第17話:抜剣の騎士を迎え撃つ、除菌消臭ハーブミスト
木製の扉が激しい衝撃音とともに内側へとはじけ飛んだ瞬間、ユーグ・ヴァレリーの全身の神経は、針金のように限界まで張り詰めていた。
青白い魔力の奔流をまとった銀の刀身。
踏み込みの速度、刃の角度、切っ先から放たれる殺気。そのどれをとっても、北方防衛戦線で数多の凶悪な魔獣を斬り伏せてきた近衛騎士団副官としての、完璧無比な初太刀の構えだった。
「――我が主君をどこへやった、邪悪なる魔女めぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」
肺腑の底から絞り出した怒号とともに、ユーグは踏み込んだ。
扉の向こう、薄暗い部屋の奥に潜むであろう、怪異なローブをまとった老婆か、あるいは妖艶な笑みを浮かべた魅了の妖女の姿を網膜に焼き付け、その喉笛を一撃で貫く――はずだった。
だが。
ユーグの切っ先が宙を薙ぐよりも、わずかにコンマ数秒早く。
彼の眼前に立ちはだかったのは、おどろおどろしい魔女の呪詛でも、漆黒の結界魔法でもなかった。
プシュッ、プシュッ、プシュゥゥゥッ!!
「ぶふぉっ……!?」
勢いよく室内に飛び込もうとしたユーグの顔面を、冷たく細やかな「白い霧」が正面から直撃した。
視界が真っ白に煙る。
一拍遅れて、鼻腔の粘膜を強烈な刺激が突き抜けた。
(……な、何だ!? 毒霧か……!? 神経を侵す遅効性の劇毒……!?)
ユーグは咄嗟に息を止め、後退しようと足を踏ん張った。
しかし、予想していたような激痛や皮膚の爛れ、息苦しさは一向に襲ってこなかった。
むしろ、その逆だった。
ツン、と鼻先を突き抜けたのは、まるで原生林の奥深く、雪解けの朝の針葉樹林に飛び込んだかのような、圧倒的なまでの「超清涼感」だった。
雑菌を一分子たりとも許さないようなティーツリーの鋭いウッディノート。
気管の奥深くまで冷涼な風を行き渡らせる、ユーカリの澄み切った薬草香。
さらに、微かに混ざり合った高純度のアルコールが気化熱を奪い、汗と泥と興奮で沸騰しかけていたユーグの顔面を、ヒヤリと心地よく冷やしていく。
「ケホッ……な、何だこれは……!? 目が……鼻の奥が、通る……!?」
困惑のあまり目を白黒させるユーグの耳朶に、氷点下を遥かに下回るような、低くドスの利いた女性の声が突き刺さった。
「…………ちょっと」
「なっ――!?」
「外の埃と雑菌を撒き散らしながら……泥まみれの軍靴で、人の家の敷居を跨ごうとするんじゃないわよぉぉぉぉっっっっ!!!!」
霧が晴れた視界の先。
そこに仁王立ちしていたのは、妖艶な魔女でも恐ろしい怪物でもなかった。
洗いざらしの木綿のエプロンを身につけ、袖を肘までたくし上げ、腰に手を当てて般若のような形相で睨みつけてくる、一人の若い人間の娘――千尋だった。
その右手には、硝子と真鍮で組み立てられた、見慣れない形状の小型ポンプ式噴霧器がしっかりと握りしめられていた。
「き、貴様……何者だ! 我が主君、アルヴィス公爵閣下をどこへ隠した……ッ!」
ユーグは激しい頭痛と胃の痛みを気力でねじ伏せ、再び剣の切っ先を千尋の鼻先へと突きつけようとした。騎士団副官としての威厳を保ち、この不審な娘を制圧しなければならない。
だが、千尋の視線は、ユーグの抜き身の剣になど一ミリも向いていなかった。
千尋の目は、ユーグの足元――先ほど彼が力任せに踏み込んだ、玄関ポーチと室内の境界線だけに鋭く据えられていた。
「主君がどうとか公爵がどうとか、そんなことは後回しよ! 見なさいよ、その足元を!!」
