第12話:翌朝、鏡を見て驚愕する公爵。「……私の魔力嵐が、完全に鎮静化している……?」
深い意識の泥底から、アルヴィスを引き上げたのは――およそ戦場とは無縁の、あまりにも穏やかで日常的な「音」だった。
ピチュ、ピチュ、と木立の梢で交わされる小鳥たちのさえずり。
擦れ合う青葉が風に撫でられ、サワサワと波のように鳴る微かなざわめき。
そして何より、鼻腔をくすぐる暴力的なまでに香ばしい匂いと、それに伴う音だった。
ジュウウゥゥ……パチッ。
熱された鉄の上で、何かが勢いよく脂を弾けさせ、香ばしく焼き上げられている音。
焦がしバターの濃厚で甘い芳香と、穀物が焼ける素朴な匂いが、ふわりと漂ってくる。
目蓋を開けようとしたアルヴィスは、視界を塞ぐ微かな重みに気づいた。
額から両目の上にかけて、まだ人肌ほどの優しい微熱を帯びた、細長い布袋が乗せられている。ずっしりとした穀物の粒感と、鼻先をかすめる甘いラベンダーの残り香。
(……何だ、これは……?)
その瞬間、アルヴィスの戦士としての本能が、遅まきながら警鐘を鳴らした。
敵地か。不覚にも意識を失っていたのか。視界を奪われた状態で無防備に横たわるなど、命を捨てるに等しい愚行だ。
長年の戦場で骨の髄まで叩き込まれた習性に従い、アルヴィスは即座に跳ね起き、間合いを取ろうと全身の筋肉に力を込めた。
――跳躍し、愛剣の柄を握り、背後を取る。
頭の中で描いたその動作を実行しようとした瞬間、アルヴィスは自分の身体に走った異変に、文字通り凍りついた。
(……身体が、浮いている……?)
バネのように跳ね起きるはずだった身体が、羽毛のように軽い。
目元に乗っていた小豆アイマスクがスルリと滑り落ち、シーツの上に落ちた。
視界いっぱいに広がったのは、木漏れ日を浴びて琥珀色に透き通る天井の梁と、手入れされた板壁。
そして背中を支えているのは、冷たい地面でも、軍陣の薄い藁筵でもなかった。
何万本もの柔らかな干し草が、アルヴィスの体重を均等に受け止め、ふんわりと押し返してくる。肌に触れるシーツは、太陽の光を吸い込んでパリッと乾いており、さらりとした清涼感が麻のシャツ越しに伝わってくる。
だが、そんな寝具の心地よさなど、アルヴィスが覚えた驚愕の百分の一にも満たなかった。
「……っ……!?」
アルヴィスは荒い息を呑み、自らの両手を目の前に掲げた。
震えていない。
ここ数年、一日として震えの止まらなかった指先が、寸分の狂いもなく静止している。
常に頭蓋骨の奥底で鳴り響いていた、キリキリという耳障りな金属音も、偏頭痛の鋭い棘も、何一つ存在しない。耳を澄ませば、ただ自らの規則正しい静かな心音と、窓の外の風の音だけが聞こえてくる。
(……頭痛が……消えている……? そんな馬鹿な……)
アルヴィスは息を詰め、意識を自らの体内、魔力循環の経路へと向けた。
大気中の微小な魔力粒子『アエテル』を過剰に吸い上げ、排出できずに滞留していた魔力の澱。昨夜まで、血管を焼き切り、神経をズタズタに引き裂こうと荒れ狂っていたはずの、あの凶悪な「魔力嵐」はどうなったのか。
内観したアルヴィスは、息をすることすら忘れて呆然とした。
――凪いでいる。
暴虐の限りを尽くしていた氷魔力の奔流が、跡形もなく消え去っていた。
それどころか、体内の魔力回路を巡る青い光の粒子は、まるで冬の朝の風のない湖面のように、一滴の波紋すら立てず、静かに、澄み切った清流となって全身を循環していた。
傷ついていた神経組織は完全に癒やされ、細胞の一つひとつが、まるで生き返ったかのようにみずみずしい活力を取り戻している。
気絶ではない。
強制的な意識の遮断でもない。
これは――十数年ものあいだ、アルヴィスが決して得ることのできなかった、純粋極まりない「完全な熟睡」の果ての目覚めだった。
「……私の……魔力嵐が……? 完全に、鎮静化しているというのか……?」
呆然と呟いた声は、掠れもせず、驚くほど澄んで響いた。
