第8話:湯たんぽの虜になった神獣と、膜の張ったホットミルク
洗い場から居間へと戻る腕の中で、その小さな生き物は、まるで陽だまりに干したての羽毛クッションのように柔らかく、微かな温もりを放っていた。
泥と血を洗い流し、千尋が丁寧にブラッシングを施したことで蘇った毛並みは、息を呑むほど純白に近く、光の当たり具合によっては淡いプラチナのような青銀色にきらめく。鼻先から尻尾の先まで、どこを撫でても指先がすっと吸い込まれるような極上のシルクの手触りだった。
「……それにしても、本当に綺麗な毛ね。犬……にしては、ちょっと耳の先が尖ってるし、尻尾の毛量もすごいけれど。新種のキツネかポメラニアンかしら」
千尋は居間の木製丸テーブルの上に、手頃な麻布を敷いて幼獣をそっと下ろした。
当の幼獣は、丸太のように太い四肢を投げ出して座り込み、自らの前足をまじまじと見つめていた。鋭かったはずの爪は千尋に綺麗に泥を掻き出され、カピカピに乾いていた肉球は、ぬるま湯と千尋の魔力によって、桜色の柔らかいぷにぷにとした弾力を取り戻している。
――き、奇跡だ……我が神獣フェンリルの肉体が、ここまで完璧に回復するなど……。
――あの忌々しいキマイラ毒の残滓すら、完全に浄化されている……。この娘、ただの人間ではないのか……?
幼獣の胸の内では、天地を揺るがすほどの驚愕が吹き荒れていた。
自分は常闇の森の頂点捕食者であり、悠久の時を生きる神獣フェンリル。森の境界を守護する過程で傷を負い、魔力を使い果たして幼体の姿まで退行してしまっていたのだ。本来ならば百年単位の眠りにつかなければ癒えないはずの神霊格の傷が、たった数十分の「雑な水浴びとブラッシング」で塞がってしまった。
しかし、そんな神獣の壮大なアイデンティティなど、千尋が知る由もない。
千尋は幼獣の正面に屈み込み、丸い額を人差し指でツンと小突いた。
「いつまでも『泥団子ちゃん』って呼ぶのも可哀想だし、名前を決めなきゃね。……うーん、銀色で、もふもふで、さっきから喉を鳴らす音が『ルゥ』って聞こえるから……よし、あなたの名前は『ルゥ』ね」
――ルゥだと……!? 我が真名は、天を統べる銀嶺の暴風――
「はい、決定! よろしくね、ルゥ」
千尋の屈託のない笑顔と、耳の付け根をくすぐる優しい指先のストロークの前に、神獣の反論は呆気なく霧散した。
ルゥは「くぅ……」と情けない声を漏らし、悔しそうに耳を伏せるのが精一杯だった。
「さて、と。お腹が空いてたんだったわね。いきなり固いお肉を食べさせたら胃がびっくりしちゃうから、消化にいい温かいものを用意するわ」
千尋はエプロンの紐をキュッと締め直し、石造りのかまどへと向かった。
台所の棚から取り出したのは、昨日、森の入り口で出会った麓の村の行商人から、手持ちの小銭と交換で手に入れておいた「山羊の絞りたて乳」が入った素焼きの小壺だった。北方領の山羊は高山植物を食んで育つため、独特の青い野草の風味を含みつつも、牛乳よりも脂肪分が濃密で栄養価が極めて高い。
かまどの熾火に手斧で割った小枝をくべ、息を吹きかける。
ポッと小さな赤い炎が立ち上がり、鉄製の小鍋を優しく熱し始めた。
千尋は壺から、白濁した濃厚な山羊乳をトポトポと小鍋に注ぎ入れる。
「強火で沸騰させちゃダメ。弱火で、ゆっくり、じっくりね……」
千尋は木杓を手に取り、鍋底を焦がさないよう、円を描くように静かにかき混ぜた。
チリチリと鍋肌が温まるにつれて、乳特有のふわりとした甘い香りが、湯気とともに立ち上り始める。
そこへ千尋は、森の倒木で見つけて採取しておいた、野生の蜜蜂の巣から絞った琥珀色の百花蜜を、木匙の先にほんのひとたらし、垂らした。
黄金色の雫が白い海へと沈み、スッと溶け込んでいく。
立ち上る香気に、野の花の華やかな蜜の匂いが重なり、居間全体に甘美なアロマが満ちていった。
テーブルの上で、ルゥの尖った鼻先がピクピクと激しく動いた。
前足を揃えて立ち上がり、首を精一杯伸ばして台所の方を見つめる。
森の肉食獣たるもの、血の滴る生肉こそが至高の糧であるはずだった。しかし、今かまどから漂ってくるその匂いは、嗅覚を通じて直接魂を揺さぶるような、抗いがたい引力を持っていた。
鍋の縁に、針の先ほどの微小な白い気泡がプチプチと立ち始めた。
千尋は木杓を止め、火を熾火の遠火へと引き、じっと鍋の表面を見つめる。
