第18話:痛む胃袋を包み込む、生姜と大根のとろみ鶏スープ
「……閣下ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
山小屋の天井の梁を激しく揺るがすほどの絶叫が、玄関先に木霊した。
ユーグの全身から、先ほどまでの獰猛な殺気が潮が引くように消え去っていく。代わりに彼の面を覆ったのは、安堵、驚愕、憤怒、そして己の目を疑うような強烈な混乱だった。
磨き上げられたパイン材の床の向こう。
南向きの窓から柔らかな日差しが降り注ぐ縁側のスペースで、主君――「氷の槍」と恐れられるハルデンベルク公爵アルヴィスは、天日干しのふかふか座布団に腰を下ろし、涼やかな顔で竹筒の器を傾けていた。
その膝の上には、神話の時代より森の支配者として君臨するはずの白銀の神獣が、まるで猫のように丸まって喉をゴロゴロと鳴らしている。
さらに、アルヴィスの顔色はどうだ。
死に場所を求めて暴走したはずの男の肌は、陶器のように毛穴ひとつなく滑らかに輝き、目の下の隈など跡形もなく消え去り、血色は極めて良好。昨夜の死闘がまるで悪い冗談だったかのような、絵に描いたような「優雅な休日の貴族」そのものの空気を醸し出していた。
「か、閣下……!? な、なぜ……なぜそのように腑抜けた……いえ、ご無事で……本当に、ご無事で……ッ」
生きていてくれた。
狂気に呑まれ、冷たい土の上で息絶えているのではなかった。
その圧倒的な現実が胸に押し寄せた瞬間――ユーグの精神を鋼の針金のように支え続けていた最後の緊張の糸が、プツリと、音を立てて千切れた。
そして、張り詰めていた箍が外れた代償は、あまりにも残酷な形で彼の肉体を襲った。
「……っ、ぐ……ぅ、あ……っ!?」
ドサリ。
ユーグは両膝から床へと崩れ落ちた。
千尋のお手製スリッパを履いた足先がもつれ、床板に手をつく。
右手が、自らの鳩尾のあたりを、爪が食い込むほど力任せに握りしめていた。
ズキリ、ギュウゥゥゥ……ッ!
まるで、胃袋の内壁を生きたまま雑巾のように硬く絞り上げられ、そこへ熱した油と硫酸を同時に注ぎ込まれたかのような、凄まじい激痛。
主君の行方不明という極限のストレス。不眠不休での捜索行軍。水なしで噛み砕いた苦い胃薬の粉末。それらすべての代償が、安堵によって緩んだ自律神経の隙を突き、猛烈な「急性胃痙攣」となって爆発したのだ。
「う、ぐっ……ヒュッ、ケホッ……!」
呼吸がまともに吸えない。
ユーグの額から、大粒の脂汗がボロボロと滝のように噴き出し、飴色の床板へとポタポタと落ちていく。唇は青紫色に変色し、視界の端がチカチカと白く明滅していた。
「ユーグ!? どうした、しっかりしろ!」
アルヴィスが慌てて立ち上がり、膝の上のルゥを床に下ろして駆け寄ろうとする。
だが、それよりも早く、素足にルームシューズを履いた影がユーグの目の前へと滑り込んできた。
「ちょっと、アルヴィスさん、揺すっちゃダメ! 余計に胃が痙攣するから!」
千尋だった。
千尋はユーグの前にしゃがみ込むと、躊躇なくその青白い顔を覗き込んだ。
土気色に濁った皮膚。脂汗で額に張り付いた前髪。胸元をかきむしるように震える指先と、浅く速い呼吸。
その姿を一目見た瞬間、千尋の脳裏に、前世の忌まわしい記憶が鮮明にフラッシュバックした。
(あ……これ、完全に『あの顔』だわ)
決算期の最終日。納期直前の深夜三時。
終わらないエクセルのデータ修正とクライアントからの理不尽な恫喝に晒され、デスクの下で胃を押さえて蹲っていた後輩男子の顔。
あるいは、千尋自身が徹夜明けの朝礼で意識を失いかけた時の、あの「内臓が裏返るような灼熱感」。
社畜として限界まで擦り切れ、責任感だけで身体を動かし続けてきた人間が、ふっと緊張を解いた瞬間に訪れる、身体からの痛烈な反乱。
「……痛いわよね。胃酸が上がってきて、みぞおちの奥が万力で締められてるみたいでしょ。大丈夫、息を吐いて。吸うことより、吐くことを意識して」
「ヒュ……ッ、は、ぁ……っ」
千尋の声は、驚くほど穏やかで、静かだった。
前の世界で、同じ地獄を何度も潜り抜けてきた者だけが持つ、痛みの本質を知る者の声。
千尋は手早くユーグの背中に手を当て、そっと【住空間の調律】を微弱に通した。
