第58話:青空にはためく純白のリネンと、並んでシーツを叩く男たち
常闇の森を呑み込もうとしていた太古の瘴気嵐が千尋の放った「全館大掃除」の光によって完全に浄化されてから、数日が経過していた。
森の空を覆っていた重苦しい暗雲や不吉な紫電は欠片も残っておらず、見上げれば、息を呑むほどに澄み切ったセルリアンブルーの天蓋がどこまでも高く、深く広がっている。
吹き抜ける風には湿気の一片すら混ざっておらず、肌を撫でる空気はからりと乾いていて清々しい。降り注ぐ秋の陽光は、大気中の余分な水分を一瞬で蒸発させてしまうほどに力強く、そして心地よい温もりを湛えていた。
ギィ……と木枠の窓を両手で力いっぱいに押し開けた千尋は、朝露の残る森の空気を肺腑の底まで吸い込んだ。
「……んんーーっ! 風が乾いてて、お日様がカンカン照り! これはもう……!」
腰に当てた両手にぐっと力を込め、千尋は前庭と青空へ向けて、高らかに勝利の号令を響かせた。
「絶好の洗濯日和! 今日は家中の布という布を、ぜーーんぶ洗います!!」
元限界社畜OLの主婦魂が、清らかな秋晴れの下で猛烈な炎を上げていた。
あの大掃除防衛戦で、山小屋の室内自体は千尋の【住空間の調律】によって汚れひとつなく守られた。しかし、連日連夜の緊張感、大勢の人間と森の動物たちが身を寄せ合っていた気配、そして外から持ち込まれた微細な埃や汗の粒子。それらをすべて洗い流し、太陽の光でリセットしなければ、千尋の理想とする「極上の安眠空間」は真の完成を迎えない。
千尋の号令のもと、前庭には即座に屈強な男たちが集められた。
朝の薪割りを終えたばかりのアルヴィス。
公爵領の復旧警備の合間を縫って駆けつけた副官ユーグ。
そして、納屋の書斎で新しい魔導論文を執筆していたところを首根っこを掴まれて引きずり出された首席研究員ギルバートである。
「ち、千尋さん、私は今まさに大気アエテルの再結晶化に関する重大な数式を導き出そうとしていたところでして……」
ギルバートが銀縁眼鏡を指先で押し上げながら抗議の声を上げるが、千尋は一切聞く耳を持たなかった。
「研究よりシーツよ! お日様は待ってくれないの! 午前中の強烈な紫外線とお昼の乾燥した風を逃したら、ふかふかの乾き上がりが台無しになるでしょ!」
「ぐっ……紫外線と風の乾燥効率を熱力学的に説かれると、反論の余地が……!」
「千尋殿の仰る通りです!」
腕まくりをしたユーグが、鼻息荒く一歩前に踏み出した。
「我が主君の安眠を支える寝具を清めることこそ、国家防衛に匹敵する最重要任務! このユーグ・ヴァレリー、全身全霊をもってお手伝いいたします!」
「うむ。私も手伝おう。千尋の家のシーツを洗うのは、私の役目でもある」
アルヴィスもまた、黒いリネンシャツの袖を肘まで捲り上げ、サファイアの双眸に鋭い決意を宿して頷いた。帝国最強の騎士と副官が、まるで決戦前夜の軍議のような面持ちで並び立っている。
「はい、気合いが入っててよろしい! じゃあ、どんどん運ぶわよ!」
千尋の指示のもと、山小屋の中からは信じられない分量の「布」が運び出された。
何枚もの敷きシーツ、掛け布団カバー、麻の枕カバー。さらには居間を仕切っていた厚手の目隠しカーテン、囲炉裏端の座布団カバー、そしてベルントが作ってくれた長椅子の羊毛クッションカバーに至るまで、山のような純白と生成りの布地が前庭の敷石の上へと積み上げられていく。
庭の中央には、大工のベルントに特注して作ってもらった、直径二メートルを超える巨大な杉の「洗濯大樽」が三つ、ドスンと並べられていた。
千尋が井戸から汲み上げた清冽な地下水を並々と張り、そこへ取り出したのは――素焼きの小壺に詰められていた、特製の「液体ハーブ石鹸」だった。
