第9話:嵐を連れた氷の公爵、玄関先で力尽きる
その男の全身から噴き出していたのは、大気を物理的に凍てつかせるほどの絶対零度の冷気と、視界を毒々しく歪める黒紫色の魔力粒子だった。
北方防衛戦線の最前線、吹雪吹き荒れる黒嶺山脈での長期戦を制し、領都へと軍を退いたばかりのハルデンベルク軍本隊。その総大将たる若き公爵アルヴィス・フォン・ハルデンベルクの肉体と精神は、とうに生物としての限界を遥かに超越していた。
(……ぐ、っ……あ……っ!)
頭蓋の奥底を、何千本もの氷の錐で休みなく滅多刺しにされているかのような、狂おしいまでの激痛。
視界は赤黒く明滅を繰り返し、網膜の裏側で火花が散る。鼓膜の奥では、自らの荒い心音とともに、耳障りな金属の擦れ合う高音がキリキリと響き続けていた。
数年。いや、最後に「睡眠」と呼べる安らぎを得たのがいつだったか、もはやアルヴィス自身の記憶にも残っていない。
大気中に微小な魔力粒子『アエテル』が満ちるこの世界において、強大無比な魔力を持って生まれたハルデンベルクの血筋は、天の恩寵であると同時に、逃れ得ぬ呪いでもあった。
北方国境を魔獣の脅威から守り続けるため、アルヴィスは十八歳で家督を継いで以来、氷系統の殲滅魔法を絶え間なく行使し続けてきた。その代償として、体内の魔力循環は澱み、神経細胞の隅々にまで排出できない魔力の残滓が沈殿していく。
いわゆる、重篤な魔力過密障害――『魔力酔い』の極限状態。
目を閉じれば、自分が氷漬けにして粉砕した無数の魔獣の断末魔と、戦場で散っていった部下たちの血飛沫が網膜に焼き付いて離れない。
横たわれば、過敏になりすぎた神経が床の微小な振動や空気の流れをすべて「敵の襲撃」と誤認し、心臓が跳ね上がる。
睡眠薬をあおれば、肉体の自由だけが奪われたまま意識だけが覚醒し、体内の魔力が暴発しかけるという生き地獄を味わう。
結果として、アルヴィスは「睡眠」という行為そのものを肉体が拒絶するようになり、ここ数年間は、疲労困憊で意識が強制遮断される数十分の「気絶」を繰り返すことだけで、辛うじて生命活動を維持していた。
だが、それも今夜が限界だった。
連日の激戦によって過剰に励起した体内の氷魔力が、もはやアルヴィスの強靭な意志の力をもってしても制御しきれなくなり、内側から肉体を食い破ろうと暴れ狂っていた。
「閣下! アルヴィス閣下……っ!!」
「結界班を呼べ! 鎮静の術式を展開するんだ!!」
本隊の天幕で、副官のユーグをはじめとする近衛騎士たちが悲痛な叫びを上げていた。
しかし、アルヴィスの身体から無意識に放たれる氷の衝撃波は、天幕の支柱を一瞬で凍りつかせ、近づこうとする部下たちの鎧を白く霜で覆い尽くしていく。
これ以上ここにいれば、自制を失った魔力が大爆発を起こし、苦楽を共にしてきた部下たちを一人残らず氷塊へと変えてしまう。
「……私に近づくな……下がれ……っ!!」
裂帛の気迫を込めて部下たちを一喝したアルヴィスは、抜刀しかけた身体の震えを抑え込み、天幕を飛び出した。
陣の前に繋がれていた軍馬の背へ飛び乗ると、手綱を乱暴に引き絞る。
「閣下! どこへ行かれるのですか! 一人で行かれては――!!」
背後で響くユーグの叫び声を、夜風の咆哮が容赦なく掻き消していく。
アルヴィスは馬腹を蹴り、軍用馬を全力疾走させた。
目指したのは、領都とは真逆の方向――人里から遥かに隔絶され、不吉な魔獣の気配が澱む禁足地『常闇の森』だった。
(死ぬのなら……誰の手も届かない、誰も巻き込まない場所で……)
かつて母がそうであったように。
ハルデンベルクの魔力に精神を呑まれ、狂い死んでいった一族の哀れな先人たちと同じように、自分もまた、理性を失った化け物として果てるのだ。
それだけは許せない。帝国最強の騎士として、ハルデンベルクの当主として、己の暴走で無辜の民や忠義の部下を傷つけることだけは、死んでも受け入れられなかった。
馬の蹄が湿った土を激しく跳ね上げる。
