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第57話:平伏する愚か者たちと、絶対不可侵のぐうたら聖域

太古の穢れを宿した黒紫の瘴気嵐が、千尋の放った「全館大掃除」の光によって完全に浄化されてから、数時間が経過していた。

午後を回った常闇の森(ミルクウッド)には、秋の柔らかな陽光が斜めに差し込み、木々の梢(こずえ)の隙間から黄金色の木漏れ日を大地へと降らせていた。

かつて人間を拒み、足を踏み入れる者すべてを魔力酔いと狂気の底へと引きずり込んでいた「死の森」の境界線。

そこには今、かつての陰惨な面影など爪の先ほども残されてはいなかった。


どこまでも、どこまでも視界の果てまで広がる、色とりどりの満開の花畑。

純白の花弁を風に揺らす野生のカモミール、深い紫の穂先から清涼な香りを放つ広大なラベンダー、甘酸っぱい野薔薇(ローズヒップ)の赤い実、そして瑞々しいペパーミントやタイムの青々とした絨毯。

新緑の若葉を萌え出でさせた巨木たちの間を吹き抜ける風は、乾いていて心地よく、鼻腔を通るたびに五臓六腑を芯から清めるような、極上のアロマを含んでいた。


――しかし。

その天国のように美しく長閑(のどか)な境界の小道の上に、あまりにも不釣り合いで、醜悪極まりない異様な光景が広がっていた。


「ひぃっ……ひぃぃぃぃぃっ……! お、お赦しを……どうか、どうかお命だけはぁぁぁっ……!!」


ガチガチ、ガタガタガタ……ッ!

歯の根が合わず、骨まで震わせるような激しい震動音。

花畑の入り口のぬかるんだ泥水の中に、額をこれでもかと地面に擦りつけ、這いつくばっていたのは――王都大公派の高級官吏・オズワルドだった。


朝方に山小屋へ土足で踏み込んできた時の、あの傲慢で居丈高な態度はどこへやら。

豪奢だった深紅の絹のローブは泥水と自分自身の冷や汗でぐっしょりと汚れ、何重にも首に巻いていた黄金の首飾りは泥にまみれて鈍い光を放つのみ。

脂ぎった丸顔は恐怖のあまり青黒く変色し、涙と鼻水と泥が混ざり合って顔面をドロドロに濡らしている。股間からは生温かい液体が染み出し、失禁寸前――いや、すでに半ば失禁しかけた状態で、敷石の泥水を必死に舐め取るかのように平伏していた。


その背後でも、王都の裏ギルド『黒狗(くろいぬ)』の屈強な傭兵たちが、全員揃って武器を投げ捨て、大地に両膝と額を打ち付けて震え上がっていた。

「す、すまねぇ……悪かった……! 俺たちが悪かったぁぁぁっ!!」

「化け物だ……いや、神だ……! 大地をひっくり返して花畑にしちまうような御方を、ただの平民の小娘だなんて誰が思うかぁぁっ!!」


無理もなかった。

パニックに陥って逃げ込んだ森の奥深くで、彼らは禁域の祭壇の要石を粉砕してしまったのだ。

地割れとともに噴き上がった、天を衝く黒紫の瘴気津波。何百年もの太古の怨嗟が実体化したあの巨大な悪夢を目の当たりにした時、彼らは自分たちが世界を滅ぼす大罪を犯し、自分たちもまた骨まで溶かされて死ぬのだと絶望した。

だが――その直後に彼らが見たのは、その絶望を遥かに凌駕する「人知を超えた神業」だった。


山小屋の天窓から立ち昇った、純白の光の柱。

森を揺るがした神獣フェンリルの咆哮。

そして、空を覆い尽くしていたあの凶悪な瘴気嵐を、まるでキッチンの油汚れを洗い流すかのように、シュワシュワと心地よい泡で分解し、一瞬にして満開の花畑へと変貌させてしまった、あの圧倒的な調律の薫風。


あれが、ただの人間にできるはずがない。

あれは、神話の時代に世界を創世したという、原初の創造神の顕現そのものではないか。

自分たちは、そんな絶対的な存在のテリトリーに、泥まみれの長靴で踏み込み、唾を吐きかけ、あまつさえ「王都へ連行して自分たちの頭痛薬にしよう」などと喚き散らしたのだ。

もしあの少女が本気で怒りを露わにすれば、自分たちなど指先一つ、箒の一振りで、魂の塵芥(ちりあくた)にまで吹き飛ばされて永遠の虚無へと消し去られてしまう。

その底なしの恐怖が、傲慢な官吏と無頼の傭兵たちの精神を完全にへし折り、花畑の境界から一歩も逃げ出すことすらできず、ただ泥水に頭を擦りつけて許しを乞うだけの肉塊へと成り果てさせていた。


そこへ――。


パッカ、パッカ、パッカ、パッカ……ッ!


