第19話:涙の完食と、『ここが天国ですか、閣下』
木のスプーンから立ち上る、淡く白い湯気。
そこに含まれる生姜の清々しい芳香と、何時間も弱火で煮出された鶏と干し椎茸の芳醇なアミノ酸の香りが、ユーグの乾き切った鼻腔を優しく撫でていた。
「ほら、熱すぎないように冷ましてあるから。無理に噛もうとしなくていいの。そのまま、舌の上に乗せてみて」
千尋のささやくような穏やかな声に促され、ユーグは引きつっていた唇をおずおずと開いた。
木匙の先端が、渇いた唇を潤すように触れる。
そして、とろりとした琥珀色の葛餡が、静かにユーグの口の中へと滑り込んできた。
「…………っ」
刹那、ユーグの全身を貫いたのは、味覚という概念を遥かに超えた「救済」の衝撃だった。
まず舌先を包み込んだのは、葛粉によって生み出された、この世のものとは思えないほど滑らかなテクスチャーだった。上質なシルクが水に溶けたかのような、一切の角がない円やかな口当たり。
続いて、口蓋全体にじんわりと広がっていったのは、混じり気のない純粋な出汁の旨みだった。丁寧にアクを引いた鶏ガラの清冽なコクと、森の奥深くで育まれた干し椎茸の奥深い薫香。化学調味料の刺激も、強すぎる塩気もない。ただひたすらに優しく、素材本来の大地の力が、舌の味蕾の隙間ひとつひとつへと染み渡っていく。
そして――何よりユーグを驚愕させたのは、すりおろし生姜の働きだった。
(……辛く、ない……? いや、刺激がない……温かい……!)
本来、生の生姜は舌を刺すような鋭い辛味を持つものだ。弱り切った胃にそんなものを流し込めば、かえって粘膜を痛めつける凶器になりかねない。
だが、千尋の【住空間の調律】によって刺激の角を徹底的に削ぎ落とされ、葛餡の膜の中に閉じ込められた生姜は、もはや刺激物ではなかった。
それは、春の陽だまりのような優しい微熱の塊だった。
口から喉へ、そして食道を通って落ちていく過程で、生姜の温もりが冷え切っていた管をじんわりと解きほぐしていく。
さらに、スープの中に潜んでいた細やかな白大根の粒。
包丁の背で叩かれ、繊維をあらかじめ解かれていた大根は、ユーグが歯を合わせる必要すらなく、舌の上に乗った瞬間にハラリとほどけ、蓄えていた出汁の水分をジュワッと解き放ちながら、泡のように消えてなくなった。
ごくり、と。
無意識のうちに喉が鳴り、最初の一口が胃袋へと滑り落ちた。
その瞬間だった。
じわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ。
「……あ……っ、ぁ……!」
ユーグの喉から、声にならない細い喘ぎが漏れた。
信じられない現象が、彼の体内で起きていた。
先ほどまで、まるで万力でギリギリと締め上げられ、焼け付くような胃酸の海で激痛を叫んでいた胃袋の内壁。
そこへ、とろみのある葛餡が薄いヴェールのように広がり、荒れ果てた粘膜全体をすっぽりと包み込んだのだ。
生姜の成分が胃壁の血流を瞬時に促し、大根の消化酵素が出汁の滋養をスムーズに吸収させていく。
激痛が、引いていく。
まるで、燃え盛る火災の跡地に、穏やかで冷涼な聖水が降り注ぎ、すべての煙を鎮火してくれたかのように。硬く縮こまり、脂汗を噴き出させていたみぞおちの奥の痛烈な痙攣が、たった一口のスープによって、目に見えるほどの速度で和らいでいった。
「……う、そだ……。痛みが……止まる……? こんな、ただのスープで……?」
「ただのスープじゃないわよ。あんたの今の胃袋に合わせて、大根の切り方から生姜のすり方までミリ単位で調整した、特製のレスキュー食なんだから」
千尋はふっと悪戯っぽく笑うと、木のスプーンをユーグの手へと握らせた。
「ほら、自分で持てるでしょ。冷めないうちに、ゆっくり、全部お腹に入れちゃいなさい」
手のひらに伝わる、木椀のじんわりとした熱気。
ユーグはもう、騎士団副官としての体面も、客観的な分析も維持することができなかった。
本能が、肉体が、魂が、目の前にある黄金の雫を狂おしいほどに求めていた。
震える指先で木匙を握り直し、自らの手でスープを掬う。
二口目。
三口目。
スプーンが口元と椀を往復する速度が、次第に上がっていく。