山羊の新鮮な乳に含まれる天然油脂を苛性カリに似た木灰のアルカリ水でじっくりと鹸化させ、そこへ庭で朝摘みしたばかりのペパーミント、ユーカリ、そして心を解きほぐすドライラベンダーの濃厚な蒸留水を黄金比率でブレンドした、千尋自慢の無添加石鹸。
トポトポトポ……と大樽の冷水へ注ぎ込んだ瞬間、澄んだ水面に白いマーブル模様が広がり、秋の庭いっぱいに、ツンと爽快で瑞々しいハーブと太陽の清々しい芳香が爆発するように立ち上った。
「よし、分担作業を発表します! ギルバート、水流魔法で泡立てて繊維の奥まで攪拌! ユーグさんは踏み洗い担当! アルヴィスさんは私と一緒に絞り!」
「ちょ、千尋さん、私は王立魔導院の首席研究員であって全自動洗濯機では……っ!」
ギルバートが目を剥いて叫ぶ。しかし、千尋の据わった目に見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように肩を竦ませ、震える手で杖を構えた。
「わ、わかりましたよ! 水流の回転周期を毎分千二百回転に調整……遠心力による繊維の剥離を防ぐため、逆回転パルスを五秒ごとに同期させます!」
バシャァァァァァァッッ!!
大樽の水が、ギルバートの精密極まりない水流魔法によって、猛烈な勢いで渦を巻き始めた。
ハーブ石鹸が瞬時に極微細な濃密泡へと変化し、大樽の縁を越えんばかりにモクモクと純白の泡の山が盛り上がっていく。放り込まれた分厚いカーテンやシーツが、激しい水流に揉まれて繊維の奥の奥まで泡を行き渡らせていく。世界最高の頭脳が、完全に「ドラム式洗濯乾燥機の最上位モデル」として酷使されていた。水しぶきが飛んで銀縁眼鏡のレンズが真っ白に曇るのも構わず、ギルバートは必死に魔力をコントロールして叫んでいた。
「どうだ! この計算され尽くした水流対流! 汚れの粒子が分子レベルで遊離していくのが手に取るようにわかるぞ!!」
そして、隣の大樽では――。
「うおおおおおおおおっ!! 足踏みなら軍隊行進で鍛え抜かれています! 汚れめ、我が主君の安眠のために消え失せろぉぉぉっ!!」
ズボンを膝上まで捲り上げ、素足で大樽の中へと飛び込んだユーグが、猛烈なハイペースで足踏みを繰り広げていた。
バシャン! バシャン! バシャン!
一歩踏み込むごとに、ずっしりと水を含んだ重たいリネンシーツから、濃密な石鹸の泡がブシュッと噴き出す。北方精鋭騎士団を率いる副官の、鍛え抜かれた大腿四頭筋と無駄のない重心移動。その凄まじい脚力は、大樽の底が抜けるのではないかというほどの迫力だった。
額に玉のような汗を浮かべ、真剣そのものの眼光で泡を踏みしだくユーグの姿は、敵軍の要塞を歩兵部隊で踏み潰しているかのような鬼気迫るものがあったが、踏んでいるのはただのシーツだった。
「わふっ! わふんっ!」
庭の隅では、白銀の子犬――ルゥが、飛び散る石鹸の泡を追いかけて楽しそうにピョンピョンと跳ね回っている。
縁側では、ノエルとテレーゼが、洗い上がった布を一時的に受けるための清潔な竹籠をいくつも並べ、楽しそうに笑い声を上げていた。
「ふふ、ユーグ様、あんなに必死な顔で洗濯を踏んでいらっしゃるのは初めて見ましたわ」
「ええ、ノエル様。あの子のあの真面目さが、ようやく平和のために役立っているようで何よりですわ」
◇
井戸の清冽な地下水で三度すすがれ、洗剤の泡を一滴残らず洗い流された布地たちは、驚くほど白く、そして水を吸ってずっしりと重たくなっていた。
「よし! すすぎ完了! アルヴィスさん、脱水とシワ伸ばしに入るわよ!」
「ああ、任せてくれ」
千尋とアルヴィスは、水から引き揚げられた特大のリネンシーツを挟んで向かい合った。
千尋がシーツの片側の両端を握り、アルヴィスがもう片側の両端をがっしりと掴む。
大人二人が両手を広げても足りないほどの巨大な一枚布。
二人は互いに逆方向へと身体を捻り、雑巾絞りの要領でグググッ……と力を込めていく。
ジャァァァァァ……ッ!
