第10話:どれほど美形でも、泥足での入室は断固拒否
ドスン――ッ、という、まるで大岩が叩きつけられたような鈍い重低音が響いた時、千尋はちょうど台所で、ルゥの飲み残したホットミルクの器を洗っていたところだった。
ピシリと背筋が伸びる。
ただの小動物が転がり込んできた音ではない。大の男が全体重を預けて倒れ込んだような、生々しく不穏な振動が床板を通じて足裏へ伝わってきたのだ。
「……な、何事!?」
千尋は素早く布巾で水気を拭い、足元のルームシューズをサクッと鳴らして玄関へと小走りで向かった。
ベッドの足元で湯たんぽを抱きかかえて丸まっていたはずのルゥも、異様な気配を察知したのか、音もなく布団から這い出て千尋の足元へと追従してくる。小さな身体を低く屈め、白銀の毛を逆立て、咽喉の奥から「グルルル……」と小さく低音の唸りを漏らしていた。さっきまでの甘えん坊な子犬の風情は微塵もなく、神獣としての鋭い警戒心が露わになっている。
「ルゥ、ちょっと後ろに下がってて」
千尋はルゥを手で制しながら、頑丈な木の扉のかんぬきに手を掛けた。
木枠の隙間から漏れてくる外気は、雨上がりの冷気とは明らかに異質だった。針の先で刺されるようなチリチリとした冷徹な魔力の残滓。ほんのわずかに扉を引いただけで、凍てつくような氷の粒子がフワリと室内に吹き込んできた。
意を決して、扉を大きく引き開ける。
三日月が照らし出す青白い夜の闇の中、千尋の視界に飛び込んできたのは――玄関ポーチの敷石の上に、前のめりに倒れ伏している一人の巨大な人影だった。
「……っ!?」
思わず息を呑む。
身長は優に百八十センチ台後半はあるだろう。肩幅の広い頑丈な体躯は、漆黒と銀で鍛造された重厚な金属鎧に包まれていた。しかしその鎧は無数の深い刃傷で削り取られ、胸当てから肩口にかけて、どす黒い血痕がべっとりとこびりついている。
乱れた長髪は、月の光を浴びて淡く青みがかった白銀色に輝いていた。
石畳に横たえられた顔が、外灯代わりに掲げた油ランプの光に照らし出される。
その瞬間、千尋の思考が一瞬だけ停止した。
(……な、にこの人……映画のセットから抜け出してきたの……?)
息を呑むほどに、整った顔立ちだった。
一分の隙もなく通った高い鼻梁、刃物のように鋭く美しい顎のライン、彫刻家が一生をかけて彫り上げたかのような完璧な骨格。硬く結ばれた薄い唇は、極度の冷えと失血のせいで紫がかってはいたが、伏せられた長い睫毛は白銀の髪と同じ色をしており、陶器のように白い頬に繊細な影を落としている。
泥と血にまみれ、死神のような凄絶な気気を纏っていながらも、隠しようのない高貴さと圧倒的な美貌が、見る者を射竦めるような凄みを放っていた。
普通の女性なら、あるいは前世の千尋であっても、夜の森に突如現れた血だらけの超絶美形騎士を目にすれば、恐怖で悲鳴を上げて扉を閉めるか、あるいはその美しさに息を呑んでオロオロと立ち尽くしていたことだろう。
足元のルゥに至っては、男の全身から微かに立ち上る強大無比な氷の魔力波長を感じ取り、「こいつ、ただ者ではないぞ……!」と金色の瞳を険しく光らせて身構えていた。
だが。
千尋の視線が、男の美貌に留まっていたのは、ほんの二秒に過ぎなかった。
千尋の目は、吸い寄せられるように、男の『足元』へと滑り落ちていった。
そして――千尋の眉毛が、これ以上ないほど不快そうにギュッと吊り上がった。
「…………ちょっとぉぉぉぉぉぉっっっっ!!!!」
夜の静寂を切り裂く、怒気に満ちた叫び。
千尋の指先が、男の脚部をビシッと指差した。
「泥!! 信じられないくらいの赤泥!! しかも氷と枯れ葉が混ざってガッチガチに固まった超極悪なやつ!! 私がさっき、腰を痛めそうになりながらデッキブラシで磨き上げたばかりの玄関ポーチの敷石に、べったり擦りつけてるじゃないのぉぉぉぉっ!!」
――え……?
