第14話:身分偽装の『ただの騎士』と、容赦ない薪割り要請
木皿の上から最後のパン屑が消え去り、居間には再び、かまどの熾火がパチリと爆ぜる微かな音だけが残された。
南向きの窓から差し込む朝の光は、すでに薄い金色から柔らかな純白へと移り変わり、磨き上げられたパイン無垢材の床板の上に、清潔な四角い光の輪を落としている。森の湿り気を孕んだ爽やかな薫風が、麻布のカーテンをふわりと膨らませて通り抜けていく。
アルヴィス・フォン・ハルデンベルクは、空になった木皿を見つめたまま、深い呼気を一つ吐き出した。
温かい。
胃の腑の底からじんわりと湧き上がる熱が、何年ものあいだ凍傷のように麻痺していた四肢の末端へと、穏やかな血流に乗って行き渡っていく。
かつてこれほどまでに、一口の食事が身体の芯に染み渡ったことがあっただろうか。
毒を警戒し、冷え固まった脂の浮くスープを義務感だけで胃に流し込んでいた王都の夜会。吹雪の吹きすさぶ塹壕の中で、凍てついた干し肉を噛み砕いていた北方戦線の記憶。それらすべての冷え切った過去が、今朝の半熟卵の黄金色と、かまどの遠火で焼かれた香ばしいパンの温もりの前に、まるで春の雪のように跡形もなく溶け去っていた。
(……救われた、のだ)
アルヴィスは膝の上に置いた両手を、静かに握りしめた。
暴虐の限りを尽くしていた体内の氷魔力は完全に凪ぎ、死神のようだと恐れられていた目の下の紫黒い隈も消え失せた。何より、常に頭蓋を内側から万力で締め上げるようだった偏頭痛の激痛が、嘘のように消え去っている。
この少女――千尋の手によって。
アルヴィスは背筋を正し、椅子の上で居住まいを正した。
ハルデンベルク公爵家の当主として、そして帝国全軍の最高指揮官たる「氷の槍」として、礼を尽くさねばならない。
命を救われ、魂の狂気を鎮めてもらったのだ。相手がいかに人里離れた森の廃屋に暮らす市井の娘であろうとも、己の真の名と身分を明かし、ハルデンベルク家の名誉にかけて、いかなる望みも叶える旨を誓うのが貴族としての最低限の道義であった。
(……だが、待て)
口を開きかけたアルヴィスの喉元で、言葉がピタリと凍りついた。
サファイアのような深い青色の双眸が、向かいの席で満足げにお茶を啜っている千尋の姿を捉える。
彼女は、少し色褪せた生成りのエプロンを身につけ、洗いざらしのリネンワンピースの袖を無造作にまくり上げている。髪はラフなお団子にまとめられ、後れ毛が朝の光に透けて淡く輝いていた。
彼女が纏っているのは、宮廷貴族のような香水や宝石の匂いではない。天日干ししたばかりの清潔なリネンと、庭先で摘んできたカモミール、そして先ほどまで火にかけていた薪の香ばしい煙の匂い。
どこまでも無防備で、どこまでも穏やかで、血生臭い争いとは完全に無縁の「ただの日常」が、そこにあった。
(ここで私が、ハルデンベルク公爵の名を明かせばどうなる……?)
冷徹な理性が、瞬時に最悪のシミュレーションを弾き出した。
公爵家の権力は絶大だ。だがそれは同時に、王都の貴族院や大公派閥といった魑魅魍魎どもから、常に命を狙われる標的であることも意味している。
もし「ハルデンベルク公爵の不治の魔力暴走を、たった一晩で鎮静化させた奇跡の娘」の存在が中央に露見すればどうなるか。
野心に狂った中央の貴族たちは、千尋を「都合のいい治癒聖女」として囲い込もうと群がり、あるいは自派閥の利益のために彼女を暗殺しようと刺客を放つだろう。
この清らかなパイン材の床が血で汚され、手入れされた干し草ベッドが踏み荒らされ、彼女が愛おしそうに育てている家庭菜園の青葉が兵靴に踏みにじられる。
何より――。
(……この娘は、私を『公爵』として見ていない)
畏怖も、媚び諂いも、権力への怯えもない。
昨夜、泥足で倒れ込んでいた自分に対し、一切の躊躇なく怒声を浴びせ、容赦なくブーツを引っこ抜き、濡れタオルで顔を拭ってくれた。
今朝も、「手を洗いなさい」「冷めないうちに食べなさい」と、まるで手のかかる大きな子供を世話するように、ごく当たり前に接してくれた。
生まれてからこの方、周囲の人間は常にアルヴィスを「ハルデンベルクの神童」「冷酷な氷の騎士」「化け物の魔力を持つ若き当主」としてしか見てこなかった。
肩書きを剥ぎ取られた、ただの一人の人間として扱われたことなど、生涯で一度たりともなかったのだ。
この温かな空間を、己の呪われた名によって壊すことなど、断じて許されない。
守らなければならない。この娘の平穏を、この場所の静寂を。
「……私の名、だが」
アルヴィスは喉の奥を一度鳴らし、意図して低く、抑え込んだ声で口を開いた。