森の南へと続く公道から、訓練された軍馬の整然とした蹄(ひづめ)の音と、重厚な金属鎧の擦れ合う音が響いてきた。

一台や二台ではない。

白銀の甲冑に身を包んだ近衛騎士たち、そして濃紺の法衣を纏った魔導士たちで構成された、数十騎に及ぶ大部隊が、猛烈な速度で街道を駆け抜けてきたのだ。

掲げられていたのは、エルダリア王国王家の金糸の紋章旗と、王立魔導院の真鍮の天球儀旗。


「止まれッ! これより先は、常闇の森の境界である!」


先頭を走っていた豪奢な馬車から、銀髪の威厳ある老魔導士が、数人の高位執行官を引き連れて飛び降りてきた。

王立魔導院・最高執行官長。

王都から早馬を乗り継ぎ、昼夜を徹して北方の辺境へと急行してきた、王国の魔導行政の最高責任者だった。

その背後には、副官ユーグが率いるハルデンベルク公爵家の正規騎士団が、油断なく弓と長槍を構えて周囲を取り囲んでいる。


「……何ということだ……」


執行官長は馬車を降りた瞬間、目の前に広がる光景に息を呑み、その場に立ち尽くした。

手にした最高精度の観測水晶球には、かつて常闇の森を覆っていたはずの狂気や瘴気の数値は完全にゼロ。それどころか、水晶球の内部は神殿の最深部すら遥かに凌駕する、見たこともないほど澄み切った黄金と翡翠の神聖波長によって満たされていた。

そして足元を見れば、見渡す限りの満開の花畑。

甘美なアロマが風に乗って老魔導士の鼻腔をくすぐり、長旅で凝り固まっていた彼の肩や首筋の疲労が、息を吸い込むだけでふわりと解けていく。


「……ギルバート首席の緊急魔導通信は、真実であったか……。太古の穢れが一瞬にして浄化され、死の魔境が……原初の楽園へと変貌を遂げている……」


執行官長は震える手で懐から羊皮紙の束を取り出した。

そこには、山小屋の納屋からギルバートが全魔力通信を使って送りつけてきた、数十枚にも及ぶ詳細極まりない「大掃除防衛戦」の調査報告書。

そして――ハルデンベルク公爵の署名と、隣国ルミエール公国の公女ノエルの連名による、大公派の愚行に対する痛烈な「国家反逆および聖域侵犯の告発状」が記されていた。


執行官長は冷徹な眼光を、泥水に頭を擦りつけて震えるオズワルドたちへと向けた。


「……大公派の官吏オズワルド、ならびに裏ギルド『黒狗』の傭兵どもだな」


低く、氷のような声が落ちた。

オズワルドはビクッと身体を跳ね上げ、泥まみれの顔を涙で濡らしながら見上げた。

「し、執行官長閣下……! あ、貴方様は王都の……! た、助けてください! あそこには、あそこの小屋には化け物が――」


「黙れ、国賊が!!」


執行官長の一喝が、秋の空気を鋭く切り裂いた。

老魔導士は手にした杖を泥水へと突き立て、冷酷な宣告を叩きつけた。


「貴様らの犯した大罪は、もはや弁解の余地すらない! 禁足地への不法侵入、古代の要石の破壊、未曾有の瘴気嵐の誘発による国家存亡の危機の惹起(じゃっき)! さらには、ハルデンベルク公爵領およびルミエール公国との軍事同盟を揺るがしかねない独断専行の数々……!!」


執行官長の後ろで、近衛兵たちが一斉に冷たい抜剣の音を響かせた。

「ひっ……ひぃぃぃっ!?」


「公爵閣下とノエル殿下、そしてギルバート首席研究員からの告発状は、すでに王都の賢人会議へと届き、国王陛下の親裁が下った! 貴様ら大公派の不届き者どもは、全員その場で国家反逆罪および特級聖域侵犯の現行犯として拘束する!!」


「そ、そんな……! 私は大公派の重鎮たちの命を受けて――」

「連行しろ! 王都の地下牢で、己の愚行を一生かけて悔いるがいい!!」


執行官長の非情な号令のもと、屈強な近衛兵たちが一斉に踏み込み、泥まみれのオズワルドと傭兵たちを、まるで汚れたゴミ袋でも扱うかのように手際よく縄で縛り上げていった。