木々が生い茂る暗闇の中へと突入すると、外気はさらに重苦しく、ジメジメとした毒気を含んだものへと変わっていった。
しかし、アルヴィスの体内から吹き荒れる魔力の冷気は、森の瘴気すらも白く凍らせていく。通過した木々の幹には鋭利な氷柱が走り、足元の雑草はガラス細工のように粉々に砕け散った。
「ヒヒィィィンッ!」
やがて、アルヴィスの全身から立ち上る異常な殺気と冷気に耐えかねた愛馬が、前足を高く上げて悲鳴を上げ、立ち往生した。
馬をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
アルヴィスは手綱を放し、鞍の上から転がり落ちるようにして地面へと着地した。
「……行け。陣へ……戻れ……」
掠れた声で愛馬の尻を叩き、逃走させる。
森の奥に取り残されたアルヴィスは、腰の長剣を鞘ごと大地へ突き立て、辛うじて前のめりに倒れるのを踏みとどまった。
(……あ、ぐ……っ、身体が……内側から、凍りついていく……)
極度の寒気と、相反するような高熱が全身の血管を駆け巡る。
皮膚の表面には青白い氷の結晶がびっしりと浮き上がり、鎧の革ベルトが凍結してパキパキと音を立てていた。呼吸をするたびに、肺の奥がガラスの破片を吸い込んだようにズキズキと痛む。
もはや自決するしかないのか。
剣を抜き、自らの心臓を貫けば、この地獄のような頭痛から解放されるのだろうか。
冷たい鋼の柄を握る指先に、微かな力がこもる。
だが、その時だった。
(……ん……?)
濁り切ったアルヴィスの意識の端に、奇妙な違和感が引っかかった。
森の奥深く。本来ならば魔獣の呻き声と、澱んだ瘴気特有の腐敗臭が満ちているはずの常闇の森の深部から――あり得ない「風」が、ふわりと吹き抜けてきたのだ。
サワサワと木々の葉を揺らしながら届いたその風は、冷たくなかった。
むしろ、春の終わりの、柔らかい日差しをたっぷり吸い込んだ草地のような、穏やかで乾いた温もりを帯びている。
そして、鼻腔をかすめた匂い。
(……何だ、この香りは……? 干し草……? それに、これは……リンゴ……いや、野の花か……?)
青リンゴに似た甘く澄んだカモミールの香りと、神経の尖りをすっと撫で下ろしてくれるような、清涼な紫の薬草の匂い。
さらにその奥に、太陽の光を浴びて温まった清潔な布の匂いがあった。
血生臭い戦場と、湿ったカビ臭い森の空気しか知らなかったアルヴィスの鼻腔に、その芳香はあまりにも異質で、あまりにも強烈な引力を持って染み込んできた。
アルヴィスは縋り付くように顔を上げ、重たい脚を一歩、前へと踏み出した。
足がもつれ、木の幹に肩をぶつけながらも、香りの元へと引き寄せられていく。
そして――ある境界線を跨いだ瞬間。
アルヴィスの世界が、劇的に一変した。
「……っ!?」
ピタリ、と。
まるで別の空間に足を踏み入れたかのように、森のざわめきが凪いだ。
肌を刺すような湿った冷気が完全に消え去り、大気を満たす魔力粒子『アエテル』の乱れが、水面のように静かに平滑化されている。
常闇の森特有のドロリとした邪悪な気配は一片たりとも存在せず、そこにはただ、手入れの行き届いた庭園のような、透き通った清浄な静寂だけが広がっていた。
その空間の中心。
木々の切れ間に佇んでいたのは、古びた、けれど驚くほど手入れの行き届いた、小さな木造の山小屋だった。
周囲の木々は綺麗に枝打ちされ、足元にはふかふかに耕された家庭菜園の黒土が広がっている。
屋根からは細い煙突が伸び、そこから薪の燃える香ばしい匂いが微かに立ち上っていた。
そして何より――木枠の小さな窓から、漏れ出していた光。
魔導具の放つ冷たい青白さではない。
かまどの炎と、小さな油ランプが放つ、やわらかな山吹色の温かな明かり。
窓越しに見えるその光は、まるで「ここにおいで」と静かに語りかけているかのように、夜の森の中でぽつんと、けれど確かな存在感を持って揺らめいていた。
(……人が、いるのか……? こんな……呪われた森の、奥深くに……?)