ふと視線を下ろすと、身につけていたはずの重厚な甲冑はすべて解かれ、部屋の隅の木箱の上に整然と並べられていた。泥まみれだったはずの黒いシャツは汚れが拭い去られ、胸元は呼吸がしやすいよう緩められている。
アルヴィスはベッドから素足を下ろした。
足裏が床に触れた瞬間、パイン無垢材のサラサラとした木肌と、じんわりとした温もりが伝わってくる。冷気による痺れも、戦傷の古傷の疼きもない。まるで生まれ変わったかのような肉体の軽さに目眩を覚えながら、アルヴィスはおずおずと立ち上がった。
小屋の西側、朝の光を反射している窓ガラスが目に入った。
アルヴィスは吸い寄せられるように、その前へと歩み寄った。
磨き上げられたガラスの表面に、室内の影とともに、自らの顔がはっきりと映し出される。
「…………っ」
ガラスに映る己の姿を凝視した瞬間、アルヴィスは絶句した。
そこにいたのは、自分がよく知る「氷の死神」ではなかった。
北方防衛戦線で敵味方から恐れられ、鏡を見るたびに嫌悪感を抱いていた、あの土気色の皮膚と、目の下に深く刻まれていた紫黒の隈。狂気と激痛に苛まれ、常に血走り、人を寄せ付けない殺気を放っていたサファイアの双眸。
それらが――ことごとく、消え失せていた。
目の下の隈は綺麗さっぱり消滅し、青白かった陶器のような肌には、ほんのりと健康的な桜色の血色が差している。乱れていた白銀の髪は毛先まで艶やかに整い、引き結ばれていた唇には柔らかな赤みが戻っていた。
何より、瞳の輝きが違っていた。
底知れぬ暗闇に沈んでいた瞳の奥に、澄み渡る朝空のような、穏やかで理知的な光が宿っている。
「……これが……私なのか……?」
アルヴィスは震える指先で、自らの頬に触れた。
滑らかで、温かい。生きている人間の体温が、確かにそこにあった。
「あり得ない……。ハルデンベルクの血を引く者が一度魔力暴走を起こせば、二度と正気には戻れぬはず……。王立魔導院の首席研究員たちが総出で調合した秘薬も、大神殿の大司教が七日七晩祈祷を捧げた聖遺物の浄化光ですら、発作を数時間先送りするのが限界だったのだぞ……!?」
アルヴィスの頭の中で、激しい疑念と困惑が渦を巻いた。
ここは常闇の森の深部。禁足地とされる呪われた領域だ。
自分を救ったのは誰だ?
これほどの奇跡を起こせる存在など、王国全土を探しても神話の時代の精霊か、古代の治癒魔法を極めた隠遁の大魔導士くらいしか考えられない。
自分は、知らぬ間に恐るべき大代償を支払わされたのではないか?
魂を担保に取られたのか? それとも、公爵家の権力を欲する何者かの謀略か――?
張り詰めた緊張感とともに、アルヴィスが警戒を露わにした、その時だった。
ふと、足元から「ふすぅ……」という、気の抜けた寝息が聞こえた。
見下ろすと、ベッドの足元、アルヴィスが先ほどまで横たわっていた掛け布の端に、丸い白銀の毛塊が転がっていた。
子犬ほどの大きさのその獣は、素焼きの壺を二重の布で包んだ物体――千尋の手作り湯たんぽに顎を乗せ、短い前足でそれをぎゅっと抱え込みながら、無防備にお腹を晒して眠りこけている。
アルヴィスはその生き物の姿を認めた瞬間、背筋に冷や汗を流した。
(……なっ……!? あ、あれは……っ!?)
鋭い三角の耳、プラチナシルバーに淡く発光する毛並み、そして身体の奥底から滲み出ている、強大にして神聖な魔力波長。
神話の時代よりこの森の主として君臨し、帝国軍ですら決して領域を侵すことを許されなかった、あの伝説の神獣フェンリル――その幼体ではないか。
(なぜ神獣が……こんなところで、あのような腑抜けた顔で湯壺を抱いて丸まっているのだ……!? ここは一体、何者の領域なのだ……!?)
混乱が極限に達し、アルヴィスが無意識に腰の剣を探そうと手を伸ばしかけた、まさにその瞬間。
カチャリ、と台所と居間を隔てる木枠の扉が、軽やかな音を立てて開いた。
「あ、起きました?」
――ッ!?
