第四話:煩悩と、自分への嘘
都の空が、ねっとりとした薄紫色に染まっている。
今夜の空気は、湿った重みがある。こういう夜は、人間のドロドロした部分が、お香の匂いに混じってあちこちから漏れ出してくるもんだ。
俺は庵の縁側に座り、少し脂の乗った川魚を焼きながら、立ち上る煙を眺めていた。炭がパチリと爆ぜ、香ばしい匂いが鼻腔を突く。
すると、竹藪がガサガサと激しく揺れた。
「ケンコーさん! 俺、もうダメっす! 出家します! 今すぐ剃髪してください!」
飛び込んできた信基は、ボサボサの髪を振り乱し、目に涙を浮かべていた。先日、あんなに「間合い」や「品格」を叩き込んだはずなのに、今のこいつは、ただのボロ雑巾のような有様だ。
「おい、信基。魚が焦げるだろ。とりあえず座れ。……で、今度は何に負けたんだ?」
「……自分自身っすよ。昨日、宮中でまたあの人に会ったんす。俺、今度こそ静かに、洗練された自分を見せようとしたんすけど……顔を見た瞬間に、脳内のリミッターが全部吹っ飛んで。気がついたら『好きっす! 付き合ってください!』って叫んでました。周囲のヤツらには鼻で笑われるし、何より、あの人が一瞬だけ『困った顔』をしたのが……。俺の気持ち、ただの凶器だったんすよ。俺、煩悩まみれっす。もう俗世は無理っす。山に籠もって、感情を無にして生きたいんす!」
信基は畳に額を擦りつけ、むせび泣いている。俺は焼き上がった魚の身を箸で解しながら、溜息をついた。
「……お前、バカだろ。煩悩を消そうとして出家するヤツ、それが一番の『自分への嘘』なんだよ。」
「えっ、出家って執着を捨てるためのもんじゃないんすか!?」
「いいか、信基。欲があるのは、生きてる証拠なんだわ。それを『なかったこと』にしようとするのは、ただの現実逃避だ。さあ、連想ゲームを加速させるぞ」
俺は、焦げた魚の皮を箸でつまみ上げた。
「世の中にはな、『私は欲を捨てました』みたいな顔して山奥で修行してる僧侶がたくさんいる。でもな、その中身を覗いてみろ。粗末な衣を着て『世を捨てました』って顔してるくせに、その衣の皺ひとつに異様にこだわる。『このくたびれ方こそ修行者らしい』とか言い出す。もうその時点で、そいつは欲を捨ててねえ。欲の着替えを済ませただけだ」
「欲の、着替え……?」
「そうだ。名声を捨てましたと言いながら、誰が自分の噂をしてるか耳を澄ませてるヤツ。恋を捨てましたと言いながら、昔の文の匂いを嗅いで泣いてるヤツ。欲ってのはな、殺しても死なない。形を変えて、別の戸口から勝手におかわりしに来るんだよ。 『欲がない自分』に酔ってるヤツが、一番欲深いんだわ。お前が言った『感情を無にしたい』ってのも、要は『これ以上傷つきたくない』っていう強烈な自己愛だろ? それを『出家』っていう綺麗なパッケージで包んで誤魔化すな。ダサいんだわ」
俺は、信基に焼けた魚の身を半分差し出した。
「いいか、信基。魚の皮は、少し焦げているくらいが美味い。だが、火に任せればただの炭になる。欲も同じだ。火を消すな。だが、目を離すな。欲に振り回されるのは情弱だが、欲を否定するのは嘘つきだ。 本当に強いヤツはな、煩悩という名のガソリンを積んで、美学という名のハンドルを握るんだよ」
遠くで、夜鷹の声が低く響く。都の灯りが、闇の中で妖しく揺れている。
「お前が叫んだ『好きっす!』って言葉、それ自体は悪くない。ただ、焼き加減を間違えただけだ。でもな、自分に嘘をついて澄ましてるヤツより、欲望に正直に転がって恥かいてるヤツの方が、よっぽどエモいんだよ。お前はまだ、このクソゲーをプレイし切ってねーだろ?」
信基は、差し出された魚をゆっくりと口に運んだ。脂の甘みと、焦げの苦みが口の中に広がったのだろう。彼は小さく、でも確かに頷いた。
「……美味いっす。魚も、自分の欲も。俺、逃げるのやめます。明日、またあの人に困った顔をされても、それが俺だって開き直ってみます。次こそは、ちゃんと相手が食べられる火加減で渡せるように、やり直しますよ」
「おう、それでいい。煩悩は、消すべき敵じゃない。自分が『いま、ここに生きている』ことを証明するための、熱い血の叫びなんだからな」
信基が髪を直すたび、竹の葉が一枚、畳に落ちた。
みっともない。でも、みっともなさの中にしか、人間の熱は宿らない。
俺は焦げた魚の皮を噛みしめた。
苦い。けれど、その苦みがあるから、脂の甘さがわかる。
煩悩も、たぶん同じだ。
「……さて。出家はやめたんだろ? だったら、そのボサボサの髪、今すぐなんとかしろよ。煩悩まみれの男が清潔感まで捨てたら、マジで救いようがねーからな」
信基が、ハッと自分の髪に手をやり、大慌てで整え始めた。
その必死な姿を眺めながら、俺は次のログの構成を練り始めた。




