第55話:悪夢を洗い流す薫風。陽だまりの香りと満開の花畑
天窓を突き抜けた純白と淡い翡翠の光柱は、大気そのものを共振させながら、どこまでも高く、どこまでも真っ直ぐに天空へと突き刺さっていた。
それは、傷つけ合うための武威ではない。
命を奪うための破壊光線などでは断じてない。
前世の過酷なオフィスで擦り切れ、終電と残業の泥沼の中で「ただ静かに、心地よい部屋で眠りたい」と願い続けた元社畜OL・小早川千尋が、その魂のすべてを注ぎ込んで編み上げた固有スキル――【住空間の調律】の、臨界点を超えた最大出力の姿だった。
「――全部、綺麗になりなさいっ!! 私の森に、私のテリトリーに……埃ひとつ、カビひとつ残すんじゃないわよぉぉぉっっっっ!!!!」
山小屋の居間の中央、パイン無垢材の床を踏みしめた千尋の喉から、魂を震わせる絶叫が轟いた。
両の手のひらは、開け放たれた木組みの天窓へと掲げられたまま、微動だにしない。
エプロンの裾が、彼女の足元から奔流となって湧き上がる調律魔力によって激しく羽ばたき、束ねた栗色の髪が神々しい光を浴びて逆巻いていた。
その千尋の気迫に呼応し、前庭に君臨する白銀の巨獣――神獣フェンリルのルゥが、天を仰いで全身の毛並みを蒼白く発光させた。
体高三メートルを超える神話の主の咆哮が、大気を、地脈を、そして森に満ちる微小な魔力粒子『アエテル』のすべてを揺さぶる。
ルゥの展開した至高の神聖結界が、千尋の放った光柱をドーム状のパラボラとして余すところなく捉え、圧縮し、何十倍、何百倍もの波長へと増幅させていく。
さらに、屋根の上では――。
「いっけぇぇぇぇぇっ! 嬢ちゃんの風を、森中に届けてやりやがれぇぇぇっ!!」
大工のベルントが、丸太のような腕で可動式木製ルーバーの操作レバーを全身全霊で引き絞った。
香月木で組まれた巨大な羽板が一斉に角度を変え、天窓から噴き上がった光の柱を四方八方へと反射、屈折させる。
完璧な音響拡散と気流の整流構造。
千尋の描いた合理的な設計図と、森の匠の魂がひとつになった瞬間、光は幾重もの巨大な扇状の波動となって、常闇の森の全方位の空へと向けて一斉に射出された。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ……!
天地を満たしたのは、破壊の轟音ではなかった。
それは、まるで世界という巨大な部屋のすべての窓が一瞬で開け放たれたかのような、途方もなく清らかで、どこまでも優しい「巨大な天井換気」のうねりだった。
空を覆い尽くしていた高さ数十メートルの黒紫の瘴気津波。
太古の古代魔獣たちが遺した腐敗と怨念の塊、山ひとつを丸ごと呑み込まんとしていたあの絶望の濁流のド真ん中へ向けて、山小屋を中心とした光の薫風が、巨大な逆回転の渦を巻いて雪崩のように吹き降ろしていったのだ。
その風が運んできたものは――。
嗅いだ者すべての魂を、身体の芯から蕩けさせるような、圧倒的な「生活の清潔さ」の匂いだった。
――ふわり。
最初に大気に溶け込んだのは、井戸から汲み上げた清冽な地下水で何度も何度もすすがれ、初秋の強い太陽と澄んだ風を限界まで吸い込んで乾かされた、洗いざらしのリネンシーツのあの香ばしい「お日様の匂い」。
続いて広がったのは、朝露の降りた家庭菜園で一輪一輪丁寧に手摘みされ、風通しの良い日向の岩場でカラカラになるまで天日干しされた野生カモミールが放つ、青リンゴに似た瑞々しく柔らかな甘美なアロマ。
さらに、千尋が手作りした山羊乳石鹸を泡立てた瞬間のように、過敏になった神経の興奮を芯から鎮静化させる最高純度のドライラベンダーの香り。
庭の片隅で実った野生柑橘『木春』の果皮から抽出した、鼻腔を心地よくツンと抜ける瑞々しい天然シトラスの清涼感。
そして、ベルントの愛用のカンナによって削り出されたばかりの香月木の木肌が放つ、魂の奥底まで澄み渡らせるような、深く清らかな檜の薫香。