――ここからが、一番大事な瞬間。
熱せられた乳の表面が、冷たい空気に触れることで、わずかな対流が生まれる。
タンパク質と乳脂肪が熱によって結合し、表面に透き通るような、薄い薄いヴェールが一枚、音もなく張り巡らされていく。
そう、ホットミルクの表面にできる、あの滑らかで濃厚な「膜」だ。
現代の地球では、口当たりを嫌って除けてしまう人も少なくないこの膜。しかし、良質な脂肪分とタンパク質が凝縮されたこの湯葉のような膜こそが、もっとも甘みが強く、滑らかな舌触りを持つ至高のパーツであることを、千尋はよく知っていた。
「……よし、今!」
千尋は鍋を火から下ろすと、平たい木のスプーンを慎重に滑り込ませた。
膜の端を破らないよう、鍋肌に沿ってそっとスプーンの縁を滑らせ、表面に張った半透明の白い膜を、すくい上げる。
トロンとスプーンの上で柔らかく揺れる、出来立てのミルクの膜。
千尋はそれを、手のひらサイズの小さな浅い木皿へと、そっと移した。
膜には、温められた濃厚なミルクの甘露と蜂蜜の微かな糖分が、たっぷりと絡みついている。
「はい、ルゥ。出来立てよ。猫舌……じゃなくて、犬舌かもしれないから、まずはこの冷めやすい膜のところから食べてみて」
千尋が木皿をテーブルのルゥの前にコト、と置いた。
ルゥは黄金の瞳を丸く見開き、皿の中の白い物体を恐る恐る凝視した。
――な、何だこれは……?
――ただの家畜の乳ではないのか? なぜこのような、絹織物のような薄膜が……毒か? それとも我を誑かす罠か……?
警戒心から、ルゥは鼻を近づけてフンッと短く息を吹きかけた。
その瞬間、鼻腔を直撃したのは、暴力的なまでに純粋な「甘み」と「乳脂肪」の豊潤な香りだった。
ぐうぅぅぅ、とルゥの小さなお腹が悲痛な音を立てて鳴る。
我慢など、できるはずがなかった。
ルゥは意を決したように、小さなピンク色の舌を、木皿の中の膜へとチョンと伸ばした。
「……っ!!?」
ルゥの全身が、まるで落雷に打たれたかのように硬直した。
舌の上に触れた瞬間、膜は吸い付くように滑らかに広がり、噛む必要すらなく、体温によってトロリとほどけていった。
広がるのは、生乳の何倍にも凝縮された濃厚なコク。
山羊乳特有の野生の力強さは、千尋の絶妙な火加減と調律によって嫌な臭みだけが完全に消し去られ、芳醇なナッツのような香ばしさへと昇華されている。そこに絡む、野花蜂蜜の奥ゆかしい甘み。
ぬるりと喉を通り抜けた瞬間、全身の毛穴がカッと熱くなるような滋養が、弱り切っていた身体の隅々へと染み渡っていく。
――な、何だこの美味さは……っ!?
――森の果実とも、獲物の骨髄とも違う……! 我が何千年の生涯において、このような甘美な滋味を口にしたことなど一度もないぞ……!!
次の瞬間、フェンリルの誇りなどどこへやら、ルゥは我を忘れて皿に顔を突っ込んでいた。
ペチャペチャペチャッ!
激しい音を立てて、一心不乱に舌を動かす。
スプーンですくった膜を一瞬で平らげ、皿の底に残った一滴の雫すら逃すまいと、木肌が白くなるほど丹念に舐め尽くす。
「ふふっ、そんなに急いで食べなくても逃げないわよ。はい、本体のミルクも少し冷めたからどうぞ」
千尋が苦笑しながら、深めの器に移した人肌温度のホットミルクを差し出した。
ルゥは顔を上げ、鼻の頭に白いミルクの泡をちょこんと付けたまま、千尋の手元の器へと飛びついた。
ペロペロ、ゴクゴクと、小さな喉を必死に鳴らしながらミルクを飲み干していく。
温かい液体が胃袋を満たすたびに、ルゥの丸い背中が幸福そうに小さく波打った。
器がピカピカに舐め上げられた頃には、ルゥのお腹はまるで小さな風船のように真ん丸に膨らんでいた。
ふう、と小さな白い息を吐き、ルゥはその場にペタンとお腹をつけて座り込む。
金色の瞳はすっかりトロトロに濁り、満足感のあまり舌先が口元から少しだけハミ出ていた。千尋が指先で顎の下を撫でてやると、「ふすぅ……」と心地よさそうに目を細めて頭を擦り寄せてくる。
「美味しかった? よかったわね」
千尋は微笑みながら食器を片付け、窓の外へと目を向けた。
いつの間にか、常闇の森は完全な夜の帳に包まれていた。
木枠の窓を閉め切り、見えない魔力のフィルターで隙間風をシャットアウトしているとはいえ、雨上がりの夜の冷気は凄まじい。外気はおそらく氷点近くまで冷え込んでいるのだろう、窓ガラスの隅には微かに白い霜が降り始めていた。