かつて戦場で敵を欺くために身につけた、完璧な無表情の仮面を張り直す。
「アルヴィスと申す。……北方の国境警備隊に所属する、ただの一巡回騎士だ。昨夜はパトロールの途中で道に迷い、過労で意識を失っていたところを……貴女に拾われたらしい」
とっさに口から出た、あまりにも稚拙な身分の偽装だった。
冷静に考えれば無理がありすぎる。身につけていた鎧の細工は国宝級であり、鍛え抜かれた肉体や身のこなしは、どう見ても一介の警備兵のそれではなかった。
怪しまれるか。笑止千万と追及されるか。
アルヴィスは内心で脂汗を滲ませながら、千尋の反応を窺った。
しかし。
「ふーん。アルヴィスさんね」
千尋は、器の白湯を飲み干すと、コト、とテーブルの上に置いた。
その表情には、疑念の欠片も、詮索の気配も、驚きすらも存在しなかった。
まるで「今日の天気は晴れですね」という日常会話を聞き流したかのような、清々しいほどの無関心さだった。
「……疑わないのか? 怪しい武装をした男が、夜中に森の奥深くで倒れていたのだぞ」
「疑うも何も、あんたが騎士だろうが木こりだろうが、私には関係ないもの」
千尋は立ち上がり、手際よく空になった木皿とスプーンを重ねた。
カチャリと心地よい木の触れ合う音が響く。
「昨日の夜、泥靴で私の玄関を汚しかけたことと、今朝の朝ごはんを綺麗に完食したこと。私にとって重要なのはその二点だけよ。あ、あと名前が分かったのは助かるわ。『そこの大男』って呼び続けるのも面倒だったし」
「そ、そうか……」
あっさりとした千尋の返しに、アルヴィスは拍子抜けして肩透かしを食らったような顔をした。
嘘を見抜かれたわけではない。ただ単に「どうでもいい」のだ。
肩書きや素性など、この元社畜OLの関心領域には一ミリたりとも引っかかっていない。彼女の関心は常に「この空間が心地よいか」「今日の生活が快適に回るか」という、地に足のついた現実だけに向いていた。
千尋は重ねた食器を台所の洗い場へと運び、井戸水で手早く洗い流し始めた。
キュッ、キュッと麻布で擦る軽やかな音が居間に響く。
アルヴィスはその背中を眺めながら、胸の奥に灯った奇妙な安堵感に浸っていた。
嘘をついてしまった罪悪感はある。しかし、身分を偽ったことで、彼女との間に「主従」や「貴賤」の壁が生まれることは回避できた。自分は今、この場所において、ただの「アルヴィス」という一人の男でいられるのだ。
――だが。
そんな公爵の淡い感慨を、千尋の現実主義が容赦なく打ち砕いた。
「さて、と」
洗い終えた木皿を水切り用の籠に伏せ、千尋はエプロンで手を拭きながら居間へと戻ってきた。
そして、テーブルの前で所在なげに座っているアルヴィスを見下ろし、スッと目を細める。
「アルヴィスさん。朝ごはん、美味しかった?」
「……あ、ああ。驚くほど美味だった。あのような美味い食事は、生まれて初めてだ」
「そう。よかったわ」
千尋は満足そうに口角を上げた。
しかし、その瞳の奥に灯ったのは、前世の修羅場で培われた「コスト管理の鬼」の光だった。
「美味しかったなら、話は早いわね。……あのね、アルヴィスさん。我が家には、絶対に譲れない家訓があるの」
「家訓……?」
「ええ。――『働かざる者、食うべからず』よ」
千尋は人差し指をピシッとアルヴィスの鼻先に突きつけた。
「昨夜の一等地に匹敵するハーブベッドの宿泊料、特製アイマスクによる温熱トリートメント代、そして採れたて野菜と新鮮な卵をふんだんに使った極上モーニング。……これらをタダで提供するほど、私はお人好しじゃありません」
「な……っ」
アルヴィスが絶句する。
宿泊料。トリートメント代。朝食代。
聞き慣れない単語の羅列に、公爵の優秀な頭脳が一瞬フリーズした。
千尋の脳内では、前世の営業事務としてのコスト意識がフル回転していた。
どれほど美形だろうが、行き倒れの行きずりだろうが、無償の親切を当たり前だと思わせて居座られたら、こちらの生活設計が狂ってしまう。善意の搾取は、ブラック企業の温床だ。ギブアンドテイクの契約関係を最初にきっちりと結んでおくことこそが、健全なスローライフを維持するための鉄則なのである。
「金なら払おう」
アルヴィスは慌てて腰のベルトに手を伸ばした。
「金貨でも宝石でも、望むだけの額を――」
「却下」
千尋は即座に首を横に振った。
「こんな森の奥の一軒家で、金貨なんて貰っても使い道がないわよ。物々交換の行商人が来るのもたまにだし、嵩張る金属なんて防犯上危なくて置いとけないわ。私が求めているのは、現金じゃないの」
「で、では……何を望むのだ?」
