第十七話:美の主権、あるいは「共感」という名の監獄
都の祭りは、今夜が最高潮らしい。遠くから聞こえてくる囃子の音には、どこか追い詰められたような狂乱が混じり、双岡の森の木々までもが、その熱に浮かされているように見えた。
そこへ現れた信基は、かつてないほど「自由」に見えた。装束を捨て、完成への固執を捨てた彼は、もはや流行に一喜一憂するような弱々しい若者ではない。だが、その瞳には新しい、そしてより深い「迷い」の霧が立ち込めていた。
「ケンコーさん。俺、自分の『好き』が分からなくなっちまったんす」
信基は、懐から一枚の小さな飾り札を取り出した。祭りで配られていたもので、朱と金で派手に塗られている。
「これ、みんなが『今年一番の趣向だ』って騒いでるものなんす。でも、近くで見ると塗りは荒いし、まだ乾ききってない顔料が指につく。俺の心は、ピクリとも動かない。……でも、周りがあんなに『最高だ』って笑ってるのを見ると、俺が偏屈な人間になっちまったんじゃないかって、不安になるんす」
俺は、いろりの灰を火箸で静かに突き崩し、埋もれていた小さな、不格好な炭を掘り出した。
「信基。お前、ついに『共感』っていう、この世で最も心地よくて、最も残酷な監獄の扉の前に立ったわけだ。いいか、耳かっぽじって聴け。美学ってのはな、『みんなの好き』を理解することじゃねえ。たった一人で、自分の『震え』を守り抜く孤独な闘いなんだよ。 さあ、連想ゲームを暴走させるぞ」
俺は、その飾り札を指先で弾いた。
「他人の評価というレンズを通さないと、ものが見えねえヤツが山ほどいる。評判が良いから、みんなが褒めているから……。そいつらはな、自分の心を他人にレンタルして生きてるんだわ。お前の胸が震える場所を、他人の指で決めさせるな。 感動の主権を他人に握らせてるヤツは、生きてるって言えるか?」
信基は、飾り札についた自分の指先の汚れをじっと見つめた。
「……でも、まだ、誰かに分かってほしいっす。正直、めちゃくちゃ分かってほしい。自分一人だけが『良い』と思ってるなんて、ただの勘違いかもしれないって、やっぱり怖いんす」
「不安でいいんだよ。本当にレベチな感動ってのはな、常に『孤独』なんだ。 昔な、道端の枯れ草をずっと見ていた男がいた。葉は半分ちぎれ、露を吸って黒ずみ、誰にも踏まれそうになっている。誰も足を止めない。だがそいつは、その枯れ草の折れ方に、雨と風と時間が通った跡を見た。周りのヤツらが『あいつは狂った』と笑っても、その震えは偽物じゃねえ。世界中がノーと言っても、俺はこれが好きだと言い切れる、傲慢なまでの自立を誇れ。」
俺は、火箸で火を強めた。
「他人の『エモい』に合わせるな。それはお前の魂を他人の色で塗りつぶす行為だ。共感を捨てろ。その代わりに、圧倒的な『納得』を手に入れろ。自分を説得できるのは、お前自身しかいねえんだよ」
信基は飾り札をそっと畳に置き、代わりにいろりの火を見つめた。
「……分かってもらえないからって、俺の震えまで嘘にする必要はないんすね。俺が震えていれば、それで十分なんだ」
外では、祭りの囃子が一段と激しく鳴り響いた。
だが信基は、もはやその音に耳を貸すこともなく、ただ灰の中で赤く残る小さな炭を見ていた。誰も褒めない。誰も騒がない。それでも、その赤は確かに、彼の胸の奥を震わせていた。
美学とは、自分という主権を奪還するための、静かなる反乱だ。群れるのではなく、立つ。合わせるのではなく、震える。
「……さて。お前の偏屈さが本物なら、さっさと自分の暗闇に戻れ。他人の光に目を焼かれて、自分の影を見失うんじゃねーぞ」
信基は立ち上がった。その眼差しは、誰の許可も必要としない、鋭い光を宿していた。
夜は更けていく。遠くの喧騒は別世界の出来事になり、双岡の静寂の中には、確かな「自立」だけが研ぎ澄まされていた。




