第56話:戦い果てた氷の公爵と、庭のブランコのぬくもり
天を衝いていた純白と淡い翡翠の光柱が、役目を終えたかのように、大気中へと淡い光の粒子となって溶けていく。
山小屋の屋根に増築された香月木のルーバーから放たれていた扇状の調律波も、秋の爽やかな風のうねりへと還り、森の空は吸い込まれそうなほどの澄み切ったセルリアンブルーを取り戻していた。
静寂が、訪れていた。
太古の古代魔獣たちが吐き出し、大地を死に至らしめんとしていたあのドス黒い瘴気嵐の地鳴りも、大気を引き裂いていた紫電の轟音も、跡形もなく消え去っている。
代わりに常闇の森を満たしていたのは――何万、何億という色とりどりの野花が一斉に芽吹き、花弁を開いたことで立ち上った、甘美極まりない大地の芳香だった。
カモミールの瑞々しい青リンゴの香り。
風に揺れるラベンダーの清涼な気品。
野薔薇の甘酸っぱいアロマと、雨上がりの黒土が放つ豊かな生命の薫香。
黄金色の太陽の光が、新緑を取り戻した梢の隙間から降り注ぎ、前庭に敷き詰められた花々の絨毯を、まるで宝石の海のようにキラキラと輝かせている。
山小屋の庭先には、避難していた森の命たちがいた。
大角熊は敷石の上で安心しきったように大きなお腹を天に向け、小鹿たちは跳ね回るように母鹿の周りを駆け、野ウサギたちはノエルの足元で小さく鼻を鳴らしている。
屋根の上では大工のベルントが煙管をくわえて青空を仰ぎ、塀の上では情報屋のイヴァンが胸を撫で下ろし、庭の片隅では副官のユーグが北方騎士たちとともに感涙に咽びながら剣を収めていた。
世界は救われた。
太古の穢れは、元社畜OLの「全館大掃除」の前に完全に洗い流されたのだ。
――しかし。
その奇跡のような祝祭の空気の真ん中で、ただ一人、ピクリとも動かずに立ち尽くしている男がいた。
「…………」
前庭の最前線。
花畑と敷石の境界線に、杭のようにその身を留めていたのは、アルヴィス・フォン・ハルデンベルクだった。
愛剣の切っ先を大地に深く突き立てたまま、両手で柄を握りしめ、前傾姿勢のまま固まっている。
彼の前に聳え立っていたはずの巨大な氷壁は、千尋の放った温かな薫風によって完全に解け去り、大地を潤す清らかな水となって地面に吸い込まれていた。
敵はもうどこにもいない。
防ぐべき悪夢の津波は、一滴たりとも残っていない。
それなのに、アルヴィスは剣の柄を握りしめたまま、彫像のように硬直していた。
風が吹き抜け、彼の白銀の長髪をハラハラと揺らす。
その姿に、真っ先に異変を察知したのは、居間の窓辺から庭を見下ろしていた千尋だった。
「……アルヴィス、さん……?」
千尋の心臓が、ドクンと冷たく跳ね上がった。
見れば、男の立ち姿は、堂々たる騎士の威容を保っているように見えて――その実、足先から指先に至るまで、全身が激しく、小刻みに、カタカタと痙攣していたのだ。
捲り上げられた黒いリネンシャツの前腕は、過剰な魔力放出によって毛細血管が限界まで焼き切れ、赤黒く腫れ上がっている。
襟元から覗く首筋は陶器のように白く濁り、唇は血の気を完全に失って紫色に変色していた。
そして――。
パシッ……。
小さな、硬質な音が響いた。
アルヴィスの右手の指先から、力が抜けたのだ。
続いて左手も。
何万の敵を屠り、山のような魔獣を切り伏せてきた歴戦の剛腕が、もはや数キロの鉄の重みすら支えきれず、だらりと宙に滑り落ちる。
カラン、コロン……。
大地に突き刺さっていた愛剣が、自重に耐えかねて横倒しになり、敷石の上へと乾いた音を立てて転がり落ちた。
「っ……あ……」
支えを失ったアルヴィスの長身が、まるで糸の切れた操り人形のように、グラリと前のめりに傾いた。
魔力の完全枯渇。
山ひとつ分の瘴気津波をたった一人で受け止め、千尋の換気が完了するまでの数分間、極限の絶対零度結界を維持し続けた代償。
彼の肉体と精神の許容量は、とうの昔に限界を遥かに突破していたのだ。
意識の糸がぷつりと千切れ、百キロ近い筋骨を持つ巨体が、硬い敷石の上へと吸い込まれるように崩れ落ちていく。
「閣下ぁぁぁっ!!」
ユーグが悲鳴を上げて駆け出そうとした。
しかし――誰よりも速く動いた影があった。
タタタタタッ!!
