第15話:音速の薪割り職人と、染み渡る井戸水ミント
裏庭の切り株の上に置かれたのは、樹齢数十年はあろうかという針葉樹の丸太だった。直径はおよそ四十センチ、大人一人が抱え込むほどの太さがあり、樹皮にはまだ森の湿った苔が張り付いている。
木こり用の斧を両手で構えたアルヴィスは、静かに瞼を閉じ、呼吸を整えた。
ヒュウ……と、初夏の薫風が木々の梢を揺らし、木漏れ日の影が地面に落ちた丸太の表面を波のように走る。
アルヴィスが目を開けた。
そのサファイアの双眸には、戦場で数多の敵陣を睥睨してきた時と同じ、研ぎ澄まされた集中力が宿っていた。
(……木目、繊維の走り、乾燥による微細な亀裂……そこか)
木を力任せに叩き割るのではない。木が自ら割れたがっている「筋」を見抜くこと。
それは、長年にわたり剣の刃筋を極め、敵の鎧の隙間や魔力の継ぎ目を一瞬で看破してきたアルヴィスにとって、呼吸をするよりも容易い見極めだった。
トン、と右足をわずかに後ろへ引き、重心を落とす。
無駄な力みは一切ない。背筋のバネと腰の回転、そして腕の重みを、一本の美しい軌道へと束ね上げる。
斧が、天高く振り上げられた。
――スッ。
空気を切り裂く鋭い風鳴りが響いた瞬間、斧の重厚な鉄刃が、丸太の中心よりわずかに右に走る年輪の裂け目へと吸い込まれるように落ちた。
パァァァァンッ!
裏庭の静寂を吹き飛ばす、小気味よい破砕音。
太い丸太は悲鳴を上げる暇すらなく、一刀のもとに真っ二つへと両断された。左右に弾け飛んだ断面からは、削りたての松特有の清々しいヤニの香りと、瑞々しい木の繊維が白く露わになっている。
しかし、アルヴィスの動きはそこで止まらなかった。
地面に落ちかけた半身の丸太を、左手の甲で器用に切り株の上へ跳ね上げ、間髪入れずに斧を返す。
バァン! パカァン!
吸い込まれるような連撃。
真っ二つになった木塊は、瞬く間に四等分、八等分へと細分化され、かまどの焚口にぴったりと収まる理想的なサイズの三角柱の薪へと姿を変えていく。
刃が丸太を捉えるたび、パシッ、パシッと乾いた木屑が火花のように宙を舞い、地面に落ちる薪の音がリズミカルなビートを刻む。
――バッ、パァン!
――シュッ、カツゥン!
丸太を一本割り終えるのに、要した時間はわずか十秒足らず。
アルヴィスは息を乱すことすらなく、足元に積まれた巨大な丸太の山から次の一本を片手で軽々と引き抜き、切り株へと据えた。
構え、振り抜き、断ち割る。
一切の澱みがない、完璧な円運動。
帝国軍の精鋭騎士団を率いる若き総大将が、全精力を傾けて木こり作業に没頭しているその姿は、側から見れば神聖な儀礼の演武か、あるいは恐るべき破壊の神業にしか見えなかった。
丸太の陰からその様子を眺めていた神獣ルゥは、金色の目を白黒させ、耳をペタリと伏せて後ずさっていた。
(……な、なんだあいつは……? 斧の速度が音速を超えているぞ……。あんな細腕で、我が森の大樹をまるで湯葉のように切り刻みおって……人間とはあんな化け物だったか……?)
神獣としての矜持をあっさりとへし折られたルゥは、巻き添えを食らうのを恐れるように、そそくさと安全な軒下へと避難していった。
◇
その頃、小屋の居間では。
千尋は箒を手に、パイン無垢材の床の隅々を掃き清めていた。
朝の光を浴びながら、鼻歌交じりにチリトリへ埃を集めていた千尋の耳に、突如として裏庭から凄まじい音が飛び込んできた。
パァァァン! バシィィッ! パカカカァンッ!!