室温はスキルによって二十一度前後に保たれているものの、床面近くや布団の中までは、じっとしていると徐々に底冷えが這い上がってくる。
「……今夜は冷えるわね。ルゥも身体が冷えたらぶり返しちゃうし……アレを使いましょう」
千尋が物置の木箱から取り出したのは、前の住人が残していったらしい、丸みを帯びた素焼きの陶器の小壺だった。口が細く、頑丈なコルクの栓がついている。
千尋はかまどの鉄鍋に残っていた、グラグラと沸騰する熱湯を、火傷に気をつけながらその素焼き壺の八分目までたっぷりと注ぎ込んだ。
コルク栓を木槌でしっかりと打ち込み、密閉する。
このままでは熱すぎて触れられない。
そこで千尋が取り出したのは、日中、スリッパを作った時に残った、目の細かい柔らかな「ネル生地(起毛コットン)」の端切れだった。
素焼き壺の周囲を、ネル生地でぐるぐると二重に巻き、麻紐でしっかりと縛る。
「即席の、湯たんぽ!」
千尋が両手で抱えると、布越しに伝わってくるのは、刺すような熱気ではなく、まるで生きた動物の体温のような、じんわぁ……とした湿り気を含んだ極上の温熱だった。
お湯の熱が素焼きの土を通ることで角が取れ、外側の起毛ネルが適度な空気を含んで、火傷を防ぎながら完璧な保温力を発揮している。
千尋はスリッパを脱ぎ、部屋の奥の干し草ベッドへと向かった。
麻の掛け布をめくり、足元にあたる中央のくぼみへ、その特製湯たんぽをすっと滑り込ませる。
布を元に戻して手のひらで上から押さえると、わずか数十秒のあいだに、布団の中の冷たい空気が押し出され、太陽の光とハーブの香りを吸い込んだ干し草の隙間という隙間へ、優しい温もりが満ち渡っていった。
「よし、これで完璧。ルゥ、寝床は――」
千尋が振り返り、ルゥに声をかけようとした、まさにその時だった。
タタタッ!
小さな足音が板張りを叩いたかと思うと、白銀の毛玉が、まるで矢のような速さでベッドの上へと跳躍した。
ルゥの野生の直感が、布団の奥から漂い出してきた「圧倒的な熱源」を、狂おしいほどの精度で察知したのだ。
掛け布の隙間に器用に鼻先を突っ込み、ルゥは布団の中へと潜り込んでいった。
ガサゴソ、と干し草が擦れる音が響く。
千尋が慌てて掛け布をめくると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……ルゥ?」
ルゥは、千尋が足元に仕込んだネル包みの湯たんぽの上に、自分の顎をちょこんと乗せていた。
短い前足を湯たんぽを抱きかかえるように回し、お腹をぴったりと密着させ、全身でその温熱を享受している。
カモミールとラベンダーの香りが充満する布団の中、じんわりと下から突き上げてくる湿熱の極楽。
ルゥの全身の力が完全に抜けていた。
耳はペタンと横に倒れ、口元はだらしなく緩み、かつて森の魔獣たちを震え上がらせた神獣の威厳など、分子レベルで消滅していた。
――あ、温かい……。
――何だこの温もりは……母の胎内よりも、聖なる泉の底よりも温かい……。
――動けん。我はもう、ここから一歩も動けんぞ……。
千尋がおずおずとベッドに腰掛け、掛け布の中に自分の脚を滑り込ませると、ルゥは逃げるどころか、むしろ自分からすりすりと千尋のふくらはぎへと背中を寄せてきた。
湯たんぽの柔らかな熱と、ルゥのもふもふの体温。
二つの温もりが合体し、千尋の冷え切っていた足先を、極上の幸福感で包み込んでいく。
「くぅ……ん……」
ルゥは千尋の足にぴったりと背中を密着させたまま、深く、長い吐息を漏らした。
そのまま、スースーと規則正しい、安らかな寝息を立て始める。
撫でてみても、ピクリとも動かない。完全に無防備な、ただの甘えん坊の子犬の姿だった。
「……あはは。神獣だか何だか知らないけれど、完全に骨抜きじゃない」
千尋は掛け布を肩まで引き上げ、干し草の枕に頭を沈めた。
足元には温かい湯たんぽと、規則正しく上下する小さな命の温もり。
部屋の中にはカモミールの甘い香りと、静寂。
外の寒さも、孤独も、ここには届かない。
「……はい、居座り決定ね」
千尋は苦笑しながら、布団の中で丸まるルゥの頭をそっと撫でた。
一人きりだったはずの山小屋の夜が、ほんの少しの温もりと重みを得て、昨日よりもずっと豊かなものになっていた。
千尋の瞼がゆっくりと落ち、森の夜は、どこまでも優しく更けていった。




