第16話:主君が森の怪しい女に誑かされたと勘違いした副官ユーグ、鬼の形相で山小屋に突入。
北方辺境の要衝、ハルデンベルク公爵邸の執務棟は、まるで見えない火災でも起きたかのような恐慌状態に陥っていた。
絨毯が敷き詰められた廊下を、革靴や鉄甲冑の足音が目まぐるしく行き交う。普段ならば軍規に厳格な近衛騎士たちも、今日ばかりは血相を変え、手にした羊皮紙を握り潰しながら怒号を交わし合っていた。
「北門の監視塔からの報告はまだか!」
「街道筋、ならびに東部林道に捜索隊を出しましたが、痕跡すら掴めません!」
「周辺の魔導観測所から緊急連絡! 昨夜、常闇の森の方角で局地的な大規模魔力放電が観測されたとのことです!」
その混乱の渦の中心、主を失った公爵執務室の巨大な執務机の前に、一人の男が仁王立ちしていた。
ユーグ・ヴァレリー。二十八歳。
ハルデンベルク公爵家近衛騎士団の副官であり、当主アルヴィスの幼馴染にして、領政と軍務の双方を実質的に切り盛りする筆頭実務官である。
「…………っ、ぐ……っ」
ユーグは書類を握りしめたまま、右手を自らの鳩尾のあたりへと強く押し当てた。
キリキリ、ギリギリ。
まるで、胃袋の内壁を熱した鉄の熊手で力任せに引っ掻き回されているかのような、激しい灼熱痛。
脂汗が額から噴き出し、こめかみを伝って顎先からポタリと落ちる。顔色は土気色を通り越して青白く、血の気など微塵も残っていなかった。
「副官殿! お顔色が――」
「構うな、喋りかけるな……胃酸が逆流する……ッ!」
ユーグは震える手で腰のベルトポーチを探り、小さな薬瓶を引き抜いた。
中に入っているのは、領都の薬師に特注で作らせている、乾燥生薬をすり潰した苦味の強い胃薬の粉末だ。本来ならば白湯に溶かして食後に飲むべき劇薬紛いの鎮痛粉末を、ユーグは蓋を歯で噛み飛ばすと、そのまま口の中へと直接ぶちまけた。
「……んぐっ、ガハッ……ゴホッ、ゴホッ!」
舌が痺れるような強烈な苦みと泥のような臭気が口腔を満たす。
水すら飲まず、喉の奥の唾液だけで無理やりその粉末を胃袋へと流し込んだ。食道を焼きごてで撫でられるような不快感に耐えながら、ユーグは荒い息を吐き出す。
アルヴィスが、体内の魔力暴走を起こしたまま単身で姿を消して、丸一日――二十四時間が経過していた。
あの夜の光景が、今もユーグの脳裏に焼き付いて離れない。
北方防衛戦線を終え、極度の不眠と疲労によって青白い氷の狂気に呑まれかけていた主君。近寄る部下を巻き込むまいと、「下がるな」と絶叫して馬を走らせた背中。
ユーグはアルヴィスの幼馴染だ。彼がどれほど過酷な運命を背負わされ、どれほど己を削りながら公爵領を守り続けてきたかを、誰よりも近くで見届けてきた。
(……死ぬ気だったのだ。閣下は、自らの魔力で他者を傷つける前に……人知れぬ場所で、自決するおつもりだったのだ……!)
