第七話:孤独という名の贅沢
都の喧騒を離れ、双岡の庵に夜の帳が下りる。
今夜の月は、鋭い鎌のように細く、冷たい光を放っている。庭の茂みからは、名前も知らぬ虫たちの声が、寄せては返す波のように、静寂をかえって際立たせていた。
俺は一人、いろりに火を熾し、鉄瓶がシュンシュンと鳴る音を聴いていた。誰に気兼ねすることもなく、ただ熱い湯が沸くのを待つ。この「静寂を独占する」感覚は、何物にも代えがたい。
だが、その至福を遮るように、控えめだが迷いのある足音が近づいてきた。
「……ケンコーさん。お邪魔してもいいっすか?」
現れた信基は、以前のように叫んだりすることもなく、幽霊のように縁側に腰を下ろした。懐からは、半分書きかけの文が覗いている。宛名はない。ただ「今夜、誰か」とだけ書かれたその文字は、心細さに震えて、だらしなく躍っていた。
「なんだ、信基。評判をゴミ箱に捨てて自由になったはずだろ。今度は何に怯えてるんだ?」
「……寂しいんすよ。自由になったのはいいんすけど、宮中の集まりにも呼ばれなくなったし、誰も俺を誘ってこない。一日中、一人で部屋にいると、自分がこの世界に存在してないような気がしてきて。誰でもいいから繋がってないと、俺、消えちゃいそうなんす……」
信基の声は、夜風に混じって消え入りそうだ。俺は、沸き立った湯を茶碗に注ぎ、信基の前に置いた。
「いいか、信基。耳かっぽじって聴け。孤独ってのはな、寂しさのことじゃねーんだ。それは『自分自身を取り戻すための、贅沢な空白』なんだわ。」
信基は白湯を一口含んだ。酒のように気分を上げるわけでも、甘い菓子のように誤魔化してくれるわけでもない。ただ熱い湯が、喉を通る。
「……味、ないっすね」
「だからいいんだよ。味がないものを味わえるようになったら、人間は少し強くなる。世の中にはな、常に誰かとつるんでないと死んじゃうヤツが山ほどいる。中身のない世間話で時間を溶かして、『俺、顔広いんで』ってアピールする。でもな、よく見てみろ。そいつら、他人の話に合わせて笑ってるだけで、自分の心なんて一ミリも動いちゃいねーんだよ。友だちの数を誇ってるヤツは、自分の空っぽさを必死に隠してるだけなんだわ。」
外では、風が竹林を揺らし、庵の屋根がミシリと鳴った。
「孤独は、心の空き部屋だ。誰かを無理やり入れるための場所じゃない。散らかった自分を、いったん座らせるための聖域なんだよ。本当にレベチなヤツはな、孤独を『使いこなして』いるんだ。 友だちの数なんてどうでもいい。たまに会って、価値観の火花を散らせるヤツが一人か二人いれば、それで十分だ。それ以外の時間は、自分の魂をアップデートするために使い切れ。寂しさに負けて誰かに文を送ってるうちは、お前はまだ、自分の足で立っちゃいねーんだよ」
信基は、懐の文を取り出しかけ、その指を止めた。
いろりの火が、小さな、でも確かな光として彼の瞳に宿る。信基はしばらく黙ったまま、白湯から立ち上る湯気を眺めていた。
一つ、虫の声が風に乗る。
二つ、鉄瓶がかすかに歌う。
三つ、自分の呼吸が耳に届く。
「……今夜は、送らなくてもいいかもしれないっす。俺、自分の部屋にある空き部屋に、まだ一度も座ってなかった気がします」
信基は文をゆっくりと畳み、懐の奥に仕舞い込んだ。
その動作は、以前の彼よりもずっと静かで、重みがあった。
「おう。孤独は檻じゃない。お前が自分自身と出会うための場所だ。そこを汚させるな。誰にも踏み込ませるな」
俺は、信基にもう一杯、熱い白湯を注いでやった。
孤独という名の贅沢。
それは、世界と自分を繋ぎ直すための、静かな、けれど熱い時間だ。
「……さて。マインドが整ったなら、さっさと帰れ。俺はこれから、この静寂を肴に、自分だけの時間を堪能するんだ。お前がいると、孤独が薄まって邪魔なんだわ」
信基は「……っすね。邪魔しました!」と、今日一番のいい笑顔で立ち上がった。
その足取りは、夜の闇を切り裂くように力強い。
信基の足音が竹藪の向こうへ消える。
そのあとに残った静けさは、さっきより少しだけ深かった。
俺は鉄瓶の音を聴いた。虫の声を聴いた。自分の呼吸を聴いた。
誰もいない。
だから、全部がある。