「アルヴィスさんッッ!!」
山小屋の勝手口を飛び出し、満開のカモミールとラベンダーの花畑をなりふり構わず踏み越えて、一直線に駆け抜けてきたのは――エプロン姿の千尋だった。
手作りのフェルトスリッパが花びらを散らし、栗色の髪を振り乱しながら、千尋は地面に激突しかけていたアルヴィスの前へと、滑り込むようにして自らの身体を投げ出した。
そして――。
ドサッ……!
「…………っぐ……!」
千尋の華奢な両腕が、倒れ込んできたアルヴィスの広い胸板を、真正面からしっかりと受け止めた。
大人の男のずっしりとした圧倒的な重量が、千尋の細い肩や腕、膝へと一気にのしかかってくる。
息が詰まるほどの衝撃。
だが、千尋は決して腕を離さなかった。
両膝を地面の花畑へと泥だらけになってつきながら、倒れ伏そうとするアルヴィスの背中に両腕を力いっぱいに回し、その重たい身体をぎゅっと抱き留めた。
腕の中に収まった男の身体は――息を呑むほどに、冷え切っていた。
まるで、氷河の底から引き揚げられた氷像を抱きしめているかのようだった。
シャツ越しに伝わってくる皮膚の冷たさに、千尋の背筋が粟立つ。
吐き出される吐息すら冷涼で、アルヴィスの顔は死人のように青白く、乱れた銀髪の隙間から覗く睫毛には、微かな霜の結晶すら張り付いていた。
「アルヴィスさん……! アルヴィスさん、しっかりして!」
千尋は必死に呼びかけ、彼の手首を握りしめた。
冷たい。指先まで凍りつき、脈拍は頼りないほどに細く、浅く打っている。
千尋の固有スキル【住空間の調律】が、手のひらを通して無意識に発動していた。彼の体内に残された最後の魔力の澱みを洗い流し、自身の温かな生命力を注ぎ込むように、強く、強く彼の手を包み込む。
すると――。
千尋の胸元に預けられていたアルヴィスの首が、微かに動いた。
サファイアの双眸が、重たい瞼を押し上げるようにして、薄く、おずおずと開かれる。
焦点の定まらない、混濁した視界。
しかし――目の前にあるのが、泥にまみれ、エプロンを乱しながらも、涙を浮かべて自分を必死に見つめる千尋の顔だと認識した瞬間。
アルヴィスの青白い唇が、微かに、震えながら動いた。
「……ち……ひろ……」
途切れ途切れの、今にも消え入りそうな掠れ声だった。
戦鬼と呼ばれ、帝国最強の盾と讃えられた男の喉から絞り出されたのは、勝利の誇りでも、敵への怨嗟でもなかった。
血を吐いた唇を震わせ、今にも泣き出しそうな子供のように、彼は千尋の瞳をただひたすらに見つめていた。
「……千尋。……私は……」
アルヴィスの冷たい指先が、千尋のエプロンの布地を、頼りなげに、すがるように微かに握りしめた。
「……君の家を……守れた、だろうか……。……君の、咲かせた花を……守れただろうか……」
――君の家を、守れただろうか。
その一言を聞いた瞬間、千尋の目頭が、カッと猛烈な熱さで焼かれた。
全身の血液が逆流するかのような、激しい愛おしさと切なさが、胸の奥底から込み上げてくる。
自分の命が燃え尽きようとしているその極限の瀬戸際においてなお、この男が心配していたのは――千尋の居場所だったのだ。
千尋が愛し、手入れし、大切にしてきた小さな山小屋の平穏を、自分が無事に守り抜くことができたのかどうか。ただそれだけを確かめるために、彼は消えゆく意識を必死に繋ぎ止めていたのだ。
「……っ……ばか……っ」
千尋の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
拭うこともせず、千尋はアルヴィスの冷たい頬へと自らの温かな右手をそっと添えた。