「……っ!?」
千尋は箒を取り落としそうになり、思わず肩を跳ねさせた。
何事だろうか。ただの薪割りの音ではない。
例えるなら、前世の近所にあった製材所の大型破砕機がフル稼働しているかのような、あるいはプロのドラマーが全力でスティックを乱打しているかのような、凄まじい連続破砕音だった。
「な、何……? 丸太が爆発でもしたの……!? それとも怪我でも……!?」
昨夜、瀕死の重傷で行き倒れていた男だ。無理をして傷口が開いたのか、あるいは斧を取り落として自分の足を切ってしまったのではないか。
千尋は箒を壁に立てかけ、慌てて勝手口へと駆け寄った。
木製の引き戸をガラリと開け、裏庭へと顔を覗かせる。
そして――千尋の顎が、外れんばかりにポカンと落ちた。
「…………嘘でしょ……?」
裏庭の風景は、千尋がほんの十五分前に見た光景とは、完全に別世界へと変貌していた。
三十本以上あったはずの、太くて重たい丸太の山。
千尋の力では何日かけても割れるか分からなかったあの巨大な木材が――跡形もなく消え去っていた。
代わりにそこに聳え立っていたのは、軒下の壁際に沿って、定規で測ったかのように寸分の狂いもなく几帳面に積み上げられた、巨大な「薪のピラミッド」だった。
断面の角度、長さ、太さがミリ単位で揃えられ、風通しを考慮して交互に美しく組み上げられたその薪の壁は、もはや一つの建築芸術の領域に達している。
そして、そのピラミッドの頂点に、最後の一本をカチリと積み終えた男がいた。
アルヴィスは、手にした斧を地面に下ろし、ふう、と静かに息を吐いた。
黒いリネンシャツの胸元はわずかに汗で肌に張り付き、逞しい胸板の凹凸を露わにしている。まくり上げられた前腕の筋肉は程よく鬱血して浮き上がり、白銀の長髪からひとすじの汗が頬を伝って顎先からポタリと落ちた。
朝の木漏れ日を浴びて、薄く湯気を立てるその姿は、息を呑むほど神々しく、そしてどこか野性的な色気を放っていた。
アルヴィスが千尋の気配に気づき、ゆっくりと振り返る。
サファイアの瞳をスッと細め、澄ました顔で言った。
「……言われた通り、すべての丸太を薪にしておいた。長さやかまどの焚口の寸法に合わせたつもりだが……不都合はあるだろうか?」
「ふ、不都合どころか……」
千尋は引きつった笑みを浮かべ、自分のこめかみを押さえた。
所要時間、わずか二十分足らず。
普通なら大人三人が半日かけて行う作業量だ。前世の社畜時代、納期に追われて阿鼻叫喚の修羅場を幾度となく経験してきた千尋だが、これほど狂気的な作業効率を誇る人間は見たことがなかった。
「……あのね、アルヴィスさん。あなた、本当にただの警備騎士? 木こりギルドの特級ライセンスでも持ってるんじゃないの……?」
「いや……ただ、重心と刃筋を合わせただけだ。大したことではない」
事もなげに答える公爵。
しかし、その表情をよく見れば、任務を完璧に達成した大型犬が「褒めてくれ」と尻尾を振っているかのような、微かな期待の光が瞳の奥に宿っていた。
千尋は呆れ混じりの深いため息をついたが、すぐに表情を柔らかなものへと戻した。
どれほど異常な速度だろうが、彼が千尋のために全力で汗を流してくれた事実に変わりはない。
約束通りの労働。それも、期待を遥かに上回る最高の結果を出してくれたのだ。ならば、雇い主(?)として、これ以上ない最高のもてなしで報いるのが筋というものだ。
