第十三話:一歩踏み出さない、完璧主義の罠
都の霧が晴れた後には、抜けるような青空が広がっていた。
だが、今夜の双岡に現れた信基の足取りは、羽をもがれた鳥のように重い。
彼は庵に入るなり、懐から一振りの小刀を取り出した。第十一話で教えた通り、独りで黙々と研ぎ続けていたのだろう。刃は確かに、月光を鋭く跳ね返すほどに磨き上げられている。
だが、信基はその刃を鞘に収めたまま、膝の上でじっと固まっていた。
「……ケンコーさん。俺、毎日研いでるんす。でも、研げば研ぐほど、まだ足りない気がしてきて。完璧に仕上げてからじゃないと、誰にも見せられない。納得いくまで磨き上げないと、一歩も外に出ちゃいけない気がするんすよ」
信基の指先は、研ぎすぎたせいで皮が薄く剥け、痛々しく赤らんでいた。
「……信基。お前、その刀でいつか何かを斬るつもりはあるのか? それとも、ただの『綺麗な鉄屑』をコレクションして一生を終えるつもりか?」
「え……? だって、中途半端なもんを見せて笑われるのは、もう御免っすよ。完璧に準備して、誰もがひれ伏すような『一振り』になってから……」
俺は、いろりの傍らに転がっていた、湿った生木の端材を手に取った。
「いいか、信基。耳かっぽじって聴け。『完璧に準備してから』なんて言ってるヤツはな、一生スタートラインに立てないんだよ。」
俺は小刀を奪い取り、その生木を無造作に削り始めた。
「昔、ある芸の師匠がいた。弟子が『もう少し上手くなってから座敷に出ます』と言うたびに、そいつは黙って弟子の尻を蹴り、客の前に放り込んだ。声が裏返る。手が震える。客が笑う。そこで逃げるヤツは、それまでだ。恥をかくのを嫌って、部屋に引きこもって練習してるヤツは、一生『練習の達人』で終わるんだわ。」
俺は、削りかけの生木を信基に投げ返した。生木はまだ湿っていて、削られた部分から青臭い匂いが立ち上る。
「刃こぼれしたままでもいい。まず木に当てろ。木に当てなきゃ、その刃が本当に使えるかどうかも分からねえんだよ。完璧主義ってのはな、向上心じゃない。ただの『臆病』なんだよ。傷つくのが怖いから、完璧っていう鎧を一生懸命作ってるだけだ。だがな、完璧を待ってる間に、木は乾く。お前も老いる。時間は、お前の準備が整うまで待ってくれねえぞ。」
信基は、投げ返された木を握りしめた。荒く削られた木の感触が、研ぎすぎた指に刺さる。
「……怖いっす。まだ、笑われるのはめちゃくちゃ怖い。でも、削らないまま腐る方が、もっと怖い気がしてきました。……やってみます。この不格好な木のままで」
「おう。未完成であることを誇れ。 現場で恥をかき、刃をこぼし、それを修正しながらまた研ぐ。そのサイクルを回せるヤツだけが、本当の『強度』を手に入れるんだ。綺麗に研がれただけの、実戦を知らない刀なんて、ただの飾りだぜ」
信基は立ち上がり、小刀を腰に差した。
生木の青臭い匂いを纏ったその顔からは、不自然な強張りが消え、代わりに、泥を被る覚悟を決めた、生々しい熱が宿っていた。
完璧主義という名の、動かない言い訳を捨てる。
それは、未熟な自分を唯一の武器にして、世界に殴り込むための合図だ。
「……さて。覚悟が決まったなら、さっさとその不格好な木を形にしてこい。お前の『練習』に付き合うほど、俺の夜は安くねーんだわ」
信基は「……っす! 下手なりに、暴れてきます!」と、清々しい笑顔で夜の闇へと駆け出していった。
信基が削った木屑が、いろりの火に焼かれて、パチリと小さく、けれど力強く爆ぜた。
その煙は、甘い香の匂いよりもずっと、生きている匂いがした。




