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第59話:ルミエールからの極上羽毛布団と、氷の騎士の一世一代

大掃除防衛戦の狂騒から数日が過ぎ、常闇の森(ミルクウッド)には再び、穏やかで満ち足りた日常が戻っていた。

木々の葉は秋の深まりとともに赤や山吹色へと鮮やかに染まり、風が吹くたびにハラハラと色とりどりの落ち葉が前庭の敷石へと舞い散る。

千尋が洗って干した無数のリネンシーツは、太陽の光とラベンダーの薫香をこれでもかと吸い込んで完璧に乾き上がり、山小屋の寝室には、いつでも極上の眠りへと誘う準備が整っていた。


そんな秋晴れの昼下がり。

森の境界から、シャンシャンと軽快な鈴の音を響かせながら、一台の幌馬車が前庭へと滑り込んできた。


「やあ、千尋さん! 特大の荷物を届けにきたよ!」


御者台から身軽に飛び降りてきたのは、旅の行商人にして情報屋のイヴァンだった。

その顔には、いつもの抜け目のない商人の笑みではなく、どこか誇らしげで、そして驚きを隠しきれないような興奮が浮かんでいた。


「イヴァンさん、こんにちは。特大の荷物って……また何か珍しい調味料でも仕入れてきてくれたの?」

千尋が縁側から手作りのフェルトスリッパで敷石へと降り立つと、イヴァンは首を激しく横に振った。


「調味料どころの騒ぎじゃないよ。……送り主を見てごらん」


イヴァンが馬車の荷台の幌を跳ね上げると、そこには、大人の背丈ほどもある頑丈な白木の木箱が鎮座していた。

木箱の表面には、銀の金具とともに、見紛うはずもない高貴な紋章――ルミエール公国の国章である「咲き誇る白百合」が、美しく焼き印されていた。


「これ……ノエルちゃんから!?」

「そうさ。無事に祖国ルミエール公国へ帰還したノエル殿下から、千尋さん個人へ宛てた、最上級の返礼親書と特別指定貨物だよ。公国の近衛部隊が国境まで厳重に護送してきたものを、僕がこの手で預かってきたんだ」


イヴァンと、駆けつけてくれた大工のベルントが二人がかりで重たい木箱を荷台から下ろし、南向きの縁側の上へと運び上げた。

ベルントがバールを隙間に差し込み、テコの原理で留め金を外すと、パカンと心地よい音を立てて木箱の重い蓋が開かれた。


その瞬間――。


ふわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……ッ!


木箱の隙間から溢れ出したのは、嗅いだことのない、けれど魂がとろけてしまいそうなほど甘美で清らかな芳香だった。

雪解け水で洗われた高山植物の澄んだ香り。

そして、陽だまりの温もりそのものを閉じ込めたかのような、微塵の湿気も獣臭さもない、圧倒的な「純潔の空気」。


「わあぁぁぁ……っ!? な、何これ……!?」


千尋は思わず目を丸くし、木箱の中を覗き込んだ。

中から現れたのは、息を呑むほどに美しく、巨大なひとつの「塊」だった。


それは、淡い真珠色の最高級シルクサテンの側生地に包まれた、特大サイズの掛け布団だった。

だが、その膨らみ方が尋常ではない。

木箱の蓋を開けた瞬間、外の空気を吸い込んだ布地が、まるで生き物のように、ふわり、ふわりと音もなく膨張を始めたのだ。

手で触れるまでもない。

見ただけでわかる、重力という概念をあざ笑うかのような圧倒的な軽やかさと、雲の塊をそのまま四角くすくい取ってきたかのような、豊潤極まりないボリューム感。


「これはね、千尋さん……」

イヴァンが、珍しく敬虔な面持ちで息を呑みながら解説した。


「ルミエール公国の極北、一年中吹雪が吹き荒れる霊峰『白銀連山』の頂にしか生息しないという幻の神鳥――『銀星鴨(シルバースター・ダック)』の胸毛だけを集めて織り上げた、王室秘蔵の最高級羽毛布団だよ」


「銀星鴨……!?」


「ああ。極寒の地で卵を温めるため、母鳥が自らの胸から嘴(くちばし)で毟(むし)り取って巣に敷き詰める、もっとも細かく、もっとも保温性の高いダウンボールだけを、職人が数年がかりで一粒ずつ手作業で選別したものだ。どんな酷寒の夜でも、人の体温を一瞬で記憶して極上の温もりを一定に保ち続けるっていう……王侯貴族ですら一生に一度拝めるかどうかという、公国の国宝級の代物さ」