その恐怖が、絶望が、ユーグの胃壁を休むことなく苛み続けていた。
もしアルヴィスが死ねば、ハルデンベルク公爵家は後継者争いで四分五裂し、北方の防壁は崩壊、北方領民は雪崩れ込む魔獣の群れに蹂躙される。何より――不器用で、孤独で、誰よりも心優しかった友を、救うことすらできずに死なせてしまう。
「……見つける。何が何でも、死なせてなるものか……!」
ユーグは腰の愛剣を激しく叩き、執務室を飛び出した。
目指す先はただ一つ。昨夜、強大な魔力放電が観測されたという、禁足地『常闇の森』だった。
◇
常闇の森の境界は、昼なお深い霧と薄暗い瘴気に覆われていた。
ユーグが率いてきた十数騎の精鋭捜索隊だったが、森の入り口に馬を乗り入れた瞬間、馬たちが一斉に前足を跳ね上げ、嘶いて狂乱した。
「ヒヒィィィンッ!」
「くっ、馬が恐慌状態に陥っています! これ以上奥へは進めません!」
「馬を降りろ! ここからは徒歩で捜索する!」
ユーグは馬から飛び降り、泥濘に足を踏み入れた。
草木をかき分け、森の奥へと進むにつれて、ユーグの背筋を冷たい悪寒が駆け上がった。
森の木々の幹が、不自然な形で白く凍りついていたのだ。
鋭利な氷柱が枝から無数に垂れ下がり、足元のシダ植物はカチカチに凍結して踏むたびにガラスのように砕け散る。通過した魔獣たちの死骸すら、内側から凍結破砕された無惨な姿を晒していた。
(……アルヴィス閣下の、氷結魔力の痕跡……! やはり、ここで暴走を起こされたのか……!)
痕跡を追うごとに、ユーグの心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。
木々に刻まれた生々しい氷の傷跡は、狂気の嵐がいかに激しかったかを物語っている。これほどの魔力を吐き出せば、常人ならば血管が焼き切れ、魂の器が粉々に砕け散っているはずだ。
やがて、森の奥深くで、打ち捨てられたアルヴィスの愛馬が発見された。
馬は怯えて震えていたが、鞍の上に主の姿はない。
「……閣下……ッ! どうか、どうかご無事で……!」
胃の奥がきりきりと締め付けられ、ユーグの口から血の味が混ざった胃液が込み上げてくる。
指先を噛み、痛みに耐えながら、ユーグは足跡を追った。
泥の上に残された、千鳥足の重たいブーツの跡。
転び、木の幹に縋り付き、這うようにして奥へと進んでいった痕跡。
その歩幅の乱れは、アルヴィスが命の灯火を燃やし尽くしかけていたことを残酷に示していた。
(もう息絶えておられるのか……? 氷漬けの遺体となって、冷たい土の上に転がっておられるのか……!?)
最悪の想像が脳裏をよぎり、ユーグの視界が恐怖で明滅する。
部下たちを後方に待機させ、自らが先頭に立って生い茂る黒茨の藪を力任せに切り裂いた。
そして――。
最後の一振りを振り抜いて視界が開けた瞬間、ユーグは我が目を疑った。
「…………な、んだ……これは……?」
そこに広がっていたのは、地獄の光景などではなかった。
あまりの異様さに、ユーグの足が完全に止まった。
境界線を一本跨いだ瞬間、森を支配していた重苦しい瘴気とカビ臭い腐敗臭が、跡形もなく消え去ったのだ。
肌を撫でるのは、初夏の穏やかで柔らかな薫風。
鼻腔を満たすのは、太陽の光を吸い込んだ干し草の香ばしい匂いと、甘く爽快なカモミールの芳香。
木漏れ日が黄金の粉のように降り注ぎ、梢の上では名前も知らない小鳥たちがチュンチュンと愛らしくさえずり合っている。
そして、その清浄な空間の中心。
ふかふかに耕された家庭菜園の向こうに、煙突から細い煙を立ち上らせる、可愛らしい木造の山小屋がぽつんと佇んでいた。
(……結界……!? いや、大結界どころの騒ぎではないぞ……!?)
