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第13話:半熟卵の黄金色と、かまどの薄焼きパン

石造りのかまどから立ち上る、パチパチという小気味よい薪の爆ぜる音。

木枠の窓を透かして差し込む朝の光は、淡い琥珀色から清らかな白金色へと移り変わり、磨き上げられたパイン無垢材の床板の上に、柔らかな長方形の光だまりを描き出していた。


アルヴィス・フォン・ハルデンベルクは、粗末だが寸分の狂いもなく水平が保たれた木製の丸椅子に腰を下ろしたまま、目の前に置かれた木皿を凝視していた。

指先は、樽の冷たい地下水で清められ、麻布で水気を拭い取ったばかりだ。爪の間に入り込んでいた戦場の煤や泥は千尋の手によって完全に洗い流され、肌からは微かに、昨夜の蒸しタオルが残したラベンダーの清涼な残り香が漂っている。


だが、アルヴィスの全身の筋肉は、依然として微かな戸惑いに囚われていた。

無理もなかった。帝国全軍の頂点に立ち、何十万もの領民を統べるハルデンベルク公爵家の当主たる彼が、平民の山小屋の、それも素朴な丸テーブルの前で、見知らぬ若い娘と向かい合って朝食を摂るなど、これまでの彼の人生においては天地が逆転してもあり得ない事態だったからだ。


(……この香りは、何だ……)


喉が、小さく鳴った。

鼻腔をくすぐるのは、これまでのアルヴィスの生涯で一度として嗅いだことのない、暴力的ですらある「生命の匂い」だった。


テーブルの中央、年季の入った木の丸皿の上で湯気を立てているのは、二つの料理。

ひとつは、かまどの熾火(おきび)の遠火を使い、平らな鉄板の上でじっくりと焼き上げられた平たいパン――薄焼きのフラットブレッドだった。

厚みは一センチに満たないが、表面にはところどころ香ばしい濃茶色の焦げ目がぷくりと水ぶくれのように膨らみ、そこから挽きたての小麦特有の、大地と太陽を凝縮したような素朴で甘い湯気が立ち上っている。


そして、その傍らにこんもりと盛られているのは、朝露を吸った山吹の花のように鮮やかに輝く、黄金色のスクランブルエッグだった。

火を通しすぎず、かといって生焼けでもない絶妙な半熟加減。光を浴びて艶やかに濡れそぼる卵のひだは、絹のドレープのように幾重にも折り重なり、皿をわずかに揺らすだけでぷるぷると心地よい弾力で震えている。

その黄金色の絨毯の上には、庭の家庭菜園から千尋が手摘みしてきたばかりのチャイブ――野生の細ネギが、爪の先ほどの細やかさで散らされていた。深い緑色の粒が、湯気の中で朝露のような瑞々しい青葉の香気をごく微かに放ち、見た目にも鮮烈な彩りを添えている。


「……冷めないうちにどうぞ。あ、フォークなんて気の利いたものはないから、その木のスプーンを使ってね。パンは手でちぎって食べて大丈夫だから」


向かいの席に腰を下ろした千尋が、コットンのエプロンのポケットに手を入れながら、ごく自然な仕草で木彫りのスプーンを差し出してきた。

その声には、貴族に対する慇懃な媚びも、不審者を恐れる怯えも、何一つ混ざっていなかった。あるのはただ、「作った朝ごはんを美味しく食べてほしい」という、至極真っ当で温かな生活者の願いだけだ。


アルヴィスは差し出されたスプーンを受け取り、その滑らかな手触りに視線を落とした。

木肌は丁寧にヤスリがけされ、植物油が染み込ませてある。口当たりを計算し尽くしたように先端が薄く削り込まれたそれは、宮廷の豪奢な銀食器よりも、ずっと手肌に優しく馴染んだ。


「…………」

無言のまま皿を見つめるアルヴィスに、千尋がふふっと悪戯っぽく笑いかける。

「何? 毒でも入ってるんじゃないかって疑ってる? 安心してください、毒草と食べられる野草の見分けくらい、私のスキルで完璧に判定済みだから。怪しい調味料なんて塩しか使ってないわよ」


「……いや。毒を疑っているわけではない」


アルヴィスは低く、掠れた声で応じた。

嘘偽りのない本心だった。体内の魔力循環が完全に凪ぎ、澄み切った今、アルヴィスの鋭敏な感覚は、目の前の料理から一切の害意や不純物が排除されていることを正確に知覚していた。

それどころか、立ち上る湯気の奥底に、千尋の放つ【住空間の調律】の波長が微かに溶け込んでいることすら感じ取れる。乱れた神経を優しく撫で下ろし、内臓の冷えを取り除く、無意識の慈愛の魔力。