それらの香りと、千尋が毎日の暮らしの中で育んできた「大切な人たちを温かく包み込み、安らかに眠らせたい」という無償の情愛を宿した光の薫風が、常闇の森の上空を満たしていた黒紫の濁気へと、容赦なく、けれど限りなく優しく包み込むように吹き渡っていった。
「な……っ!?」
最前線で大地に愛剣を突き立て、全身の血管を浮き上がらせて血を吐きながら氷壁を維持していたアルヴィスが、信じられないものを見るように目を見開いた。
彼の頬を撫で抜けていったのは、凍てつくような死の冷気では断じてなかった。
それは――まるで、春の柔らかな木漏れ日の中で、天日干しされたばかりの極上の羽毛布団に顔をうずめた時のような、息を呑むほどに温かく、懐かしい風だった。
アルヴィスの過熱し、焼き切れそうになっていた体内の魔力回路が、その風に触れた瞬間、ジュワッと冷たい甘露を注ぎ込まれたかのように痛みを失っていく。
唇の端を伝っていた血がすっと拭われ、皮膚の下で破裂寸前だった青紫色の血管が、みるみるうちに平穏な血色を取り戻していく。
骨の芯まで染み付いていた戦場の悪夢と冷気の痛みが、千尋の放った薫風に包まれるだけで、跡形もなく霧散していくのだ。
そして――アルヴィスの眼前で、神話の奇跡すら生温い光景が現実となった。
シュワシュワシュワシュワシュワシュワッ……!
耳朶を打ったのは、小気味よい、耳に心地よい微細な発泡音だった。
世界を呑み込もうとしていた、あの凶悪極まりない黒紫の瘴気の津波。
触れたものすべてを腐食させ、大地を死に至らしめるはずの汚濁魔力の奔流が、千尋の放った「調律の薫風」と正面から触れ合った、その瞬間。
激突の破壊音など、起きなかった。
大気を引き裂く爆発など、どこにも発生しなかった。
黒紫の瘴気は、千尋の光の風に触れた瞬間に――まるで、長年こびりついて黄色く酸化していたキッチンの頑固な油汚れに、弱アルカリ性の白灰鉱(重曹)と柑橘の果汁(クエン酸)を注ぎ、極上の微細な炭酸泡で包み込んだかのように。
あるいは、何年も閉め切られ、湿気とカビと埃に侵されていた古い大屋敷のすべての窓が一斉に押し開けられ、五月の晴天の風が澱んだ空気を外へと押し流していくかのように。
ジュウゥゥゥッ……シュワァァァァァッ……!
白く、きめ細やかな光の微細気泡が、黒い瘴気嵐の分子の隙間という隙間へと音もなく浸透していったのだ。
何百年ものあいだ沈殿し、腐敗しきっていた太古の魔力粒子『アエテル』の乱れた波長が、千尋の調律の波動によって、まるでアイロンを滑らせた布地のように、縦糸と横糸の歪みを正され、一本残らず平滑化されていく。
ドス黒いヘドロのような怨念が、微細な泡に抱きかかえられて下からふわりと浮き上がり、次々と中和され、分解され、サラサラとした純白の光のチリとなって、空へと霧散していく。
「あ……あぁ……っ!?」
屋根の上で、壊れかけた魔導測定器を抱きしめていたギルバートが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
斜めにずり落ちた眼鏡の奥で、彼の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
「中和……されている……!? 破壊ではない、相殺でもない! エントロピーの強制逆転……! 千尋さんの放った絶対沈静波長が、腐敗した魔力粒子を完全に再構築し、神代の、天地創造の瞬間のような純度百パーセントの『無害な原初大気』へと還元しているんだ……! これぞ……これぞ、世界規模の大掃除だぁぁぁっ!!」
ギルバートの歓喜の絶叫を裏付けるように、空を埋め尽くしていた暗雲の厚みが、目に見える速度で薄くなっていった。
ゴオオオオ……と大地を震わせていた古代魔獣たちの怨嗟の地鳴りは、いつしか耳に心地よい梢の擦れ合うサワサワという音へと変わり、大気を満たしていたあの吐き気を催すようなヘドロの臭気は、一瞬にして完全に洗い流された。