さすりながら、固く強張った背筋の緊張を解していく。手のひらから伝わる温かな魔力の波長が、ユーグの過敏になりすぎた交感神経を外側から少しずつ宥めていく。
「アルヴィスさん、突っ立ってないで手伝って!」
「あ、ああ! 何をすればいい!?」
「私の部屋から、あの天日干しの座布団を二枚持ってきて。それと、ベッドの上の薄手の麻ブランケット! 急いで!」
帝国最強の騎士たる公爵に対し、千尋は完全に救急隊の現場指揮官の口調で指示を飛ばした。
アルヴィスは怒るどころか、「承知した!」と即座に踵を返し、音速で座布団と毛布を抱えて戻ってきた。
千尋は手際よく床の上に座布団を敷き、ユーグの上半身をゆっくりと横たえさせた。
完全に仰向けにすると腹壁が引っ張られて痛むため、もう一枚の座布団を二つ折りにし、ユーグの膝の下に挟み込んで「く」の字の姿勢を作らせる。腹筋の緊張を極限まで緩める、胃痛時の理想的な応急安楽体位だ。
さらに、胸元の詰襟のホックと、腰の重たい革ベルトを緩め、呼吸の通り道を確保する。
仕上げに、太陽の匂いが残る温かな麻ブランケットを首元まですっぽりと被せた。
「……う、ぅ……」
「まだ動いちゃダメよ。手足の先が冷え切ってるから、まずは身体を温めて。……ちょっと待っててね。今、一番効く特効薬を作ってくるから」
千尋はエプロンの紐をキュッと締め直すと、足早に台所のかまどへと向かった。
◇
石造りのかまどの前。
千尋の頭の中では、前世で培った「弱り切った胃腸を救済するレスキューレシピ」が、目まぐるしい速度で組み立てられていた。
(胃薬を噛み砕くほどの重症よ。刺激物は論外。固形物もダメ。だけど、空っぽの胃袋に胃酸が暴れてる状態だから、何か胃壁を守る粘膜のヴェールを作ってあげなきゃいけない……)
千尋が戸棚から取り出したのは、昨日、下ごしらえして清潔な壺に保存しておいた「干し椎茸と鶏ガラの出汁」だった。
麓の村の行商人から手に入れた鶏の骨を丁寧に下茹でし、森で採れた野生の肉厚な干し椎茸とともに、弱火でアクを徹底的にすくい取りながら煮出した、琥珀色の澄んだスープだ。
脂分は冷えた段階で綺麗に固まり、スプーンで完全に取り除いてある。濁りもギトつきも一切ない、純粋なアミノ酸と核酸の旨みだけが凝縮された液体。
鉄鍋に出汁を注ぎ、かまどの熾火にかける。
チリチリと鍋肌が温まるのを待つあいだに、千尋はまな板の上で食材の準備に取り掛かった。
「……まずは、大根ね」
家庭菜園から抜いてきたばかりの、みずみずしい白大根。
大根には、ジアスターゼやプロテアーゼといった、消化を強力に助ける天然の酵素が豊富に含まれている。
千尋はナイフを手に取り、大根の皮を少し厚めに剥いた。繊維の硬い外側を落とし、中心の柔らかい部分だけを、五ミリ角の極小の賽の目切りにしていく。
トントントン、と軽快なリズムが木板に刻まれる。
さらに千尋は、その角切りにした大根を包丁の背で軽く叩き、繊維をあらかじめ解しておいた。口に入れた瞬間、咀嚼する必要すらなく、舌の上ですっと崩れるようにするための工夫だ。
温まり始めた出汁の中に、刻んだ大根を滑り込ませる。
コトコトと小さな気泡が立ち上り、大根がみるみるうちに半透明へと透き通っていく。
そして――千尋は、本丸の食材へと手を伸ばした。
「……そして、これ。生姜」
森の日当たりの良い土手で見つけて採取しておいた、野生の生姜の根茎。
大地の滋養をたっぷり吸い上げたそれは、現代の生姜よりも小ぶりだが、皮の薄い黄金色の肌をしており、指で少し擦るだけで、目が覚めるような鮮烈な芳香を放っていた。
千尋は平たい石のすり鉢を取り出し、生姜を皮ごと、円を描くように無心ですりおろしていった。
ショリ、ショリ、ショリ……。
心地よい湿った音が響く。
すりおろされるたびに、細胞が弾け、生姜特有の「ジンゲロール」の香気成分が爆発的に大気中へと揮発していく。
鼻を刺すようなツンとした刺激。しかし、千尋の調律スキルが介在することで、刺々しい辛み成分の角が丸められ、まるで薬湯に浸かっているかのような、深く温かな清涼感へと整えられていく。
たっぷりとすりおろされた黄金色の生姜の繊維と、底に溜まった辛味果汁。
千尋はそれを木匙ですくい取り、大根が煮崩れかけた鍋の中へと、惜しげもなく投入した。
ジュワァッ……!