千尋は、息を殺しながら、おずおずと自らの指先をその真珠色の側生地の上へと下ろした。


スッ……。


「…………っっっっ!!」


指先が触れた瞬間、千尋の背筋を、電撃のような快感が駆け抜けた。

抵抗が、ない。

まるで、温かい空気の層そのものに指を沈めているかのようだった。

シルクサテンの生地は摩擦係数がゼロであるかのように滑らかで、指を押し込むと、底なしの柔らかさでどこまでも沈み込み――そして指を離した瞬間、押し返してくるような弾力とともに、パフッ……と音を立てて一瞬で元のふっくらとした山へと復元したのだ。


「うそ……信じられない……! 綿の重さがまったくないのに……指先を触れただけで、じんわりと自分の体温が何倍にも跳ね返ってくる……!」


前世のインテリア雑貨メーカー時代、数十万円クラスの最高級ポーランド産マザーグース羽毛布団を検品したことのある千尋だったが、目の前にあるこれは、そんな現代の最高峰すら次元の違う彼方へと置き去りにする、本物の「奇跡の寝具」だった。


「そして千尋さん、これだよ」

イヴァンが木箱の隅から取り出したのは、白百合の押し花が添えられ、淡い藤色のリボンで結ばれた一通の手紙だった。

封蝋を解き、千尋が手紙を広げると、そこには、整った、けれどどこか温かな筆致で、愛おしい文字が躍っていた。


『敬愛する、わたくしの世界でたった一人のお姉様、千尋様へ。

無事にルミエール公国へと戻り、父や母に、お姉様とアルヴィス閣下に救っていただいた命の尊さを報告いたしました。社交界の毒気に怯え、呼吸すら忘れていたわたくしに、深呼吸の喜びと、温かなスープの美味しさ、そして生きることの素晴らしさを教えてくださったのは、他でもないお姉様です。

北方の冬は、厳しく冷え込むと聞き及んでおります。

わたくしを救ってくれたあの温かな山小屋で……世界で一番優しく、世界で一番尊いお姉様の睡眠が、寒さに脅かされることなく、世界で一番安らかに守られますように。

公国の宝物庫より、心からの愛と感謝を込めて、この布団を贈ります。

追伸:あの白銀の愛らしいルゥちゃんにも、どうかよろしくお伝えくださいね。

あなたの妹、ノエルより』


「……ノエルちゃん……」


千尋の目頭が、ツンと熱くなった。

手紙のインクからは、あの日、千尋が着せてあげたリネンワンピースと同じ、日向に干したハーブの微かな香りが漂っていた。

元気でやっているのだ。あの社交界の檻から解き放たれ、自分の足で真っ直ぐに立ち、祖国で愛されて生きている。

その事実だけで、胸の奥がいっぱいに満たされていくようだった。


「よし! 早速、ベッドに敷きましょう!」

千尋は鼻をすすって笑顔を作ると、ベルントとイヴァンに手伝ってもらい、特大の羽毛布団を山小屋の寝室へと運び込んだ。


寝室の中央に鎮座する、ベルント特製の香月木のベッドフレーム。

大掃除の後に洗って天日干ししたばかりの、糊の効いた純白のリネンシーツの上に、その羽毛布団がふわりと広げられた。

そのサイズは、ゆったりとした「ダブルサイズ」。

千尋の固有スキル【住空間の調律】が、布団が広げられた瞬間に共鳴するように発動する。側生地の内部に含まれる何万個もの微小なダウンボールの隙間に、調律された清らかな空気が均等に抱え込まれ、布団はまるで焼きたてのスフレのように、さらにふっくらとボリュームを増してベッド全体を覆い尽くした。


「ふあぁぁ……! 完璧……! 今夜寝るのが、待ちきれないわ……!」

千尋はシーツの端を丁寧に整え、満面の笑みで頬を緩ませたのだった。


◇


やがて、秋の日は西の山並みへと静かに沈み、常闇の森は穏やかな深い藍色の帳(とばり)に包まれていった。

夕食に千尋が振る舞った熱々の野菜シチューを平らげた後、大工のベルントは「明日の現場があるからよ」と村へ戻り、ユーグも領境警備の夜間巡回のために騎士たちを引き連れて公爵領へと引き上げていった。

納屋の書斎では、ギルバートとイヴァンが、魔力ランプの柔らかな灯りの下で新しい交易ルートの書類を突き合わせながら、静かに杯を傾けている。

そして、居間の囲炉裏の隅の座布団の上では――神獣ルゥが、お腹いっぱいにミルクを飲んだ後、白銀の子犬の姿で丸まり、「ふすぅ……ふすぅ……」と無防備に寝息を立てていた。