飲み込むたびに、胃の腑の底からポカポカとした確かな熱源が生まれ、それが血管を伝って、冷え切っていた指先や足先へと駆け巡っていく。
泥水をすするような思いで噛み砕いていたあの苦い胃薬とは違う。
命を削るのではなく、命を補う、本物の滋養。
夢中になって木匙を動かしていたユーグの耳元に、ふと、柔らかな衣擦れの音が届いた。
トントン……。
千尋の掌が、ユーグの強張っていた背中を、リズミカルに、優しく撫で下ろしていた。
前世で、徹夜の連続で机に突っ伏していた同僚の背中をさすっていた時と、まったく同じ手つき。
呼吸のリズムを整えるように、上から下へ、優しく、慈しむように滑る手のひら。
そして、千尋の口から紡がれたのは、なんの衒いもない、あまりにも素朴な一言だった。
「……無理して仕事しちゃ、ダメですよ」
「…………え?」
ユーグの木匙が、ピタリと止まった。
「身体を壊したら、元も子もないんですから。仕事なんてね、どれだけ頑張ったって、自分が倒れちゃったら誰も代わりに責任を取ってくれないの。倒れるまで走っちゃダメ。お腹が痛くなったら立ち止まって、温かいものを食べて、寝なきゃいけないのよ」
穏やかな、けれど心の最深部を直接揺さぶるような千尋の声。
その瞬間――ユーグの頭蓋の奥で、何かが音を立てて決壊した。
(……あぁ……)
走馬灯のように、ここ数年間の過酷な記憶が脳裏を駆け巡った。
アルヴィスが公爵位を継いで以来の八年間。
幼馴染である主君の凄絶な孤独を、誰よりも理解していた。体内の魔力暴走に怯え、夜も眠れず、氷の仮面を被り続けるアルヴィスを支えるため、ユーグは自ら「頑丈な副官」の仮面を被り続けてきたのだ。
領地の政務、王都の貴族たちからの陰湿な嫌がらせの処理、前線への補給計画、そして何より「いつ主君が狂気に呑まれて死ぬか分からない」という終わりのない恐怖。
眠れなくても、笑顔を作った。
胃が千切れそうに痛くても、部下の前では背筋を伸ばし、平然とした顔で書類に決裁のサインを走らせた。
誰にも弱音を吐けなかった。自分が弱みを見せれば、ハルデンベルクの屋台骨が崩れてしまうと信じ込んでいたから。
――無理をしてはいけない。
――身体を壊したら、元も子もない。
そんな、誰かに言ってほしくてたまらなかった当たり前の言葉を。
この森の少女は、出会ったばかりの素性も知れぬ自分に対して、ごく自然に、心底からの祈りを込めて投げかけてくれた。
「…………っ、ぅ……」
ユーグの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
堪えようと奥歯を噛み締めたが、もう無理だった。
青白かったユーグの目頭が真っ赤に染まり、次の瞬間には、大粒の涙がポロポロと、滝のように頬を伝って零れ落ちた。
「ひぐっ……うぅ……っ、うわぁぁぁぁぁぁん……っ!」
二十八歳の、帝国軍近衛副官たる屈強な男が。
子どものように顔を歪め、ボロボロと涙を流して泣きじゃくっていた。
千尋の温かい手が背中を撫でるたびに、何年も何年も蓄積され、氷のように固まっていた重圧と孤独が、涙となって体外へと洗い流されていく。
ポタリ、ポタリと、零れ落ちた涙がスープの入った木椀の縁を濡らす。
それでもユーグは、スプーンを口に運ぶのを止めなかった。
涙で視界が滲み、鼻水をすすりながら、最後の一口まで、椀の底に残った葛餡の一滴すら逃すまいと、木匙で綺麗にすくい取って飲み干した。
ゴクリ。
最後の一口が喉を通った時。
木椀の中は、洗ったかのようにピカピカに空になっていた。
「…………ぷはぁっ」
ユーグは椀を床に置き、敷かれていた座布団の上に、大の字になってバタリと倒れ込んだ。
呼吸が、深い。
肺の底まで、小屋の澄んだ空気が抵抗なく満ちていく。
あんなにも自分を苛み、死の淵へと引きずり込もうとしていた胃痙攣の激痛は――跡形もなく、綺麗さっぱり消滅していた。
お腹の奥には、まるで小さな暖炉が灯ったかのような、ぽかぽかとした心地よいぬくもりだけが満ちている。
脂汗は引き、土気色だったユーグの頬には、ほんのりと健康的な赤みが差していた。手足の先まで温かい血が巡り、鉛のように重かった四肢が、嘘のように羽毛のように軽い。
「……完食、お見事」
千尋が満足そうに目を細め、空になった器を回収した。
