第二十四話:情報の暴食、あるいは「沈黙」という名の最強兵器
都の役所仕事に揉まれている信基が今夜持ってきたのは、一通の使い古された書状と、耳を塞ぎたくなるような「言葉の洪水」への嫌悪感だった。双岡の夜は更け、竹林を揺らす風が湿り気を帯びている。遠くで鳴く蛙の声が、かえってこの庵の静寂を際立たせていた。
信基は、いろりの前に座り込むなり、吐き捨てるように言った。
「ケンコーさん。役所から帰ると、耳の奥がまだざわざわしてるんす。誰も喋ってないのに、噂が頭の中で反芻されて、飯を食っても味が薄い。みんな、何かを知っていないと置いていかれるって顔をして、必死に喋り続けてる。そのヘドロみたいな言葉が、耳の中に溜まって抜けないんすよ……。正直、頭が割れそうっす」
信基の目の下には微かな隈があり、その指は無意識に耳の淵をなぞっていた。俺は、棚から取り出した古い筆を、水に浸して静かに解きほぐした。
「……信基。お前、ついに『情報の暴食』という名の地獄に足を踏み入れたな。いいか、耳かっぽじって聴け。噂はな、腹に溜まらねえくせに、胃もたれだけは残すんだよ。知らなくていいことを知りすぎるのはな、魂を安売りしてるのと同じなんだわ。 さあ、連想ゲームを暴走させるぞ」
俺は、水を含んだ筆を、何も書いていない紙の上で滑らせた。文字にはならない。ただ、透明な水の跡が残るだけだ。
「世の中にはな、最新の噂を誰より早く掴むことを『賢さ』だと勘違いしてるヤツが九割九分だ。だがな、本当にレベチなヤツは、自分の耳に門番を立ててるんだわ。どこの馬の骨とも分からねえ言葉を、心の奥まで通さねえ。耳に入れることと、魂まで入れることは、全くの別物なんだよ」
俺は、濡れた紙がじわりと水分を吸い込み、やがてその形さえ失っていくのを見つめた。
「いいか、信基。情報の価値はな、量じゃねえ。『どれだけ捨てられるか』で決まるんだよ。沈黙ってのはな、ただ黙ってることじゃねえ。自分の内側にある『静寂』を、外側のノイズから守り抜く最強の防御壁なんだわ。情報を食うな。世界を味わえ」
信基は、懐から出しかけた書状の手を止めた。一瞬だけ、書状の端に目をやる。まだ読んでいない一節があるのだろう、その指が、ほんの少しだけ止まった。
「……気になるか」
「……正直、気になります。知れば、少しは安心できる気がして」
「なら、それが毒だ。『知っている』という安心感は、お前を思考停止にさせる麻薬なんだよ。 遠くの誰かの噂話なんて、お前の命の一秒を削ってまで知る価値はねえ。無知でいろ。ただし、研ぎ澄まされた無知だ」
信基は、目を閉じて深く息を吸い込んだ。竹林がざわめく音、いろりの爆ぜる音。それらが情報の泥を洗い流していく。
「……全部覚えようとしなくていいんすね。通り抜けた感触だけ残ってれば、それでいい。耳に入ったもの全部を、腹まで落とす必要はないんだ。……俺、この『耳の門番』を辞めないようにします」
「おう。気づくのが遅いくらいだがな。饒舌は安売り、沈黙は至高の贅沢だ。 都の連中が喋れば喋るほど、お前は黙って、そいつらの魂がどれだけ薄っぺらくなってるかを眺めてやれ」
外では、雨が降り始めた。ポツリ、ポツリと、命の刻むリズムが屋根を叩く。
「……さて。その書状、いろりの種火にでもして、少しは夜を暖める役に立てろ」
信基は「……っすね。燃やしちゃいましょう」と、迷いを断ち切るように書状を火に投じた。紙が丸まり、青白い炎を上げて消えていく。その一瞬の輝きの方が、書かれていたどんな言葉よりも、ずっと美しかった。