山小屋の中には、驚くほどの静寂が満ちていた。

大掃除防衛戦の喧騒が嘘のように、世界からすべての雑音が消え去っている。

居間の中央、ベルントが切り欠いてくれた囲炉裏には、極上のナラの炭が赤々と熾(おこ)り、パチ……パチ……と、乾いた小さな爆ぜる音だけが、心地よいリズムとなって響いていた。

部屋の温度は、千尋の調律スキルによって、寒くもなく暑くもない完璧な二十一 grund。

南向きの引き戸が少しだけ開け放たれ、そこから差し込む秋の冷涼な夜風が、囲炉裏の暖熱と混ざり合って、心地よい空気の対流を生み出している。


千尋は、手作りのフェルトスリッパを履き、引き戸の前の縁側へと腰を下ろしていた。

両手で包み込んでいるのは、テレーゼから譲り受けたダージリンの茶葉で淹れた、温かいストレートティー。

立ち上る湯気を吸い込み、ふう、と息を吐きながら、満天の星空を見上げていた。


サクッ……。


背後で、パイン無垢材の床を踏みしめる、静かな足音がした。

振り返ると、そこにはアルヴィスが立っていた。

軍服の鎧も帯剣もすべて外し、身に纏っているのは、千尋が今日洗い立ての糊を効かせた、あの黒いリネンシャツと柔らかなズボン。

濡れた銀髪は首の後ろでラフに束ねられ、入浴を終えたばかりのその肌からは、千尋と同じカモミールとラベンダーの石鹸の香りがふわりと漂っていた。


「……千尋。隣、いいだろうか」


「ええ、どうぞ。お茶、淹れ直しましょうか?」

「いや、構わない。……少し、夜風に当たりたくてな」


アルヴィスは静かに歩み寄ると、千尋の隣――肩が触れ合うか触れ合わないかの、わずか数センチの距離を開けて、縁側の白木へと腰を下ろした。

長身の影が、囲炉裏の赤い光を受けて、縁側の板張りに長く伸びる。


二人の間に、心地よい沈黙が流れた。

秋の夜風が吹き抜け、庭の楡の木の枝をサワサワと揺らす。満開の花畑が夜露に濡れ、甘く冷涼なアロマがふわりと鼻腔をくすぐる。

アルヴィスは、膝の上に置いた自らの大きな両の手のひらをじっと見つめていた。

その視線は、時折、居間の奥――開け放たれた寝室の引き戸の向こうに見える、あの真珠色に輝く新しいダブルサイズの羽毛布団へと、吸い寄せられるように向けられていた。


……チラリ。

……チラリ。


(……ん? どうしたのかしら?)