「よく頑張ったわね。お腹が温まったら、もう大丈夫よ」
天井を見上げるユーグの視界は、信じられないほどクリアだった。
木漏れ日が梁の木目を美しく照らし、窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。
耳を澄ませば、風鈴がチリンと微かに鳴る音。
足元には、ふかふかで温かい手作りスリッパ。
背中を支えるのは、太陽の匂いがする極厚の座布団。
そして、何よりも――胃が、痛くない。
痛くないのだ。
息を吸っても、動いても、あの忌々しい万力の痛みがどこにも走らない。
こんなに身体が軽くて、心が穏やかな朝が、自分の人生に存在しただろうか。
ユーグはゆっくりと首を巡らせた。
傍らには、心配そうに自分を見守っていた主君――アルヴィス公爵が、片膝をついて控えていた。
そのアルヴィスもまた、かつての鬼神のような険しさはなく、柔らかな麻のシャツを着て、どこか居心地悪そうにユーグの顔を覗き込んでいる。
ユーグは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ズズッと鼻をすすった。
そして、まるで神仏の啓示を受けた巡礼者のような、トロンと蕩けた瞳でアルヴィスを見上げ、震える唇を開いた。
「…………閣下」
「……何だ、ユーグ。気分はどうだ」
「……閣下。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ。何でも言え」
ユーグは胸元に手を当て、深く、心底からの実感を込めて呟いた。
「…………ここが、教典に記された『天国』という場所なのでしょうか……? 私たちは……戦場で命を落とし、二人揃って天に召されたのですね……?」
大真面目だった。
大の大人が、本気でそうとしか思えないほどの極楽浄土を味わっていたのだ。
激痛からの完全解放、天女のような娘から差し出された奇跡の滋養スープ、そして神獣の憩う光あふれる聖域。これが天国でなくて何だというのか。
しかし――そんな副官の渾身の感涙を前に、アルヴィスは気まずそうに視線を左右に泳がせた。
頬を微かに引きつらせ、喉をコホンと鳴らす。
「……いや。ユーグ、お前は生きている」
「えっ……? 生きている……? では、この胃の痛みの消失は……この満ち足りた幸福感は、何なのですか……!?」
「…………ここは、ただの山小屋だ」
アルヴィスは低く、それだけを答えるのが精一杯だった。
自分自身も今朝、まったく同じようにこの小屋の居心地の良さと朝食の美味さに胃袋を握られ、魂を骨抜きにされたばかりなのだ。副官のその腑抜けた反応を、責める権利など爪の先ほども持ち合わせていなかった。
「ちょっと、アルヴィスさん、何が『ただの山小屋』よ」
台所へ向かおうとしていた千尋が、足を止めて不満そうに振り返った。
「私が何時間もかけて床を磨いて、換気して、隙間風を塞いで、一生懸命整えた『最高の我が家』なんだからね! ただの山小屋なんて言ったら、パイン材の床板に失礼でしょ!」
「あ、いや……すまない。そういう意味で言ったのでは……」
帝国最強の騎士が、エプロン姿の娘に叱られて小さく肩をすくめる。
その光景を見て、ユーグは再び目を丸くした。
(あ、あのアルヴィス閣下が……女性に言い負かされて、縮こまっておられる……!?)
公爵邸の誰もが見たことのない、主君のあまりにも人間味にあふれた姿。
足元では、ルゥがトコトコと歩み寄ってきて、倒れ込んでいるユーグの顔の匂いをフンフンと嗅ぐと、「ふっ……また一人、千尋の飯に屈したか」とでも言いたげに、ユーグの腹の上に前足をポンと乗せて座り込んだ。
神獣の柔らかな重みとぬくもりが、スープで温まったユーグの胃袋をさらに心地よく圧迫する。
「……あぁ……もふもふまで……乗ってきた……」
ユーグは再び脱力し、幸せそうに目を細めて天井を仰いだ。
常闇の森の小さな山小屋。
激務と過労に押し潰されかけていた帝国屈指のエリート騎士たちが、元社畜OLの温かな生活空間の中で、見事に、そして完全に毒気を抜かれていく。
森の木漏れ日は、どこまでも優しく、彼らの傷ついた魂を包み込むように降り注いでいた。




