第十九話 選ぶという事
前回のあらすじ 『真の家にお泊りなんて、いつ以来だろうか。おじ様もおば様も良くしてくれる。でも、私はまだ、この家の人じゃないんだ』
「昨夜は、ご迷惑おかけしました。…ありがとうございました」
朝、まだ早い時間。
それでも、もう日は高くなりつつある。
じわりとした熱が肌に纏わるが、海へ抜ける風が肌を緩やかに撫でていく。
ふわりとスカートの裾が揺れ、玄関先に植えられた花たちが、私と一緒にお辞儀をする。
「いいのよ、瑠璃ちゃん。…またいらっしゃいね」
おば様は、いつも優しい。
緩やかな笑顔。
穏やかな声。
いつか…。
「…はい」
私にとって、おば様は憧れ。
こんな女性になれたらって、いつも思ってしまう。
それほどに、私と理想は解離している。
真のうちに来ている時、私は常に猫を被っている。
「布団だろ」
少しでも近づけるよう、立ち居振る舞いをよく見て…
「見直すべきは、まずは食い意地だと思うけど?」
「…真、うるさい」
ひとつひとつ、出来ることを増やしているけど、先はまだまだ…長いわね。
ぷくぅと頬を膨らませるけど、このやりとりが楽しい。
真の軽口も、からかうような笑顔も、私の心を軽くしてくれる。
『変わらないよ』と言ってくれているようで。
だから、ニコリと笑い、改めてお辞儀をして家に帰る。
…と言っても、歩いて5分と掛からないのだけど。
少し歩けば、帰らなかった理由がそこかしこにある。
「…うわっ」
つい眉を顰め、口を半開きにして変な声が出る。
アスファルトの上にある、良く言えばハート型の跡。
大きさは…大きなものは10cmほどもあるかな?
それが、あたりに複数。
大きなものも、小さなものも…。
そして、近くの花壇には掘り返したような跡も。
「…こわ…」
流石に日が昇った後は平気だと思うけど、それでもどこに隠れているかはわからない。
うっかり出会ってしまったら、どんな事になるか、わかったものじゃない。
「嫌だなぁ…猪」
最近、というか私が小学校の頃から増えだした猪。
当初は珍しさがあったけど、畑が荒らされたり、倉庫に飛び込んで来たりと、実害が増えるにつれて、恐怖の方が強くなってきた。
夜遅い時間なんて、どこから猪が飛んで来るか…。
「あ~ぁ…」
そんな現実にため息は出るけど、おかげで昨夜はお泊り出来たと思えば、少しだけ感謝…。
『するわけないじゃない』
まぁそう。
そんな足元を見ても、その先の道を見ても、家までの道のりが変わる訳じゃない。
たっと軽く足を運べば、息を吐くほどの間でしかない。
すぐにバベの木の生垣が見えて来る。
「ただいまっ!」
玄関を開けて、家族に、家に声を掛ける。
僅かに香ってくる、お味噌汁の匂い。
お母さんの匂い。
パタパタとスリッパの音が聞こえ、台所から母が顔を出す。
…ちょっとだけ、心配の影が見えた気がした。
「お帰り、瑠璃」
優しい声。
「…うん、ただいま」
母の声に、ほっとしている私がいる。
…わかるわけ、ないよ、ね?
「…」
え?
「…瑠璃」
え?え?
「…シャワー浴びてらっしゃい」
「…あ、お風呂は、真のうちでいただいて…」
そうは言っても、小さくため息を吐かれてしまう。
「いいから。…ほら」
責めるような目じゃない。
でも、見透かされているような…。
「…はい」
部屋に戻って制服を脱ぎ、替えの下着と一緒にお風呂場へ。
台所からは、ご飯の炊ける匂いが漂ってくる。
『くぅぅぅ…』
小さく鳴るお腹。
…そっか、昨夜はご飯が軽かったから。
…
あっ。
洗面所の鏡を見て、顔に血が昇るのがわかる。
胸元や肩口に何カ所か、桜色になってるところが…。
もしかしたら、服の上からでも見えた?
