第六話:名声なんてゴミ箱へ
都のざわめきが、湿った夜風に混じって双岡まで流れてくる。
庭の隅では、湿った落ち葉が燻り、白く重たい煙が這うようにして庵へと流れ込んでいた。目にしみるような、焦げ臭い秋の匂いだ。
そんな静寂を、絶望に満ちた足音が踏みにじる。
「ケンコーさん……俺、もう人前に出られねえっす……」
現れた信基は、懐からくしゃくしゃになった一通の文を取り出した。そこには用件らしい用件はほとんどなく、端の方に小さく「本殿を人に尋ねし君へ」とだけ記されている。
たぶん、宮中の連中の間で笑い草として回し読みされたのだろう。紙の角が何人もの指で触られたらしく、黒ずんで毛羽立っている。信基はその汚れを、何度も爪でこすり取ろうとした形跡があった。
「なんだ、その死に体は。せっかく『本質を突く行動』を選んだのに、今度は誰の視線に殴られたんだ?」
「……世間っすよ。俺が石清水で恥をかいたって噂、都中に広まってて。『信基は作法も知らない教養の欠片もない男だ』って。みんな俺を笑ってる。俺が歩くと、背中のあたりが冷たくなるのがわかるんす……」
信基は縁側に崩れ落ち、泥のついた袖で顔を覆った。
ちょうどその時、風向きが変わった。焚き火の白い煙が、信基の顔を直撃する。彼は激しくむせ込み、涙目をしながら必死に手で煙を払った。
「ほらな、信基。評判ってのは、だいたいこれだ。風に吹かれる煙と同じなんだよ。掴もうとした瞬間に指の間をすり抜けるし、お前の本体とは一ミリも関係ねーんだわ。」
「……でも、目にしみるじゃないっすか。匂いも消えないし!」
「目にしみるのは、お前がその煙を直視して、自分の『顔』だと思い込んでるからだ。さあ、連想ゲームを加速させるぞ」
俺は、欠けた猪口に酒を注いだ。
「世の中にはな、死んだ後の評判まで気にして、生きてる間ずっと『徳がある立派な人間』のコスプレをしてるヤツが山ほどいる。だけどな、そういうヤツに限って、誰も見てないところじゃ草履の揃え方ひとつ雑なんだよ。死んだ後に『あの人は立派だった』ってエゴサするために、生きてる間ずっと息を殺す……それ、生前から半分死んでるのと何が違うんだよ」
俺は庭を指差した。
「お前が死んで、肉体が腐って、骨すら粉になった後で、誰かが『あいつはバカだった』と言ったとして、それがお前に何のデメリットがあるんだ? 他人の評価を気にするってのはな、自分の人生のハンドルを他人に握らせてるのと同じなんだよ。 自分の価値を他人の口に預けるなんて、世界で一番安い生き方だぜ」
都の方角で、誰かが奏でる笛の音が、かすかに、でも鋭く夜を刺す。
「いいか、信基。名声を追っかけてるヤツは、名声という檻の中に閉じ込められてる。お前はせっかくその檻から叩き出されたんだ。これ以上自由なことはねーだろ? 誰にも期待されてない、誰にも評価されてない。その『どん底』からしか、本物の言葉は生まれないんだわ」
信基は、自分の袖の泥を見た。いつもなら慌てて隠すはずの汚れを、今日はしばらく、そのまま黙って眺めていた。
「……これ、洗えば落ちますよね」
「落ちるものを、人生の終わりみたいに抱えるな。名声も、泥も、煙の匂いもな」
信基は、くしゃくしゃになった文を、焚き火の中に放り込んだ。
紙は一瞬で火に包まれ、黒い灰となって夜風に舞った。
「……俺、笑われるのが怖くて、ずっと『正解』の自分を演じてました。でも、檻の中に自分を閉じ込めてたのは、俺自身だったんすね」
「おう。やっと気づいたか。他人の目は、お前を縛る鎖じゃねえ。お前を映す、精度の悪い鏡に過ぎないんだ。そんなもん、今すぐ叩き割ってこい」
信基の笑い声が、夜の静寂に響いた。
その声は、これまでで一番大きく、そして軽やかだった。
信基はまだ、何者にもなれていない。
名声を脱ぎ、正解を脱ぎ、見栄を脱ぎ、残ったのは、みっともないけれど熱い自分自身だけだ。
だが、そこからしか、本当の人間は始まらない。
夜は深い。
だが、評判という煙が晴れた後の視界は、驚くほどクリアだった。
「……さて。第一段階は突破だな。次は、その軽くなったマインドで、どうやって『孤独』を楽しむかを教えてやるよ。……の前に、その袖、早く洗ってこい。見てるこっちが痒くなるわ」




