第11話:アルヴィス、ラベンダー香るリネンシーツと千尋の手作りアイマスクの前に抗えず、数年ぶりの完全気絶(熟睡)
蒸しタオルで泥と血を拭い去ったとはいえ、このまま冷たい板の間に放置しておくわけにはいかなかった。
男の呼吸は先ほどより幾分か穏やかになったものの、依然として全身を覆う鋼鉄の甲冑は冷え切っており、夜気の寒さを吸い込んで霜を呼び戻そうとしている。金属の板に締め上げられたままでは、血流が滞り、せっかく解けかけた筋肉が再び強張ってしまうのは目に見えていた。
「……まずは、この重苦しい缶詰状態をどうにかしなきゃね」
千尋は腕まくりをさらに一段引き上げ、男の胸元に屈み込んだ。
インテリア雑貨メーカーでの商品管理時代、重厚なアイアン家具や組み立て式のスチールラックを日常茶飯事で解体・搬入していた千尋にとって、金具やビスの構造を見抜くことはお手の物だ。
男の鎧を観察すると、胸当ての側面と肩口に、精巧に細工された銀色のバックルと革ベルトが組み込まれていた。戦場ですぐに着脱できるよう工夫された、極めて機能的な軍用設計だ。
「よし、ここを外して……横のピンを抜けば……」
カチャリ、パチン。
手際よくベルトを外し、接続金具をスライドさせていく。
前胴と背当てが分かれ、ずっしりとした手応えとともに胸甲が外れた。千尋はそれを床に傷がつかないよう慎重に脇へどかす。続いて肩当て、腕甲、太ももを保護していた草摺を、パズルのピースを解くように外していった。
鉄の重みから解放された男の身体は、薄い上質な黒のリネンシャツと、動きやすさを重視した細身のトラウザー姿になった。鎧の下から現れたのは、無駄な贅肉など一切ない、鋼のように引き締まった見事な体躯だった。広い肩幅から引き締まった腰へと続く逆三角形のラインは、厳しい修練を長年重ねてきた騎士そのものだ。
「……ふぅ。これでだいぶ軽くなったはず」
千尋は居間の奥に設えた、自慢の『ハーブ入り干し草ベッド』を見やった。
本来は自分一人が寝るためのシングルサイズだが、横幅はゆったりと取ってある。千尋は再び麻の敷布の両端を握り込み、テコの原理と体重移動を駆使して、男の身体をベッドの縁へと引き寄せた。
「せーのっ……!」
腰を落とし、男の背中を抱え上げるようにして、弾力のあるマットレスの上へと転がす。
サクッ、シャク……。
乾燥した草同士が擦れ合う、耳に心地よい乾いた音が部屋に響いた。
男の巨躯が、天日干しされた干し草の山へと深く沈み込んでいく。千尋は男の長い足をベッドの上に持ち上げて揃え、枕の位置に頭部が収まるよう、後頭部をそっと持ち上げて微調整した。
その時――男の意識の最深部では、依然として凄まじい地獄が続いていた。
(……熱い……いや、冷たいのか……? 身体が、裂ける……っ)
アルヴィスの精神は、暗黒の底に沈んだまま、荒れ狂う魔力の嵐に苛まれ続けていた。
視界を埋め尽くすのは、北方戦線で浴びた夥しい返り血と、吹雪の中で砕け散った氷塊の残像。耳の奥では、自らが討ち取った魔獣たちの怨嗟の叫びと、魔力過密障害によって焼き切れそうになった神経の悲鳴が、金切り音となって反響している。
休むな。眠るな。
目を閉じれば、体内の氷魔力が内側から血管を突き破り、理性を呑み込んで狂気へと堕ちる。
眠ることは即ち、死だ。
何年ものあいだ、アルヴィスの魂を縛り付けてきた呪いのような強迫観念が、昏睡の淵にあってもなお、彼の全身の筋肉を硬直させ、奥歯をギリギリと噛み締めさせていた。眼球は閉じた瞼の裏で急速に動き、悪夢の幻覚に怯えるようにピクピクと痙攣している。
しかし――そんなアルヴィスの凍てついた絶望を、下から受け止めたものがあった。
(……ん……? 何だ……これは……?)