ユーグの全身を、別の種類の戦慄が貫いた。
魔力過敏症の魔導士でなくともわかる。この小屋を中心とした半径数十メートルのエリアだけ、大気中の魔力粒子『アエテル』が寸分の乱れもなく平滑化され、邪気や悪霊を完全に寄せ付けない「絶対の聖域」と化しているのだ。
王立魔導院の最高峰の防護結界ですら、これほどの純度と安定性を保つことは不可能だ。
常闇の森の最深部に、突如として出現した神聖なオアシス。
普通なら「救い」を感じる場面だろう。
しかし――歴戦の騎士であり、疑うことを職務としてきた副官ユーグの優秀すぎる頭脳は、その異様な光景から、もっとも恐ろしく、もっとも歪んだ結論を導き出してしまった。
(……馬鹿な。常闇の森に、このような聖域が存在するはずがない……。ということは、これは――)
ゴクリ、とユーグの喉が鳴った。
背筋に、氷水を流し込まれたような寒気が走る。
(……精神干渉系の……禁呪……!? 大掛かりな魅了の幻術空間……!?)
そうに違いない、とユーグの思考は急速に暴走を始めた。
深手を負い、魔力暴走で正気を失いかけていたアルヴィス。そんな無防備な主君を、森の奥に潜む「邪悪な魔女」が甘言と幻術で誘い込み、この偽りの楽園へと捕らえたのだ。
あの優雅で香ばしい匂いも、小鳥のさえずりも、すべては獲物の警戒心を解き、魂を貪り食うための蜘蛛の巣に過ぎない!
(閣下が……あの誇り高きアルヴィス閣下が、怪しい女の幻術に誑かされ、骨抜きにされている……!?)
恐るべき妄想が、ユーグの脳内を埋め尽くした。
今すぐ助け出さねばならない。一刻の猶予もない。
ユーグは息を潜め、抜き足差し足で小屋の前庭へと足を踏み入れた。
そして、玄関ポーチの前に辿り着いた時――ユーグの視界に、決定的な証拠が飛び込んできた。
「…………ッッッ!?」
ユーグの目が、これ以上ないほど見開かれた。
玄関ポーチの泥落とし用スノコの上。
そこに無造作に転がされていたのは、見紛うはずもない、アルヴィスの膝下まで覆う分厚い本革のロングブーツだった。北方特注のスパイク金具が打ち込まれたそのブーツは、バックルをすべて力任せに外され、泥を拭い取られた状態で放置されている。
さらに、ポーチの外の雑草の上には、アルヴィスが愛用していたはずの、公爵家の銀の留め具がついた重厚な黒マントが、乱暴に脱ぎ捨てられていた。
身包みを、剥がされている。
その事実を認識した瞬間、ユーグの脳の血管がブチリと音を立てて千切れかけた。
(ぶ、ブーツを脱がされ……マントを剥ぎ取られ……!? まさか……衣服をすべて奪われ、怪しい秘儀の生贄として……寝台に縛り付けられているのではあるまいな……!?)
もはやユーグの理性は完全に消し飛んでいた。
胃の激痛など、主君への忠誠心と怒りの前には塵芥に等しかった。
許さない。我が主君を、ハルデンベルクの誇りを、どこの馬の骨とも知れぬ森の魔女に弄ばれてたまるものか!
ジャキィィィンッ!!
ユーグは腰の愛剣を一気に抜き放った。
白刃が朝の木漏れ日を浴びてギラリと冷たい殺気を反射する。
全身の筋肉を極限まで励起させ、魔力を剣身へと注ぎ込む。青白いオーラが刀身を包み込み、ユーグの瞳は血走り、額には青筋が何本も浮き上がっていた。
まさに夜叉、まさに鬼の形相。
階段を二段飛ばしで駆け上がる。
玄関の木製扉の前に立ち塞がると、ユーグは肺腑の底から怒号を絞り出しながら、右足の軍靴を扉の鍵前へと叩き込むように振り上げた。
「――我が主君をどこへやった、邪悪なる魔女めぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」
ドカァァァァァンッッッ!!
凄まじい衝撃音が響き渡り、木製の頑丈な扉が悲鳴を上げて跳ね開けられた。
愛剣を上段に構え、今まさに室内の魔女を一刀両断せんと踏み込んだユーグ。
しかし――。
その怒れる騎士の視界の先に待ち受けていたのは、彼が想像していたどのような悪夢とも違う、あまりにも理不尽で、あまりにも主婦的な「白い霧」だった。




