第八話:酒と、醜態と、本当の品格
今夜の月は、雲に隠れては顔を出す気まぐれな風情だ。
庭の隅で焚いている小枝が、時折パチリと爆ぜては、湿った夜の空気を少しだけ乾かしていく。
俺は一人、静寂を肴に酒を嗜んでいた。だが、竹藪を分ける足音が、今夜は妙にふらついている。草の擦れる音が、まるで誰かが這いずり回っているかのように不規則だ。
「ケンコーさん……っ。俺、もう……この世から消えたいっす……」
現れた信基は、以前の凛とした「孤独の自立」などどこへやら。直垂の襟元はだらしなくはだけ、烏帽子は今にも落ちそうなほど傾いている。何より、懐に大事そうに抱えているのは恋文でも何でもない、泥だらけになった自分自身の左の沓だった。
「おい、信基。孤独を味わえとは言ったが、酒の海で溺れてこいとは言ってねえぞ。その無様な姿はなんだ。宮中でまた何かやらかしたな?」
「……覚えてるのは、断片だけっす。上司の引きつった笑顔。女房が俺の手をすり抜けて、冷たく袖を引き抜いた時の、あの布の感触。俺、何かを一生懸命に熱く語ってたはずなんすよ。俺自身のマインドを。でも、思い出す周りの顔が、誰も笑ってないんすよ……。朝、口の中の酸っぱい苦さで目が覚めた時、枕元にあったのはこの泥だらけの沓でした。俺、品格のカケラもないっす……」
信基は縁側に這い上がり、そのまま畳に突っ伏した。酸えた酒の匂いと、拭いきれない後悔の匂いが入り混じって漂ってくる。
「……酒、か。いいか、信基。耳かっぽじって聴け。酒ってのはな、人間の皮を剥ぐナイフなんだよ。」
俺は猪口の底に残った、ほんの少しの濁った酒を信基の鼻先に突きつけた。
「こいつは喋らねえ。泣かねえ。説教もしねえ。袖も掴まねえ。酒がそいつをバカにしたんじゃない。そいつの中に溜まってた『バカな部分』を、酒が引きずり出しただけなんだわ。 酒のせいにすんな。全部やったのはお前だ」
「……俺の中に、あんな見苦しい、誰かに構ってほしくてたまらない化け物がいたなんて……認めたくないっす……」
「逆だよ、信基。その醜態こそが、最強のデバッグ作業なんだよ。 本当に品格があるヤツはな、どれだけ飲んでも芯がブレない。自分の限界を測り、場を汚さず、酔ってもなお、他人のための余白を残せる。酒に呑まれるヤツは、日頃から自分自身のハンドルを他人に預けてる証拠なんだ。お前はまだ、自分自身のコントロールを他人に預けっぱなしなんだよ」
風が吹き抜け、いろりの火が激しく揺れる。信基の、だらしなくはだけた襟元を夜風が冷たく叩く。
「いいか、信基。品格ってのは、酔わないことじゃない。酔った相手の猪口に、黙って水を足せることだ。自分が楽しい時でも、隣の顔色が青くなったら、笑いをピタッと止められることだ。場を支配するんじゃない。場を壊さないこと。そのゆとりをデザインしろ」
信基は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はまだ潤んでいるが、後悔の熱は少しずつ冷め、泥だらけの沓をそっと畳に置いた。
「……俺、場を盛り上げてるつもりで、自分のエゴを垂れ流してただけでした。俺の雅は、酒一升で剥がれるメッキだったんすね。……次は、酔っても自分を見失わない、本当の芯を鍛え直します」
「おう。ダメな自分を知ったなら、そこがスタートラインだ。感謝しろよ。酒は嘘をつかないからな」
俺は、信基にはだけた襟元を直すように顎で示した。
酒と、醜態と、本当の品格。
それは、飾りの自分を剥がした後に残る、本当の強度を測るための試験紙だ。
「……さて。マインドのデバッグが終わったなら、さっさと寝ろ。次は、喋りすぎたお前への処方箋、『語らない強さ』について教えてやるよ。……の前に、その泥だらけの沓、廊下に置いてこい。縁起でもねーわ」
信基は「……っす。喋りすぎない自分……目指します……」と、力なく、でも自分の重みを知った顔で立ち上がった。
夜は更けていく。
酒の匂いは消え、冷たい月光だけが、静かに畳を照らしていた。