代わりに満ちたのは、雨上がりの森の、どこまでも澄み切った清涼な大地の芳香。
そして――。
パキィィィィン……ッ。
天空の中心で、まるで薄氷が割れるような、高く澄んだ音がひとつ、世界中に響き渡った。
黒紫の暗雲のど真ん中に、一条の眩い亀裂が走った。
そこから――。
ドッ……と、目も眩むような黄金色の太陽の光が、一本の神聖な柱となって大地へと突き刺さったのだ。
割れた。
雲が、真っ二つに割れた。
千尋の放った巨大な天井換気の気流が、天を覆っていた悪夢の幕を、まるで古びてカビた暗幕を力任せに引き裂くように、左右へと大きく押し開いていく。
暗雲はみるみるうちに端から白く染まり、ちぎれ雲となって空の彼方へと吸い込まれるように消え去っていく。
頭上に広がったのは――。
どこまでも、どこまでも高く、深く、吸い込まれそうなほどのセルリアンブルー。
秋の、完璧に澄み渡った、一片の曇りすらない抜けるような青空だった。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
庭の隅で、野ウサギを抱きしめていたノエルが、感涙の叫びを上げた。
降り注ぐ黄金の太陽の光が、少女のプラチナブロンドの髪を眩しく照らし出し、リネンワンピースの裾を黄金色に染め上げていく。
大気を切り裂いていた冷気は消え去り、地上へと降り注いできたのは、凍えた身体を芯から解きほぐすような、ぽかぽかとした陽だまりの暖熱だった。
アルヴィスは、剣を杖にしてゆっくりと顔を上げた。
彼の目の前に聳え立っていたはずの巨大な氷壁。
何重にも張り巡らされ、瘴気を防ぎ止めていたあの氷の防壁が――千尋の放った温かな薫風と、空から降り注ぐ太陽の光を浴びて、静かに、優しく、融解を始めていた。
サラサラサラ……と、氷の表面から澄んだ水滴が零れ落ちる。
冷酷な氷の城壁は、大地を潤す豊かな清水となって、前庭の敷石の隙間へ、そして常闇の森の土壌へと、吸い込まれるように染み渡っていった。
アルヴィスの口元から、ふっと、長い、長い吐息が漏れ出た。
愛剣を握る右手の力が抜け、剣はカランと音を立てて鞘へと収まる。
彼が命を賭して守ろうとしたものは、血を流す必要すらなく、ただ一人の元社畜OLの「お掃除の風」によって、完全に救い出されていた。
だが――奇跡は、空の上だけで終わったのではなかった。
ザワザワザワザワッ……!
「……え……? 見て、地面が……大地が光っているよ……!」
イヴァンが塀の上から身を乗り出し、信じられないものを見るように指を差した。
千尋の放った調律の光が、そしてアルヴィスの氷壁が溶けて生まれた純度百パーセントの清冽な魔力水が、大地へと染み渡ったその瞬間。
常闇の森の全域で、何百年ものあいだ眠り続けていた命の胎動が、一斉に目覚めたのだ。
先ほどまで瘴気に触れて黒ずみ、炭化しかけていた木々の幹から、ジュワジュワと黒い穢れが抜け落ちていく。
樹皮は瑞々しい生命の潤いを取り戻し、枯れ果てていた枝の先から、鮮やかなエメラルドグリーンの若葉が、プツプツと目にも留まらぬ速度で一斉に芽吹き始めた。
木々が呼吸を始める。数百年ものあいだ沈殿していた重苦しい邪気が消え去り、森の巨木たちが歓喜の溜息を漏らすように、青々とした梢を天へと向けて誇らしげに広げていく。
そして――足元の大地。
サワサワサワサワッ……!
ポコッ、ポコポコッ、ポンッ!
耳を澄ませば、何かが弾けるような、無数の愛らしい音が森中に満ちていた。
黒く腐敗しかけていた地面の土が、千尋の家庭菜園と同じ、ふかふかで豊かな黒土へと一瞬で蘇り――そこから、信じられない密度の緑の芽が、大地を突き破って顔を出したのだ。
芽吹いた緑は、見るみるうちに茎を伸ばし、葉を広げ、蕾を膨らませていく。
そして――次の瞬間。
パッ、パパパパパッ……!
ブワァァァァァァァァッッ!!