足元で臨戦態勢をとっていたルゥが、カクンと首を傾げて千尋を見上げた。
美貌への感嘆でも、重傷者への哀れみでも、魔力への恐怖でもない。
元社畜OL・小早川千尋の怒りの沸点は、完全に『掃除したばかりの住空間を汚されたこと』一点に絞られていた。
「玄関マットの手前で力尽きたのだけは褒めてあげるけど! あと五センチ進んでたら、室内マットに泥が直撃するところだったわよ! あーもう、何なのよこの大型ゴミ……じゃなくて行き倒れは!!」
千尋はエプロンのポケットから作業用の厚手の手袋を取り出し、両手に勢いよくはめた。
ためらいも、逡巡も、躊躇もない。
千尋は敷石の上にズカズカと踏み出すと、男の腰回りに手を伸ばした。
まず目についたのは、男の肩から足首までを覆っていた、返り血と泥と木の枝でボロボロになった重厚な黒マントだった。高級な獣毛で織られた一品であることは素人目にも分かるが、今の状態では雑菌と汚れの温床でしかない。
「こんな汚れた布、室内に一ミリたりとも持ち込ませないわよ!」
千尋はマントを留めていた銀の留め具を容赦なく外すと、布地を一気に剥ぎ取った。バサリと広がる血生臭い匂いに顔をしかめつつ、玄関ポーチの外、雨上がりの雑草の上へとポイッと放り投げる。
そして、本丸の攻略だ。
千尋は男の足元に回り込み、仁王立ちになった。
男が履いているのは、膝下まで覆う分厚い本革のロングブーツ。北方戦線用の特注品らしく、靴底には雪中行軍用のスパイク金具が打ち込まれ、溝という溝に粘土質の赤泥と小石がぎっしりと詰まっていた。泥はアルヴィスの放つ冷気でカチカチに凍りつき、悪質なセメントのようになっている。
「ふんっ……! 頑丈そうないい革靴だけど、泥足での入室は我が家では死罪に値するのよ!」
千尋は腰を落とし、男の右足の足首を両手でしっかりと掴んだ。
ロングブーツの側面に並ぶ頑丈な真鍮のバックル。凍りついて固くなっていた金具を、親指の腹で力任せに押し上げてパチンパチンと外していく。
金具がすべて外れたところで、男の踵を自分の両腿で挟み込み、全身の体重を後ろへと預けた。
「ぬ……っ、ぐぐぐぐ……っ! 重ったい靴ね、これ!! 抜けなさいよ……せい、のっ!!」
ズボォッ!!
小気味よい音を立てて、泥まみれのブーツが男の足から引っこ抜けた。
勢い余って尻餅をつきそうになりながらも、千尋は電光石火の早業で左足のブーツにも取り掛かる。バックルを外し、足首を固定し、背筋のバネを使って一気に引き抜く。
ズボッ!