あわわ…
手近にあるタオルを掴むと、真っ赤になっている顔を埋める。
少しだけ目をあげて見ても、その跡が消えるわけじゃない。
『もう…真ったら…』
赤い顔のままシャワーを浴び、赤い顔のまま食卓に座る。
何も言わず、ただご飯をよそってくれる母。
ご飯とお味噌汁、それから昨夜の肉じゃが。あとはお漬物。
ふわりと香る匂いに、心の奥が凪いでいくのがわかる。
小さく息を吐くと、不意に気持ちが軽くなり、頬が緩んでいく。
「…いただきます」
お味噌汁を啜り、ご飯をひと口。
肉じゃがをひと口食べると、ご飯をもうひと口。
お漬物を口に入れたところで、台所のドアが開いた。
妹の琥珀が起き出してきた。
寝ぼけまなこのまま、私に目を遣り、
「…おはよう、お姉ちゃん」
と、少しだけ微笑んでくれる。
「うん、おはよう、琥珀」
変わらない、毎朝の挨拶。
私の隣に座り、まだ寝足りないのか、大きな欠伸を繰り返す。
そんな琥珀が、今日も可愛い。
「もう、しっかり目を覚ましなさい」
ちょっと肩を竦めながら笑う母。
優しい目。
その手元のフライパンにはベーコンエッグ。
お皿にはサラダとトマト。
「はい、ちゃんと食べて」
「…うん、いただきま…す」
まだ眠そう。
それでも、私が食後のお茶を飲み終える頃には、目も覚めたのか、テキパキと動き出す。
そして一足先に、台所を後にして、学校に行く準備。
琥珀も6年生。
小さい子たちを引っ張るお姉さんに、なっているんだろうな。
お茶を飲み終えると、母が私の正面に座る。
いつもなら父が座る席だけど、今日は…。
…何も言わず、ただ私を見詰める。
息を飲み、まっすぐに背を正す。
ただ黙って座っているだけなのに、なんだろう、この緊張感は…。
「…瑠璃」
母が口を開く。
いつもより、少しだけ声が低い。
「…はい」
詰問される…?
真と、昨夜何があったか…。
つっ…と冷や汗が首筋に流れ、心臓が一度二度を大きく脈を打つ。
「…」
何も言わない。
ううん、言ってくれない。
そう、昔、父に怒られた時も、こんな空気だった。
自分のした事が間違っていたとわかるだけに、この沈黙が怖かった。
でも…
今日は違う。
間違ってたんじゃない。
ただ、早かった…んだと思う。
だって、私たちはまだ高校生。
夏休み前のテストだってあるのに、浮かれてる場合じゃないのよね…。
ごくりと息を飲み、母の次の言葉を待った。
「瑠璃…。今日は、学校へ行くの?」
え?
学校?
「…え?あぁ、うん。…行く、よ?」
少し拍子抜け。
でも、こころなしかほっとしている自分がいる。
よかった…
正直に言えば、胃の辺りの緊張感が抜けていくよう。
ひと息吐いて、頬を緩めてみれば、なんという事も…なかった。
けれど。
母の目は、やや厳しく私を射貫く。
先程よりも少し俯き、眉を顰める。
食卓の上で組んだ手に、僅かに力が入っている…。
「…っ!?」
思わず息を飲み、改めて母の目を見る。
「…」
ふたり言葉も無く、ただ時計の針が時を刻む音だけが流れる。
「瑠璃」
「…はい」
「真くんの事、聞いてるわよね?」
「…はい」
「検査とは言え、入院の事。それから、その後の事も?」
「…はい。転校…するって」
母の表情は変わらない。
「…でも、どこの学校かは聞いてなくって…。まだ決まってない…って思ってた」
「…そう」
小さく息を吐き、視線を逸らす。
…お互いに。
大きく息を吸って、頭をはっきりとさせてから、もう一度母を見る。
今度は、私も聞きたい。
「お母さんは、真が…どこの学校に行くか、聞いてるの?」
問いには答えず、ただ頭を振るのみ。
そう…お母さんも知らないのね。
まだ決まっていないのなら、また会える時間はあるわよね…。
でも。
「瑠璃。転校の事まで知ったうえで、もう一度聞くわね」
改めて、母から問われる。
「今日、あなたは学校に行くの?」
いつもの優しい母の言葉とは、まったく違う。
…私を、『ひとりの人』として、見てくれている…。
だから、私も答えなくちゃいけない。
真の事が大事…ううん、愛してるひとりの人として…。