そして、鼻を小さくすすりながら、これ以上ないほど優しく、力強く、満面の笑みを浮かべて頷いてみせた。
「ええ……! 完璧に守ってくれたわよ! 当たり前じゃない!!」
千尋の声が、秋の薫風に溶けていく。
「見てごらんなさいよ、アルヴィスさん! 私の家庭菜園の白カブも、トマトも、ベルントさんが作ってくれたウッドデッキも、誰一人、何ひとつ傷ついてなんかないわ! それどころか、あんたのおかげで、森じゅうが満開のお花畑になっちゃったのよ!!」
「……そう、か……」
アルヴィスの口元が、ふわりと、心底から安堵したように緩んだ。
張り詰めていた最後の防壁が、完全に音を立てて解けていく。
「……よかった……。君の……家が、無事で……」
「ありがとう、アルヴィスさん。本当に……守ってくれて、ありがとう」
千尋が抱きしめる力を込めると、アルヴィスは小さく息を吐いた。
だが、このまま冷たい地面の上に倒れ込ませておくわけにはいかなかった。日差しは暖かいとはいえ、秋の風は肌寒く、魔力を使い果たした彼の肉体は急激に体温を失いつつある。
「ベルントさん、ユーグさん! 手を貸して!」
「おうよ!」
「閣下をお支えします!」
駆け寄ってきたベルントとユーグが、千尋とともにアルヴィスの巨体を両脇から抱え上げた。
家の中へ運ぼうと足を踏み出しかけたユーグに、千尋は首を横に振った。
「待って。今、閉め切った部屋へ連れて行くより……この清らかな秋の空気と、太陽の光に当ててあげた方がいいわ」
千尋が視線を向けたのは――前庭の南側、満開のカモミールとラベンダーの花畑に囲まれた、樹齢百年の大きな楡の木の下だった。
木漏れ日が心地よい黄金色の光の斑紋を描き出すその枝から、太い麻縄で吊るされていたのは――。
大工のベルントが、千尋の頼みを受けて丹精込めて削り出し、頑丈に組み上げてくれた、大人二人がゆったりと並んで座れる「二人掛けの木製ブランコ」だった。
香月木の白木で作られた座面は、千尋が蜜蝋ワックスを塗り込んで手入れしてあったため、日光を吸い込んで温もりを湛え、すべすべとした滑らかな木肌を晒している。
「あそこへ連れて行きましょう」
千尋たち三人は、足をもつれさせるアルヴィスを慎重に支えながら、花畑をゆっくりと進んだ。
花を踏みしめるたびに、甘酸っぱいハーブの芳香がふわりと立ち上り、彼らの足元を包み込む。
楡の木の下へ辿り着くと、千尋はアルヴィスを支えながら、二人掛けのブランコの座面へと、倒れ込むようにして腰を下ろさせた。
ギィ……と、木と縄が軋む、心地よい小さな音が鳴る。
座面に深く腰を沈めた瞬間、アルヴィスの長い背中から、完全にすべての緊張が抜け落ちた。
足は脱力して前庭の若草の上へと投げ出され、長身の身体が、隣に座った千尋の肩へと、抗うこともなくコテンと傾く。
千尋は、その重たい頭部を自らの肩口でしっかりと受け止めた。
薄いリネンワンピースの布越しに、冷え切った彼の頬の骨と、乱れた銀髪の束が触れ合う。
「千尋様! こちらを!」
駆け寄ってきたのは、テレーゼだった。
その手には、公爵邸から持参し、今朝の秋晴れの光の中で干しておいたばかりの、最高級の「大判ウールブランケット」が抱えられていた。
千尋は「ありがとう、テレーゼさん」と受け取ると、それを大きく広げた。
ファサッ……。
太陽の光と風を限界まで吸い込み、ふんわりと膨らんだ厚手のウールブランケット。
千尋はそれを、アルヴィスの広い背中から、自分自身の肩まで含めて、二人をまるごとすっぽりと包み込むようにして被せかけた。