硬い冷たい地面ではない。
身体が、ふわりと宙に浮いたかのように沈み込んでいた。
後頭部、肩甲骨、背骨の隆起、重たい腰回り、そして逞しいふくらはぎ。
日中の強烈な太陽光を浴びて膨らんだ何万本もの干し草の繊維が、アルヴィスの体重の圧力を均等にいなし、全身の毛細血管を圧迫することなく、まるでオーダーメイドの型枠のように優しく包み込んでいた。
さらに、肌に触れている布地。
それは、千尋が【住空間の調律】によって微小な毛羽立ちを完全に寝かせ、糊の効いた清潔な状態で天日干ししたばかりの、純白のリネンシーツだった。
汗ばんだシャツ越しにも伝わってくる、サラリとした乾いた清涼感。
擦れるたびに、まるで日向ぼっこをしている猫の背中に触れているかのような、素朴で香ばしい「お日様の匂い」が立ち上る。
だが、それでもアルヴィスの頑なな神経は、長年の防衛本能を解き放つことができなかった。
眉間には再び深い溝が刻まれ、閉ざされた瞳の奥で、過熱した視神経がズキズキと激しい拍動を打っている。
頭蓋の奥で暴れる魔力の棘が、睡眠へと向かおうとする意識を無理やり覚醒の側へと引き戻そうとしていた。
「……あーあ。眉間にそんなシワ寄せてたら、いい夢も見られないわよ」
枕元に立った千尋が、困ったように細い眉を下げて溜息をついた。
その顔色は、前世で徹夜続きのまま重要プレゼンを控え、カフェインと頭痛薬の過剰摂取で目を充血させていた後輩男子の姿にあまりにも酷似していた。
眼球の奥が焼け付くように熱く、こめかみが脈打って、目を閉じていること自体が苦痛になる――社畜特有の、極度の眼精疲労と自律神経の過覚醒状態。
「そんな時はね、これに限るのよ」
千尋は台所のかまどへと向かった。
昨日、大掃除の合間に作っておいた「秘密兵器」を、乾物入れの木箱から取り出す。
それは、森の開墾地で見つけた野生の乾燥小豆に似た赤紫の豆と、天日干しした最高品質のドライラベンダーの花弁を、目の詰まったリネンの細長い袋にぎっしりと詰め込んだ、特製の「温熱ハーブアイマスク」だった。
千尋は平たい陶器の皿にアイマスクを乗せ、熾火の残るかまどの遠火の灰の上へと置いた。
直火で炙るのではなく、灰の輻射熱を使って、豆の内部に含まれる天然の水分をゆっくりと加熱していく。
ほんの二分ほどで、皿の上から立ち上る空気が揺らぎ始めた。
小豆が温まることで生じる、どこか炊きたての穀物のような甘く香ばしい蒸気。そこに、熱で活性化したラベンダーのエッセンシャルオイルが混ざり合い、濃厚で、けれど決して鼻につかない、深遠な癒やしのアロマが部屋いっぱいに漂い出す。
「よし、ちょうどいい温度。……アチチッ」
千尋は布の両端をつまんで皿から持ち上げ、手のひらで軽く叩いて温度を均一にならした。
熱すぎず、人肌より少し高い四十二度前後の絶妙な湿熱。
化学薬品で作られた使い捨てのカイロとは根本的に違う。豆類が抱え込んでいる純粋な水分が熱せられて生じる蒸気は、粒子のきめが細かく、皮膚の奥深くまで熱を届ける力を持っていた。
ベッドの脇に戻った千尋は、苦悶の表情を浮かべる男の顔を覗き込んだ。
「失礼するわね。ちょっと重たいけど、我慢して」
千尋は温められたリネン袋の両端を持ち、男の固く閉ざされた両目の上へと、そっと水平に横たえた。
サリ……と、豆同士が擦れ合う重厚な音が鳴る。
その瞬間――アルヴィスの肉体に、目に見えるほどの衝撃が走った。
「……っ……!?」
男の喉仏が小さく跳ね、息が止まる。
まず訪れたのは、小豆ならではの「ずっしりとした適度な重み」だった。
何万粒もの滑らかな小豆の粒が、瞼の丸み、眼窩の窪み、眉頭のツボの形に合わせて自在に流動し、過敏になりすぎて今にも飛び出そうだった眼球を、まるで見えない神の手のように優しく、均等な圧力で押さえ込んだのだ。
そして、間髪入れずに押し寄せてきたのは――圧倒的な「湿熱」の波だった。
ジュワァァァァ……と、熱い雫が毛穴から染み込んでくるかのような感覚。
乾いた熱ではない。小豆から放出される微細な温小蒸気が、目の周囲の皮膚を潤しながら、瞬時に皮下組織を通過し、眼球の裏側で張り詰めていた毛細血管と視神経の束を、直接包み込んでいく。
(……な……何だ……温かい……? いや……熱が……奥まで、溶かしていく……?)