両足の泥ブーツを無事に脱がせると、千尋はそれらを玄関ポーチの端、泥落とし用のスノコの上へと蹴り飛ばすように並べた。
「ふぅ……! これで第一関門突破。……次は、中へ運び入れなきゃ」
ブーツを脱がせたことで露わになったのは、履き古した厚手のウール靴下に包まれた足先だった。幸い、靴下自体は泥に汚れておらず、室内に入れても問題なさそうだ。
しかし、問題はここからだった。
身長百八十数センチ、筋肉質で分厚い胸板、さらに全身を覆う鋼鉄の鎧。総重量はおそらく百キロを優に超えている。華奢な千尋の腕力だけで、この大男を持ち上げるなど物理的に不可能だった。
だが、千尋はインテリア雑貨メーカーで六年間、倉庫での家具の搬入や検品作業を幾度となくこなしてきた叩き上げの事務職である。重量物の扱いとテコの原理、摩擦の軽減についてはプロ並みのノウハウを持っていた。
「よいしょ……っと」
千尋は小屋の中から、大掃除の時に使った丈夫で滑りの良い麻の敷布を一枚引っ張り出してきた。
それを男の背中の下に半分ほど丸めて押し込み、男の身体をクイッと横向きに倒す。敷布の残りを反対側へ引き出し、男を再び仰向けに戻せば――あっという間に、男の身体の下に敷布が敷き詰められた。
「よし。ルゥ、そこどいててね!」
千尋は敷布の端を両手でしっかりと握り込み、足を踏ん張った。
敷石と麻布の摩擦を利用し、ズズズ……と男の身体を滑らせていく。
玄関の段差には、あらかじめ平らな木板を斜めに渡して即席のスロープを作っておいた。
「せーのっ! よい、しょぉぉぉぉっ!!」
千尋が渾身の力で引っ張ると、男の巨躯はスロープを滑り上がり、ツルリと玄関の敷居を越えて室内へと引きずり込まれた。
ピカピカに磨き上げられたパイン無垢材の床。
千尋は男を敷布に乗せたまま、居間の中央、かまどの温もりが届く一番日当たりの良い板の間へと滑らせて配置した。
床板には一切の傷も泥も付いていない。完璧な搬入作業だった。
「……はぁ、はぁっ……! 重かったぁ……! 前の職場で輸入家具のオーク材ダイニングテーブルを運ばされた時以来の重労働だわ……」
千尋は額の汗を手の甲で拭い、息を整えた。
板の間に横たわる男を見下ろす。
室内の柔らかな灯りの下に連れてくると、男の衰弱ぶりはさらに痛々しく浮き彫りになった。
荒い呼吸を繰り返す胸元。喉の奥からは「ヒュウ、ヒュウ」と掠れた喘鳴が漏れ、唇は乾ききって血の気を失っている。
何より異様だったのは、男の額や首筋から吹き出している汗が、肌に触れた瞬間に白く凍りつき、微小な霜となってキラキラと弾け飛んでいることだった。
体温が極端に乱れているのだ。内側から湧き上がる冷気と、疲弊しきった肉体の熱が衝突し、自律神経が完全に崩壊しかけている。
(……この人、ただ怪我をしてるだけじゃない。身体の中が、すごく苦しそう……)
千尋の胸に、先ほどまでの怒りとは違う、ぎゅっと締め付けられるような痛みが走った。
この顔、この呼吸。
かつて、繁忙期の終電間際のオフィスで、過労とストレスのあまりデスクに突っ伏して過呼吸を起こしていた同僚の姿と重なったのだ。あの時も、誰も助けてやれず、ただ救急車が来るのをオロオロと待つことしかできなかった。
「……待ってて。今、楽にしてあげるから」
千尋は手早く腕まくりをし、台所へと走った。
かまどには、先ほど沸かしたばかりの清潔な井戸水が、鉄鍋の中で湯気を立てている。
千尋は木製の洗面器にその湯を半分ほど注ぎ、井戸の冷水を足して、手首の内側を浸けて温度を測った。熱すぎず、ぬるすぎない、人が最も心地よいと感じる四十度前後の適温。
そして、千尋は棚の小瓶から、自家製の「ラベンダー蒸留水」を取り出した。
昨日、森の群生地から手摘みし、調律スキルを使って不純物を取り除きながら水蒸気蒸留で作った、最高純度のアロマウォーターだ。
その透明な琥珀色の雫を、洗面器のぬるま湯へ、ポタリと一滴落とす。
ポチャン……。
波紋が広がった瞬間、浴室用のアロマスチームのように、ふわりと澄んだ香りが立ち上った。
ラベンダー特有の、深く心を鎮める穏やかなフローラル香。そこに、千尋の【住空間の調律】による「精神安定の波長」が、水分子と一体化して溶け込んでいく。