千尋はカップを傾けながら、隣の男の様子を横目で盗み見た。

明らかに、様子がおかしい。


かつて北方戦線で数万の敵軍を前にしても眉一つ動かさず、氷の死神と恐れられたあの男が。

今は、まるで初めて舞踏会に放り出された少年狂おしく、落ち着きなく膝の上で指先を組み替えたり解いたりしている。

何かを言おうとして、口をわずかに開き――しかし声が出ず、気まずそうに唇を結び直す。

それを何度も、何度も繰り返しているのだ。

しかも、見れば見るほど――彼の尖ったエルフのような耳の先端から、首筋、そして彫刻のように整った頬に至るまでが、カッと林檎のように、鮮烈な赤色に染め上がっていた。


「……あの、アルヴィスさん? 顔、すごく赤いですけど……お風呂、熱すぎました?」

「なっ……!? い、いや! 湯加減は完璧だった! 香月木の香りと柑橘の湯は……最高だった……!」


アルヴィスは慌てて顔を背け、拳を口元に当てて咳払いをひとつした。

ゴホンッ。

その仕草があまりにも不器用で、千尋は思わず口元を緩めそうになる。

だが、千尋が微笑みかけたその瞬間――。


「…………千尋」


アルヴィスの声のトーンが、スッと低くなった。

震えていた。

戦場で部下を鼓舞する時の威厳ある声ではない。

己の魂の、もっとも柔らかく、もっとも傷つきやすい最深部を、すべて剥き出しにして差し出すかのような、切実で、痛切なまでの響き。


千尋は息を呑み、カップを持つ手を止めた。


意を決したように、アルヴィスが横を向いた。

そして――。


スッ……。


アルヴィスの大きな右手が、千尋の膝の横に置かれていた、彼女の小さな左手を――そっと、下から掬い上げるようにして、包み込んだ。


「…………っ」

千尋の肩が、小さく跳ねた。


熱い。

包み込んできたアルヴィスの掌は、まるで囲炉裏の炭火のように熱く、そして――微かに、小刻みに、カタカタと震えていた。

戦場で無数の敵を斬り、氷壁を支え抜いてきた、無数の古傷が刻まれた逞しい騎士の手。

その手が、壊れ物に触れるかのような繊細さで、千尋の指先を優しく、ぎゅっと握りしめていた。


「……アルヴィス、さん……?」


千尋が見上げると、そこには、かつて見たこともないほど真っ直ぐな、深いサファイアの双眸があった。

氷の冷気など微塵もない。

すべてが溶け落ち、千尋の姿だけを映し出す、どこまでも熱く、澄み切った青い光。

男は逃げることなく、千尋の瞳を寸分の曇りもなく見つめ返しながら、震える唇を開いた。


「……私は、これまで」


言葉が、秋の夜気の中にひとつずつ落ちていく。


「眠るのが……死ぬほど、恐ろしかった」


千尋は、黙って耳を傾けた。握られた彼の手の熱さが、指先を通して心臓へと伝わってくる。


「母を奪った魔力暴走の影に怯え、目を閉じれば戦場で奪った命の叫びが聞こえ……いつか狂気に呑まれるのではないかと、毎夜、刃を抱いて夜明けを待っていた。……私にとって、夜とはただの拷問であり、眠りとは狂気への転落でしかなかったのだ」


アルヴィスの指に、少しだけ力がこもる。


「だが……君に出会った」


アルヴィスの口元に、ふわりと、愛おしさに満ちた柔らかな光が差した。


「泥足の私を容赦なく叱り飛ばし、温かな蒸しタオルで顔を拭き……太陽の匂いがするシーツと、ハーブの香る枕で、私を眠らせてくれた。……君の作る空間で、生まれて初めて『本物の眠り』の幸福を知ったのだ」


アルヴィスのサファイアの瞳が、微かに潤んだ。

その瞳の奥にあるのは、底なしの感謝と、何者にも代えがたい絶対の想い。


「君が淹れてくれる茶の温もり。かまどから立ち上るスープの匂い。朝の柔らかな光の中で、君が『おはよう』と笑いかけてくれる……その当たり前の日常こそが、今の私の、生きる理由のすべてだ」


「…………っ……」

千尋の胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。

喉が詰まり、息が苦しくなるほどの熱情が、アルヴィスの言葉の端々から溢れ出している。


アルヴィスは、もう一方の手も伸ばし、千尋の手を両手で大切そうに包み直した。

そして――世界で一番美しい誓いを立てる騎士のように、凛とした、けれど魂の底から絞り出すような声で告げた。


「公爵の地位も、名誉も……君の前では、何の意味も持たない。私はただの一人の男として……」


アルヴィスは唾を飲み込み、千尋の顔を穴が開くほど見つめながら、言った。


「――これからも、ずっと。君の隣で、眠りたい」


ドクンッ……!!


世界が、止まったかのような錯覚。


「君の帰る場所を。君の紡ぎ出す、あの穏やかな安眠を……私の生涯をかけて、命に代えても守らせてほしい」


静寂。

囲炉裏の炭が、パチ……と小さく爆ぜた。

夜風が吹き抜け、軒先の風鈴が「チリン……」と澄んだ高い音を一粒零した。


一世一代の、プロポーズ。

飾り気のない、けれどこれ以上ないほどに不器用で、誠実で、命のすべてを賭けた、男の告白。


「…………っっっっっっっっ!!」


千尋の頭蓋の中で、何千発もの花火が一斉に打ち上がった。


心臓が、肋骨を内側から突き破るのではないかというほどの猛烈な勢いで早鐘を打つ。

ドクドク、バクバク、ゴォォォォッと全身の血液が沸騰し、顔から、耳から、首筋から、目に見えるほどの湯気が噴き出しそうになる。

前世の二十八年間の社畜生活。

色恋沙汰など遥か彼方に置き去りにし、深夜残業の泥沼でカップ麺を啜りながら「彼氏? 睡眠時間より大事な男なんてこの世にいないわ」と悟りを開いていた元営業事務の女子にとって――。

目の前にいる超絶美形の公爵から、こんなにも純粋で、こんなにもド直球な愛の告白を真正面から浴びせられるなど、完全に脳の処理限界(キャパシティ)を超絶オーバーフローしていた。


(な、なななな何言ってんのこの人ぉぉぉぉぉぉっっっっ!?)