シーツの繊維から、絞り出された清らかな水滴が滝のように地面の敷石へと落ちていく。
千尋の握力では限界があるが、アルヴィスの強靭な腕力が絶妙にアシストしていた。千尋の力加減に寸分の狂いもなく合わせ、布地を千切ることなく、余分な水分だけを極限まで絞り切る完璧な連係プレー。
「ふぅ……水分が抜けたわね。いくわよ、アルヴィスさん!」
「うむ!」
二人は絞ったシーツを一度大きく解き、両端をピンと握り直した。
前世の社畜時代、一人暮らしのワンルームでシーツを干す時、シワだらけで乾いた布地を見ては溜息をついていた千尋にとって、この「二人で行うシワ伸ばし」こそが、洗濯における至高のハイライトだった。
「せーーのっ!!」
パァァァァァァァンッッッッ!!!!
秋の常闇の森に、銃声か破砕音かと見紛うほどの、小気味よい澄み切った炸裂音が響き渡った。
二人が同時に、全身のバネを使ってシーツを上下に打ち振るい、両側から力いっぱいにピンと引っ張り合ったのだ。
波打つ純白のリネン。
強烈な張力によって、湿気を含んで縮こまっていた縦糸と横糸の格子が一瞬で整然と整列し、無数にあった細かい小皺が、まるでアイロンをかけたかのように一撃で打ち消されていく。
「せーーのっ!」
パァァァァンッ!!
二度、三度と響く心地よい破砕音。
シーツの端を合わせるため、アルヴィスは腰を落とし、まるで戦場で長槍を構え、敵の急所を一撃で射抜かんとするかのような鋭利な眼光で布の端を見つめていた。
帝国全軍の頂点に立つ冷徹な公爵が、眉間にわずかなシワを寄せ、ミリ単位のズレも許さぬ真剣さでシーツの端と端を重ね合わせている姿は、あまりにもシュールで、側から見れば思わず吹き出してしまうような光景だった。
だが――その瞳の奥には、かつての凍てつくような殺気や険しさは欠片も存在しなかった。
シーツ越しに視線が交差するたび、千尋が「あはは、息ぴったり!」と屈託のない笑顔を向けると、アルヴィスは慌てて視線を泳がせ、尖った耳の先端をカッと林檎のように赤く染め上げて俯いてしまう。
張り詰めた戦鬼の仮面は完全に剥ぎ取られ、そこにあるのは、大好きな人の前で不器用に役立とうと奮闘する、ただの一人の青年の瑞々しい表情だった。
「よし! 完璧なシワ伸ばし! 干しましょう!」
千尋とアルヴィスは、息を合わせて前庭の奥へと向かった。
そこには、庭の大きな白樺の木と楡の木のあいだに、大工のベルントが張ってくれた頑丈な麻紐が、何本も整然と渡されていた。
サァッ……。
二人の手によって、真っ白なリネンシーツが麻紐の上へと掛け渡された。
一枚、また一枚。
敷きシーツ、掛け布団カバー、生成りの麻カーテン、枕カバー。
風を孕んでふわりと大きく膨らむ純白の布地たちが、秋の青空の下にずらりと並んでいく。
その瞬間――。
ヒュウゥゥゥ……と、森の奥から、乾いた清涼な初秋の風が吹き抜けてきた。
バササササッ……!