千尋は清潔な麻のタオルを洗面器に沈め、たっぷりと湯を含ませた。
両手でキュッと固く絞る。立ち上る湯気そのものが、極上のアロマディフューザーのように甘く香る。
千尋は男の枕元に膝をついた。
男の表情は、依然として悪夢に苛まれているかのように険しく歪んでいた。眉間には深い縦じわが刻まれ、奥歯をギリギリと噛み締め、無意識のうちに拳を握りしめている。その指先からは、今にも暴発しそうな氷の魔力粒子がピキピキと音を立てていた。
「大丈夫よ。痛いこと、何もしないからね」
千尋は囁くように声をかけながら、温かい蒸しタオルを両手で広げ、男の額の上にそっと乗せた。
ジュウ……と、微かな湯気が男の額から立ち上る。
凍りついていた皮膚の表面が、ぬるま湯の柔らかな熱によって、優しく解きほぐされていく。
千尋はタオルの上から、指の腹を使って、男の眉間の強張りをゆっくりと外側へ向けて撫で下ろしていった。
「ふう……っと息を吐いて。力を抜いていいのよ」
千尋の指先から、調律の光がタオルの水分を媒介にして、男の皮膚の奥深くへと浸透していく。
タオルを折り返しながら、千尋は丁寧に男の顔を拭っていった。
まずは額。こびりついていた汗と土埃を優しく拭い去る。
続いて、閉ざされた瞼の上。男の長い睫毛に付着していた霜の結晶が、タオルの温もりで露となって溶け落ちていく。
高い鼻筋を滑り降り、引き結ばれた唇の端、そして血痕の付着していた頬骨の上へ。
ゴシゴシと擦るような乱暴さは微塵もない。
皮膚を傷つけないよう、タオルの繊維の柔らかさを最大限に生かし、汚れだけを吸い取らせるようにポンポンと優しく押さえていく。
汚れが落ちるたびに、タオルの下から現れたのは、驚くほど透き通った白磁のような肌だった。戦火を潜り抜けてきたとは思えないほどキメが細かく、月光を反射して青白く発光しているかのようだ。
千尋はタオルをもう一度ぬるま湯に浸して固く絞り直し、今度は男の首筋へと手を伸ばした。
鎧の襟元の留め具を緩め、汗と泥で汚れていた喉元を露わにする。
首筋にタオルを当て、頸動脈の走るラインを、上から下へとゆっくりと温めていく。
ラベンダーの蒸気が、男の鼻腔へとダイレクトに吸い込まれていった。
その瞬間だった。
「……っ……ん……」
男の喉から、掠れた吐息が漏れた。
氷のように頑なだった男の身体から、フッと目に見えて力が抜けたのだ。
ギリギリと噛み締められていた奥歯が解け、握りしめられていた拳が力なく開かれる。
そして――何年間も消えることのなかった、眉間の深い苦悶の皺が、温かいタオルの感触とラベンダーの香りに包まれて、まるで奇跡のように、ふわりと平らに伸びていった。
男の寝顔は、先ほどまでの冷徹な修羅の表情から一変し、まるで長旅を終えた旅人のような、静かで無防備なものへと変わっていた。
荒れ狂っていた呼吸は穏やかなリズムを取り戻し、肌から噴き出していた氷の魔力嵐も、すっかり鳴りを潜めている。
「……よし。ずいぶん顔色が良くなったわね」
千尋は安堵の息を吐き、洗面器のタオルをすすいだ。
水は泥と血で赤黒く濁っていたが、男の顔は見違えるほど清潔になり、本来の神々しいまでの美貌を取り戻していた。
足元でずっと見守っていたルゥが、トコトコと歩み寄ってきて、男の顔の匂いをフンフンと嗅いだ。
先ほどまでの敵意は消え、「ふーん、千尋に手入れされたんだ」とでも言いたげに、男の脇腹のあたりに前足をチョンと乗せている。
千尋は汚れた水を片付け、腰に手を当てて、床の上で静かに眠る美形騎士を見下ろした。
呆れるような溜息が、自然と口をついて出る。
「……全く。どれだけ国宝級の美形だろうが、死にかけの重傷者だろうが……私の家に入るときは、土足厳禁のルールだけは絶対に曲げられないんだからね」
そう呟きながらも、千尋の口元には、どこか満足げな笑みが浮かんでいた。
しかし、まだ手入れは終わっていない。
冷たい板の間に寝かせたままでは、せっかく落ち着いた身体がまた冷え切ってしまう。
「次は……寝床ね。私の特製ベッド、少しだけ貸してあげるわ」
千尋は腕まくりをし直し、奥の干し草ベッドへと視線を向けた。