さらに、鼻腔を直撃したラベンダーの香り。
温められたことで爆発的に揮発した紫の花のアロマが、呼吸器を通じてダイレクトに大脳へと届く。
千尋の【住空間の調律】が込められたその香気は、ただのリラクゼーションの域を遥かに凌駕していた。それは乱れ狂う魔力の波長を、絶対零度の静寂へと導く原初魔法の響きそのものだった。
頭蓋の奥で、キリキリと金属音を立てていた偏頭痛の針が、一本、また一本と、蒸気の中に溶けて消えていく。
過剰に励起し、全身の血管を焼き切ろうとしていた氷の魔力嵐が、小豆アイマスクの温もりとハーブの香りに触れた瞬間、猛毒を抜かれた蛇のように大人しく萎んでいった。
何年間も、アルヴィスを苛み続けてきた生き地獄。
王立魔導院の最高顧問が処方した劇薬の鎮静薬も、大神殿の白衣の大司教が三日三晩祈祷を捧げた高位浄化結界も、この狂気の発作を止めることはできなかった。
誰もが「ハルデンベルクの呪い」「いずれ発狂して死ぬ運命」と匙を投げたその激痛が――。
今、目の前に乗せられた、たった一本の温かい布袋の前に、跡形もなく崩れ去っていく。
(……痛みが……ない……? 耳鳴りが……消えた……?)
アルヴィスの思考が、急速に輪郭を失っていく。
抵抗しようにも、身体が動かない。
背中を支える干し草の圧倒的な柔らかさ。
肌を撫でるリネンシーツの清潔な感触。
目元を包み込む、重たく温かな小豆の湿熱。
そして、鼻腔を満たす甘やかなラベンダーの芳香。
五感のすべてが、完璧な「安らぎ」によって包囲されていた。
敵はいない。
斬るべき魔獣も、背負うべき領民の重圧も、ここには何一つ存在しない。
あるのは、ただ、この上なく心地よい暗闇だけ。
(……あぁ……そうか……。私は……眠っても、いいのか……?)
その疑問が頭に浮かんだ瞬間、アルヴィスの精神を支えていた最後の防壁が、音もなく融解した。
抗うことなど、到底不可能だった。
アルヴィスの意識は、数年ぶり――いや、生まれて初めて味わう、恐怖も痛みも一切存在しない、底なしに甘やかで深い「本物の眠り」の中へと、真っ逆さまに落ちていった。
カクン、と男の首がわずかに横へと傾いた。
ギリギリと噛み締められていた口元が、ふっとだらしなく緩み、薄い唇の間から、長く、深い呼気が吐き出される。
スゥ……スゥ……。
それは、気絶でも昏睡でもない。
肉体と魂が、細胞の隅々まで休息を貪るための、純粋極まりない寝息だった。
「……よしよし。やっと、深く息が吸えるようになったわね」
千尋は安堵の息を漏らし、男の胸元まで、天日干ししたばかりの麻の掛け布をそっと引き上げた。
目元には小豆アイマスクが乗せられ、彫刻のような美貌の上半分は隠れているが、晒された口元と顎のラインには、先ほどまでの刺々しい殺気は微塵も残っていない。まるで、激しい嵐を乗り越えて港に辿り着いた船のように、静謐な空気が男の周囲を満たしていた。
トコトコと足音を立てて、ルゥがベッドの端へと這い上がってきた。
白銀の子犬は、アイマスクを乗せられて完全気絶している大男を見下ろし、呆れたように小さく鼻を鳴らした。
――ふん、大層な魔力を持った騎士かと思えば、千尋の温もり一つでこの体たらくか。我が主座を奪うには百年早いな。
そう言わんばかりの態度だったが、男の全身から危険な魔力嵐が完全に消え去ったことを確認すると、ルゥは男の足元の掛け布の上に、器用にくるんと丸まった。千尋の手作り湯たんぽの余熱がまだ残るその場所は、ルゥにとっても至高のテリトリーだったのだ。
「ルゥ、あんたもそこで寝るの? 蹴っ飛ばされないように気をつけなさいよ」
千尋が苦笑しながらルゥの頭を撫でると、ルゥは「くぅん」と甘えた声を返した。
居間の中央、パチパチと小さく爆ぜるかまどの熾火。
窓の外では、常闇の森の木々が夜風に揺れ、静かなざわめきを立てている。
けれど、見えない調律の膜に護られた小さな山小屋の中は、春の陽だまりのような温かさと、ハーブの清らかな香りに満たされていた。
千尋は、ベッドの脇に置いた木製の丸椅子に腰を下ろし、冷めかけた自分のハーブティーを一口啜った。
行き倒れの大型美形騎士の介抱という、前世の残業以上の大仕事を終えた疲労感が、心地よい脱力感となって千尋の身体を包んでいく。
「……ふぅ。やれやれ、とんだ夜警のお客さんだったわね」
ベッドの上で、規則正しい寝息を立て続けるアルヴィスを見つめながら、千尋は小さく笑った。
明日の朝、この男が目を覚ました時、どんな顔をするだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、千尋もまた、心地よい眠気の波に身を委ね始めていた。