何枚もの真っ白なシーツが一斉に風を抱き込み、まるで白銀の帆を掲げた大船団のように、一斉に青空へと向けて羽ばたいた。
太陽の光を透かして輝く、純白のリネンのトンネル。
布と布の隙間を風が通り抜けるたびに、大気中に爆発的に広がったのは――井戸水で清められた麻の香ばしい匂いと、手作り石鹸のラベンダーとペパーミントが放つ、目も眩むような清冽なアロマだった。
吸い込まれそうなセルリアンブルーの空。
光を浴びてキラキラと輝く純白のシーツの群れ。
足元には、秋風に揺れる満開のカモミールとラベンダーの花畑。
五感のすべてが幸福感で満たされる、絵画のように美しく、そしてどこまでも温かな生活の情景。
「……ふふ。よくできました!」
千尋は腰に手を当て、はためくシーツのトンネルを見上げて、満面の笑みを咲かせた。
◇
洗濯の激闘を終えた庭には、心地よい脱力感と、爽やかな静寂が流れていた。
太陽は中天へと昇り、庭の白木の縁側をぽかぽかと暖かく照らし出している。
その縁側の上に、ずらりと横一列に並んで腰を下ろしていたのは――労働を終えた男たちだった。
中央にアルヴィス。
その左隣に、ズボンを捲り上げたまま足をぶらつかせるユーグ。
右隣には、水しぶきを拭き取った眼鏡をかけ直し、ぐったりと項垂れるギルバート。
三人とも、額には薄く汗が光り、シャツの胸元を少し肌蹴させて、深い深い息を吐き出していた。
「……はぁ。まさか、一国の魔導首席が、半日かけて水流の渦潮を毎分千二百回転で維持させられることになるとは思いませんでしたよ……」
ギルバートが力なく呟く。
「しかしギルバート殿、あの泡立ちと汚れの落ち具合は見事でしたぞ! 我が足踏みと貴殿の水流が合わさった瞬間、シーツから邪気が完全に消滅したのを感じました!」
ユーグが晴れやかな顔で笑う。
「……うむ。良い汗をかいた」
アルヴィスもまた、短く、けれど心底から満ち足りたように口元を緩めていた。
「はいはい、お疲れ様でしたー! 頑張ったみんなに、ご褒美ですよ!」
山小屋の勝手口から、大きな竹編みの平トレイを両手で抱えた千尋が、パタパタと軽快な足音を響かせて現れた。
トレイの上に乗っていたのは、汗を流した身体が今もっとも欲している「最高のご褒美」だった。
ひとつは、大麦をじっくり深煎りして井戸水で冷やしておいた、汗をかいた竹筒のグラスに注がれた「冷たい焙煎麦茶」。
氷の代わりに、千尋の【住空間の調律】によって完璧な飲み頃の冷たさに保たれ、竹筒の表面にはびっしりと冷たい露が光っている。
そして――もうひとつ。
大皿の上に山盛りに積まれていたのは、千尋の手によって今朝握られたばかりの、湯気を微かに立てる大きな「三角おむすび」だった。
「わあ……! おむすび、ですね!」
縁側の端に座っていたノエルが、目を輝かせて身を乗り出す。
そのおむすびは、ただの白米ではなかった。
先日、情報屋のイヴァンが東方の交易商人から仕入れてきてくれた、貴重な小粒の白米。それを井戸の清冽な水でふっくらと炊き上げ、熱々のうちに千尋が家庭菜園の赤シソと青シソを細かく刻んでたっぷりと混ぜ込んだものだった。
仕上げに、岩塩の澄んだ塩気を手のひらにまぶして、ふんわりと空気を抱き込ませるように優しく握られたおむすび。
表面には、これまた東方の海から運ばれてきたという、パリパリに乾燥させた黒い「海苔」がぐるりと贅沢に巻かれている。
「熱いうちにどうぞ! シソの酸味と塩分が、疲れた身体に一番効くんですから!」
「いただき、ます……!」
ギルバートが待ちきれない様子で手を伸ばし、大きなおむすびを両手で掴んで、口いっぱいにガブリとかぶりついた。
パリッ……! サクッ……!