「離せぇっ! 私は貴族院の官吏だぞぉぉっ!」「旦那ぁ、助けてくれぇっ!」

喚き散らし、泣き叫ぶ声が遠ざかっていく。

山小屋の神聖な空気を汚した愚か者たちは、誰一人として千尋の敷地に二度と近づくことを許されず、鉄格子の馬車へと無様に放り込まれ、王都の断罪へと引き立てられていったのだった。


◇


騒がしい罪人たちが連行され、森の境界に再び穏やかな静けさが戻った頃。

執行官長は衣服の乱れを正し、数人の高位魔導士と近衛兵だけを連れて、花畑の間を縫う小道をゆっくりと進み、山小屋の前庭へと足を踏み入れた。


敷石の上に一歩足を踏み入れた瞬間、老魔導士は息を呑んだ。

トゲやささくれなど微塵もない、完璧に掃き清められた前庭。

家庭菜園の黒土からは瑞々しい白カブやハーブが誇らしげに葉を伸ばし、敷石の隅には大角熊や小鹿たちが、まるで絵画のように穏やかに寄り添って昼寝を楽しんでいる。

南向きの白木の縁側の上では、大工のベルントが縁側に腰掛けて煙管をくゆらせ、ノエルとテレーゼがテラス席のように設えられた丸テーブルでお茶の準備を整えていた。


そして――庭の南側、満開のカモミールとラベンダーに囲まれた、樹齢百年の大きな楡(にれ)の木の下。

木漏れ日が心地よい光の斑紋を描き出すその場所で、執行官長は、言葉を失うほど神聖で、そしてあまりにも穏やかな「一枚の絵」を目撃した。


二人掛けの、香月木の木製ブランコ。

そこには、大判の温かなウールブランケットを肩からすっぽりと被り、完全に脱力して深く眠り込んでいるハルデンベルク公爵アルヴィスの姿があった。

戦鬼と呼ばれ、帝国最強の剣士と恐れられたあの冷徹な男が、眉間のシワを跡形もなく消し去り、赤子のように安らかな吐息を漏らしながら、隣に座る娘の肩に深く頭を預けている。

そして――その男の銀髪を、愛おしそうに、優しく指先で撫で下ろしている、エプロン姿の栗色の髪の娘。


小早川千尋。


彼女の全身からは、大気のアエテルと完全に調和した、目に見えないほど清冽な「調律のゆらぎ」が、微かな陽だまりの温もりとなって絶え間なく放たれていた。

その足元には、白銀の子犬――神獣ルゥが丸まり、アルヴィスの足首の上にアゴを乗せて呑気に鼻を鳴らしている。


(……この御方が……)


老執行官長の背筋に、畏怖と感動の震えが走った。

武力で敵を威圧する覇王ではない。

仰々しい魔導具で身を飾る大魔導士でもない。

ただそこに在り、生活を慈しみ、空間を整えることで、傷ついた英雄の魂を癒やし、狂気の魔境を天国の楽園へと変えてしまった、本物の奇跡の主。


執行官長は、アルヴィスの眠りを妨げぬよう、数歩手前で音もなく歩みを止めた。

そして――同行していた高位魔導士たちとともに、満開の花畑の若草の上へと、深々と、膝をついた。

王侯貴族にすら見せたことのない、心底からの敬意を込めた臣従の礼。


老魔導士は恭しく頭を垂れ、懐から取り出した、純金の鎖で封じられた特級の羊皮紙を両手で捧げ持った。

そこに刻まれていたのは、エルダリア王国国王、王立魔導院、そして貴族院の全会一致によって承認された、最高機密の金文字の勅令だった。


執行官長は、静かに、けれど凛とした厳粛な声を響かせた。


「……偉大なる調律の主、小早川千尋様。王国全土を太古の災厄より救い給うた貴女様の神業に、エルダリア王国王室、ならびに王立魔導院を代表し、心よりの感謝と敬意を捧げます」


執行官長は羊皮紙を高く掲げ、その内容を読み上げた。


「――これより、常闇の森(ミルクウッド)全域、ならびに小早川千尋様の居住エリアを、エルダリア王国における『最高位絶対不可侵・神聖保全領域』に指定いたします」


風が吹き抜け、金文字の羊皮紙をサワサワと揺らす。


「本領域は、いかなる国家権力、いかなる貴族派閥の干渉も受けぬ完全なる自治領域と定められました。王都からの徴募、課税、査察は未来永劫すべて免除され……国王陛下といえども、千尋様の事前の許可なくしてこの敷居を一歩跨ぐことは、法によって厳格に禁じられます。……貴女様の愛するこの平穏は、王国全軍の武力と魔導院の威信を懸けて、未来永劫守護されることをここにお誓い申し上げます」