ブランケットの隙間から、まるで焼きたてのパンのような、香ばしく暖かな「お日様の匂い」がブワッと溢れ出す。
冷気を完全に遮断し、内部に閉じ込められた二人の体温が、柔らかな空気の層となって循環し始める。
「…………っ」
アルヴィスの喉仏が、温もりの感触に微かに跳ねた。
千尋は、ブランケットの内側へ手を滑り込ませた。
そして、膝の上にだらりと置かれていたアルヴィスの大きな右手を――自らの両の手のひらで、ふわりと、包み込んだ。
戦場で無数の傷を刻んできた、大きく、節くれだった騎士の手。
氷のように冷たかったその掌へ、千尋の温かな体温が、毛細血管を通してじんわりと、絶え間なく注ぎ込まれていく。
「……アルヴィスさん」
千尋は、肩に預けられた彼の銀髪に頬を寄せ、耳元で囁くように、どこまでも穏やかに告げた。
「今日はもう、公務も薪割りもおしまい」
アルヴィスの睫毛が、微かに震える。
「戦いも終わり。敵もいない。……ここは、世界で一番安全な、あなたの帰る場所よ。……だからね、何も考えないで、ここで寝てください」
――何も考えないで、ここで寝てください。
その言葉が、アルヴィスの魂の最後の枷を、完全に解き放った。
もう、氷の槍を構える必要はない。
冷徹な公爵の仮面を被り、痛みを押し殺して敵を斬り続ける必要もない。
誰かを守るために己の命を削ることも、狂気の悪夢に怯えて夜を明かすことも、すべてが過去の彼方へと消え去ったのだ。
ギィ……。
ユラリ……。
秋の優しい風が吹き抜け、楡の木のブランコが、規則正しい微かなリズムで揺れ始めた。
まるで、母の腕の中にある揺りかごのような、心地よい揺らぎ。
頭上からは、太陽の光に照らされた楡の葉がサワサワと穏やかな子守唄を奏で、軒先のガラス風鈴が「チリン……チリン……」と澄んだ音色を一粒ずつ零し落とす。
庭の若草の上では、ルゥが美少年の姿から白銀の子犬へと戻り、ブランコの足元にとことこと歩み寄ってくると、アルヴィスの足首の上にアゴを乗せて「ふすぅ……」と幸せそうに目を細めて丸くなった。
ノエルも、テレーゼも、ユーグも、誰も二人の邪魔をしようとはしなかった。ただ少し離れた縁側の陰から、温かな涙と微笑みを浮かべて、二人の安らぎを見守っていた。
アルヴィスは、千尋の肩へと、自らの顔をさらに深く、深く埋めた。
千尋のリネンワンピースから漂う、ラベンダーの蒸留水の香りと、天日干しのリネンの匂い。
そして、包み込まれた手のひらから伝わってくる、確固たる生身の人間の体温。
「……あ……ぁ……」
アルヴィスの唇から、掠れた、満ち足りた吐息が漏れ出た。
強張っていた彼の背中の筋肉が、完全に脱力し、ストンと落ちる。
眉間に刻まれていた深い苦悶の皺は跡形もなく消え去り、そこにあったのは――かつて十歳の頃、母の温もりの中で眠っていた時以来となる、何の憂いもない、無垢で安らかな少年の寝顔だった。
スゥ……スゥ……。
数秒も経たないうちに、アルヴィスの口から、深く、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
完全な、深い深い眠り。
戦鬼と呼ばれた男が、自らの命を預けた少女の肩の上で、世界で一番甘美な安眠の底へと、真っ逆さまに落ちていったのだ。
「……ふふ。おやすみなさい、アルヴィスさん」
千尋は優しく微笑み、空いた左手で、アルヴィスのサラサラとした銀髪をゆっくりと撫で下ろした。
揺れる木製ブランコの心地よいリズム。
秋晴れの抜けるような青空の下、満開の花畑が風に揺れ、色とりどりの花びらが二人のブランケットの上へと、祝福のようにハラハラと舞い落ちていく。




