第二十三話:美の経済学、あるいは「清貧」という名の贅沢
都の仕組みに戻った信基が持ってきたのは、一袋の干し柿と、役人の間で流行っているという「奇妙な価値観」の報告だった。外では夏の先触れのような夕立が上がり、濡れた土の匂いが、庵の空気をしっとりと重くさせている。
信基は、以前の悲壮感漂う面持ちとは違い、どこか面白がるような、けれど冷ややかな目で俺を見た。
「ケンコーさん。都じゃ今、いかに『何も持っていないか』を自慢し合うのが流行ってるんすよ。破れた袖をわざと見せびらかしながら、誰より高い香を焚いている。粥を食っていると語りながら、その粥の器だけは名工の作。貧しさまで舞台装置にして、『俺はこんなに清貧だ』って……。正直、見てて胸焼けがするんす。本物の豊かさって、何なんすかね」
俺は、信基が置いた干し柿を一つ、無造作に口に放り込んだ。表面には白い粉が薄く吹いている。派手さはないが、噛めば噛むほど、奥から凝縮された甘みが舌の上でゆっくりと解けていく。
「……信基。お前、また面白い『病』を拾ってきたな。いいか、耳かっぽじって聴け。『持たないこと』を飾りにした瞬間に、それはただの『逆張りの虚栄心』なんだよ。 さあ、連想ゲームを暴走させるぞ」
俺は、目の前にある空の茶碗を指先で弾いた。
「世の中にはな、金を持つことに執着するヤツと、金を持たないという『ポーズ』に執着するヤツがいる。どっちも同じ、金という概念の奴隷なんだわ。贅沢ってのはな、この干し柿と同じだ。見た目で騒がず、舌の奥で長く残るもの。蔵の中身じゃねえ。自分の『満足』の基準を、他人の物差しに預けない精神の独立を指すんだよ」
俺は、雨上がりの月光が、縁側の水たまりに反射するのを見つめた。
「清貧ってのはな、貧乏に耐えることじゃねえ。『余計なものを欲しがらない自分』という最強の資産を手に入れることなんだよ。 豊かさとは所有の量ではない。どれだけ小さなもので、深く満ちることができるかだ。形だけのボロを纏うのはただのコスプレだ。ボロを纏うな、自由を纏え」
信基は、自分が着ている役人の服の袖を、少し気恥ずかしそうに触った。
「……俺も、役人の給料をもらうようになって、少し不安だったんす。この安定が、俺を鈍らせるんじゃないかって。でも、ボロを着るのが正解でもないんすね」
「おう。中身が伴わねえ節約は、ただの『ケチ』だ。 何を持っていてもいい。だが、それを一瞬で捨てろと言われた時、笑って手放せるかどうか。その『軽やかさ』こそが、本物の贅沢なんだわ」
信基は、干し柿の残りを一つ手に取り、じっと見つめた。
「……この柿みたいに、余計な水分は抜いても、甘みだけは残す。……俺の生活も、そうありたいっすね。役人の服を着ていても、欲に水膨れしないように」
「おう。美学ってのは、欲に振り回されないための、心の身軽さなんだよ。自分の心が何で満たされるかを知っていれば、都の流行なんていう高い買い物をしなくて済むからな」
外では、雨上がりの風が竹林を揺らし、雫が落ちる音が不規則なリズムを刻んでいた。
豊かさとは、所有の量ではない。
自分を喜ばせる術を、他人の掌から取り戻すことだ。
「……さて。その干し柿、案外悪くねえわ。お前の月給が、少しはマシな味覚に使われてるようで安心したぞ。さっさと帰って、都の泥臭い仕事の中でも、その甘みを腐らせるんじゃねーぞ」
信基は「……っす! この味を忘れない程度に、働いてきます!」と、軽やかな足取りで夜の道へ戻っていった。
夜は更けていく。
いろりのそばには、信基が残した干し柿の、静かで深い贅沢な匂いだけが漂っていた。




