第十四話:時間は、残酷に溶ける
都の祭りの喧騒も、双岡まで来れば遠い地鳴りのようにしか聞こえない。
今夜の空は、薄雲が月の光を濁らせている。空気は重く、庭の隅に落ちた柿が潰れて、腐った果実のような、甘ったるくも不穏な匂いが漂っていた。
そこへ、信基が崩れ落ちるように現れた。
前回の「生木を削る熱」はどこへやら、彼は縁側に手をつき、震える指をじっと見つめている。
「ケンコーさん……俺、何やってたんだろ。今日、宮中でふと鏡を見たとき、自分の顔が驚くほど老けて見えたんす。あれこれ悩んで、準備して、失敗して……そうやって足踏みしてる間に、頬も削げて、目元も淀んで。……俺、このまま何も成し遂げられないまま、終わっちゃう気がして怖いんすよ」
信基の瞳には、死に直面した獣のような、乾いた怯えがあった。
「……信基。お前、やっと『時間の正体』に気づき始めたか。いいか、耳かっぽじって聴け。時間はな、お前が『いつか』と言っている間に、背後から音もなくお前を食い尽くしていく怪物なんだよ。」
俺は、飲みかけの冷えた茶を、畳に一滴垂らした。
茶の一滴は、落ちた瞬間は丸い形を保っていた。だが次の呼吸で、縁からじわりと畳の繊維へと染みていく。もう、二度と元の形には戻らない。
「これが時間だ。落ちたあとで、茶碗に戻せると思うな。世の中にはな、一生を『下準備』だけで終えるヤツが山ほどいる。いつか実力をつけたら、いつか金が貯まったら……。だがな、死はお前の都合なんて一ミリも待っちゃくれねえ。 黒衣を着て遠くから歩いてくるんじゃない。生まれた瞬間から、お前の背中にピタリと張り付いて、ずっと息をかけてるんだよ」
外では、夜鳥が一度だけ鋭く鳴き、静寂がさらに深く沈み込んだ。
「いいか、信基。理想の自分ばかり見て、いまこの瞬間が溶けて消えていく恐怖から目を逸らすな。絶望しろ。そしてその絶望を、最強のエンジンに変えろ。 『明日やろう』は、命を一枚ずつ質に入れる言葉だと思え。明日なんて保証はどこにもねえ。熟すことと腐ることは、紙一重なんだよ。お前も、その柿と同じだ。甘い匂いをさせているうちに、使い切れ」
信基は、自分の手を見つめた。
生木を削った傷跡はまだ残っているが、その手さえも、いつかは土に還る。その当たり前の事実に、彼は初めて戦慄していた。
「……俺、一生が永遠に続くような顔して生きてました。明日がある、来年があるって。……でも、そんな保証、どこにもなかったんすね。いま、この指を動かせること自体が、奇跡みたいなもんだ」
「おう。気づくのが遅いくらいだがな。命が短いと分かったヤツだけが、本物の密度で生きられるんだ。準備なんてしてる暇はねえ。未完成のまま、泥まみれのまま、火が消える前に走れ」
信基はゆっくりと立ち上がった。
怯えは消えていない。だが、その怯えの底に、細い火が灯っていた。限られた時間の中で、それでも何かを削り出そうとする者の火だった。
時間は、残酷に溶ける。
だが、その一滴に魂を込められるヤツだけが、永遠という名の瞬間を掴み取れるんだ。
「……さて。時間がもったいねえだろ。さっさと行け。俺もお前の相手をしてる時間を、思索という名の『贅沢』に使いたいんだわ」
信基は一言も発さず、深く頭を下げ、夜の闇へと疾走していった。
その背中は、死の影を背負いながらも、それ以上に熱い光を放っているように見えた。
いろりの中、最後の一片の炭が白い灰となって崩れ落ちた。
何も残らない。だからこそ、いまこの瞬間の火が、何よりも美しかった。




