第五話:仁和寺の法師、大暴走
都の北、仁和寺のあたりから響く鐘の音が、湿った風に乗って双岡まで届く。
今日の俺は、溜まりに溜まった書き損じの紙を整理しながら、冷めた茶を啜っていた。墨の匂いと古い紙の埃が混じった、隠居らしい静かな時間だ。
だが、その静寂は、竹藪を荒々しく分ける足音によって破壊される。
「ケンコーさん! 見てください、この『鉄壁』の布陣を!」
乗り込んできた信基は、背負った風呂敷包みを畳にドサリと置いた。パンパンに膨らんだそれは、重たい音を立てて砂埃を上げる。
信基の手は、墨の汚れで真っ黒だ。
「……なんだ、その夜逃げみたいな荷物は。あと、手が真っ黒だぞ。またろくでもないものを書き殴ってたのか」
「これですよ、これ!」
信基は鼻息も荒く、風呂敷から数巻の分厚い書き付けを取り出した。
そこには、どこかの寺社の境内図が細かく写され、各地点での「想定される会話」「最適な表情」「想定されるトラブルへの対処法」が、狂気を感じるほどの密度で書き込まれている。
「……お前、これ全部自分で書いたのか?」
「当たり前じゃないっすか。もう感情に任せて叫んだりしませんよ。相手の好みを分析し、天候、混雑状況、すべてを計算に入れました。このマニュアル通りに進めば、俺たちの参拝は完璧。失敗の入り込む隙なんて、一ミリもありません!」
信基は、自分の指の汚れを誇らしげに見つめている。
俺は、その真っ黒な指と、文字で埋め尽くされた紙を見つめ、深く溜息をついた。
「いいか、信基。お前はまた、別の落とし穴にフルスロットルで突っ込んでるわ」
「えっ、なんでっすか!? 準備を徹底しろって……」
「『準備すること』に必死になりすぎて、本質を見失うヤツ……これが一番ダサいんだわ。 さあ、連想ゲームを加速させるぞ。仁和寺の法師の話、知ってるか?」
俺は、信基が必死に書き上げた「完璧な地図」の端っこを、指で弾いた。
「昔な、そこにある法師が『一生に一度は石清水にお参りしたい』って思い立ったんだ。そいつは真面目だったから、しっかり計画を立てて、一人で山を登り始めた。ふもとの極楽寺や高良を参拝して、『ああ、これが憧れの石清水か、マジ感動!』って満足して帰ってきちゃったんだわ」
「……え、それの何がダメなんすか? ちゃんと参拝したじゃないっすか」
「お前はこれだから情弱なんだよ。そいつ、ふもとの社だけ見て、山の上にある『本殿』をスルーして帰ってきたんだよ。 周りのヤツらが山の上に登っていくのを見て、『なんか上にも道があるっぽいけど、俺の計画には書いてないし、これでいいや』って勝手に自己完結しちゃったんだわ」
信基の視線が、自分の書き付けに落ちた。
そこには、彼が必死に調べた「ふもとの情報」が完璧に記されている。だが、その先の「未知の領域」については、一行も触れられていない。
「……本殿に、行ってない?」
「そう。マニュアルを信じすぎるヤツは、目の前にある『本物のチャンス』を見逃すんだ。 『ここが目的地だ』って思い込みすぎると、そのすぐ先にある一番大事な景色に気づかない。お前のその分厚い計画書も同じだ。相手の顔色を見ずに、自分の書いた台本をなぞることに必死になって、肝心の『相手の心』を置いてきぼりにするんだろ? それ、ただの自己満足なんだよ」
外では、風に吹かれた竹林がザーッと騒がしく鳴り、庵を揺らしている。竹の葉が擦れる音が、まるで誰かの嘲笑のように聞こえる。
「いいか、信基。本当に賢いヤツはな、自分一人の『準備』なんてたかが知れてるってことを知ってるんだ。 だから、少しでも迷ったら、そのへんのヤツに『上には何があるんすか?』って聞けるプライドの低さを持ってる。仁和寺の法師が、たった一言『これ、上まで行かなくていいんすか?』って誰かに聞けてれば、一生の恥をかかずに済んだんだよ」
信基は、墨で汚れた自分の手を見つめた。
必死に書き溜めた知識が、急にただの「汚れ」に見えてきたのか、彼はその手を力なく握りしめた。
「……俺、失敗するのが怖くて。全部自分で決めなきゃ、正解を持ってなきゃ、相手に愛想尽かされると思ってました。人に聞くなんて、弱さを見せることだと思ってて……」
「逆だよ、信基。『自分は何も知らない』ってことを認められるヤツが、一番レベチな情報に辿り着けるんだ。 準備に殺されるな。準備は、想定外を楽しむための『心の余裕』を作るためにあるんだ。お前がやるべきなのは、完璧な台本を作ることじゃねえ。相手と一緒に、まだ見たことのない『本殿』を探しに行くくらいの、ゆとりを持つことなんだよ」
信基は、ゆっくりと書き付けを風呂敷に戻した。
その顔から、無理に張り付いていた武装が消え、代わりに少しだけ柔らかい、頼りなげな「隙」が生まれていた。
「……俺、ちょっと聞いてみます。あの人に、『どこに行きたいですか』って。俺の地図には、まだ上がないから、教えてほしいって」
「おう、それでいい。迷ったら聞け。恥をかけ。それが、最短ルートで本質に辿り着くための、究極のハックなんだからな」
俺は、冷めた茶を飲み干した。
茶葉の苦みが、喉の奥に心地よく残る。
準備は、世界を切り取るための定規に過ぎない。
だが、その定規からはみ出したところにこそ、人生をバズらせる真実が落ちている。
「……さて。話は終わりだ。そんな重い荷物背負ったままじゃ、山に登る前に腰をやるぞ。とりあえず、その風呂敷の中身、半分くらいここに置いていけ。邪魔だわ」
信基が「えっ、これは必要っす!」と慌てて荷物を抱え直す。
その不格好で必死な姿は、ふもとの寺で満足して帰ろうとした法師よりは、いくらかマシに見えた。