小気味よい、海苔の弾ける音。
続いて、米粒のふんわりとした食感とともに、男たちの口腔いっぱいに広がったのは――言葉を失うほどの、圧倒的な滋味だった。
「……っっっっ!?」
ギルバートの目が、眼鏡の奥で大きく見開かれた。
噛み締めた瞬間に溢れ出す、炊きたての白米の芳醇な甘み。
そこへ、粗粒の岩塩がもたらすキリッとした塩気と、刻まれたシソが放つ、ツンと爽やかで鮮烈な初秋の薫香が雪崩れ込んでくる。
海苔の豊かな磯の香りが全体を上品にまとめ上げ、噛めば噛むほど、米の一粒一粒から大地のエネルギーがジュワリと染み出してくるのだ。
「う……うまい……! 何だこれは……! 塩分とクエン酸、そして糖質が、枯渇していた私の脳細胞へとダイレクトにチャージされていく……!!」
ギルバートは涙目で咀嚼しながら、二口目、三口目と貪るように食らいついた。
「うおおおおっ……! 染み渡る……五臓六腑に染み渡ります千尋殿!!」
ユーグもまた、豪快に口の周りに米粒をつけながら、感動の声を上げていた。
「シソの清涼感が、激しい足踏みで熱を持った身体を芯から癒やしていく……! この塩加減、まさに神の領域です!」
アルヴィスもまた、大きな手でおむすびを大切そうに持ち上げ、大口を開けて頬張った。
もぐ、もぐ……ごくん。
喉仏が滑らかに動き、飲み下した瞬間、アルヴィスは目を細め、静かに深く息を吐き出した。
「……美味い。……ただ米を炊き、塩と草を合わせただけだというのに……なぜこれほどまでに、心が温かくなるのだ……」
「ふふ、心を込めて握ったからよ」
千尋は笑いながら、アルヴィスへ冷えた麦茶の竹筒を手渡した。
「はい、麦茶も飲んで。水分補給しないと脱水症状になっちゃうわよ」
アルヴィスは竹筒を受け取り、一気に喉を鳴らして呷った。
ゴクッ、ゴクッ、ぷはぁっ……!
香ばしい麦の薫香と冷たさが、渇ききった喉を滑り落ちていく。
アルヴィスの口元から、完全にすべての毒気が抜け落ち、なんの憂いもない、無防備で幸せそうな吐息が零れ落ちた。
縁側の向こうでは、真っ白なシーツたちが秋風を孕んで、パタパタと誇らしげに青空へと羽ばたいている。
その布地の間を通り抜けてくる風は、太陽の光とラベンダーの香りを運び、縁側に並んで座る彼らの頬を、優しく、柔らかく撫でていく。
足元では、ルゥがおむすびの匂いにつられて駆け寄ってきて、アルヴィスの膝に前足をかけて「わふっ、ぼくにもシソ抜きのをくれ!」と尻尾を振っていた。
「……あぁ、気持ちいい……」
千尋もまた、自分のおむすびを齧りながら、縁側の白木に素足を預けて目を細めた。
世界を揺るがすような大戦も、国家の陰謀も、ここにはない。
一生懸命に洗濯をして、太陽の下でシーツを干し、汗をかいた仲間たちと並んで、冷たいお茶を飲みながら塩むすびを頬張る。
前世の社畜時代には決して手に入らなかった、人間として生きるための、一番贅沢で、一番愛おしい時間。
チリン……。
軒先の風鈴が、青空の下で静かに、澄んだ音色を一粒響かせた。
世界で一番あたたかい山小屋の庭先で、彼らの紡ぎ出す穏やかで幸福な日常は、真っ白なリネンの香りに包まれながら、どこまでも、どこまでも甘やかに続いていたのだった。