アルヴィスが躊躇していたのは、毒を恐れていたからではない。

彼自身の『記憶』が、この温かな料理の前に、どう振る舞うべきかを思い出せなくなっていたのだ。


ハルデンベルク公爵家の当主となってからの八年間。

彼が口にしてきた食事は、決して「温かなもの」ではなかった。

王都や本邸で供されるフルコースは、政敵からの毒殺を警戒するあまり、幾重もの毒見役を通し、銀の食器が黒ずまないかを確認した後に運ばれてくるため、常に脂が白く固まり、熱を失った冷え切った料理ばかりだった。味を確かめることなど許されず、毒の有無を確認しながら喉へと流し込むだけの義務。

そして北方戦線の最前線にあっては、さらに過酷だった。

凍てつく塹壕の中で口にするのは、塩分と防腐剤の塊のようなパサついた干し肉と、歯が折れそうなほど硬い軍用乾パン。それらを冷たい雪解け水で無理やり胃袋へと押し込み、飢えを凌ぐためだけの「燃料補給」として消費する日々。


――食事とは、生き延びるための作業に過ぎない。

――美味を味わうなどという隙は、戦場にも宮廷にも存在しない。


そうやって心を鋼の鎧で閉ざし、味覚すらも麻痺させて生きてきたアルヴィスにとって、目の前で湯気を立てる黄金色の皿は、眩しすぎて直視できないほど神聖なものに見えていた。


「ほら、スプーンが止まってる。卵料理は時間との勝負よ。余熱で火が通り過ぎちゃう前に、一口食べてみて」


千尋の急かすような、けれど柔らかい声に促され、アルヴィスは意を決した。

震える指先で木のスプーンを握り直し、黄金色に輝くスクランブルエッグの端へと刃先を滑り込ませる。


スッ……。


何の手応えもなかった。

スプーンの先端が触れた瞬間、半熟の卵のひだが抵抗なくほどけ、木匙の上に吸い付くように乗っかった。

すくい上げた卵から、ふわっと立ち上る湯気。

アルヴィスは息を吹きかけることも忘れ、その黄金の塊を、おずおずと唇へと運んだ。


舌の上に、熱が落ちる。


「…………っ!!」


アルヴィスの青い双眸が、限界まで見開かれた。

刹那――口蓋を満たしたのは、言葉を失うほどの衝撃だった。


噛む必要など、最初からなかった。

舌の熱に触れた瞬間、スクランブルエッグは淡雪のようにふわりとほどけ、驚くほど滑らかな舌触りで口腔全体を覆い尽くしていった。

まず広がるのは、新鮮な卵黄の濃厚で力強いコク。

しかし、重たさは微塵もない。卵の濃厚さを包み込むように、奥からじわりと追いかけてきたのは、まろやかで奥深い、自然な甘みだった。


(……乳……? だが、ただの牛乳ではない……これは……)


「ふふ、気づいた? 隠し味にね、昨日ルゥにあげた山羊のミルクをほんの少しだけ混ぜてあるの」

千尋が満足そうに種明かしをする。

「強火で一気に炒めると卵が固くなっちゃうから、かまどの遠火で、バターを溶かしたところに山羊乳入りの卵液を一気に流し込んで、半熟になる瞬間に余熱で仕上げたのよ。山羊のミルクを入れるとね、冷めても固くならなくて、舌触りがとろっとろになるの」


千尋の言葉通りだった。

山羊乳特有の野性味のある滋養が、火を通されることで嫌な癖を完全に失い、ナッツのような上品な香ばしさと甘みへと昇華されている。

そこに、粗塩のキリッとしたミネラルが輪郭を与え、仕上げに散らされたチャイブの微かな辛みと清涼感が、濃厚な卵の脂をすっきりと引き締める。

重層的でありながら、どこまでも素朴で、濁りのない味。


喉を通る。

ごくり、と飲み下した瞬間、温かな塊が食道を滑り落ち、胃袋へと到達した。

その瞬間だった。


じわぁぁぁぁ……っ。


何年ものあいだ、極度の緊張と不眠、そして魔力酔いの冷気によって、岩のようにカチカチに縮こまっていたアルヴィスの胃壁が、内側から熱い手のひらで撫でられたかのように、音を立ててほどけていった。

血が巡る。

凍傷にかかった手足を温湯に浸した時のような、痺れるような心地よい熱が、胃から腹腔へ、そして全身の毛細血管へと急速に波及していく。


(……温かい……。私の……内臓が、息をしている……?)


驚愕に打たれるアルヴィスを前に、千尋は平たいパンを手に取り、両手でパキッと二つに割ってみせた。

「パンも一緒に食べてみて。そのままでも美味しいけど、こうやって卵を乗せて食べるのが一番のおすすめよ」


千尋に倣い、アルヴィスは大きな手のひらで、熱々の薄焼きパンを掴んだ。

指先に伝わる、焼きたて特有のカリッとした乾いた感触。

端を少しだけちぎると、パキッ、モチッ……と、心地よい繊維のちぎれる音がした。

外側のクラストは極薄で、瓦のように香ばしく焼き固められているが、割れ目から覗く内側のクラムは、驚くほど水分を蓄えており、蒸気とともにしっとりとした弾力を覗かせている。