「は……? あ、足元……?」
「私が朝から何回も水拭きして、やっと埃ひとつない状態に整えた玄関に! そんな馬糞と赤土が練り合わさったような極悪な泥の塊を、一歩でも踏み込ませるわけにいかないでしょうが!!」
千尋が手にした噴霧器から、再びシュッ! シュッ! と鋭い霧が放たれた。
今度はユーグの顔面ではなく、彼の膝から下、泥で固まった頑丈な革のブーツ目掛けて集中的に噴射される。
ジュウウゥ……と、まるで炭酸水が弾けるような微かな発泡音が鳴った。
千尋が調合したそのスプレーは、ただの芳香水ではない。
森で自生していた自生のイネ科植物を発酵・蒸留させて作った高純度の植物性エタノールに、強力な抗菌・抗真菌作用を持つ野生のティーツリーとユーカリの精油を限界濃度までブレンドしたものだ。
さらにそこへ、千尋の固有スキル【住空間の調律】による「不純物吸着・消臭分解」の波長が完璧に定着されている。
スプレーの霧を浴びた瞬間、ユーグのブーツにこびりついていた乾いた赤泥と腐植土の悪臭が、まるで奇跡のように一瞬で霧散した。
泥の粒子同士を結びつけていた雑菌の粘膜が分解され、パラパラと乾いた無害な砂となって玄関の外のスノコの上へと剥がれ落ちていく。
後には、森の澄んだ空気を凝縮したような、清々しいミントとハーブの香りだけが残された。
「な……!? 泥の臭気が、消えた……!? これは、高位の浄化魔術……!?」
あまりの現象に、ユーグの思考が完全にショートした。
魔女の呪いに対抗すべく魔力を練り上げていたユーグだったが、目の前で繰り広げられているのは、命のやり取りではなく、徹底的かつ衛生的な「外気汚れの撃退作業」だった。
そして、ユーグが呆然と立ち竦んだその一瞬の隙を、千尋が見逃すはずもなかった。
「はい、凶器は室内持ち込み禁止!」
サッ、と流れるような動作。
千尋は、歴戦の近衛騎士が構えていたはずの真剣の平の部分を、清潔な麻の布越しに素手でパシッと挟み込んだ。
前世の社畜時代、駅のホームで傘を横向きに持って歩く無神経なサラリーマンから幾度となく身を守り、オフィスに持ち込まれた濡れ傘を回収し続けてきた千尋の「傘回収の身のこなし」は、もはや武道の達人の域に達していた。
「なっ……馬鹿な、私の剣を素手で――!?」
「はい、引っ張らない! 危ないでしょ!」
千尋はテコの原理を応用し、ユーグの手首の関節をキュッと外側へ捻りながら、一瞬の力加減で柄を掌から奪い取った。
ハルデンベルク公爵家秘蔵の名剣、銘刀の輝きを放つ業物が、まるで濡れたビニール傘のように扱われ――。
カラン、コロン。
玄関の隅に置かれていた、素焼きの深型アンブレラスタンド(千尋が元々水瓶として転がっていたものを洗って設置した傘立て代わりの壺)の中へと、実にあっけなく、無造作に放り込まれた。
「あ……っ、わ、私の……家宝の佩剣が……傘立てに……!?」
「はい、次は靴! 踵を踏まないで、ちゃんとバックルを外す!」
千尋は間髪入れずにユーグの前にしゃがみ込むと、問答無用で彼の右足のブーツの金具に手をかけた。
パチン、パチン、と手慣れたリズムで真鍮の留め具が外されていく。
昨夜、アルヴィスのブーツを脱がせた経験が完全に活きていた。北方軍の乗馬ブーツの構造など、今の千尋にとっては「ちょっと脱がせにくい安全靴」程度の認識でしかない。
「ちょ、待て! 何を……貴様、離せ! 私はハルデンベルク近衛の――」
「暴れないの! 埃が舞い上がるでしょ!」
「ぐおっ!?」
千尋がユーグの足首をグッと固定し、背筋の力を使って一気に踵を引き抜く。
スポォッ!