千尋はニヤリと不敵に笑うと、クルリと背を向けて勝手口へと歩き出した。
「ついてきなさい」
言われるがままに、アルヴィスは長身をかがめて千尋の後に続いた。
勝手口から小屋の裏手へと回ると、そこは鬱蒼とした木々に囲まれた作業スペースになっていた。
地面には、千尋が昨日までに敷地の周りから引きずり集めてきた、丸太の山がうずたかく積まれていた。大人の胴回りほどもある太い針葉樹の幹が、何本も無造作に転がっている。
千尋は物置小屋の軒下に立てかけられていた、一本の年季の入った道具を手に取った。
黒く錆びついた分厚い鉄の刃と、樫の木で作られた長い柄。
薪割り用の、大型の木こり斧だった。
ズシッ、と重たい金属音を立てて、千尋はその斧をアルヴィスの胸元へと突き出した。
「はい、これ」
「…………斧、か?」
「見れば分かるでしょ。薪割りよ」
千尋は腕を組み、うずたかく積まれた丸太の山を顎で指した。
「うちにはね、かまどがあるの。朝ごはんを作るのにも、お湯を沸かすのにも、夜の暖を取るのにも、薪が湯水のように消えていくのよ。でもね、私の腕力じゃ、あの太い丸太を割るのに一本あたり三十分もかかっちゃうの。腰も痛くなるし、時間の無駄遣いなのよ」
千尋はアルヴィスの顔をまじまじと見上げた。
昨夜、泥まみれの服を脱がせた時に確認した、あの鋼のように引き締まった逆三角形の肉体。広い肩幅、分厚い胸板、そして無駄な脂肪が一切ない逞しい腕の筋肉。
あれほどの極上のフィジカルを持っておきながら、タダ飯を食わせてそのまま帰すなど、リソースの有効活用という観点から絶対にあり得ない。
「あんた、巡回騎士なんでしょ? 毎日剣を振り回して鍛えてるなら、腕力には自信があるはずよね」
「……まあ、人並み以上には鍛えているが……」
「なら決まりね! タダ飯食らいの居候はお断りよ。朝食代と昨夜の宿代の代わりに、そこの丸太、全部使いやすい大きさに薪にしておいてちょうだい!」
――全部。
千尋が指差した先には、優に三十本を超える巨大な丸太の山が鎮座していた。普通の成人男性が作業しても、丸一日はかかりそうな分量である。
「…………」
アルヴィスは、両手で受け取った斧の重みを確かめながら、完全に言葉を失っていた。
斧。薪割り。肉体労働。
帝国全軍の頂点に立ち、数万の将兵に命を下す最高指揮官たるハルデンベルク公爵に対し、こともなげに斧を押し付け、「朝食代の代わりに全部割れ」と命じる平民の娘。
もし王都の廷臣や軍の将校たちがこの光景を目撃すれば、不敬罪で卒倒するか、あるいは己の目を疑って発狂するに違いなかった。
だが。
手の中に収まった、使い込まれた樫の柄のずっしりとした重み。
手のひらに伝わる、使い古された鉄の冷たさ。
そして何より、千尋の迷いのない、打算のない真っ直ぐな瞳。
(……ふっ)
アルヴィスの口元から、思わず微かな息が漏れた。
怒りなど、湧き上がるはずもなかった。
あるのは、奇妙なまでの清々しさと、くすぐったいような温かい心地よさだった。
公爵としての義務でもない。
領民を守るための血生臭い戦闘でもない。
ただ、美味い朝飯を食わせてもらった礼として、自分の身体を動かして薪を割る。
そんな単純で、泥臭くて、健全な「対価の支払い」を求められたことが、アルヴィスの人生には一度もなかったのだ。
「……いいだろう」
アルヴィスは長身をピンと伸ばし、手にした斧を片手で軽々と持ち上げた。
サファイアの瞳の奥に、かつて戦場で見せたような鋭い光が宿る。ただし、そこに宿っていたのは殺気ではなく、与えられた任務を完璧に遂行しようとする、純粋な職人のごとき集中力だった。
「朝食の礼として、完璧にこなしてみせよう」
「頼もしいわね! あ、怪我だけはしないでよ。包帯のストックもあんまりないんだから」
千尋はパンパンと手を叩くと、「じゃあ私は部屋の掃除と洗濯があるから、よろしくねー」と鼻歌交じりに小屋の中へと戻っていった。
勝手口の扉が閉まり、裏庭にはアルヴィス一人(と、物陰から様子を窺っていたルゥ)だけが残された。
ルゥは丸太の陰から白銀の顔を出し、「くぅん」と鼻を鳴らした。
――千尋にこき使われるがいい、居候。
そう言わんばかりの態度で、前足を揃えて悠然と座り込んでいる。
アルヴィスはルゥを一瞥し、フッと自嘲気味に笑った。
そして、黒いリネンシャツの袖をまくり上げ、逞しい前腕の筋肉を露わにすると、山の中から最も太い丸太を一本、軽々と引き抜いて作業台用の切り株の上へと据え置いた。
森の澄んだ空気を、深く吸い込む。
青葉の匂い。土の匂い。
そして、小屋の中から微かに聞こえてくる、千尋が鼻歌を歌いながら床を掃く箒の音。