「……見事な働きぶりね。文句のつけようもないわ。お疲れ様、アルヴィスさん」
「……あ、ああ」
千尋がまっすぐに微笑みかけると、アルヴィスは気まずそうに視線を泳がせ、尖った耳の先端をほんのり赤く染めた。
「こっちへおいで。汗をかいたでしょ。とっておきのご褒美があるから」
◇
千尋がアルヴィスを案内したのは、小屋の南側、日当たりの良い軒下に面した小さな板張りのスペースだった。
そこには、千尋が朝一番に天日干ししておいた、大判の「特製座布団」が二枚、並べられていた。
外側は、千尋が丁寧に水洗いして糊を効かせた、目の粗い生成りの麻布。
そしてその中身は、昨日大岩の上で太陽の熱をたっぷり吸わせたカモミール入りの乾燥牧草と、余っていた羊毛の端切れを絶妙な比率で重ね合わせた、極厚のハンドメイドクッションだった。
日中の強い陽光を浴びて、座布団全体がパンパンに膨らみ、手で触れるとまるで焼き立ての食パンのようにふんわりと温かい。
「はい、そこに腰を下ろして。立ってちゃ疲れが取れないわよ」
「……これは、敷物か?」
「座布団よ。床に直に座ると腰が冷えちゃうからね。お尻を乗せてみて」
アルヴィスはおずおずと、膝を折って座布団の中央へと腰を下ろした。
サクッ……フワァァァ……。
その瞬間、アルヴィスの口から「……っ」と掠れた声が漏れ出た。
沈む。
しかし、床板に骨が当たるような底付き感は一切ない。
何万本もの乾燥草の繊維と羊毛のスプリングが、アルヴィスの体重を均等に受け止め、骨盤の形に沿って吸い付くようにフィットしたのだ。
硬すぎず、柔らかすぎない絶妙な反発力。
座った瞬間、背骨の自然なS字カーブがスッと立ち上がり、薪割りで無意識に張っていた腰背部の筋肉から、フッと緊張が抜け落ちていく。
さらに、座布団の生地に体重がかかったことで、内部に仕込まれていた乾燥カモミールの芳香成分が弾け、麻の織り目から、太陽の光と甘い青リンゴの香りがふわあっと立ち上ってきた。
「……何だ、この敷物は……。腰の痛みが……消えていくようだ……」
「ふふ、いい弾力でしょ? 天日干ししたばかりだから、お日様の熱がまだ残ってるのよ」
千尋は満足げに頷くと、一度台所へ戻り、すぐに両手に竹筒の器を持って戻ってきた。
青々とした太い竹を節のところで切り落とし、丁寧にヤスリがけして作った特製のコップ。
その表面には、冷気によって微細な水滴がびっしりと結露し、朝の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「はい、水分補給。一気に飲んでいいわよ」
「……感謝する」
アルヴィスは差し出された竹筒を受け取った。
手のひらに伝わる、氷のような冷たさ。
中を覗き込むと、井戸から汲み上げたばかりの濁りのない清水の中に、鮮やかなエメラルドグリーンのペパーミントの生葉と、薄く輪切りにされた野生の柑橘――『木春』の果肉が浮かんでいた。
水面が揺れるたびに、ミントのツンと抜ける清涼感と、柑橘の甘酸っぱく瑞々しいアロマが立ち上る。
アルヴィスは竹筒を口元に運び、一気に傾けた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ――。
喉仏が力強く上下する。
冷たい水が唇を濡らした瞬間、アルヴィスの瞳がハッと見開かれた。
(……冷たい……! だが、ただの水ではない……!!)