右足が抜けた。
続いて左足のバックルも流れるような指さばきで弾かれ、一秒後には左足のブーツもスポォッ! と引き抜かれていた。
「はい、脱いだ靴は泥落としマットの外へ。揃えて並べる!」
脱がされたブーツは、玄関の外のスノコの上へと綺麗に爪先を揃えて配置された。
土足厳禁。
外の汚れを室内に持ち込まない。
その鉄の掟を完遂した千尋は、立ち上がりながら、足元に用意していた「あるもの」をユーグの足元へと差し出した。
「はい、これ履いて。床が汚れちゃうから、靴下のまま歩かないでね」
トン、とユーグの白ウールの靴下の前に置かれたのは――。
生成りの麻布を外側に、内側には柔らかな羊毛の端切れを敷き詰め、踵の部分に乾燥カモミール入りの干し草クッションを仕込んだ、千尋お手製の「極上ルームシューズ」だった。
「……な、なんだこれは……布の履き物……?」
「スリッパよ。ほら、足を入れて」
有無を言わさぬオカンじみた千尋の気迫に、ユーグの精神は完全に圧殺されていた。
戦場で敵の大軍に包囲された時ですら、これほど圧倒されたことはない。
命を奪われる恐怖ではなく、「家事の絶対ルールに逆らってはならない」という、生物としての根源的な倫理観で殴り倒されているような感覚。
ユーグはおずおずと、震えるつま先をスリッパの履き口へと滑り込ませた。
「…………っ!!」
足先が入った瞬間、ユーグの背筋に、ビリリとした衝撃が走った。
柔らかい。
締め付けられていた革ブーツの中で、汗と冷えによって鬱血していた足の指先を、ふんわりとした上質の羊毛が、まるで生まれたての小鳥を包み込むかのような優しさで温めてきたのだ。
チクチクとした不快感は皆無。内側の空気が一瞬で体温を吸い込み、冷え切っていた爪先から足首へと、じんわりとした温もりが駆け上がっていく。
そして、踵を完全に下ろした時――。
サクッ……。
内部に仕込まれた干し草とカモミールのクッションが、小気味よい音を立てて沈み込んだ。
歩行の衝撃を完璧に吸収するもちもちとした弾力。
同時に、生地の隙間から、太陽の光をたっぷり吸い込んだ草の香りと、青リンゴに似た甘いカモミールのアロマが、足元からふわりと立ち上り、ユーグの鼻腔をくすぐった。
「……あ、足が……痛く、ない……?」
ユーグの口から、間抜けな呟きが漏れた。
連日の捜索活動で、彼の足裏は水膨れと筋肉疲労で悲鳴を上げていたはずだった。重たい鉄板入りの軍靴に締め付けられ、歩くたびに激痛が走っていた足先が、この素朴な布のスリッパに守られた途端、重力から解放されたかのように軽くなっていた。
「……よし。これで室内立ち入り許可を出してあげます」
千尋は満足げに頷くと、スプレーを腰のエプロンポケットに収め、くるりと背を向けた。
「さあ、入って。用があるんでしょ? 立ち話してると冷たい風が入ってくるから、早く扉を閉めてちょうだい」
スタスタと、手作りのルームシューズを小気味よく鳴らしながら、千尋は部屋の奥へと歩いていく。
その背中を見つめながら、ユーグは玄関の土間に立ち尽くしていた。
佩剣は傘立てに没収された。
泥まみれのブーツは脱がされた。
足元には、信じられないほど温かくて香りのいいスリッパを履かされている。
そして――何より異常だったのは、一歩足を踏み入れた瞬間に全身を包み込んだ、この山小屋の「空気」だった。
(……何だ、ここは……? 本当に、あの呪われた森の中なのか……?)
ユーグはゆっくりと視線を巡らせた。
足元に広がるのは、磨き上げられ、陽光を浴びて飴色に輝くパイン無垢材の美しい床板。
隙間風の気配など微塵もなく、室内の温度は人が最もリラックスできる春の陽だまりのように保たれている。
湿気はなく、空気は驚くほど澄み渡り、深呼吸をするたびに、肺の奥にこびりついていた疲労と恐怖の残滓が、綺麗に洗い流されていくようだった。
魔女の館?
邪悪な精神干渉の生贄の儀式場?
そんな妄想が、あまりの清潔さと心地よさの前に、跡形もなく消し飛んでいく。
そして。
部屋の南側、柔らかな光が差し込む縁側のスペースへと目を向けたユーグの視界に――決定的な「現実」が飛び込んできた。
「………………か、閣下……?」
ユーグの喉から、掠れた声が絞り出された。
そこにいたのは、彼が必死に捜索し、死に場所を求めて狂い果てたのではないかと胃を痛め続けていた、主君の姿だった。
しかし――その姿は、ユーグの知る「冷徹無比なる氷の騎士」とは、あまりにも、あまりにもかけ離れていた。
部屋着のような柔らかな麻のシャツを着崩し、天日干しの座布団の上に優雅に腰を下ろしている。
その手には、氷水とミントの浮かぶ竹筒のコップが握られ。
膝の上には、白銀の神獣ルゥが丸まり、満足そうに喉を鳴らしており。
そして何より、その顔立ち。
死神のようだと恐れられていた目の下の隈は消え失せ、陶器のように滑らかな肌はツヤツヤと輝き、まるで長旅の休暇を満喫している貴族のように、穏やかで気の抜けた表情を浮かべていたのだ。
「あ、ユーグか。……騒がしいぞ。千尋の家の床を汚すなと言われただろう」
事もなげに、涼やかな声で放たれた主君の言葉。
その瞬間、ユーグの張り詰めていたすべての緊張の糸が、ブチリと音を立てて千切れ去った。
「ぎ……ッ、閣下ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
安堵か、憤怒か、それとも極度の混乱か。
感情のキャパシティを完全に越えたユーグの胃袋を、過去最大の激しい痙攣が襲おうとしていた。




