第十八話:執着の果て、あるいは「忘却」という名の極致
都を騒がせていた祭りの余韻も、雨に洗われて消えた。今夜の双岡は、湿った土の匂いと、終わりゆく季節の冷気が静かに庵を浸食している。
そこへ現れた信基は、以前のような「迷い」を纏っていなかった。だが、その代わりに彼は、何かに憑りつかれたような目をして、懐から一振りの小刀を取り出した。第十一話から彼が研ぎ続け、第十三話で生木を削った、あの刀だ。
「……ケンコーさん。俺、自分の『好き』を貫こうとして、ずっとこの刀を見てきました。誰に何を言われても、これが俺の魂だって。でも、そう思えば思うほど、俺はこの刀に縛られてる気がするんす。美学を磨くってのは、結局、自分だけの『宝物』を抱えて、泥沼に沈んでいくことなんすか?」
信基の手は、小刀の柄を指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
俺は、いろりの傍らで冷めきった茶を、一口も飲まずに眺めていた。
「……信基。お前、ついに『美学』という名の、最後の毒に気づいたか。いいか、耳かっぽじって聴け。本当にレベチな領域ってのはな、『大切なもの』を磨くことじゃねえ。それを『いつでも捨てられる』場所に置くことなんだよ。」
俺は、信基の手から無造作に小刀をひったくり、そのまま開け放たれた庭の暗闇へと放り投げた。
カサリ、と枯れ葉の中に消える音だけがした。
「なっ……!?」
信基の身体が、反射的に前へ出た。膝が畳を激しく擦り、指先が空を掴む。だが、小刀はもう闇の中だった。信基は前のめりになったまま、喉を鳴らし、呆然と自分の空の手を見つめた。
「何……何するんすか! 俺がどれだけ時間をかけて……!」
「うるせえな。反射で身体が動いたろ。その瞬間にお前は気づいたはずだ。お前が小刀を握っていたんじゃねえ。お前がその小刀に、握られていたんだよ。」
俺は、いろりの灰を火箸で無造作にかき回した。
「昔な、ある名人がいた。一生をかけて最高の筆を作った男だ。穂先のしなり、墨の含み、紙に触れた瞬間の微かな抵抗まで、すべて自分の指に叩き込んだ。だが、完成した夜、そいつはその筆を川に流した。『筆は流れた。だが、筆の重さは腕に残っている』ってな。本物はな、物を持たねえ。物の中に宿した『感覚』だけを自分の肉体に刻み込んで、物は忘れるんだわ。」
信基は、小刀が消えた暗闇を凝視したまま、震える拳を握りしめた。
「……忘れる。……まだ、拾いに行きたいっす。正直、今すぐ庭に飛び降りたい。でも、拾ったらまた、俺はあれを『俺自身』だって言い始める気がする」
「おう。その『拾いたい』っていう痛みが、お前の美学の正体だよ。だがな、執着ってのは心のゴミだ。 どんなに美しい宝物でも、それを『失いたくない』と思った瞬間に、お前の自由は死ぬ。美学の最後は、持たないことだ。何も持っていないのに、立ち姿だけで何を積み重ねてきたかが滲み出る。そこまで行って、ようやく本物なんだわ。道具に頼ってるうちは、お前はまだメッキなんだ」
信基は、ゆっくりと掌を開いた。月光が、何も持っていないその手を冷たく照らす。
「……刀がなくても、俺が研いできた時間は、俺の腕の中に残ってる。重さも、冷たさも、覚えている。……俺、物を守ることで、自分を守ろうとしてたんすね。でも、本当に大事なのは、刀じゃなくて、刀を研いだ俺自身だったんだ」
信基は、もう小刀を拾いに行こうとはしなかった。その背中は、何も持っていないはずなのに、山のような重厚さと、雲のような軽やかさを同時に纏っていた。
美学とは、自分を完成させるための、最後の一撃だ。守るのではなく、放つ。握るのではなく、忘れる。
「……さて。お前の執着が剥がれたなら、さっさとその空っぽの手で、新しい夜を掴んでこい。道具に頼らず、お前自身の肌で、この世界の寒さを味わってこいよ」
信基は一言も発さず、ただ静かに、けれど深く一礼して去っていった。その足取りは、もはや何にも縛られることなく、闇の中を自在に泳いでいるように見えた。
夜は更けていく。
庭の隅に放られた小刀は、露に濡れていた。
だが、信基の手は、もう濡れていなかった。
彼の中には、鉄よりも鋭く、露よりも澄み切った一振りの刃が、確かに形を成していた。