絶対不可侵。

一国の領土の中にありながら、王権すら及ばない「独立した神聖領域」の誕生。

王都の権力者たちがどれほど喉から手が出るほど千尋の力を欲しようと、もはや誰も、彼女をこの山小屋から引きずり出すことは法的に完全に不可能となったのだ。


傍らで聞いていたギルバートが「やった……! 私の提出した不可侵提言書が、一言一句違わず採用されたぞ!」と眼鏡を直しながら歓喜に震え、ユーグもまた胸元の鎧を叩いて誇らしげに頷いている。

ノエルは涙ぐみながら両手を合わせ、テレーゼは深く優雅に一礼して主君の安寧を言祝(ことほ)いでいた。


まさに、歴史が動いた瞬間。

物語のクライマックスに相応しい、誰もが息を呑むような感動的な宣言。


――しかし。

そんな仰々しい宣言を、ブランコの上で肩にアルヴィスを乗せたまま聞いていた当の千尋はといえば。


「…………」


千尋は、瞬きをパチクリと二回させた。

そして――。


「……はあ。どうも、お疲れ様です……」


気の抜けた。

まるで、休日の朝に宅急便の荷物を受け取った時のような、これ以上ないほどマイペースで脱力しきった返事を返しただけだった。


「「「ズコーーーーーッッッ!!!!」」」


前庭にいた全員が、盛大に心の中でずっこけた。

執行官長すら、掲げていた羊皮紙を持つ手をピキリと硬直させ、ポカンと口を開けている。

国家の最高機密レベルの特権を授与され、王族以上の不可侵権を認められたというのに、この女主人は「へぇ、そうなんだ」くらいの感想しか抱いていなかった。


「あ、あの……千尋様? 王族すら立ち入り禁止という、前代未聞の特権でございますが……」

執行官長がおずおずと確認する。


「ええ、助かります。王都の偉い人たちが泥靴でドカドカ踏み込んできたら、床掃除が本当に大変ですからね。……あ、でも、パン屋のセシルちゃんや大工のベルントさん、行商のイヴァンさん、あと公爵邸のテレーゼさんたちは、ちゃんと靴を脱いで上がってくれるから、いつでも遊びに来ていいですよ」


千尋は平然と言ってのけると、肩に預けられたアルヴィスのブランケットを直しながら、クスリと笑った。

「私に必要なのは、大げさな権力や称号じゃありませんから。……誰にも邪魔されずに、美味しいご飯を食べて、ふかふかのお布団で八時間ぐっすり眠れるなら、それで十分なんです」


――美味しいご飯を食べて、ふかふかの布団で眠れれば、それで十分。


その言葉の圧倒的な純粋さと脱力感に、老執行官長は呆気にとられた後――ふっと、憑き物が落ちたように穏やかな笑みを漏らした。

「……なるほど。権力にも、富にも、名誉にも縛られぬ無欲の魂……。だからこそ、貴女様の紡ぎ出す空間は、これほどまでに澄み渡り、荒れ狂う魔力を凪がせることができるのですね」


執行官長はもう一度深々と頭を下げると、羊皮紙をテレーゼへと恭しく手渡した。

「これにて、魔導院の任務は完了いたしました。……千尋様、森の安寧を、どうかこれからもよろしくお願いいたします」


「はい、お気をつけてー。あ、帰りは花畑を踏まないように、敷石の小道を通ってくださいね」

「は、ははっ! 心いたします!」


仰々しい執行官たちと親衛隊は、千尋に言われた通り、抜き足差し足で花畑の小道を慎重に通り抜け、嵐のように去っていった。

騒がしい馬車の車輪の音が街道の彼方へと消え去り――。


数分後。

常闇の森には、完全なる静寂が戻っていた。


◇


チリ……ン……。


山小屋の南向きの軒先で、ガラス鉱石の風鈴が、秋の澄んだ風を受けて澄み切った高い音を一粒零した。

午後を過ぎ、西へと傾き始めた太陽が、前庭の白木の縁側をぽかぽかと温かく照らし出している。


騒動のすべてが片付き、ベルントやユーグ、イヴァンたちは、納屋の片付けや村への連絡のために一度引き上げていた。

楡の木の下のブランコで眠っていたアルヴィスも、千尋とテレーゼの手で居間のふかふかベッドへと運ばれ、ラベンダーの香るシーツに包まれて泥のような安眠を続けている。十数年分の睡眠負債を取り戻すかのような、何の悪夢も見ない、至福の眠り。