アルヴィスは咄嗟に身構え、鋭い視線を扉の主へと向けた。
現れるのは、筋骨隆々の森の仙人か、豪奢なローブを纏った老魔導士か、あるいは妖艶な森の魔女か。
しかし――そこに立っていたのは、そのどれでもなかった。
木綿の、少し色褪せた生成りのエプロンを身にまとった、一人の若い娘だった。
髪を後ろでラフなお団子にまとめ、額には薄く朝の汗を滲ませている。
手にした木製の丸いトレイの上には、湯気を立てる朝食の皿が乗せられていた。
「……お前、は……?」
あまりの拍子抜けに、アルヴィスの喉から間抜けな問いが漏れた。
敵意も、魔力武装の気配も、威圧感もゼロ。
どこからどう見ても、ただの人の良さそうな村娘――いや、独特の落ち着き払った空気を纏う、ごく普通の若い女性だった。
千尋は、仁王立ちになって自分を凝視するアルヴィスの視線など意に介した様子もなく、トレイを居間の丸テーブルの上にコト、と置いた。
そして、腰に手を当ててアルヴィスをまじまじと見上げる。
「うん、顔色、すっかり良くなりましたね。昨夜は唇まで真っ青で、今にも凍りつきそうだったから心配したんですよ。やっぱり、しっかり温めて泥のように寝るのが一番の特効薬ね」
「と、特効薬……? お前が……私を治療したのか……? あの魔力嵐を、一体どんな大魔導で……」
「大魔導? 何言ってるんですか。泥だらけの顔を蒸しタオルで拭いて、小豆のアイマスクを乗せて、布団を掛けただけですよ」
「……あ、小豆の……アイマスク……?」
聞いたこともない単語に、公爵の知性が激しく混乱をきたす。
小豆とは穀物ではないのか。アイマスクとは何だ。なぜそんなもので、ハルデンベルクの呪いと恐れられた魔力の暴走が跡形もなく消え去るのだ。
千尋はアルヴィスの困惑などお構いなしに、テーブルの上の皿を指差した。
「さ、難しい顔してないで。朝ごはんできたので、冷めないうちにどうぞ。あ、食べる前に、ちゃんと手は洗ってくださいね。そこの樽に汲みたてのお水がありますから」
テーブルの上に置かれた木皿から、たまらない匂いが立ち上っていた。
平たいパンの上に、たっぷりのバターを落として遠火でカリッと焼き上げたトースト。表面は黄金色に染まり、立ち上る湯気とともに芳醇な乳の香りが広がる。
その隣には、縁がチリチリと香ばしく焼き縮み、中央の黄身が朝日のようにプルプルと震える半熟の目玉焼き。仕上げに庭で摘んだばかりの細ネギ(チャイブ)と少量の粗塩が振られ、湯気を立てるカブのスープが小さな木椀に注がれていた。
ジュウ、と胃袋が悲鳴のような音を立てて収縮した。
アルヴィスは息を呑んだ。
毒見役もいない。豪奢な銀の食器もない。粗末な木皿に乗った、名もなき家庭料理。
けれど、その湯気と匂いは、何年ものあいだ味覚を失っていたアルヴィスの本能を、強烈に揺さぶり起こしていた。
「……手、を……洗えばいいのだな」
「ええ。清潔第一ですからね」
言われるがままに、アルヴィスは木樽の水で手を洗った。
冷たい地下水が指先を濡らし、手渡された乾いた麻布で水気を拭い取る。
テーブルの前の木製椅子に腰を下ろすと、千尋が向かい側の席に座り、「はい、召し上がれ」と小さく笑いかけた。
窓から差し込む、柔らかな朝の陽光。
パチパチと穏やかに爆ぜるかまどの熾火。
足元で「くぅ……」と寝息を立てる神獣のぬくもり。
そして、目の前に並ぶ、湯気を立てる素朴な朝ごはん。
帝国全軍を統べる冷徹なるハルデンベルク公爵の、何重にも張り巡らされていた氷の防壁が、そのあまりにも無防備で、温かい日常の空気の前に、なす術もなく溶け崩れていく。
(……あぁ……)
トクン、と。
アルヴィスの胸の奥で、不器用で、ひどく純粋な鼓動が、一つ跳ねた。
戦場でも、宮廷の権力闘争でも決して揺らぐことのなかった氷の騎士の心臓が、エプロン姿の元社畜OLの笑顔を前にして、初めて甘い熱を帯びて脈打っていた。