鍋の中から、湯気とともに立ち上った香りに、台所に立っていた千尋自身が思わず深く息を吸い込んだ。
澄んだ鶏出汁のまろやかな香りに、生姜の爽快でスパイシーな温気が重なり合う。
味付けは、ほんのひとつまみの岩塩のみ。
醤油や味噌のような発酵調味料の強い塩気すら、今のユーグの荒れた胃壁には刺激になりかねない。出汁本来の甘みと生姜の風味だけで勝負する。
だが、千尋の仕事はこれでは終わらない。
最後の、そしてもっとも重要な工程が残っていた。
「仕上げは……とろみ」
千尋が小椀に取り出したのは、森に自生していた葛に似た野草の根から、水晒しを繰り返して抽出・精製しておいた純白の澱粉粉だった。
冷たい井戸水で溶いて、乳白色の水溶き葛粉を作る。
千尋は鉄鍋の火を少し強め、沸騰の泡が細かく立ち上がった瞬間を見計らった。
左手でお玉を持ち、鍋の中のスープをゆっくりと大きな円を描くようにかき混ぜる。
その渦の中心へ向けて、右手から水溶き葛粉を、細い糸のように少しずつ注ぎ入れていった。
サラサラ……トロリ。
白濁した液体が熱せられたスープと出会った瞬間、魔法のように透明度を取り戻し、サラサラとしていた出汁が一気に質感を変化させた。
ポコッ……ポコッ……と、粘度を帯びた優しい気泡が鍋底から上がってくる。
それは、ただ片栗粉で固めたような重たい糊ではない。
葛特有の、まるで極上の美容液のように滑らかで、艶やかで、食材のすべてを優しく抱きかかえるような、とろりとした黄金の餡。
この「とろみ」こそが、弱った胃腸に対する最大の防壁となる。
とろみがあることでスープの温度が逃げず、口当たりが限りなく滑らかになり、何より胃の中に入った時に胃壁全体を優しくコーティングして、過剰な胃酸の攻撃から粘膜を守ってくれるのだ。
「……よし! 完璧な仕上がり!」
千尋は火から鍋を下ろし、木製の深い椀にスープをよそった。
透き通るような薄い黄金色の葛餡の中で、雪のように柔らかく煮崩れた白大根の粒と、細やかな生姜の繊維が、キラキラと朝の光を反射して揺らめいている。
油分はゼロ。
胃への負担は極限まで排除され、生命の滋養だけがぎゅっと凝縮された、究極のいたわり料理。
千尋はお盆に椀と木のスプーンを乗せ、小走りで居間へと戻った。
◇
居間では、ユーグが依然として座布団の上で身体を丸め、痛みに耐えていた。
アルヴィスが心配そうにその傍らに膝をつき、「ユーグ、すまない……私の身勝手な行動のせいで、お前にこれほどの無理を……」と、珍しく取り乱したように眉をひそめて声をかけている。
「アルヴィスさん、ちょっと退いて。患者に謝罪の言葉を浴びせても胃酸が増えるだけよ」
「あ、す、すまない……」
千尋はアルヴィスを軽く手で押し除けると、ユーグの枕元に膝をついた。
お盆を床に置き、熱々の椀を両手で持ち上げる。
「ユーグさん。目を開けられる?」
「……ぅ……副官、どの……いえ……娘、さん……」
ユーグが脂汗に濡れた瞼を、辛うじて押し上げた。
その濁った視界の先、千尋が差し出した木椀から、ふわあぁぁぁっと白い湯気が立ち上っていた。
その湯気が、ユーグの鼻腔をかすめた瞬間――。
ピクッ、と彼の青白い鼻先が小さく動いた。
「…………っ」
香りが、届く。
鶏ガラと干し椎茸が何時間もかけて醸し出した、角のない、どこまでも深い大地の香り。
そして、その奥から立ち上る、すりおろしたばかりの生姜の、温かく澄んだ芳香。
決して胃を攻撃しない。
むしろ、過敏になって硬直していた鼻腔と喉の奥の粘膜を、柔らかい蒸気で優しく包み込み、呼吸のたびに胸の奥の冷えを溶かしていくような、圧倒的な「滋養の予感」。
「お腹を温めなきゃダメよ。無理に噛まなくていいから、このスープを、スプーン一杯だけでいいから口に含んでみて」
千尋は木のスプーンで、とろみのあるスープをそっとすくい上げた。
琥珀色の葛餡に包まれた大根の粒が、スプーンの上でぷるぷると震えている。
ふう、ふう、と息を吹きかけ、適温まで冷ましたそれを、千尋はユーグの乾いた唇の前へと、そっと差し出した。
湯気とともに漂う生姜の香りが、ユーグの荒れ果てた五感を、優しくノックしていた。