アルヴィスはちぎったパンの窪みに、木のスプーンでたっぷりと黄金色のスクランブルエッグを乗せた。

チャイブの緑が鮮やかに映えるその一片を、大きく口を開けて頬張る。


サクッ……ジュワッ……。


咀嚼した瞬間、脳裏で鐘が鳴り響いた。

パンの表面が砕ける軽快な歯ごたえと、焦げた小麦の香ばしさが先行する。

続いて、噛み締めた内側の生地が、包み込まれていた半熟卵と混ざり合い、濃厚なソースとなってパンの気泡の奥深くまで染み込んでいく。

カリカリとした香ばしさと、とろとろの卵の柔らかさ。

相反する二つの食感が口の中で溶け合い、噛めば噛むほど、小麦本来の大地の甘みと、バターの塩気、そして卵の滋味が怒涛の勢いで溢れ出してくる。


(……美味い……っ!)


理性が、吹き飛んだ。

礼儀作法も、ハルデンベルク公爵としての威厳も、戦場での冷徹な警戒心も、すべてが熱い小麦の香りと卵の黄金色の中に溶け去っていった。

アルヴィスは無言のまま、憑りつかれたようにパンをちぎった。

ちぎっては卵を山盛りに乗せ、口いっぱいに放り込む。

咀嚼するたびに喉が鳴り、温かな滋養が身体の奥底へと送り込まれていく。

スプーンの動きが止まらない。

最後にはパンの残った一片を使って、木皿に残ったわずかな卵のソースとチャイブの粒まで、皿の木肌が透けて見えるほど綺麗に拭い取り、口の中へと放り込んだ。


ゴクリ、と最後の一口を飲み干した時。

アルヴィスの手元の木皿の上には、パン屑ひとつ残っていなかった。


「…………ふぅ」


アルヴィスの口から、深く、長い溜息が漏れ出た。

木のスプーンを置き、背もたれに身体を預ける。

胃の腑が、ぽかぽかと温かい。

それはただ満腹になったというだけでなく、魂の飢えが満たされたような、芯からの充足感だった。

全身の皮膚から、毒気が抜けていくのがわかる。昨夜まで自分を苛んでいた魔力嵐の狂気など、遠い前世の悪夢だったのではないかと思えるほどに、身体の隅々まで穏やかな生気が満ち満ちていた。


「……あはは。見事な食べっぷり! 作り甲斐があるわぁ」


向かいの席で、千尋が目を細めて笑っていた。

空っぽになった皿を見て、千尋は心底満足そうに頷いている。

社畜時代、疲弊して食欲を失い、ゼリー飲料だけで命を繋いでいた自分や同僚たちの姿を知っているからこそ、誰かが自分の作ったものを夢中で平らげてくれる光景は、千尋にとってもこの上ない癒やしだったのだ。


足元では、朝食の匂いに釣られてようやく目を覚ましたルゥが、ベッドからトコトコと歩み寄ってきていた。

白銀の毛をふわりと揺らし、アルヴィスの足元に擦り寄ると、テーブルの上の空皿を見上げて「くぅ……ん」と抗議するように小さく鼻を鳴らす。

――我の分の卵はどこだ、と言わんばかりの態度だ。


「ルゥ、あんたにはさっきミルクあげたでしょ。卵は人間用よ」

千尋が屈み込んでルゥの顎の下を撫でると、ルゥは不満そうにしながらも、千尋の指先にすりすりと頭を預けて甘え始めた。


その光景をぼんやりと見つめながら、アルヴィスは自らの胸元に手を当てた。

トクン、トクンと、静かに、力強く刻まれる心音。

魔力暴走の激痛はない。

耳鳴りもない。

そして何より、腹の底には、信じられないほど温かで優しい火が灯っている。


(……この娘は、一体何者なのだ……)


空になった皿を見つめ、アルヴィスは再び強い戦慄を覚えていた。

昨夜の小豆アイマスクとリネンシーツによる魔力の鎮静。

そして今朝の、この胃袋を直接掌握するような絶品の朝食。

神獣フェンリルをまるで飼い犬のように手懐け、帝国最強の騎士の胃袋と精神を、たった一晩と一食で完全に骨抜きにしてしまった。


畏怖すべき大魔導士なのか。

それとも、乱世を平定するために遣わされた古代の聖女なのか。


アルヴィスは居住まいを正し、襟元を正した。

命を救われ、魂を救われた以上、礼を尽くし、己の真の名を明かさねばならない。

ハルデンベルク公爵として、この奇跡の主に対し、相応の報酬と敬意を支払う義務がある――そう口を開きかけた、その時だった。


「ごちそうさまでした、って言える?」


千尋が、ルゥを撫でる手を止めて、からかうようにアルヴィスを見上げてきた。

その気負いのない、あまりにも日常的な眼差しを前にして、アルヴィスの喉元まで出かかっていた仰々しい名乗りが、ふっと引っ込んだ。


「……ご、ごちそうさまでした。……誠に、美味であった」


不器用に頭を下げる公爵に、千尋は「よろしい」と満足げに頷いた。

山小屋の朝は、どこまでも長閑で、どこまでも温かい光に包まれていた。

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