咲いた。
一斉に、咲き乱れた。
山小屋の前庭から、森の木立の奥へ、小道の脇へ、そして見渡す限りの地平線へと向かって――色とりどりの野花が、まるで敷き詰められたペルシャ絨毯のように、波打つような勢いで一斉に開花していったのだ。
純白の花弁に黄金色の中心部を持つ、野生のカモミールの群生。
凛とした気品ある紫の穂先を秋風に揺らす、広大なラベンダーの海。
鮮やかな真紅と薄桃色の花びらを誇らしげに開く、野生の野薔薇。
黄金色に輝くタンポポに似た野花、星の屑を散りばめたような青い小花、瑞々しいミントやタイムの茂み。
何百種類、何万本、何億本という花々が、太陽の光を浴びて一斉に花弁を開き、秋の風を受けてふわりと揺らめいた。
「あぁ……っ……!」
テレーゼが、両手を胸元で固く握りしめ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
三十年間、公爵邸を守り、数々の戦乱と悲劇を見届けてきた老婦人の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、エプロンを濡らしていく。
「……何という……何という美しさでしょう……。これが……呪われた森と呼ばれていた場所なのですか……? まるで……教典に記された、神の楽園そのものではありませんか……」
鼻腔を満たしたのは、天国のアロマだった。
何万もの花々が一斉に放つ、甘く、清らかで、心を芯から解きほぐすような極上の芳香。
風が吹き抜けるたびに、色とりどりの花びらがハラハラと舞い上がり、黄金色の陽光の中でキラキラと光の紙吹雪となって宙を舞う。
何百年ものあいだ人間を拒絶し、死と狂気の象徴とされてきた『常闇の森』は。
ただ一人の元社畜OLの「徹底的な大掃除」によって、世界で最も美しく、世界で最も穏やかな、陽だまりの花園へと完全に生まれ変わっていた。
「くぅぅぅん……」
前庭の敷石の上で、小さく丸まっていた大角熊が、恐る恐る顔を上げた。
その目の前には、満開に咲き誇るカモミールの花畑。
熊は湿った大きな鼻をヒクヒクと動かし、花の香りを吸い込むと、嬉しそうに目を細め、巨大な前足で花びらを優しく突っついてゴロゴロと喉を鳴らした。
ウッドデッキの下から、トコトコと小鹿たちが姿を現した。
母鹿に寄り添いながら、瑞々しい若草を食み、跳ねるようにして庭の敷石の上を駆け回る。
家庭菜園の生垣の陰から飛び出してきた野ウサギたちが、ノエルの足元に集まり、嬉しそうに前足をチョコチョコと動かして立ち上がる。
屋根の上の風切り大鷲の群れが、喜びの鳴き声を響かせながら、セルリアンブルーの青空へと向けて一斉に雄大に翼を広げて舞い上がっていった。
「勝った……のか……?」
ユーグが、剣を鞘に納めながら呆然と呟いた。
兵士たちが、互いの顔を見合わせ、やがて歓喜の声を上げて抱き合っている。
ベルントは屋根の上で大の字に寝転がり、抜けるような青空を見上げて「がははははっ! やりやがった、嬢ちゃんがやりやがったぜぇ!」と豪快に腹を抱えて笑っていた。
敷地の境界を取り囲んでいたルゥの白銀の巨体が、ふわりと光の粒子となって解けていく。
光の中から現れたのは、いつもの銀髪碧眼の美少年の姿だった。
ルゥは少し息を切らしながらも、満面の笑みを浮かべて山小屋の勝手口へと駆け寄ってきた。
「千尋! やったよ、森が……ぼくたちの森が、全部綺麗になったよ!!」
山小屋の居間の中央。
天窓から差し込む眩い光の柱を浴びながら、千尋はゆっくりと、天へ掲げていた両腕を下ろした。
「……ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ」
肺腑の底から、長い、長い息が吐き出された。
額にはびっしりと大粒の汗が光り、両肩が心地よい疲労感でストンと落ちる。
前世で、年末のオフィスの全館大掃除をやりきり、ピカピカになったデスクの上を見つめて「よし、これで気持ちよく年が越せるわ」と満足した時と同じ、圧倒的な達成感と爽快感。
千尋は、袖口で額の汗をグイッと拭うと、南向きの開け放たれた窓へと歩み寄った。
窓枠に手をかけ、外を見下ろす。
そこには、どこまでも広がる色とりどりの満開の花畑。
飛び交う小鳥たちの澄んださえずり。
秋の心地よい陽だまりの中で、思い思いにくつろぎ、じゃれ合う森の動物たち。
そして、自分を見上げて涙を浮かべるノエルや、笑い転げる仲間たちの姿。
「……うん」
千尋は腰に手を当て、心底満足そうに、誇らしげにニヤリと笑った。
「やっぱり、お部屋とお庭は……換気して、綺麗にお掃除するのが一番ね!」
元社畜OLのブレない一言が、澄み切った秋の風に乗って、花畑の向こうへと優しく溶けていった。
悪夢は完全に洗い流された。