そして――。

山小屋の南向きの縁側には、千尋が一人、手作りのフェルトスリッパを脱ぎ捨てて素足を投げ出し、気持ちよさそうに腰を下ろしていた。


「……ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ」


千尋は、両手で包み込んだ素焼きの湯呑みから、立ち上る白い湯気をふう、ふう、と小さく吹き冷ました。

湯呑みの中に湛えられているのは、澄んだ琥珀色の温かいお茶――「自家製ほうじ茶」だった。

先日、情報屋のイヴァンが東方の交易商人から仕入れてきてくれた緑茶の茶葉を、千尋がかまどの弱火で、鉄鍋を使ってじっくりと時間をかけて焙煎(ばいせん)した特製のお茶。

茶葉がパチパチと音を立てて香ばしい褐色へと色づいた瞬間を見極め、井戸から汲み上げた清冽な地下水で淹れた一杯。


ずずっ……。


千尋はそっと唇を寄せ、熱いほうじ茶を一口啜った。


「…………っはぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」


全身の毛穴から、日頃の疲れと大掃除の緊張が一気に抜け落ちていくような感覚。

焙じられた茶葉特有の、香ばしく、どこか懐かしい大地の薫香が、鼻腔から脳天へと優しく突き抜ける。

渋みや苦味の角は完全に取れ、まろやかで優しい甘みが、乾いていた喉を潤し、胃袋の底へとじんわりとした温熱を届けていく。


「んーーっ……美味しい! やっぱり、大掃除の後は熱いほうじ茶に限るわねぇ」


千尋が蕩(とろ)けきった顔で身悶えると、隣から「くぅん……」と小さな甘えた鼻音が聞こえてきた。

見れば、縁側の白木の上で、白銀の子犬――ルゥが、お腹を上に向けて無防備に転がり、千尋の太ももに自分の背中をぴったりとくっつけていた。

千尋は空いた左手を伸ばし、ルゥの白銀の柔らかいお腹や、耳の裏のツボを、優しくワシャワシャと撫で回してやった。

「ふふ、ルゥもお疲れ様。あんたの結界がなかったら、あんな大換気できなかったわよ。ありがとうね」

「わふ……千尋のブラッシングがあれば、ぼくはいつでも最強なのだ……」

ルゥは前足をパタパタと動かし、気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らして目を細めた。


縁側の向こうには、どこまでも広がる色とりどりの満開の花畑。

ミツバチたちが羽音を立ててカモミールの蜜を集め、小鳥たちが梢でチュンチュンと愛らしくさえずり合っている。

家庭菜園の畝には、朝のぬかるみなど跡形もなく、ふかふかの黒土が太陽の光を浴びて湯気を立てていた。

王都の権力闘争も、大公派の陰謀も、古代の呪いも、すべてが吹き飛び、ここにはただ、誰にも侵されることのない完璧な「我が家の平穏」だけが残されていた。


「……ふう。やっと、静かになったわね」


千尋は湯呑みを縁側の板張りの上へとコトンと置いた。

そして、手作りのフェルトスリッパへと素足を滑り込ませると、よいしょ、と軽やかに立ち上がった。


向かった先は、玄関の脇。

立てかけられていたのは、使い古された一本の「竹箒(たけぼうき)」だった。


千尋は箒を手に取ると、前庭の敷石の上へと歩み出た。

風で舞い落ちた色とりどりの花びらや、吹き飛ばされた枯れ葉の破片が、敷石の隅に少しだけ散らばっている。

世界を救った大魔導の主でもなく、絶対不可侵の聖女でもない。

ただの、家事を愛し、生活の心地よさを何よりも大切にする元社畜OLの笑顔が、秋の木漏れ日の中でキラキラと輝いていた。


「さて! 散らかったお庭の落ち葉でも掃いて……今夜はアルヴィスさんたちのために、もっと美味しい晩御飯を作らなきゃね!」


サッサッ、サッサッ……。

敷石を撫でる、心地よい竹箒のリズミカルな音。

守り抜いた大好きな我が家で、千尋の愛してやまない「丁寧でぐうたらな日常」が、再び心地よい音を立てて、どこまでも幸せに動き始めていたのだった。

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