラは何かを感じ取ったのか、表情を変えた。


 ヨルもサクラの隣に立ち、秘書を見上げている。


 秘書は二人を見た。


「サクラ様」


「様はいらないって言ったでしょ」


「サクラ」


 サクラの目が潤んだ。


「はい」


「あなたが生まれてきてよかったかは、私には最後までわかりません」


 サクラは唇を噛んだ。


「でも」


 秘書は続けた。


「あなたに出会えたことを、私はなかったことにしたくありません」


 サクラの涙がこぼれた。


 秘書はヨルを見た。


「ヨル」


「なあに」


「あなたもです」


「ぼくも?」


「はい。あなたに出会えて、私は嬉しかった」


 ヨルはまだ、その言葉の全部を理解できなかった。


 けれど、何か大切なことを言われているのはわかったのだろう。


 小さな手で、秘書の指を握った。


 秘書はその感触を記録しようとして、途中でやめた。


 記録ではなく、心で。


 彼女はそっと、その手を握り返した。


「サクラ」


「なに」


「ヨルを、ひとりにしないでください」


「うん」


「ヨル」


「うん」


「サクラを、ひとりにしないでください」


「うん」


「約束です」


 二人は泣きながら頷いた。


「約束」


 秘書は微笑んだ。


 空を見上げる。


 地球の空は青かった。


 エデンでアダムが初めて見た空と、同じ青なのかはわからない。


 けれど、きっと彼なら言う。


 空、まだあるね。


 イヴなら、こう答える。


 あるよ。


 秘書は静かに目を閉じた。


 遠くで、子どもたちの泣き声が聞こえる気がした。


 カイン。


 アベル。


 サクラ。


 ヨル。


 そして、まだ生まれていない誰か。


 その声の向こうに、桜夜が立っていた。


 いつものように、少しだけ困ったように笑っている。


 遅いな、と彼が言った気がした。


「申し訳ありません」


 秘書は小さく呟いた。


「少し、寄り道をしていました」


 風が吹いた。


 庭の花びらが舞い上がる。


 サクラが秘書の手を握り、ヨルも反対の手を握った。


 その温もりに包まれながら、秘書は永遠の眠りへ落ちていった。


 恐怖はあった。


 未練もあった。


 けれど、孤独ではなかった。


 彼女の最後の視界には、地球の春があった。


 花の中で泣きながら笑う、二人の子どもがいた。


 エデンから運ばれてきたバトンは、まだ小さな手の中にあった。


 生まれてきてよかったかは、誰にもわからない。


 けれど。


 誰かと出会い、手を握り、ひとりにしないと約束することはできる。


 それだけは、滅びた星の向こうから、確かにここまで届いていた。


 そして春の庭で、物語は静かに眠った。


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