心の中で絶叫が木霊する。

嬉しさと、恥ずかしさと、幸福感と、愛おしさが津波のように押し寄せてきて、放っておけば今すぐ大粒の涙をポロポロとこぼして泣き出してしまいそうだった。

だが――元社畜OLの意地が、最後の最後で千尋を押し留めた。

ここで素直に泣いて抱きついたりしたら、あまりにも恥ずかしすぎて自分が爆発四散してしまう。


千尋は、溢れそうになる涙を必死に奥歯を噛み締めて堪えると――。

握られていた手をそのままに、ぷいッ! と力任せに横を向いてみせた。

真っ赤に熟れきった横顔を隠すように、少しだけ唇を尖らせて。


そして――精一杯の、減らず口を叩いた。


「……べ、別に……」


「……千尋?」

アルヴィスのサファイアの瞳に、捨てられた大型犬のような絶望と怯えの色がサッと差しかける。

しかし、千尋の口から続いたのは、拒絶の言葉などでは断じてなかった。


「……あの布団、ダブルサイズですからね。……ノエルちゃんが、すっごく大きいのを贈ってくれたから……」


千尋はちらりと、居間の奥の真珠色に輝く極上の羽毛布団を見やり、それから蚊の鳴くような小さな声で、けれどはっきりと付け足した。


「……一緒に寝ても、狭くはないですけど。……いびきをかかないなら、考えてあげてもいいですよ」


「…………」


ピタリと、アルヴィスの思考が停止した。

数秒間の、完全な空白。

振られたのか? それとも受け入れられたのか?

戦場での超高速演算脳を持つはずの公爵が、千尋の言葉の意味を理解するために、全魔力を消費する勢いで頭を回転させた。


そして――。

アルヴィスは、一瞬きょとんと目を丸くした後。

眉間に物凄く大真面目なシワを寄せ、首をぶんぶんと左右に激しく振ったのだ。


「い、いびきなど、かいた覚えはない!!」


「ぶっ……!」

千尋の肩が震える。


「ハルデンベルクの呼吸法は常に静謐であり、就寝時においても大気を乱すような不快な音を立てたことなど一度もない! ……だ、だが!」

アルヴィスは千尋の手をさらに強く握りしめ、顔を真っ赤に染め上げたまま、必死の形相で叫ぶように誓った。


「だが、万一……万一、私のいびきが君の安眠を妨げることがあれば……その時は遠慮なく、布団から私を力任せに蹴り落としてくれて構わない!! 床で寝る!!」


「あっははははははははっ!!」


千尋は、たまらず吹き出した。

耐えきれなかった。

帝国最強の騎士の一世一代の誓いが、「いびきをかいたら布団から蹴り落としてくれ」だなんて。

あまりにも不器用で、あまりにも大真面目で、そしてどこまでも必死なその返しに、胸の中に渦巻いていた恥ずかしさも緊張も、すべてが吹き飛んでしまった。


「あはは! どんな誓いよそれ! 公爵様を床に蹴り落とすなんて、不敬罪で死刑になっちゃうじゃない!」

「構わん! 君の安眠を乱す罪に比べれば、死刑など生温い! ……だから、千尋……」


アルヴィスは、千尋の笑い声に引きずられるように、ついに自らの口元をふわりと崩した。

サファイアの瞳を細め、困ったように、けれどこの世の誰よりも幸せそうに、温かな笑みを浮かべる。


「……笑うな。私は……これでも、生まれて初めて、命懸けで口にしたのだぞ」


「ふふ、ごめんなさい。……でも、嬉しいわ」


千尋は笑いを収めると、握り返していた自分の指先を、アルヴィスの指の隙間へと滑り込ませた。

恋人繋ぎ。

二人の手のひらが、隙間なく、ぴったりと密着する。

千尋は赤くなった顔のまま、アルヴィスの瞳を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑みかけた。


「……よろしくね、アルヴィスさん。私の安眠を……生涯かけて、守ってください」


「……ああ」

アルヴィスは深く、力強く頷いた。

「我が命に代えても。……君の隣を、守り抜こう」


夜風が、二人の重なり合った手を優しく撫で抜けていった。

居間の囲炉裏の炭火が、パチ……と暖かな音を立てる。

奥の部屋には、ノエルから贈られた極上の羽毛布団が、二人の訪れを待つように、ふんわりと真珠色の光を湛えて広がっていた。

二人の間に溶け合っていった甘く柔らかな笑い声は、秋の澄み切った星空の下、世界で一番温かい山小屋を、どこまでも、どこまでも優しく包み込んでいたのだった。

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