第十二話:ガセネタに踊らされる情弱たち
都の空気は、時として淀んだ水のようになる。
一人が石を投げれば、その波紋は事実を飲み込み、実体のない「噂」という名の怪物を育て上げる。今日の双岡は霧が深く、都の輪郭さえもぼやけて見えた。
俺は庵の片隅で、冷え始めた白湯を啜っていた。そこへ、血相を変えた信基が駆け込んできた。
「ケンコーさん! 聞きました!? 今、都じゃ大変なことになってるんすよ! 北の方でとんでもない化け物が出たとか、明日の朝には都が火の海になるって噂で持ちきりっす。みんな逃げる準備を始めてて……俺もどうすればいいか!」
信基の瞳は、恐怖と興奮で泳いでいる。その呼吸は荒く、情報の波に飲み込まれて自分を見失っているのが一目でわかった。
「……信基。お前、その話を誰から聞いた?」
「宮中の連中ですよ! みんな言ってるんす。あちこちで耳にするから、これはもうマジなやつっすよ!」
俺は、飲みかけの白湯を静かに置いた。その動作一つで、庵の空気をわずかに引き締める。
「いいか、信基。耳をかっぽじって、脳みそを冷やして聴け。『みんなが言ってる』ってのはな、この世で最も信用ならないガセネタの代名詞なんだよ。」
俺は、いろりの灰の中に、指で一本の線を引いた。
「噂ってのはな、走るたびに服を着替えるんだよ。最初はたぶん、『北の野で妙な火を見た』くらいだったんだろうな。それが次の辻では『鬼火が出た』になり、三つ目の屋敷では『化け物が火を吐いた』になる。そして宮中に届く頃には、『都が焼ける』だ。お前みたいな情弱が、その膨らんだ影を見て勝手に怯えてるだけなんだわ」
信基は、玄関の方を気にしながらも、俺の言葉に耳を傾けた。
「でも、あんなに大騒ぎしてるんすよ? 全員が嘘をついてるとは思えないっす……」
「全員じゃない。全員が『誰かが言ったこと』をコピーしてるだけなんだよ。 源流を辿れ。その水がどこから流れてきたのかを見ろ。上流が濁ってるなら、下流でどれだけ人が騒いでも、飲むな。他人の口から出たものを、そのまま自分の腹に入れるな。それはお前のマインドを、他人のゴミ捨て場にしてるのと同じだぜ」
外では、霧の奥で何かが爆ぜるような音がした。信基がビクッと肩を揺らし、立ち上がろうとする。
「座ってろ、信基。本当にレベチなヤツはな、情報の海の中で『静止』できるんだ。 世間が騒げば騒ぐほど、一歩引いて、事実という名の冷たい水で頭を冷やす。嘘を嘘と見抜く力、それ以上に『判断を保留する力』こそが、この狂った世界を生き抜く最強のスキルなんだよ」
俺は、冷えかけた白湯を信基の前に置いた。
「熱いうちは舌を焼く。少し冷ましてから飲め。噂も同じだ。お前がやるべきなのは、荷物をまとめて逃げ出すことじゃねえ。自分の目で見たこと、自分の耳で直接聞いたことだけを信じる強さを持つことだ」
信基は、逃げ出そうとしていた自分の膝を見た。まだ震えている。だが、立たなかった。両手で茶碗を包み、湯気が薄くなるのをじっと待つ。
「……俺、見てもないものから逃げようとしてました。みんなが走ってるから、自分も走らなきゃって。恐怖だけをコピーしてたんすね」
「おう。情報の断捨離をしろ。『知らない』ことは恥じゃねえ。『知らないのに分かったフリをして騒ぐ』のが、一番の恥なんだわ。 お前が静かにそこに座っていれば、そのうち霧は晴れる」
霧はまだ晴れない。
だが、晴れるまで走らないと決めた人間の足元だけは、不思議と見える。
信基は白湯を一口飲んだ。
まだ少し熱かった。それでいい。急いで飲まなければ、火傷はしない。
「……茶、いただきます」
信基はようやく落ち着いた笑顔を見せた。
外の霧はまだ深いが、庵の中には、揺るぎない「事実」としての静寂が満ちていた。