アルヴィスの思考は、もはや正常な判断力を失っていた。
これが何者かの仕掛けた幻術なのか、死に瀕した脳が見せている都合のいい夢なのか、それすら判別がつかない。
ただ、あの光の輪の中へ行きたい。
あの温かな匂いが満ちる場所へ、一歩でも近づきたい。
乾き切った砂漠を彷徨う旅人が、オアシスの水面を求めるように、アルヴィスは千鳥足で小屋へと歩み寄っていった。
ザッ、ザッ……。
手入れされた敷石を踏みしめる音が、やけに大きく耳に響く。
一歩進むごとに、アルヴィスの身体を苛んでいた魔力嵐の圧力が、外気によって優しく減衰されていくのがわかった。
小屋の周囲に張り巡らされた、千尋の無自覚な【住空間の調律】による絶対沈静フィールド。それが、アルヴィスの体内で暴れ狂っていた氷魔力の棘を、外側からそっと包み込み、角を削り落としていく。
激痛が、わずかに和らぐ。
だが、それは同時に――張り詰めた極限の緊張感だけで辛うじて身体を支えていたアルヴィスの精神の防壁が、ガラガラと崩れ落ちる合図でもあった。
(……あ……)
小屋の玄関ポーチ、木製の階段を一段、二段と上がった。
目の前には、頑丈な木の扉。
足元には、丁寧に編まれた麻の玄関マットが敷かれている。
そのマットのほんの数センチ手前まで辿り着いた時、アルヴィスの膝から、完全に力が抜け落ちた。
ガクンッ、と関節が折れる。
愛剣を杖にして踏みとどまろうと、震える腕で柄に体重をかけた。
しかし、指先は感覚を失っており、鞘が敷石の上をツルリと滑る。
カンッ、と硬質な金属音が夜の静寂に響き渡った。
(……ダメ、だ……立って……いられな……)
視界が急速にブラックアウトしていく。
けれど、先ほどまでのような、死の恐怖と激痛を伴う暗闇ではなかった。
鼻腔を満たすのは、窓の隙間から漏れ出てくる、甘いカモミールとお日様の匂い。
皮膚を撫でるのは、厳冬の吹雪ではなく、春の陽だまりのような優しい空気。
温かい。
痛くない。
安らかだ。
帝国全軍から「冷徹無比なる氷の騎士」と恐れられ、何万人もの命運を背負い続けてきたハルデンベルク公爵は、その場にどうと倒れ込んだ。
ドスン――。
重厚な鋼の鎧と、長身の肉体が、玄関ポーチの敷石を鈍く打ち据える。
愛剣が手から転がり落ち、乱れた白銀の長髪が、土で汚れた石の上に散らばった。
玄関マットのわずか手前。
アルヴィスは意識の糸を完全に手放し、深い、底なしの暗闇の中へと崩れ落ちていった。
その直後――。
バタン、と勢いよく、小屋の扉が内側から開け放たれた。
「……ちょっと! 今の物音、何!?」
手作りのルームシューズを履き、腰にエプロンを巻いた千尋が、不審そうに玄関から顔を覗かせた。
その足元には、血と泥にまみれ、微かな氷の魔力粒子をまとったまま意識を失っている、息を呑むほど美貌の大男が、無残に転がっていた。