舌の上を滑り落ちたのは、極上の天然水だった。
千尋の調律によって大気の濁りを一切含まない、地下深くから湧き出たばかりの清冽な甘み。
そこに、摘みたてのペパーミントから滲み出た強烈なメントール成分が、突き抜けるような冷涼感をもたらす。さらに、木春の果皮から溶け出した微かな苦みと澄んだ酸味が、乾き切っていた口腔をキュッと潤していく。
喉を滑り落ち、食道を通り、胃袋へと冷たい清水の奔流が流れ込む。
ジュゥゥゥ……と、薪割りによって内側から熱を帯びていた肉体の火照りが、まるで焼き入れの鉄を水に浸したかのように、瞬時に鎮まっていく感覚。
汗をかいて失われていた水分とミネラルが、乾いた砂に水が染み込むように、五臓六腑の細胞ひとつひとつへと吸収されていく。
「…………ぷはっ」
最後の一滴まで飲み干したアルヴィスは、竹筒を膝の上に置き、深く、長い息を吐き出した。
胃の奥から鼻腔へと抜けていく、ミントと柑橘の爽快な余韻。
身体中の熱がスッと引き、頭の芯がどこまでも冴え渡っていく。
「ふふ、美味しいでしょ? ただの井戸水だけど、ミントの葉を手で少し揉んでから浮かべると、香りがぐっと引き立つのよね」
千尋も自分の竹筒を傾け、冷たいミント水を美味しそうに喉へと流し込んだ。
ぷはーっと息を吐き、アルヴィスの隣の座布団に腰を下ろす。
サワサワサワ……。
初夏の柔らかな風が、木々の葉を揺らしながら軒下を吹き抜けていく。
汗ばんだアルヴィスの首筋を風が優しく撫で、シャツの襟元をふわりと揺らす。
庭の隅では、ルゥがトコトコと歩み寄ってきて、アルヴィスの座布団の端に顎をちょこんと乗せ、満足そうに目を細めて丸くなった。
パチパチという音もない。
争いの気配もない。
ただ、木漏れ日の揺らめきと、小鳥のさえずりと、隣に座る少女の穏やかな呼吸の音。
「…………」
アルヴィスは竹筒を握る自らの大きな掌を見つめた。
かつて、この手は剣を握り、敵の血を吸い、凍てつく冷気で命を奪うためだけに存在していた。
休息など許されず、立ち止まることすら罪だと信じ込み、己の命をすり減らし続けてきた。
けれど、今。
自分の手で薪を割り、その対価として差し出された一杯の冷たい水と、太陽の匂いがする座布団。
たったそれだけのことが、どれほど人間の心を救うのかを、アルヴィスは生まれて初めて知っていた。
「……生きている、心地がする」
ポツリと、無意識のうちに唇から零れ落ちた言葉だった。
公爵としての仮面も、冷徹な騎士の威厳もそこにはない。ただ、一人の生きている人間としての、魂の底からの呟きだった。
千尋は竹筒を両手で包み込んだまま、驚いたようにアルヴィスを見つめた。
そして、ふっと目を細め、いたずらっぽく笑った。
「当たり前じゃない。生きてるんだから、生きている心地がしなきゃ嘘よ」
千尋は空を見上げ、伸びをした。
「美味しいものを食べて、身体を動かして、冷たい水を飲んで、心地よい風に吹かれる。……人間が幸せになるのに、それ以上の理由なんていらないのよ」
その言葉は、かつて過労死寸前までオフィスに縛り付けられ、生きている意味すら見失いかけていた千尋自身の、何よりも強い実感のこもった真実だった。
アルヴィスは千尋の横顔をじっと見つめた。
日差しを浴びて透き通る柔らかな栗色の髪。飾らない、けれど力強く前を向くその瞳。
ドクン、と胸の奥で、先ほどよりもずっと温かく、甘い拍動が跳ねた。
(……この場所に、ずっといたい)
公爵家の重責も、戦場の血生臭さも、すべてを投げ出して。
この少女の隣で、彼女が整える空間の中で、ただ息をしていたい。
かつてないほど強烈な「執着」が、氷の公爵の胸の内に、静かに、けれど消えることのない火種として灯り始めていた。
だが――そんな穏やかな時間を切り裂くように。
遠く、常闇の森の境界から、狂おしいまでの殺気を孕んだ馬の嘶きと、重苦しい金属鎧の擦れ合う音が、急速に近づいてきていた。




